ルカの福音書 1:1-4
正確な事実であることを
今日からルカの福音書を開きます。福音書は全部で4つありますが、ルカの福音書の特
徴としてどんなこと
があげられるでしょうか。その一つは福音書記者の中でルカだけが異邦人であるということです。また
ルカの福音書は使徒の働きとセットの書です。それぞれルカの著作の前篇、後篇と位置付けることができます。
そして皆さんはこの質問に答えられるでしょうか。新約聖書の中で一番長い書はどれでしょうか。答えは
ルカの福音書です。章の数で言えばルカは24章で、それよりマタイの28章、使徒の働きの28章の方が
長いのですが、新改訳のページ数を(第3版で)比べてみると、マタイは63ページ、使徒の働きは62
ページなのに対し、ルカは69ページになります。ちなみにあのローマ書は意外にも
28ページ、また聖書の一番最後のヨハネの黙示録も28ページになります。そのようなルカの福音書はどんな書な
のか、今日の1章1~4節に記されています。
まず、この福音書が書かれた当時の状況について見て行きたいと思います。ここには3つの時代が示されていま す。一つは「私たちの間ですでに確信されている出来事」が起こった時代。この訳については後ほど触れます が、これは一言で言ってイエス・キリストの出来事を指します。イエス様がこの世に誕生して、十字架にかか り、復活・昇天するまでの約30年間のことです。二つ目の時代は、そのイエス・キリストの出来事を目撃 した 人たちが、そのメッセージを伝え始めた時代です。1~2節の言葉で言えば「初めからの目撃者で、みことばに 仕える者となった人々が、私たちに伝えた」という時代です。この時代はイエス様のことを伝えるために「書 物」を書く必要はありませんでした。なぜならそこにはイエス様の生涯を目の当たりにした生き証人がたくさん いたからです。イエス様の出来事はたった今起こったばかりであり、多くの人々の頭や記憶の中にイエス様の姿 や言葉は満ち満ちていたからです。しかしそれからさらに時間が経った時代の人々にとってはそうでありません でした。三つ目の時代は、口頭や短い文書によって伝えられたイエス様の福音を、多くの人が記事にまとめて書 き上げようとした時代です。イエス様の弟子たちを初め、まだ多くの生き証人たちは地上に残っていましたが、 その話を聞く人々は変わって来ていました。当時はイエス様の断片的な語録集などが色々な形で、バラバラに伝 えられていました。そのため、その伝えられた事柄をまとめて、人々に正しくイエス様のことを伝えることがで きるように文書化する必要に迫られていたのです。そのようにして福音書が書かれ始めたのは紀元60年前後か らです。覚えておいて良いことはパウロの手によるテサロニケ人への手紙、コリント書、ガラテヤ書、ローマ 書、そしておそらくコロサイ、エペソ、ピレモン、ピリピ書などはそれよりも早く書かれたということです。私 たちは新約聖書の最初に出て来る福音書は早い時代に書かれた素朴な文書で、後ろにある手紙の方がより遅い時 代に書かれた高度な文書だと思いがちですが、そうではないのです。福音書を書いた人たちは、パウロのメッ セージや彼のいくつかの手紙をすでに知っていたと考えられます。
なぜ当時の人々はそのような情熱をもってキリストに関することを記事にまとめようとしたのでしょうか。 それ はこのイエス・キリストの出来事にこそ、この世界に対する決定的なメッセージを見て取ったからでしょう。1 節の「確信されている出来事」という部分には印がついていて、欄外に別訳として「すでに成就された出来事」 とあります。こちらの訳が適切と思われます。ちなみに口語訳聖書は「私たちの間に成就された出来事」と訳 し、新共同訳聖書も「私たちの間で実現した事柄」と訳しています。まさにこれがルカのメッセージの主題で す。この書の最後の章の24章44節にも、復活したイエス様の言葉としてこうあります。「わたしがまだあな たがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と 詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」 つまりルカの関心は、このイエス・ キリ ストにおいて神の救いはついに成就した!ということです。その成就された救いについて、人々は書き留めずに いられなかった。そしてルカもそのことをまとめて書き上げずにはいられなかったのです。
では、ルカはどのような方針をもってこの福音書を書こうとしたのでしょうか。3節に「私も、すべてのことを 初めから綿密に調べておりますから」とあります。まずルカはここで「すべてのことを初めから綿密に調べてい る」と言っています。彼は情報を徹底的に集めたのです。「初めから」とは、キリストの生涯の初めから、とい うことでしょう。確かにルカの福音書には、イエス様の誕生のことが詳しく記されています。しかし彼は得た情 報を鵜呑みにしたわけではありません。「綿密に調べた」とも言っています。彼はコロサイ4章14節に 「愛す る医者ルカ」と言われていますように、医者だった人です。その賜物をもって、人一倍チェックにチェックを重 ねたのだと思われます。彼はそうすることができる良い立場にありました。ルカはパウロの手紙にその名前がた びたび出て来ますように、パウロの同労者の一人でした。使徒の働きの後半は、主にパウロの伝道旅行について 書いてありますが、16章以降にしばしば「私たちは」「私たちは」という記述が出て来ます。つまり使徒の働 きを書いたルカも、パウロの伝道旅行に同行していたということです。またパウロの絶筆の書である2テモテ4 章11節に「ルカだけは私とともにおります。」というパウロの言葉があります。いかにルカはパウロのそばで 共に歩んだかが分かります。また彼はマルコの福音書を書いたマルコとも面識があったと思われますし、エルサ レム教会の主要なメンバーであるシラスとも親しく交わる機会がありました。そういう中でより多くの情報に接 し、最初から綿密に調べ、それを精査することができる良い立場にあったのです。そのため、私たちは他の 福音 書には見られない多くの記事に、このルカの福音書で触れることができます。イエス様の誕生に関する記事もそ うですし、良きサマリヤ人のたとえ、金持ち農夫のたとえ、放蕩息子の話、金持ちと貧乏人ラザロのたとえ、ま たパリサイ人と取税人の祈り、ザアカイの救いの記事、エマオ途上の二人の弟子の話、などはルカだけに記され ている記事です。この福音書が新約聖書中、最も分量が多い書となっていることはこのこととも関係していると 言えます。
しかし、彼は集めた情報を無目的に羅列したわけで はありません。3節に「あなたのために、順序を立てて書い て差し上げる」と言っています。つまりある目的をもって、その目的にかなわなければ、それ自体有益で確かな 情報であっても削除することをもってまとめたのです。読者の益になるように、目的をもって、系統立てて 書いたのです。
では、ルカがこの書を書いた目的は何でしょうか。 4節:「それによって、すでに教えを受けられた事がらが正 確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。」 この福音書は3節の最後にありますよう に、テオピロという人物に宛てて書かれました。続編である使徒の働きも同じです。彼はどういう人だったので しょうか。テオピロという名前はギリシャ語では「セオフィロス」となっていて、「セオス」すなわち「神」と 「フィロス」すなわち「愛」という言葉を組み合わせた名前で、「神の愛する人」という意味です。そのため、 ある人々はこれはクリスチャン全体を指す言葉ではないかと考えました。しかしルカはここで「尊敬するテオピ ロ殿」と呼んでいます。この「尊敬する~殿」という言葉は、使徒の働きではペリクスやフェストなど、 ローマ の高い地位にある人に対して使われています。ですからテオピロも、実在した高い位の役人だったのだろうと一 般には考えられています。興味深いことは使徒の働きの冒頭では「テオピロよ」とだけ呼ばれていることです。 このことは、ルカの福音書を書いた当時はテオピロはまだ求道中の役人だったのに対し、使徒の働きを書いた頃 にはすでにクリスチャンになっていたことを指しているのではないか、だからもっと親しい呼びかけに変わった のではないか、とある人たちは推測します。もしそうだとしたら、それだけでルカがこの福音書を書いた労苦は 大きく報われたことになるでしょう。そのテオピロは、この福音書が書かれた当時、すでに教えを受けていまし たが、まだ確信するまでには至っていなかったようです。4節の「正確な」という言葉は「確かである」とか 「信頼できる」という意味の言葉で、これは序文に最後にあって非常に強調されています。つまりルカはテオピ ロがこの福音書を通してイエス・キリストのメッセージは確かであると知ることができるようになるために この福音書を書いたのです。すなわち神はこのキリストにおいて私たちの救いを成し遂げて下さったのだ!と はっきり確信することができるようになるため、そしてイエス様に従う者となるために、この福音書を書いた のです。
このことは私たちが救いの確信を持つことについても、大切なことを教えてくれます。私たちはどこに救いの確 信を求めて歩んでいるでしょうか。ある人は霊的な体験にそれを求めようとします。救われた人の証しを聞く と、よく劇的な回心物語が語られます。自分もそのようなことがないと救われたことにはならないのではないか と思って、神秘的な体験を求める。そのため、あちこちに出かけて行く。また、ある人は自分の感情の高まりに それを見出そうとします。救われた人はみな幸福な気分になるはずだと思って、一生懸命そうなることを願うが、 なかなかそうならない。そんな私は本当に救いにあずかっているのだろうか、と疑問になる。またある人は自分 の変えられた生活に救いのしるしを見出そうとします。もっとデボーションをし、もっと他者を愛し、もっと 奉仕をし、主に従う生活を送る。しかし、なかなか理想通りには行きません。またある人は自分が信仰告白し た時の経験に立ち返ろうとします。かつての回心した時が自分の霊的状態の最高点であったかのようにいつも 過去を振り返り、懐かしみ、そのことを思い出して、救いの確信を得ようとします。しかし、救いの確信は そのように自分の内側や、過去の体験を見つめることによって来るのではありません。救いの確信を持つための 正しい道は、イエス様をしっかり見ることです。神はこの方において私たちの救いを成就して下さいました。 ですから、私たちに必要なことは、この方を正しく知ることなのです。
この福音書はもちろん、テオピロ一人のためだけのものではありません。当時の書物も個人への献呈という形で 書かれましたが、それは同時により広い読者を想定しています。ルカも同じです。ですから、この福音書はまだ イエス様に会ったことのない人がイエス様を知るためのものでもあります。また、イエス様の話は聞いたことはある が、改めてイエス様を知りたいと願う人のための福音書でもあります。また、イエス様についてまだ良く確信を持 てない人、あるいは信じ始めたばかりの人がよりしっかりした信仰に進むためのものでもあります。さらには長 い間、イエス様に従って来てはいるが、より堅固な信仰の確信を持ちたいと願う人のためのものでもあります。 神はイエス・キリストにあって私たちの救いを成し遂げて下さいました!救いに必要ことはすべてこの方の内に 備えられています!私たちはその主イエス様を正しく知り、この方に結ばれて、確信をもって主の救いを喜び、 主に従う幸いな人生へ、この福音書を通して導かれたいと思います。
まず、この福音書が書かれた当時の状況について見て行きたいと思います。ここには3つの時代が示されていま す。一つは「私たちの間ですでに確信されている出来事」が起こった時代。この訳については後ほど触れます が、これは一言で言ってイエス・キリストの出来事を指します。イエス様がこの世に誕生して、十字架にかか り、復活・昇天するまでの約30年間のことです。二つ目の時代は、そのイエス・キリストの出来事を目撃 した 人たちが、そのメッセージを伝え始めた時代です。1~2節の言葉で言えば「初めからの目撃者で、みことばに 仕える者となった人々が、私たちに伝えた」という時代です。この時代はイエス様のことを伝えるために「書 物」を書く必要はありませんでした。なぜならそこにはイエス様の生涯を目の当たりにした生き証人がたくさん いたからです。イエス様の出来事はたった今起こったばかりであり、多くの人々の頭や記憶の中にイエス様の姿 や言葉は満ち満ちていたからです。しかしそれからさらに時間が経った時代の人々にとってはそうでありません でした。三つ目の時代は、口頭や短い文書によって伝えられたイエス様の福音を、多くの人が記事にまとめて書 き上げようとした時代です。イエス様の弟子たちを初め、まだ多くの生き証人たちは地上に残っていましたが、 その話を聞く人々は変わって来ていました。当時はイエス様の断片的な語録集などが色々な形で、バラバラに伝 えられていました。そのため、その伝えられた事柄をまとめて、人々に正しくイエス様のことを伝えることがで きるように文書化する必要に迫られていたのです。そのようにして福音書が書かれ始めたのは紀元60年前後か らです。覚えておいて良いことはパウロの手によるテサロニケ人への手紙、コリント書、ガラテヤ書、ローマ 書、そしておそらくコロサイ、エペソ、ピレモン、ピリピ書などはそれよりも早く書かれたということです。私 たちは新約聖書の最初に出て来る福音書は早い時代に書かれた素朴な文書で、後ろにある手紙の方がより遅い時 代に書かれた高度な文書だと思いがちですが、そうではないのです。福音書を書いた人たちは、パウロのメッ セージや彼のいくつかの手紙をすでに知っていたと考えられます。
なぜ当時の人々はそのような情熱をもってキリストに関することを記事にまとめようとしたのでしょうか。 それ はこのイエス・キリストの出来事にこそ、この世界に対する決定的なメッセージを見て取ったからでしょう。1 節の「確信されている出来事」という部分には印がついていて、欄外に別訳として「すでに成就された出来事」 とあります。こちらの訳が適切と思われます。ちなみに口語訳聖書は「私たちの間に成就された出来事」と訳 し、新共同訳聖書も「私たちの間で実現した事柄」と訳しています。まさにこれがルカのメッセージの主題で す。この書の最後の章の24章44節にも、復活したイエス様の言葉としてこうあります。「わたしがまだあな たがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と 詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」 つまりルカの関心は、このイエス・ キリ ストにおいて神の救いはついに成就した!ということです。その成就された救いについて、人々は書き留めずに いられなかった。そしてルカもそのことをまとめて書き上げずにはいられなかったのです。
では、ルカはどのような方針をもってこの福音書を書こうとしたのでしょうか。3節に「私も、すべてのことを 初めから綿密に調べておりますから」とあります。まずルカはここで「すべてのことを初めから綿密に調べてい る」と言っています。彼は情報を徹底的に集めたのです。「初めから」とは、キリストの生涯の初めから、とい うことでしょう。確かにルカの福音書には、イエス様の誕生のことが詳しく記されています。しかし彼は得た情 報を鵜呑みにしたわけではありません。「綿密に調べた」とも言っています。彼はコロサイ4章14節に 「愛す る医者ルカ」と言われていますように、医者だった人です。その賜物をもって、人一倍チェックにチェックを重 ねたのだと思われます。彼はそうすることができる良い立場にありました。ルカはパウロの手紙にその名前がた びたび出て来ますように、パウロの同労者の一人でした。使徒の働きの後半は、主にパウロの伝道旅行について 書いてありますが、16章以降にしばしば「私たちは」「私たちは」という記述が出て来ます。つまり使徒の働 きを書いたルカも、パウロの伝道旅行に同行していたということです。またパウロの絶筆の書である2テモテ4 章11節に「ルカだけは私とともにおります。」というパウロの言葉があります。いかにルカはパウロのそばで 共に歩んだかが分かります。また彼はマルコの福音書を書いたマルコとも面識があったと思われますし、エルサ レム教会の主要なメンバーであるシラスとも親しく交わる機会がありました。そういう中でより多くの情報に接 し、最初から綿密に調べ、それを精査することができる良い立場にあったのです。そのため、私たちは他の 福音 書には見られない多くの記事に、このルカの福音書で触れることができます。イエス様の誕生に関する記事もそ うですし、良きサマリヤ人のたとえ、金持ち農夫のたとえ、放蕩息子の話、金持ちと貧乏人ラザロのたとえ、ま たパリサイ人と取税人の祈り、ザアカイの救いの記事、エマオ途上の二人の弟子の話、などはルカだけに記され ている記事です。この福音書が新約聖書中、最も分量が多い書となっていることはこのこととも関係していると 言えます。
しかし、彼は集めた情報を無目的に羅列したわけで はありません。3節に「あなたのために、順序を立てて書い て差し上げる」と言っています。つまりある目的をもって、その目的にかなわなければ、それ自体有益で確かな 情報であっても削除することをもってまとめたのです。読者の益になるように、目的をもって、系統立てて 書いたのです。
では、ルカがこの書を書いた目的は何でしょうか。 4節:「それによって、すでに教えを受けられた事がらが正 確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。」 この福音書は3節の最後にありますよう に、テオピロという人物に宛てて書かれました。続編である使徒の働きも同じです。彼はどういう人だったので しょうか。テオピロという名前はギリシャ語では「セオフィロス」となっていて、「セオス」すなわち「神」と 「フィロス」すなわち「愛」という言葉を組み合わせた名前で、「神の愛する人」という意味です。そのため、 ある人々はこれはクリスチャン全体を指す言葉ではないかと考えました。しかしルカはここで「尊敬するテオピ ロ殿」と呼んでいます。この「尊敬する~殿」という言葉は、使徒の働きではペリクスやフェストなど、 ローマ の高い地位にある人に対して使われています。ですからテオピロも、実在した高い位の役人だったのだろうと一 般には考えられています。興味深いことは使徒の働きの冒頭では「テオピロよ」とだけ呼ばれていることです。 このことは、ルカの福音書を書いた当時はテオピロはまだ求道中の役人だったのに対し、使徒の働きを書いた頃 にはすでにクリスチャンになっていたことを指しているのではないか、だからもっと親しい呼びかけに変わった のではないか、とある人たちは推測します。もしそうだとしたら、それだけでルカがこの福音書を書いた労苦は 大きく報われたことになるでしょう。そのテオピロは、この福音書が書かれた当時、すでに教えを受けていまし たが、まだ確信するまでには至っていなかったようです。4節の「正確な」という言葉は「確かである」とか 「信頼できる」という意味の言葉で、これは序文に最後にあって非常に強調されています。つまりルカはテオピ ロがこの福音書を通してイエス・キリストのメッセージは確かであると知ることができるようになるために この福音書を書いたのです。すなわち神はこのキリストにおいて私たちの救いを成し遂げて下さったのだ!と はっきり確信することができるようになるため、そしてイエス様に従う者となるために、この福音書を書いた のです。
このことは私たちが救いの確信を持つことについても、大切なことを教えてくれます。私たちはどこに救いの確 信を求めて歩んでいるでしょうか。ある人は霊的な体験にそれを求めようとします。救われた人の証しを聞く と、よく劇的な回心物語が語られます。自分もそのようなことがないと救われたことにはならないのではないか と思って、神秘的な体験を求める。そのため、あちこちに出かけて行く。また、ある人は自分の感情の高まりに それを見出そうとします。救われた人はみな幸福な気分になるはずだと思って、一生懸命そうなることを願うが、 なかなかそうならない。そんな私は本当に救いにあずかっているのだろうか、と疑問になる。またある人は自分 の変えられた生活に救いのしるしを見出そうとします。もっとデボーションをし、もっと他者を愛し、もっと 奉仕をし、主に従う生活を送る。しかし、なかなか理想通りには行きません。またある人は自分が信仰告白し た時の経験に立ち返ろうとします。かつての回心した時が自分の霊的状態の最高点であったかのようにいつも 過去を振り返り、懐かしみ、そのことを思い出して、救いの確信を得ようとします。しかし、救いの確信は そのように自分の内側や、過去の体験を見つめることによって来るのではありません。救いの確信を持つための 正しい道は、イエス様をしっかり見ることです。神はこの方において私たちの救いを成就して下さいました。 ですから、私たちに必要なことは、この方を正しく知ることなのです。
この福音書はもちろん、テオピロ一人のためだけのものではありません。当時の書物も個人への献呈という形で 書かれましたが、それは同時により広い読者を想定しています。ルカも同じです。ですから、この福音書はまだ イエス様に会ったことのない人がイエス様を知るためのものでもあります。また、イエス様の話は聞いたことはある が、改めてイエス様を知りたいと願う人のための福音書でもあります。また、イエス様についてまだ良く確信を持 てない人、あるいは信じ始めたばかりの人がよりしっかりした信仰に進むためのものでもあります。さらには長 い間、イエス様に従って来てはいるが、より堅固な信仰の確信を持ちたいと願う人のためのものでもあります。 神はイエス・キリストにあって私たちの救いを成し遂げて下さいました!救いに必要ことはすべてこの方の内に 備えられています!私たちはその主イエス様を正しく知り、この方に結ばれて、確信をもって主の救いを喜び、 主に従う幸いな人生へ、この福音書を通して導かれたいと思います。