ヨナ書3章
主は今日の章でもう一度ヨナをニネベに遣わそうとされます。1~2節:「再びヨナに次のような主のことばがあった。『立って、あの大きな
町ニネベに行き、
わたしがあなたに告げることばを伝えよ。』」 ヨナは1章で同じ主の命令を受けましたが、従いませんでした。彼は主の御顔を避け、なるべく主から離れよう
としました。そんな彼には色んなことがありました。彼はニネベとは反対のタルシシュ行きの船に乗りましたが、その船は大嵐にあって難破しそうになりまし
た。ヨナは態度を変えず、ついに海に投げ込まれます。そんなヨナに対し、主は大きな魚を備え、彼を飲み込ませました。ヨナはその大魚の腹の中で、恐ろしく
苦しい状況を経験し、主に祈り、悔い改めました。そんな彼を主は恵みをもって赦して下さり、ヨナを陸地に戻して下さいました。もうここまでで十分なはずで
す。主はヨナに「あとは自分の家に帰って静かに過ごしなさい。」と言って、他の人をご自身の働きのために遣わしても良かった。しかし主は今日の章でもう一
度ヨナを先の働きに遣わそうとします。これは何という恵み、何という憐れみでしょうか!私たちの間で一度大きな失敗をした人は、もう信用できない人とし
て、前と同じ仕事は与えられないものです。しかし主はヨナにセカンドチャンスを下さった。あのペテロもそうでした。主を知らないと3度も言い放ち、大切な
先生を裏切ったあのペテロを、イエス様はもう一度立たせ、イエス様が昇天後の教会のリーダーとされました。そのようにヨナをも、主なる神はもう一度同じ働
きに召して下さったのです。
しかも、ヨナはここで、1回目の時よりもふさわしく準備された者として立っていました。ヨナは先の非常な苦しみを通して、自分の無力さを知りました。自分
はただ一方的な主の憐れみによって生かされている者であること、また主は祈りに聞いて下さる方であること、また良きものの一切はただ主から来ることを体験
的に知りました。主はヨナの悪から始まったことを、恵みによって用いて、ヨナをよりふさわしい働き人へ整えて下さったのです。ローマ8章28節:「神を愛
する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」 ここの
「すべてのこと」の中には、ヨナが犯した罪も含まれます。これは私たちにとっても大きな慰めです。私たちも振り返れば苦い思い出のあること、残念に思うこ
と、後悔するようなことが色々あるでしょう。しかし悔い改めて主に立ち返るなら、何とそれさえも主は恵みによって用いて、最終的に私たちの益となるように
して下さるのです。今日のヨナ書3章は、1章と同じ主の言葉で始まっていて、一見ヨナは無駄な回り道をしたように見えますが、決してそうではないのです。
ヨナは主の恵みにより、よりふさわしい器へと整えられた者として、2回目の主の命令を受けたのです。
そのヨナは今回、どう答えたでしょうか。3節を見ると、ヨナは今度は主の命令に従順に従ったことが分かります。「ヨナは、主のことばのとおりに、立っ
て、云々」 このヨナに与えられた仕事は、決して簡単ではありません。行き先は「あの大きな町ニネベ」です。今や悪がうずたかく積み上がっている町です。
そんな罪の大都会に出かけて行って、「もう40日すると、この町は滅ぼされる。」というメッセージを告げるのです。プライドが高いであろうその町の人々は
どんな反応をすることか。それはまるでライオンの穴に入って行くような出来事だったのではないでしょうか。しかしヨナは今や主の命令にどこまでも従う人、
感謝して従順に従う人として彼は出て行きます。
さて、そのニネベではどんなことが起こったでしょうか。何とそこにいた人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改め始めます。ニネベは行き巡るのに三日かかるほ
どの非常に大きな町であったのに、ヨナが一日目の道のりを歩き回って叫んだ結果、すぐに人々が悔い改め始めます。そして6節でそのことが王の耳に入ると、
王も悔い改め始めます。王は国中に布告を出し、社会全体が悔い改め始めます。信じられないような大リバイバルです。
このニネベの人々の悔い改めについて3つの特徴を見ることができます。一つ目は彼らは心から自分たちの罪を悲しんだことです。その悲しみは3つの形を
取って外側に現れました。一つは断食です。断食は色々な目的のもとになされますが、ここでは悔い改めに集中するためです。そしてここで特徴的なことは動物
もそうしたことです(7節)。もちろん動物にはその意味が分からないでしょうから、彼らにとってはいい迷惑だったでしょう。しかし社会全体が真剣にこのこ
とに集中するようにとの思いで、王はこれを布告し、人々は従った。二つ目は荒布を着たことです。これも悲しみ、嘆き、へりくだりのしるしです。人々ばかり
か、王も王座から立って、王服を脱ぎ、荒布をまといました。そして三つ目にニネベの王は灰の中にすわりました。民の先頭に立って自分たちの状態を嘆き、自
らを低めて、悲しんだのです。
彼らの悔い改めの二つ目の特徴は、悪の道から立ち返ったことです。8節で王は「おのおの悪の道と、暴虐な行いから立ち返れ。」と布告しています。彼らは
断食、荒布を着ること、灰の中にすわることをもって心からの悔い改めを現わしましたが、悔い改めは一時的な決心、感情的なものではだめです。生活が変わら
なければ何の意味もありません。実際に悪をやめなくてはなりません。
そして、三つ目の特徴は、9節:「もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りをおさめ、私たちは滅びないですむかもしれない。」 ここに彼ら
の悔い改めは、神が悔い改める者にあわれみを垂れて下さるかもしれないという望みとセットになっていたことが分かります。彼らはヨナのメッセージを聞い
て、その可能性を見て取ったのでしょう。もしただ滅ぼすことが目的なら、いきなり滅ぼしてしまえば良い。しかしこのような警告が語られたということは、そ
の警告を心に留めて真に悔い改め、正しい道に立ち返るなら、主はさばきを思い直して下さるかもしれない、という希望を彼らは抱いたのです。その希望に支え
られて、彼らは本気になって悔い改めたのです。
果たして、その結果はどうだったでしょうか。今日の章最後の10節は、悔い改める者に対する大きな励ましで閉じられています。10節:「神は、彼らが悪の
道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。」 まずここで神
がご覧になったことは何であったかに注目したいと思います。ニネベの人々は断食をしたり、荒布を着たり、灰の中にすわりましたが、主はそのような外的なこ
とを見て心を動かされたのではありません。10節に「彼らが悪の道から立ち返るために努力していることを」とありますように、神が見ておられたのは心から
の悔い改めであり、罪から実際的に離れるという、行ないに現れる真の悔い改めです。主が私たちについて見たいと思っていることも同じでしょう。私たちは毎
週日曜日にこの会堂に来てプログラムに従って礼拝しているかもしれません。熱心に賛美歌を歌っているかもしれません。忠実に献金しているかもしれません。
あるいは聖書の中身に精通し、神学的に色々なことを論じられるかもしれません。しかし主が見たいと思っていることは、私たちの心からの悔い改めです。罪を
悲しみ、その悪から立ち返ることです。そうするなら、主はあのニネベにさえも憐れみをかけ、下すと言っておられたわざわいを思い直して下さる。
ある人は、ここで「思い直す」という言葉に引っかかるかもしれません。神にもやっぱりこうすることはやめにして、こっちにしようと態度を変えられることが
あるのか。それでは神は主権者であることにならないのではないか、と。しかし他の箇所についても言えますが、これはその箇所が人間の視点に立って、人間の
ことばで書いているがゆえに起こる問題です。主が決してニネベの人々の姿に押し切られて、計画の変更を余儀なくされたのでないことは、なぜ主がヨナをニネ
ベに遣わしたかを考えてみれば分かります。主がヨナをニネベに送ったのは、ニネベがその警告を聞いて悔い改めるためです。正しい道に進んで、滅びを免れる
ためです。すなわち主ご自身がニネベの救いを心から望んで、一切のことを導かれたのです。驚くべきは、主はあのニネベに対してもこのようにあられたという
ことです。主は不従順なヨナにあわれみをもって関わって下さったように、異教の町ニネベに対しても同じようにあられた。悪に染まった人々が悔い改め、正し
い道に立ち返り、いのちに生きることを心からのご自身の願いとされ、このようにして彼らに働きかけられた。果たしてこのような主に対して、ヨナはどういう
態度を取るのでしょう。そのことがヨナ書最後のクライマックスの4章に記されることになります。
今日の章は私たちにどう当てはめられるでしょうか。私たちも御心にかなわない歩みをして、今、災いを刈り取っているかもしれません。主から離れ、自分勝
手に歩んだ結果として、困難と苦しみの中にあり、将来についてもまさにさばきがそこまで迫って来ているような中にあるかもしれません。しかし今日の箇所は
次のことを私たちに語っています。すなわち神は罪を行なった私たちの悔い改めをどんなに望んでいて下さるか!ということ。そして実際に悔い改め、悪から離
れるなら、主はどんなに豊かにあわれんで下さるか、ということです。たとえひどい状況に落ちてしまったとしても、もうこんな自分では手遅れだと思う必要は
ない。もう一度良く目を見開いて見るべきは、あの悪の町ニネベも赦された!ということです。であるなら、私たちはどうしてニネベの人々のように、真剣に悔
い改めないでいるべきでしょうか。私たちも彼らのように主が招いて下さっている悔い改めの応答をして、主がこれからなお導いて下さる奇しい恵みと祝福にあ
ずかって行くべきではないでしょうか。
また、私たちは他の人との関わりにおいてもこのことを覚えるべきでしょう。すなわちどんな人にもこの神のゆえに希望があるということです。もうここまでひ
どくてはさばきしかないと思われたニネベも、何と主に愛され、覚えられていた。悔い改めを通して、彼らもまた主の恵みにあずかることができた。私たちは自
分自身がまずこの主のあわれみを体験しつつ、他の人々にも、確信を持ってこの神を伝えて行くべきです。今からでもあなたが悔い改めに進むなら、あなたはこ
の憐れみ深い神によって祝福の道を歩いて行くことができるのです!と。しかし最後にこのことも忘れてはなりません。それは憐れみはいつまでもあるのではな
いということです。主は「もう40日すると、ニネベは滅ぼされる」と言われました。ニネベがこのさばきを免れたのは、定められた40日の間に悔い改めたか
らです。もうあわれみの日はここまで!という日を定めているとも聖書ははっきり語ります。その日になったら、もうあわれみはないのです。今は恵みの時、今
は救いの日です。私たちも与えられているチャンスを生かし、今日と言われている日の間に、御前に悔い改め、主が差し出している大きな愛と憐れみに導かれる
救いの人生に進みたいと思います。