ガラテヤ人への手紙 1:16-24
ガラテヤの諸教会はパウロによって伝道され、打ち立てられた教会ですが、その後に忍び込んだ偽教師た
ちによって、最初に伝えられた福音から離れつつありま
した。後から入って来た人たちとはユダヤ主義者たちです。彼らはキリストへの信仰を告白するだけでは不十分
であり、真に神の民になるには割礼を受け、律法
を守る生活をしなければならない、と教えました。その際、彼らはパウロのことも否定しました。彼は正統的な
教えから逸脱し、割礼など受けなくて良いと言っ
て、異邦人であるあなたがたに受け入れやすい形に教えを変質させている。それは彼が人の人気を得ようとする
えせ教師だからである、と。そこでパウロは、自
分が伝えた福音は人間に由来するのではなく、神に由来すること、神に起源を持つことを証明しようとしていま
す。11~12節:「兄弟たちよ。私はあなたが
たに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間からは受けな
かったし、また教えられもしませんでした。ただイ
エス・キリストの啓示によって受けたのです。」 彼はこのことを自分の歴史、すなわち回心前の自分、回心時
の自分、そして回心後の自分の姿を通して示して 行きます。
前回は15節まで見ました。かつてのパウロは激しく神の教会を迫害し、これを撲滅しようとしました。そんな
彼に神が働きかけられました。16節に「御子
を私のうちに啓示することをよしとされた」とあります。「御子」とは直訳では「彼の子」あるいは「ご自身の
子」となります。つまりここに何よりも意味され
ていることは、あの十字架に付けられ、死を遂げられた方は、他ならぬ神ご自身の御子であったということで
す。パウロにとって、十字架に架けられた者は呪わ
れた者であり、神に捨てられた者でした。ところがあの十字架上で死んだイエスは何と神の子であった!これは
パウロにとって何と天地がひっくり返るような衝
撃だったことでしょうか。パウロはそのイエス・キリストの人格に目が開かれた時に初めて、キリストにあって
神が与えてくださっている福音を理解したので す。
パウロはここで神は「御子を私のうちに啓示した」と言っています。つまりこれは単なる知識としてパウロに伝
達されたのではなく、御子が彼の内に住み、彼
の心を照らし出す仕方で、ということでしょう。またこの啓示は「異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるため」と
いう彼の使命に直結するものでした。
この恵みを頂いたパウロはどうしたでしょうか。16節後半から24節には、回心後のパウロの足取りが三つ記
されています。その一つ目は「アラビヤに出て
行き、またダマスコに戻った」ということです。パウロはこの時、何をしていたのでしょう。しばしば言われる
のは、孤独と静寂を求めてさばくの地へ行った、
ということです。復活の主と出会って人生の大転換を迫られたパウロは、新しい歩みのために調整の期間が必要
だったと。ある人は次の節に「3年後に」とある
ので、パウロは12弟子たちがイエス様から3年に渡って教育を受けたように、それと同じ期間、イエス様から
特別に親しい教育と交わりを受けていたのだろ
う、と言います。しかしこのアラビヤ行きは、宣教活動のためだったと見る方が良いと思われます。参考になる
のはⅡコリント11章32節:「ダマスコではア
レタ王の代官が、私を捕らえようとしてダマスコの町を監視しました。」 アレタ王はダマスコ東南のナバテヤ
王国の王であり、ナバテヤ王国はダマスコの城壁
のすぐそばまで延びていました。パウロが言っているアラビヤとはこの地域を指していると思われます。つまり
パウロがアラビヤへ出て行ったというのは、ダマ
スコから少し郊外へ出て行ったということになります。なぜダマスコでパウロはアレタ王の代官に捕らえられそ
うになったのでしょう。それはパウロの宣教の結
果、その地の王の家来や民たちの間に信じる者が起こったり、騒動が起こったりして、アレタ王の反感を買うよ
うになったからでしょう。また使徒の働き9章
20節には、パウロが回心直後に、「ただちに諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた」とありま
す。パウロがこの経緯によって強調しているのは、
回心後、すぐエルサレムに出かけて使徒たちから教えを受けたり、指示を受けたりしたのではないということ。
むしろすぐさまアラビヤ宣教に行ったということ
です。ここにパウロが人からではなく、神から伝えるべきメッセージを直接受けたことが暗示されているわけで
す。
二つ目に記されているのは、3年後にエルサレムへ行ったことです。ケパすなわちペテロをたずねるためです。
この「たずねる」という言葉は、知り合いにな
るという程度の意味です。彼は先輩の使徒たちと交わり、一致して働きに当たるために、挨拶に行ったのです。
しかしその期間は15日間だけ。その間、エルサ
レム教会の牧師ヤコブには会ったものの、他の使徒たちには誰にも会わなかった。なぜでしょうか。使徒の働き
9章26節を見ると、回心後、初めてパウロがエ
ルサレムに行った時、「みなは彼を弟子だとは信じないで、恐れていた」とありますから、他の使徒たちの方が
遠ざかっていたのかもしれません。パウロは20
節で「私があなたがたに書いていることには、神の御前で申しますが、偽りはありません。」と言います。とて
も厳粛で強い言葉です。きっとこのエルサレム滞
在については、相当にあらぬうわさが流されていたのでしょう。パウロはそれに対して、誓いの言葉を述べてま
でも、このエルサレム訪問は非常に限定的だった
ことを証言します。期間はたったの15日間、会った使徒はペテロとヤコブだけ、他の使徒たちとは一切会って
いない、と。
そして、三つ目の足取りが21節から記されています。21節:「それから、私はシリヤおよびキリキヤの地方
に行きました。」 すなわちエルサレムから見て
ずっと北方の地域の伝道です。2章1節に「それから14年経って」とありますように、相当長い間、パウロは
この働きに従事しました。そしてここでも彼が強
調しているのは、「ユダヤの諸教会には顔を知られていなかった」ということです。回心後のパウロは彼らと親
しく交わり、自己紹介をする機会がないままだっ
たのでしょう。しかし彼らはパウロについての知らせを耳にして神をあがめていました。23~24節:「けれ
ども、『以前私たちを迫害した者が、そのとき滅
ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている』と聞いてだけはいたので、彼らは私のことで神をあがめていまし
た。」 ここで重要なのは、ユダヤの諸教会がパウロ
の宣教の内容を承認していることです。偽教師たちは、パウロは正統的な立場から外れていると批判しました
が、ユダヤの諸教会は、パウロが伝えているのは自
分たちが信じているのと同じ「信仰」だと言っているのです。だからこそ彼らは、パウロをそのように導き、用
いておられた神をあがめていたのです。
以上のようなパウロの証から私たちが学ぶことは何でしょうか。二つのことを心に留めたいと思います。一つは
パウロの福音は確かに人に由来するものではな
く、神からのものであるということです。回心前のパウロを一体誰が止めることができたでしょうか。あの彼の
歩みを誰がいくらかでも変えることができたで
しょうか。そんな自分の歩みが大きく変わったのは、神が私に現れ、私に働きかけられたからだ、という彼の証
言は信頼に値します。またそれは他に一緒に同行
する者たちがいた中で起こった出来事でした。そして回心後のパウロの活動を見てください。彼はエルサレムの
使徒たちに相談していません。与えられた異邦人
伝道の召しに従って、直ちに宣教を開始しています。つまりパウロは人を通さず、神ご自身から、伝えるべき
メッセージを持たされたのです。一切人に教えを請
うことなく、宣教に没頭したことの内に、彼が人からではなく、神からこの啓示を受け取ったことが示されてい
ます。ですからガラテヤ諸教会のなすべき応答、
そして今日の私たちのなすべき応答は、このパウロの語る福音にしっかり耳を傾けるということでしょう。それ
は神からの啓示であり、神の福音であり、神の言 葉なのです。
そしてもう一つは、私たちはここに福音の力を見るということです。神はキリスト教会最大の敵であったパウロ
さえも、この福音を通して戦利品として勝ち
取ってしまわれました。そして彼をキリスト教信仰を宣べ伝える宣教師へと変えられました。パウロは回心後か
らただちに、召しに従って異邦人宣教の働きに没
頭します。一体そのように彼を動かし、駆り立てたものは何だったのでしょうか。それは彼に示された啓示の中
心、神の御子イエス・キリストを知ることの素晴
らしさでしょう。彼は回心以来の自分について、Ⅱコリント5章13~15節でこう言っています。「もし私た
ちが気が狂っているとすれば、それはただ神のた
めであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。というのは、キリストの愛が私たちを
取り囲んでいるからです。私たちはこう考えまし
た。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人の
ために死なれたのは、生きている人々が、もはや
自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」 一言で言って、
パウロを突き動かしていたのはキリストの愛でし
た。あの十字架のイエスが神の御子だと知った時、パウロの世界は変わったのです。罪深い自分のために何と神
の御子が命を捨ててくださった。その大きな犠牲
を持って、この私を赦し、きよめ、造り変え、栄光のために用いてくださる。このことを知るなら、もはや自分
にはすべてをささげてこの方にお答えする人生し
かない。この部分を口語訳聖書は「キリストの愛が私たちに強く迫っているからです。」、新共同訳聖書は「キ
リストの愛が私たちを駆り立てているからで す。」と訳しています。
私たちもパウロとは違いますが、同じ福音にあずかり、同じキリストに結ばれた者です。私たちはこのパウロの
手紙を通して福音の真理を改めて学び、パウロ
をこのように変えた福音の力に自分自身も新しく生かされたいと思います。また宣教の使命を果たすことにおい
ても今日の御言葉を適用したいと思います。私た
ちの目に難しいと思える人、また難しいと思える状況があります。しかし福音は私たちの想像をはるかに超え
て、私たちが思ってもみなかったような結果をもた
らすことができます。考えられない人を救いに導き、さらに用いることができます。神の恵みの力の前には不可
能はない。そのことをパウロの姿を通して今一度
仰がされ、福音をまっすぐに宣べ伝え、御子の恵みの力によって、人々が勝ち取られ、御国がいよいよ拡がると
いう神のみわざのために、仕える歩みをなお導か れて行きたく思います。