ルカの福音書 2:21-38
御救いを見た
今日はイエス様が誕生した後、まもなくの頃の話です。まずいくつかの儀式を受けられ
たことが語られています。
一つは割礼の儀式、一つは清めの儀式、もう一つは幼子を主にささげる儀式です。割礼はご存知の通り、
アブラハムの時以来の神の民の契約のしるしです。二つ目の清めの儀式についてはレビ記12章に記されていますが、
そこでは子を出産した女は40日間汚れると言われています。この考え方の根本にあるのは、生まれて来る子は罪を
持っているという考えです。その汚れからの清めです。本来は一歳の子羊一頭と家ばとのひなあるいは山ばとの
一羽をささげるように言われていますが、貧しくて羊を買う余裕がなければ、その代わりにもう一羽の山ばとか
家ばとのひなを当てる、と規定されていました。24節を見ると、マリヤとヨセフの夫婦はこの後者の規定に従って
犠牲をささげました。つまり彼らは貧しい夫婦であったことが分かります。そしてもう一つ、幼子をささげる儀式に
ついては出エジプト記13章に記されています。出エジプトの際、初子はみな打たれました。しかし、イスラエルの
家の初子についてはさばきが過ぎ越されました。その初子の贖いに関する儀式です。
これらは何を私たちに語っているでしょうか。ガラテヤ4章4~5節:「しかし定めの時が来たので、神はご自分の 御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を 贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。」 イエス様は神様であり、 律法に縛られるお方ではありません。その上に立つお方です。しかし、イエス様は人となって私たちと同じ立場に 立って下さった方として、あえてご自身を低めて、律法の下に自らを置かれたのです。そして人としてなすべき すべての生活を行なって、私たちに与える義を用意されたのです。ある人はイエス様は罪がないのだから、この ような罪に関係する儀式を行なうのはナンセンスではないか、と言うかもしれません。確かにイエス様はご自分に 関して言えば、これらの儀式を受ける必要はありません。しかし、私たちの罪をその身に背負われる方として、 私たちの罪を引き受けられた方として、これらの儀式を受けられたのです。イエス様は地上の生涯の最初から、 私たちの罪を担われる方として歩まれたのです。
さて、このようにしてエルサレムの宮にやって来た敬虔な両親のところに二人の人がやって来ます。シメオンと アンナの二人です。まず一人目のシメオンについて25節以降に、「この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの 慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられて、主のキリストを見るまでは決して死なないと、 聖霊のお告げを受けていた。」とあります。その彼が聖霊に導かれて幼子イエス様を連れた両親に会います。 そして、その子を腕に抱き、神をほめたたえて賛美をしました。その賛美が29~32節にあります。シメオンはそこで、 ついに私の目はあなたの御救いを見た!と喜んでいます。だから私はもう死んでも良い、とまで彼は言っています。 イエス様の姿には、誰が見てもそう分かる特別なしるしがあったわけではないでしょう。これはシメオンが聖霊に導かれ、また信仰によって歌った賛美です。こ こに示されていることは何でしょうか。それはこのイエス様は旧約 聖書と一つになっている救い主であるということです。このシメオンはいわば旧約時代に生きて来た人です。 その彼がこのイエス様に救いの成就を見ています。そのことは彼の言葉にも示されています。シメオンは 31~32節で「御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」 と言っています。果たして旧約聖書は救いが異邦人にも及ぶことを語っていたでしょうか。答はイエス。 あのアブラハムの召しにおいて、主は「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12章3節) と語っておられました。イスラエルが主に選ばれたのは、ただイスラエルのためではないのです。彼らはすべての 民族の救いに仕えるため、奉仕するために選ばれたのです。救いは最初からイスラエルから出て、全世界の民へと拡がって行くべきものとして考えられていまし た。シメオンはそのことを見ています。この幼子によって全世界に対する神の約束は前進して行くのだ、と。
シメオンと並んでもう一人ここに出て来るのは女預言者のアンナです。彼女は7年間、夫との結婚生活を送った後、 やもめとなり、84歳になっていました。ここにはもう一つの訳し方の可能性があって、やもめになってから84年間が 経っていたと読むこともできます。そうだとすれば、彼女はもう100歳は超えていたと考えられます。そういう中でも アンナは神様にこそ望みを置く生活を送って来ました。宮を離れず、断食と祈りをもって神に仕えていました。 彼女は私たちの想像を超える苦労の人だったと思われます。その彼女も熱心に待ち望んだ救いをこの幼子イエス様に 見ました。ついに神は救い主を下さった、と神に感謝をささげ、人々のこのことを伝えました。このようにこの方こそ 旧約聖書が指し示し、それを信じて来た敬虔な信仰者たちが見出し、今や深い慰めを覚えた救い主である、 ということがここに示されています。
さて、今日の箇所にはイエス様について、良いことばかりが言われているのではありません。34~35節: 「また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。『ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、 また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの心さえも 刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。』」 ここにはこの幼子のイエス様がやがて どんなに大きな苦しみを受けることになるか、が語られています。イエス様は皆に喜ばれるのではありません。 イエス様は人々から集中的に反対を受ける対象になる、と言われています。人々はキリストを蔑み、拒否し、 反対の立場を取ります。そしてついにはこの方を呪いの木である十字架にかけ、死へと追いやります。これが 後にマリヤの心を刺し貫くことになります。しかし、これは「定められている」ことだとシメオンは言っています。 避けられない単なる運命とか、予想外のハプニングではなくて、神が予めご計画されたことである。すべての上に 御手を置いている神が、最善のこととして、このことを導いて行かれると言うのです。
このような神が遣わして下さったキリストは、人類を二つのグループに分けることになる、とシメオンは言います。 それによって一人一人の心の思いが外に現れて来ることになる、と。一つ目のグループは心のへり下っている人です。 自分が罪を持つ卑しい存在であることを認め、悲しみ、救いを求める人々。そういう人はこのイエス・キリストによる 救いを受け入れます。罪ある私のために、キリストの十字架がなされたことを受け入れ、神が私を愛してそのようにして 下さったことを心から感謝します。そういう人は34節にあるように「立ち上がる」者となります。この「立ち上がる」 という言葉は、普通「復活」と訳される言葉です。二つ目のグループは、イエス・キリストの前にへり下ることを 拒否する人たちです。なぜキリストの十字架を、自分の救いのために必要なこととして感謝して受け取るべきだろうか、 とその人たちは思うのです。プライドが高くてそんなことは嫌なのです。そんな格好悪いことをしてもらわなくても、 自分は自分で自分の救いのための道を切り開いて行ける、と思っている。私の救いのために十字架の贖いが必要という メッセージは自分にとって侮辱的なもののように思うのです。そういう人はどうなるでしょうか。34節にその人は 「倒れる」とあります。これは単に躓いて転ぶという程度のことではなく、永遠の死と滅びともたらすという意味です。 キリストはこのようにして多くの人々の心の隠れた思いを明らかにするのです。それまでは良く分からなかった人々の 違いが、このキリストを前にする時に良く分かって来る。キリストはリトマス紙のようなお方です。この方の前には 倒れるか、立ち上がるか、この二つしかないのであり、中立的な立場はないのです。
果たして、私たちはどちらの側の人でしょうか。イエス・キリストの前にあなたがどう応答するかは、実はあな たの本質を現わすテストのようなものです。果たしてあなたはキリストを退けることによって、神の前に高ぶっ ている者であることを示すのでしょうか。せっかく神が差し出して下さっている救いを受け取らず、もっと自分 のプライドを保ったままで得られる救いを求め、神になお何かを要求する者でしょうか。それともあなたは自分 の罪深さと貧しさを認めており、そんな自分のために神が一人子を遣わして下さり、救いを成し遂げて下さった ことを感謝し、その神の恵みにより頼み、救いにあずかって行く者でしょうか。キリストは神であるお方なの に、栄光を捨てて私たちのために身をかがめ、律法の下にある者となって下さいました。そして人々からひどい 扱いを受け、捨てられて、ついには十字架の死にまでも進まれます。それは神が私たちの救いのために定めて下 さった救いの方法です。この神様の方法を感謝して受け入れるなら、その人はやがて立ち上がる者とさせて頂け ます。このキリストによって、今どんな中にあろうとも、そこから必ず高く引き上げて頂くことができるので す。シメオンは、今こそ私は安らかに去ることができる、と言いました。イエス様を救い主として持つなら、最 後の敵と聖書で言われている死さえも恐れるに足りない。その死を越えて、復活の祝福、永遠の命に生かして頂 くことができる。一方のアンナも私たちの想像を絶する苦労の人生を送った人だったと思われますが、その彼女 もこのイエス・キリストにこそ自分が待ち望んだ救いをついに見出しました。私たちもこの方を自分の救い主と して感謝して受け入れ、この方に従って行くことを通して、ただ神の恵みによりすがるへりくだった心を持つ者 であることが明らかにされますように。そのようにして神の幸いにあずかるにふさわしい心低き者でありますよ うに。そしてこの御子によって必ず引き上げられ、立ち上がる者とさせて頂ける豊かな救いの祝福に生かされて 行きたいと思います。
これらは何を私たちに語っているでしょうか。ガラテヤ4章4~5節:「しかし定めの時が来たので、神はご自分の 御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を 贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。」 イエス様は神様であり、 律法に縛られるお方ではありません。その上に立つお方です。しかし、イエス様は人となって私たちと同じ立場に 立って下さった方として、あえてご自身を低めて、律法の下に自らを置かれたのです。そして人としてなすべき すべての生活を行なって、私たちに与える義を用意されたのです。ある人はイエス様は罪がないのだから、この ような罪に関係する儀式を行なうのはナンセンスではないか、と言うかもしれません。確かにイエス様はご自分に 関して言えば、これらの儀式を受ける必要はありません。しかし、私たちの罪をその身に背負われる方として、 私たちの罪を引き受けられた方として、これらの儀式を受けられたのです。イエス様は地上の生涯の最初から、 私たちの罪を担われる方として歩まれたのです。
さて、このようにしてエルサレムの宮にやって来た敬虔な両親のところに二人の人がやって来ます。シメオンと アンナの二人です。まず一人目のシメオンについて25節以降に、「この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの 慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられて、主のキリストを見るまでは決して死なないと、 聖霊のお告げを受けていた。」とあります。その彼が聖霊に導かれて幼子イエス様を連れた両親に会います。 そして、その子を腕に抱き、神をほめたたえて賛美をしました。その賛美が29~32節にあります。シメオンはそこで、 ついに私の目はあなたの御救いを見た!と喜んでいます。だから私はもう死んでも良い、とまで彼は言っています。 イエス様の姿には、誰が見てもそう分かる特別なしるしがあったわけではないでしょう。これはシメオンが聖霊に導かれ、また信仰によって歌った賛美です。こ こに示されていることは何でしょうか。それはこのイエス様は旧約 聖書と一つになっている救い主であるということです。このシメオンはいわば旧約時代に生きて来た人です。 その彼がこのイエス様に救いの成就を見ています。そのことは彼の言葉にも示されています。シメオンは 31~32節で「御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」 と言っています。果たして旧約聖書は救いが異邦人にも及ぶことを語っていたでしょうか。答はイエス。 あのアブラハムの召しにおいて、主は「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12章3節) と語っておられました。イスラエルが主に選ばれたのは、ただイスラエルのためではないのです。彼らはすべての 民族の救いに仕えるため、奉仕するために選ばれたのです。救いは最初からイスラエルから出て、全世界の民へと拡がって行くべきものとして考えられていまし た。シメオンはそのことを見ています。この幼子によって全世界に対する神の約束は前進して行くのだ、と。
シメオンと並んでもう一人ここに出て来るのは女預言者のアンナです。彼女は7年間、夫との結婚生活を送った後、 やもめとなり、84歳になっていました。ここにはもう一つの訳し方の可能性があって、やもめになってから84年間が 経っていたと読むこともできます。そうだとすれば、彼女はもう100歳は超えていたと考えられます。そういう中でも アンナは神様にこそ望みを置く生活を送って来ました。宮を離れず、断食と祈りをもって神に仕えていました。 彼女は私たちの想像を超える苦労の人だったと思われます。その彼女も熱心に待ち望んだ救いをこの幼子イエス様に 見ました。ついに神は救い主を下さった、と神に感謝をささげ、人々のこのことを伝えました。このようにこの方こそ 旧約聖書が指し示し、それを信じて来た敬虔な信仰者たちが見出し、今や深い慰めを覚えた救い主である、 ということがここに示されています。
さて、今日の箇所にはイエス様について、良いことばかりが言われているのではありません。34~35節: 「また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。『ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、 また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの心さえも 刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。』」 ここにはこの幼子のイエス様がやがて どんなに大きな苦しみを受けることになるか、が語られています。イエス様は皆に喜ばれるのではありません。 イエス様は人々から集中的に反対を受ける対象になる、と言われています。人々はキリストを蔑み、拒否し、 反対の立場を取ります。そしてついにはこの方を呪いの木である十字架にかけ、死へと追いやります。これが 後にマリヤの心を刺し貫くことになります。しかし、これは「定められている」ことだとシメオンは言っています。 避けられない単なる運命とか、予想外のハプニングではなくて、神が予めご計画されたことである。すべての上に 御手を置いている神が、最善のこととして、このことを導いて行かれると言うのです。
このような神が遣わして下さったキリストは、人類を二つのグループに分けることになる、とシメオンは言います。 それによって一人一人の心の思いが外に現れて来ることになる、と。一つ目のグループは心のへり下っている人です。 自分が罪を持つ卑しい存在であることを認め、悲しみ、救いを求める人々。そういう人はこのイエス・キリストによる 救いを受け入れます。罪ある私のために、キリストの十字架がなされたことを受け入れ、神が私を愛してそのようにして 下さったことを心から感謝します。そういう人は34節にあるように「立ち上がる」者となります。この「立ち上がる」 という言葉は、普通「復活」と訳される言葉です。二つ目のグループは、イエス・キリストの前にへり下ることを 拒否する人たちです。なぜキリストの十字架を、自分の救いのために必要なこととして感謝して受け取るべきだろうか、 とその人たちは思うのです。プライドが高くてそんなことは嫌なのです。そんな格好悪いことをしてもらわなくても、 自分は自分で自分の救いのための道を切り開いて行ける、と思っている。私の救いのために十字架の贖いが必要という メッセージは自分にとって侮辱的なもののように思うのです。そういう人はどうなるでしょうか。34節にその人は 「倒れる」とあります。これは単に躓いて転ぶという程度のことではなく、永遠の死と滅びともたらすという意味です。 キリストはこのようにして多くの人々の心の隠れた思いを明らかにするのです。それまでは良く分からなかった人々の 違いが、このキリストを前にする時に良く分かって来る。キリストはリトマス紙のようなお方です。この方の前には 倒れるか、立ち上がるか、この二つしかないのであり、中立的な立場はないのです。
果たして、私たちはどちらの側の人でしょうか。イエス・キリストの前にあなたがどう応答するかは、実はあな たの本質を現わすテストのようなものです。果たしてあなたはキリストを退けることによって、神の前に高ぶっ ている者であることを示すのでしょうか。せっかく神が差し出して下さっている救いを受け取らず、もっと自分 のプライドを保ったままで得られる救いを求め、神になお何かを要求する者でしょうか。それともあなたは自分 の罪深さと貧しさを認めており、そんな自分のために神が一人子を遣わして下さり、救いを成し遂げて下さった ことを感謝し、その神の恵みにより頼み、救いにあずかって行く者でしょうか。キリストは神であるお方なの に、栄光を捨てて私たちのために身をかがめ、律法の下にある者となって下さいました。そして人々からひどい 扱いを受け、捨てられて、ついには十字架の死にまでも進まれます。それは神が私たちの救いのために定めて下 さった救いの方法です。この神様の方法を感謝して受け入れるなら、その人はやがて立ち上がる者とさせて頂け ます。このキリストによって、今どんな中にあろうとも、そこから必ず高く引き上げて頂くことができるので す。シメオンは、今こそ私は安らかに去ることができる、と言いました。イエス様を救い主として持つなら、最 後の敵と聖書で言われている死さえも恐れるに足りない。その死を越えて、復活の祝福、永遠の命に生かして頂 くことができる。一方のアンナも私たちの想像を絶する苦労の人生を送った人だったと思われますが、その彼女 もこのイエス・キリストにこそ自分が待ち望んだ救いをついに見出しました。私たちもこの方を自分の救い主と して感謝して受け入れ、この方に従って行くことを通して、ただ神の恵みによりすがるへりくだった心を持つ者 であることが明らかにされますように。そのようにして神の幸いにあずかるにふさわしい心低き者でありますよ うに。そしてこの御子によって必ず引き上げられ、立ち上がる者とさせて頂ける豊かな救いの祝福に生かされて 行きたいと思います。