ヨナ書4章

わたしは惜しむ

ヨナ書3章でヨナはもう一度チャンスを与えられてニネベに行きました。そして「もう40日すると、ニネベは滅ぼされる!」と、主から告げ られた通り の言葉をもって叫んで歩き回りました。するとどうだったでしょうか。何とあの大きな町ニネベが悔い改め始めました。王様から家畜に至るまで断食をし、荒布 を着て、ひたすら神に祈り、悪の道から立ち返りました。それを見て、主は彼らに下すと言っていたわざわいを思い直した、と前の章最後の10節にありまし た。これを見て私たちは、めでたしめでたし、と思うかもしれません。ところが今日の4章に来るとビックリします。何とここでヨナが怒っています。彼は非常 に不愉快になって、祈りの中で主に抗議しました。そしてその言葉に、なぜヨナが最初に主に「ニネベに行きなさい」と言われた時に行かなかったのか、その理 由が初めて示されています。2節:「ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへのがれよ うとしたのです。私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。」 

ヨナが最初から心配していたことは、自分がニネベに行って神の言葉を語ると、人々が悔い改めて、主がこの町を赦してしまうのではないか、ということでし た。ヨナは決してニネベの町に出かけて行くのが面倒くさいと思ったのではありません。あるいはニネベの町が単に怖かったのでもありません。彼はニネベの町 が赦されることが嫌だったのです。なぜなら、ニネベはイスラエルの敵国だからです。イスラエルを脅かす憎い国だからです。


ヨナは最初、主の言葉を聞いた時に直感したのです。主は「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たか らだ。」と言われたが、主は情け深く、あわれみ深い方だから、ニネベを赦そうとしておられるのではないか。彼らが悔い改めたら、わざわいを思い直されるの ではないか、と。普通、多くの人が神様に対して文句を言うのは、神様を良く知らないからでしょう。でもここで面白いことは、ヨナは神様のご性質を良く知っ ていたということです。1章2節の時点で、もう3章10節の主の赦しを直感した。ヨナは神様のことを良く知っている人であり、素晴らしい洞察力を持った信 仰者だったことが分かります。しかし彼はそういう神のご性質がイヤだ!と不満を述べているのです。どうしてあんな悪い国にまで憐れみをかけるべきだろう か。それでは正義はどうなるのか。いくら主が憐れみ深いと言っても、これではもうメチャクチャだ!神様がそんな方なら、私はいっそのこと死んだ方がまし だ!そんなことまでヨナは言ったのです。


私たちは第3者の立場から、冷静に彼の行動を見つめると、ヨナの言っていることは首尾一貫していない、と指摘することはできます。ヨナは主のあわれみが 嫌いだ、と叫んでいますが、自分もその憐れみを頂いた者ではなかったでしょうか。彼は主に反抗して、海の中で滅びて当然だったのに、主に救って頂き、2章 の最後で「救いは主のものです」と主を賛美したのではなかったでしょうか。そのように自分自身が憐れみを受けておきながら、主のあわれみは嫌いだ!と言う のは矛盾していないか、と。確かにそうです。しかしヨナを理解するために、私たちもたとえば自分の敵を考えてみれば良いと思います。自分にひどいことをし た人、意地悪い態度で接して来る人、あるいは陰でいつも私の悪口を言い、評判を落とそうとする人。そういう人がいるために精神的にも肉体的にも苦しめられ ている状態があるとします。その時、私たちは相手について何を願うでしょうか。それはまず主のさばきではないでしょうか。自分で復讐してはならないと聖書 に言われていますから、私たちはそれはしませんが、心の深いところでは相手の上に何かひどいことが起きればいい、と思っている。神に相手の悪をしっかりさ ばいてもらいたい、と思っている。しかし相手の人がさばかれるどころか、むしろ主のあわれみを受け、祝福された状態にあるのを見ると、私たちの心はかきむ しられるのです。主が憐れみ深い方であることを恨めしく思うのです。あるいは小学校や中学校の担任の先生が、どうもうちの子を良く扱ってくれない。その先 生のせいで、うちの子は良く泣いて帰って来る、という状況があるとします。それを毎日見ているお母さんとしてはどんな気持ちになるでしょう。赦しておけな い!という気持ちでしょう。そんな時、その先生がどういう形かで祝福されたらどうか。しかももしそのようにされたのは神様だということを知ったなら、私た ちは確実にヨナのように、こんな神様はイヤだ!と言うのではないでしょうか。


私たちは自分があわれみを受けることは大いに喜びますが、他人にあわれみが注がれることは良く思わないのです。特に自分の敵に神が憐れみを注ぐことには 我慢ならないのです。怒っているヨナに主は4節で「あなたは当然のことのように怒るのか。」と問います。そしてそれに答えないヨナに、主は続くところでオ ブジェクトレッスンを与えています。


ヨナは5節で町の東のほうにすわり、ニネベに何が起こるかを見極めようとしていました。ヨナは一体何を見ようとしたのでしょう。それはやはりニネベのさ ばきでしょう。主は本当にニネベを赦したままにされるのか、それともこの町にさばきを下すのか、期待しながら見ていた。しかしそこは暑い場所でした。ヨナ は仮小屋を造りましたが、そこに居続けるのは大変。そんな彼の上に主は一本のトウゴマを生えさせ、彼を覆うようにされました。ヨナは非常に喜びます。さっ きまで怒っていた人が、子供のように大喜びします。ところが次の日に一匹の虫が現れて、そのトウゴマをかんだので、トウゴマは枯れてしまいます。その結 果、太陽がヨナの頭にギンギン照りつけて、彼は怒り始めます。そしてまた「これなら死んだ方がましだ!」というあのセリフを繰り返します。自己中心的な人 はいつもこうです。ヨナのような信仰者でも、自分中心のものの見方にとらわれていると、ジェットコースターのように、ある時は子どものように喜んだかと思 うと、次の瞬間には「死んだ方がいい」と言い始める。主はここでも「あなたは当然のことのように怒るのか。」と問います。それに対してヨナは今度は「私が 死ぬほど怒るのは当然のことです。」と言い放ちます。そんな彼にヨナ書のクライマックスとなる主の言葉が語られます。10~11節:「主は仰せられた。 『あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでい られようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。』」


ここではヨナが惜しいと考えたトウゴマと、主が惜しいと考えるニネベの町とが比較されています。確かにヨナにとってトウゴマは大事だったかもしれません が、それは彼が骨折って育てたものではありません。またそれは一夜で生え、一夜で滅びたという、ヨナとはほんのわずかな期間の付き合いしかないものでし た。それに対して主が惜しむと言われたニネベには十二万以上の人間と多くの家畜がいます。またその人々や家畜は、一夜で生え、一夜で滅びるような存在では ありません。そして「あなたはトウゴマのために骨折らず、育てもしなかったが」という主の言葉に暗示されていることは何でしょうか。それは主はこのニネベ のことをどんなに心にかけ、育んで来られたかということです。それゆえ主は言われるのです。「あなたがそのトウゴマを惜しむというのなら、わたしがそれに はるかにまさって尊いこのニネベを惜しむのは当然ではないか!」と。


これはヨナにとってビックリするようなメッセージだったでしょう。ヨナはイスラエル人として生活する間に、いつしか自分たちだけが神の愛と憐れみの対象 だと思っていました。しかしここで神がはっきり述べているのは、イスラエル以外の異邦人も、さらにはこの時、イスラエルの敵となっている人々さえも、神の 愛と憐れみの対象である。神はすべての人々を、尊い存在として心にかけ、いつくしんでおられる。私たちは果たしてそういう神様の目で、周りの人を見ている でしょうか。もちろんだからと言って、そのままですべての人が赦されたり、救われるのではありません。そのためには悔い改めという道を通らなければなりま せん。ですから主はそのためにこのヨナ書で、ニネベへの働きかけをされたのです。それはニネベをも惜しむ神であるからこそ、なされたことなのです。


ヨナ書の説教を始めた3週間前に、ある方から「この書の終わり方はあまりにも唐突過ぎるのではないか」という質問を頂きました。話が途中でブツッと切れ ている感じがする、と。しかしこれは最後の10~11節の主の言葉を私たちの心に響かせるためでしょう。もしヨナがこれに対してどう応答したか、というこ とが記されていたなら、私たちはこの書を単にヨナの話として読んで終わりにする可能性があるでしょう。しかしそれが書かれていないのは、この書を読む私た ち一人一人がこの続きを自分の生活をもって書くためです。この神の思いの吐露を受けて、あなたはどうするのか、と。あえてヨナはどうしただろうかと考えれ ば、おそらく彼はこの神の御心を受け止め、神に従う者となったでしょう。主は何度も道を外れそうだったヨナを見捨てず、忍耐してずっと導いて来られまし た。その主が目的を達成せずしてヨナを放置されるとは考えにくいことです。それにまたこのヨナ書は間違いなく、ヨナによって書かれたものあるいは彼自身が 語った言葉を書き留めたものでしょう。そのヨナが主のメッセージを理解せずに、怒るだけだったら、決してこの書を書き残さなかったでしょう。むしろ彼自身 がこの主の言葉に深く心を揺り動かされたからこそ、ここで筆を止め、私たちに同じ効果を狙ったのだと思われます。だとすれば、彼が取った応答はおのずと明 らかになります。


さて、私たちにヨナのようなところはないでしょうか。自分の考え方を中心において、そこから周りのすべてのことを見て、怒ったり、喜んだり、嘆いたりし ていることはないでしょうか。自分にあわれみが注がれることについては子どものように喜びつつ、他者に対して、あるいは敵に対して、「さばきを!」「義 を!」と求めていることはないでしょうか。しかし私たちがこのヨナ書からはっきり受け止めるべきは、神はすべての人々を愛しているということです。一人も 滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを心から求めておられるということです。


今月28日は秋の特別集会です。なぜ私たちはこのような取り組みをするのでしょうか。その伝道の第一の動機を、私たちはこのヨナ書から学ぶべきです。すな わち神ご自身が一人一人を求めておられる。私たちがどんな気持ちを持っているかということ以上に、神がすべての人を大切にしておられ、その救いを心から 望んでおられる。この神様の思いをしっかりと私たちは自分の心に刻みたいと思います。どんな国の人も、どんな罪を犯してしまった人も、また私たちの敵であ るような人もそうです。私たちもまたこの主の大きなあわれみによって救って頂いた者たちです。そういう私たちはここに吐露されている神の愛とあわれみを心 から感謝し、感動し、賛美して、確信を持って人々にこのメッセージを伝え、一人でも多くの方がこの神の憐れみと救いを受けることができるように、主と一つ 心になり、共に主の御心のために働く者へと導かれて行きたいと思います。