ヨナ書2章
今日の2章にはヨナの祈りが記されています。全部で4つの章しかないヨナ書の中で、1章丸々全部が「祈り」となっています。それと合わせ
て注目すべ
きことは、1章でヨナは全然祈っていなかったことです。主からの言葉を受けた時も、ヨッパでタルシシュ行きの船を見つけた時も、さらには嵐のただ中に置か
れた時も、・・。なぜヨナはそうだったのでしょうか。それは彼が「主の御顔を避けて」いたからです。ヨナは主と話をしたくなかったし、また主の言葉を聞き
たくなかった。その「祈らない生活」が彼を愚かにし、罪の道を進ませ、悲惨な状況へ彼を導きました。ところがそのヨナが、ここで「祈りの人」になっていま
す。一体何が彼を変えたのでしょうか。
まず、第一に見たいことは、ヨナはここで「主の御顔を避ける生活がどんな悲惨な結果に行き着くか」を体験させられたということです。ヨナは前の章で嵐の海
に投げ込まれ、どうなってしまったことかと思いましたが、1章17節に「主な大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。」とありました。これでヨナは安心
だったのでしょうか。想像してみて頂きたいと思いますが、海に投げ込まれた後、大きな魚にパクッと飲み込まれることはものすごい恐怖でしょう。しかしその
後も非常に恐ろしい状況にあった。この2章の祈りは、ヨナが「魚の腹の中から」祈った言葉です。2節を見ると「私が苦しみの中から主にお願いすると」とあ
ります。つまりそれは「苦しみ」と表現される状態だったということです。また2節に「私がよみの腹の中から叫ぶと」とあります。魚の腹の中は、しばしば絵
本で描かれているような快適な場所ではなく、地獄にたとえられるような恐ろしい場所でした。3節に「あなたの波と大波がみな、私の上を越えて行きまし
た。」とあります。これは詩篇では、苦しみが自分に迫って来ることを指す表現ですが、ここでは実際のことでもあったのでしょう。大魚の腹の中で、波が次々
と自分を襲い、自分の上を越えて行くような状況があった。4節に「私はあなたの目の前から追われました。」とあります。ヨナは主の御前から逃げる生活をし
ていましたが、ここで主から全く切り離される状態はどんなに恐ろしい状態なのか、身をもって味わわされました。5節に「水は、私ののどを絞めつけ、深淵は
私を取り囲み、海藻は私の頭にからみつきました。」とあり、6節では「地のかんぬきが、いつまでも私の上にありました。」とあります。ヨナは大魚の腹の中
で、脱出不可能で真っ暗な牢獄にがっちり閉じ込められたような状態だったのです。そして7節には「私のたましいが私の内に衰え果てたとき」とあります。こ
ういう状態になって初めてヨナは主に祈ったのです。
これは、実は主が主権をもって導かれたことでもありました。3節に「あなたは私を海の真ん中の深みに投げ込まれました。」とか、「あなたの波と大波」とい
う表現があります。ヨナを海に投げ込んだのは一緒に船に乗っていた人たちです。またそのことを提案したのはヨナ自身です。しかしヨナはすべての事柄の上に
主の御手があることを見て、「あなたが投げ込まれた」とか、「あなたの波、あなたの大波」と言いました。このように主が主権者であることは、1章でもヨナ
は認めていました。1章12節でヨナは、嵐の背後に主がおられることについて述べていました。しかしそのように正しい教理を保っていても、彼は祈りません
でした。それは彼の心が正しくなかったからです。そんな彼も主によって海に投げ込まれ、大きな魚に飲み込まれ、「よみの腹」と呼ばずにいられない状況を味
わった時、ついに主に向かって叫ばずにいられなくなったのです。彼のつぶっていた目は開かれ、頑なな心は砕かれ、主の御名を呼び求めざるを得ないように駆
り立てられたのです。
私たちも他の何かに希望を置くことができると、なかなか主に祈ろうとしません。主に頼らなくてもまだやって行ける、と思うのです。そういう私たちに必要
なことは、もう主に頼らなくてはやって行けないという状況に追い込まれることです。1ペテロ5章6節に「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへ
りくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」とありますが、私たちはなかなか自分からそのようにへりくだろうとし
ない。そのため、主はしばしば力ずくで私たちを低くされるのです。それは私たちがへりくだる時に受ける祝福へと導いて下さるためです。実際、私たちも自分
のこれまでの生活を振り返ってみて、最も幸せだった時は?と考えると、実は一番苦しかった時でもあったのではないでしょうか。その時、私たちは必死に主に
祈り、自分の罪を告白して主に近づき、他の時では感じ得なかったほどに主との交わりを体験させられました。そしてただ主の恵みに支えられ、主に導いて頂け
る喜びと希望を味わったのではないでしょうか。この時のヨナも同じでしょう。この恐ろしい、大変な苦しみのただ中でも、主はヨナと共におられたのです。そ
して彼が主に祈り、主に助けを求め、主との正しい関係に立ち返るように働きかけておられた。これは主の大いなる恵みです。自分で自分を変えることのできな
かったヨナは、こうして主によって変えられて行くのです。
第二に、ヨナの祈りの特徴について見て行きたいと思います。この章の彼の祈りを見て思うことは、詩篇と非常に良く似ているということです。欄外の脚注を
見ますと、関係する詩篇として、3、5、18、22、30、31、42、50、65、69、77、86、88、116、120、142、143篇があげら
れています。これだけ多くの詩篇の言葉がちりばめられています。苦しみのただ中でヨナの口からとっさに出て来たのは、このような詩篇の言葉でした。これは
いかにヨナが普段から詩篇に親しみ、これに養われていたかを示すものではないでしょうか。詩篇は色々な苦しみや絶望、葛藤の中から生み出されて来た言葉で
す。そこには嘆き、つぶやき、不平、ねたみのような言葉から、喜び、感謝、賛美に至るまで、生身の人間が経験するあらゆる感情が現わされています。そうい
う中で主への信頼が最終的に歌われています。そういう詩篇が、この時のヨナの祈りの助けとなったのです。この場でどう祈ったら良いのか、その彼の祈りを導
いたのは、彼が普段から親しんでいた詩篇の言葉だったのです。このことは私たちがいかに普段から聖書に接していることが重要であるかを示唆するのではない
でしょうか。思わぬ状況に投げ入れられた時に私たちを助けるのは、私たちの心に収められている聖書の言葉なのです。聖書には詩篇も含めて、罪に打ち勝つ神
の救いの恵みが示されています。私たちの困難のただ中で私たちを支えるのは、どんな御言葉でしょうか。私たちの心には、そういう御言葉が豊かに収められて
いるでしょうか。
第三に見て行きたいのは、祈りによる祝福についてです。三つの祝福を見ることができます。一つは救いの確信です。ヨナはこの祈りをした時、まだ大魚の腹
の中にいました。ところが2節で彼は「主は答えてくださいました」と言います。6節後半では「あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました。」と
言っています。まだ真っ暗な大魚の腹の中にいるのに、どうしてこのように言えたのでしょうか。それは主との関係が回復されたことを彼が知ったからです。こ
の時のヨナにとって一番大事なことは、この主との関係です。その主との関係が正しい状態に回復された時に、ヨナは自分は救われた!という思いになった。ど
のようにしてヨナは、そのことを知ることができたのでしょうか。それは単純に、「祈ることができた」からでしょう。それまで主の御顔を避け、主に心を閉ざ
していた彼でしたが、真心から主に祈れた時、自分の罪と愚かさを素直に認め、主に信頼して近づくことができた時、それで良いという神からのしるしとしての
「平安」が彼の心に戻って来たのです。その時にヨナは、自分が神との正しい関係に恵みによって戻して頂けた、という救いを味わったのです。そしてそうであ
るなら、主が外側の状況も、ふさわしい時に変えて下さるという確信を持つことができた。
二つ目の祝福は、9節:「しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。」 先にニネベに行って宣教しなさいと
言われ、それに抵抗したヨナでしたが、ここでは喜んで主に従うことを誓っています。これも少し前のヨナには考えられなかったことです。ヨナはどんどん主か
ら離れ、心を頑なにする歩みをしていました。しかしヨナは祈りを通して「救いの確信」を頂いたばかりか、主にどこまでも感謝して「従う」という誓いを新た
にさせられています。このように主に応答する生活をすることはヨナ自身にとって幸せなことです。救いとは単に主の祝福にあずかって感謝するだけでなく、そ
の主に私たちもまたすべてをささげて応答する生活を含みます。それゆえヨナは9節最後で「救いは主のものです。」と言います。今、自分が味わっている祝福
は、自分の内から出て来たものではなかった。自分から出て来たのは反抗であり、頑なさであり、罪と滅びにまっすぐ進もうとする愚かさでした。しかし主がそ
んな自分にあわれみをもって打ち勝って下さり、悔い改めのチャンスを下さり、頑なな心を打ち砕いて、心開いて主に祈るように導いて下さった。そして感謝を
もって主に献身しようというこれ以上ない幸いにまで導いて下さった。
三つ目の祝福は、10節にありますように「主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。」ということです。ヨナは魚の腹の中で「主は私を引き上げてくだ
さった」と感謝しましたが、その通り、主は本当にヨナを陸の上に戻して下さいました!主との関係が正しく回復されるなら、見える状況も主がこのように導い
て下さるのです。魂だけでなく、体も救い出して下さるのです。そしてさらにこんなヨナを尊く用いて下さるという主の恵みを、私たちは続く章で見ることにな
ります。
私たちは今日の章を通して、自分について何を考えるでしょうか。主は御顔を避け、滅びに突き進んでおかしくなかったヨナを導いて下さいました。彼が自業
自得の苦しみのただ中にある時も、彼と共にいて下さり、そのことを用いて正しい道に立ち返るように、すべてを支配して働きかけて下さいました。私たちは自
分の歩みを振り返る時、色々な場面でこれと同じ主の導きがあったことを覚えさせられるのではないでしょうか。私の罪と愚かさゆえの報いを刈り取っただけな
のに、主はそれを御手に収め、それを通して私たちの信仰を目覚めさせ、ここまでの歩みを守って下さった。あるいは様々な試練や困難に追いやることによっ
て、最も大事な主との関係へと導き、私たちの心と生活を守って下さった。私たちはそのような主の救いの御手が自分の上にあったこと、また今日もこれからも
あることを覚え、主を礼拝したいと思います。あるいは皆さんの中には、このヨナのような苦しみのただ中にある方もおられるかもしれません。「よみの腹の
中」とヨナが表現したような状況、あるいは「私はあなたの目の前から追われました」と叫んだような中にある方もいらっしゃるかもしれません。しかしそれは
単なるさばきや報いなのではない。それはあなたを滅ぼすためのものではなく、あなたを救わんとする主の御手によることです。真に大事な主との関係に立ち返
るようにとの主の招きの時なのです。たとえどんなに低い谷の底、真っ暗な海の底にあっても、主はそこからその人を引き上げて下さることができる。いやその
目的のもとに、主はあなたをその状態に導いておられる。そのことを私たちはこのヨナの祈りから学びたいと思います。このヨナの祈りはすべての信仰者がここ
から学ぶようにと招かれている祈りです。それは私たちがヨナと共に、主の救いを心から喜び、主をたたえるためです。