ガラテヤ人への手紙 1:11-15

生まれたときから選び分け

このガラテヤ人への手紙は、ピシデヤのアンテオケ、イコニオム、ルステラ、デルベといった、使徒の働 き13~14章でパウロが伝道したガラテヤ州の諸教会 に宛てて書かれた手紙です。パウロが伝道した後、この地域には7節で言われた「かき乱す者たち」すなわちユ ダヤ主義者たちが入って来ました。彼らはイエ ス・キリストを信じるだけでは不十分であり、真に神の民となるには割礼を受けなければならないと主張しまし た。別な言い方をすれば、信仰を持った異邦人は ユダヤ人にならなくてはならないということでした。この教えを受けてガラテヤの諸教会は急速にその教えに従 い始めていたのです。その動きを何とか食い止 め、正しい恵みの福音にしっかり立つように、とパウロが書き送ったのがこの手紙です。

パウロの反対者たちは、パウロの福音に疑いを抱かせるために様々な批判の言葉を語ったようです。その一つ は、パウロは異邦人に割礼を受けなくても良いと 語り、人々に受け入れやすいメッセージを語っているという批判です。彼はそうやって人に取り入ろうとしてい る、と。それが前回の10節のパウロの言葉の背 後にあるものです。そしてもう一つはパウロはエルサレム本部の使徒たちとつながりがない、資格のない偽教師 だということです。それに対してユダヤ主義者た ちは、我々はエルサレム本部からやって来た者たちであり、使徒たちとつながりのある正統的な教師であると主 張していたのでしょう。そのためパウロは自分が 取り次ぐ福音を弁護するために、自らの使徒性も弁護しなくてはなりません。もちろん自分のためではなく、福 音のためです。

まず、パウロが11~12節で述べていることは、「私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありませ ん。」ということです。12節で「私はそれを人間から は受けなかったし、また教えられもしませんでした。」と言います。それは前の時代から伝承を手渡されるよう にして受け取ったものでもないし、どこかの学校 に入って人間の先生から学んだものでもない。ではパウロの福音はどこから仕入れたものなのでしょうか。彼は 12節後半で「ただイエス・キリストの啓示に よって受けたのです。」と言います。これはイエス・キリストがお示しになった啓示という意味か、それともイ エス・キリストを示している啓示という意味か、 学者の間では議論がなされるところですが、どちらであっても大きな違いはないでしょう。いずれであれ、パウ ロが述べていることは、自分が伝えている福音は 神的起源を持つということです。パウロはそのことを自分の歴史から説明します。すなわち回心前の自分、回心 時の自分、そして回心後の自分についてです。ち なみにガラテヤ書は大きく三つの部分に分けることができます。最初の部分は1~2章で、パウロは自分がこの 福音を受けた経緯について自叙伝的なことを書い ています。第2部は続く3~4章で、パウロの福音の中心、すなわち信仰義認の教理・神学が語られます。そし て最後の5~6章は第3部で、その教理に基づく 実践・適用・倫理について語られます。

まず、13~14節は回心前の状況です。13節でパウロは「以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あな たがたがすでに聞いているところです。」と述べま す。そして特に二つのことを述べています。一つ目は、激しく神の教会を迫害したことです。使徒の働き8章3 節:「サウロは教会を荒らし、家々に入って、男 も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。」 9章1節:「さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かし と殺害の意に燃えて、云々」 22章4節:「私 はこの道を迫害し、男も女も縛って牢に投じ、死にまでも至らせたのです。」

これと結びついていたもう一つのパウロの回心以前の特徴は、他の多くの者たちに比べてはるかにユダヤ教に進 んでいたということです。使徒の働き26章5 節:「私は、私たちの宗教の最も厳格な派に従って、パリサイ人として生活してまいりました。」 ピリピ3章 6節:「律法による義についてならば非難される ところのない者です。」

パウロはどんな気持ちで、このかつての姿を記していたでしょうか。時々、回心前の自分はどれほどろくでない 生活をしていたのか、それを得意げに、それを売 り物にして語る人がいます。しかしパウロは違います。彼は回心前の自分は「神の教会」を迫害したと言ってい ますが、これは心痛めずには語れなかったことで しょう。

また、14節の「他の者たちに比べてはるかに先に進んでいた事実」に触れたからと言って威張っているのでも ありません。時々、信じる以前の自分の姿と断り ながらも、この世での輝かしい学歴、経歴、業績をちらつかせる人がいます。そして自分は何か大物であるかの ような印象を与える。しかしパウロは違います。 彼はこのようなことを述べながら、少しもプライドをくすぐられていません。それは人の間では評価されること だったかもしれませんが、神を正しく知らなかっ た彼は的外れなことを一生懸命やっていたのです。誤った熱心によって突っ走っていたのです。それは神の救い を頂かなければ虚しい歩みの積み重ねでしかな かったのです。

私たちもそれぞれに救われる以前の自分の歩みは、と振り返ると、自分勝手な熱心によっておのおのの道へと向 かっていました。人々の間では賞賛され、認めら れるようなことをしていたかもしれません。しかしもし神が恵みの御手を働かせ、私たちの生活に介入してくだ さらなかったら、今頃どうなっていたことでしょ う。誤った道を一生懸命に突き進み、虚しさで終わる生活を続けていたことでしょう。そのことを思うとゾッと します。このように以前の自分の歩みを振り返る 時に分かることは、今の私がこのように生かされているのはただ神の恵みのみわざによるということです。神が 私に恵みを施して下さったので、私たちは空しさ で終わらない、永遠に意味のある人生を歩むように導かれたのです。

パウロはそのことに筆を進めます。15節は回心時のことです。パウロは「私は」と自分を主語にして語って来 ましたが、ここでは主語が神に変わります。つま り今パウロがしていることは人間が始めたことではなく、神から始まったものであるということです。ここでは 神がイニシャティヴをとってなされたことが2つ 記されています。

その一つは「生まれたときから私を選び分け」。パウロが使徒となったのは自分の願いによるのではなく、神の 選びによることでした。しかし大切な点は、いつ 選び分けられたのかという点。新改訳は「生まれたときから」と訳していますが、原文を直訳すると「私の母の 胎内にある時から」となります。新共同訳はその ように「しかし、私を母の胎内にあるときから選び分け、云々」と訳しています。思い出すのは双子の兄エサウ に勝る者として、生まれる前から選ばれたヤコブ のこと。あるいは預言者エレミヤもそうです。エレミヤ1章5節:「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、 あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あな たを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」 そのようにパウロの聖別、使徒への任命も彼の誕生以 前からなされていた。まだ彼が何のふさわしい姿 も示していない時にです。

私たちは物事を人間的な目によってだけで考えやすいものです。パウロについても、ともするとパウロは偉大な 器だから神に選ばれ、神に用いられたのだ、と考 えがちです。しかしパウロの見方は反対です。自分がかくあるはすべてそれに先立つ神の選びによる。何のいさ おしもない者、いや何のいさおしも示せない状態 にあった時に、神は私を使徒として選び分けられた。

もう一つここに記されている神の行動は「恵みをもって召して下さった」ということ。神はパウロを選んだだけ でなく、召して下さいました。これは歴史におけ る神の具体的な行動を指す言葉です。普通、この召しという言葉は救いへの召しという意味で使われることが多 いですが、パウロの救いへの召しと使徒職への召 しは一緒でした。その召しは「恵みによった」と言われています。これはパウロがその時、教会の迫害者として 歩んでいたことと特に関係しているでしょう。彼 はもともと何のいさおしもない者だったばかりか、この世に生を受けた後、神に逆らって歩んで来た者でした。 いくら誕生前に選ばれていても、そんな姿をさら け出したのでは、神はご計画を撤回し、彼を用いることはやめにしようと判断しても当然です。しかし神はパウ ロを捨てず、選びに基づき、なお恵みを持って彼 を召して下さった。その神の一方的な恵みの働きかけを頂いて、今、パウロはこのように立っている。

パウロはこうして、どのようにして自分はキリストの啓示を受けたのか、また使徒職へ召されたのかを記してい ます。私たちはもちろん彼と同じような意味で使 徒である者たちではありません。しかし神からこの働きかけを受けたパウロの姿に、私たちは同じように神から の働きかけを頂いた自分の姿を重ね合わせて見る ことができるのではないでしょうか。なぜ私たちは今、イエス・キリストを信じて信仰の道を歩いているので しょうか。なぜ空しい生き方から救い出されて、永 遠の生活へとつながる確かないのちの道を歩んでいるのでしょうか。なぜ私たちはイエス・キリストについての 素晴らしい真理を知り、味わい、これを喜びとし て生きているのでしょうか。なぜ私たち導きを頂いて奉仕をし、御国のために仕え、用いて頂いているのでしょ うか。勉強したからでしょうか。私に理解力が あったからでしょうか。私の努力の賜物でしょうか。そうではありません。それは神の選びの恵みによるので す。まだ母の胎にある時から、いや世界が創造され る前からそのような者として神が愛して下さったからであり、また地上に生まれ出てから多くの罪深い姿を示し た者であるにもかかわらず、恵みをもって召して 下さったからです。そのことをよくよく考えることから、私たちは自分の生活と奉仕とを考えて行くべきでしょ う。

私たちが虚しいプライドで膨れ上がらないために、1コリント4章7節の言葉を合わせて心に留めたいと思いま す。「いったいだれが、あなたをすぐれた者と認 めるのですか。あなたには、何かもらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっ ていないかのように誇るのですか。」 すべては 神様から頂いたものなのに、私たちはそれを忘れて誇り高ぶりやすい。この存在も、命も、様々な能力も、また 信仰も、奉仕も、賜物も、私たちは神から授かり ました。そのようにもらったもので成り立っている自分であることを忘れて、自分にはあれができる、これがで きる、だから私は特別に価値の高い器で、神もさ ぞかしこの私を用いやすいだろうなどと誇り高ぶった考えを持っていることはないでしょうか。またそういう 様々な神が下さった美徳を数えて、自分を何か偉い 者であるかのように持ち上げ、自己宣伝するために使っていることはないでしょうか。

もしすべてがもらったものなら、もらった人らしい考え方や態度、言葉づかい、生き方が私たちの生活に現われ て然るべきでしょう。それとは、誇り高ぶるので はなく、心からの感謝と謙遜の歩みです。そしてこれをくださった方に対する忠実な歩みです。まさにその姿こ そ、ここでパウロが示しているものでしょう。私 たちも自分が今あるは、ただ神の選びと召しとによることを告白し、神の御前にひざまずいて礼拝したいと思い ます。そして自分に割り当てられている召しを、 神からの特別な恵みとしてもう一度感謝して受け止め、その恵みに応え、神の召しに生き抜く歩みへ進みたいと 思います。