ルカの福音書 3:1-20

主の道を用意し
今日の箇所にはメシヤの先駆者バプテスマのヨハネの宣教のことが記されています。時は皇帝テベリオの治世の 第15年(紀元29年頃)。当時、パレスチナ地方はヘロデ大王の死後、4つに分割され、南のユダヤはポンテオ・ ピラト、その北のガリラヤはヘロデ・アンティパス、北東のイツリヤとテラコニテ地方は兄弟ピリポ、そして、 さらに北方のアビレネはルサニヤがそれぞれ治めているという状況でした。また宗教界ではアンナスが現役を 退きつつも、後継者カヤパと共にいまだに大きな実権を握っている時でした。そんな時代にヨハネが荒野に 現れて悔い改めのバプテスマを説き始めたのです。このヨハネはメシヤの先駆者として主の道を備える人です。 4~6節にイザヤ書の預言が引用されていますが、王が来る時、まず使者が先に遣わされます。そして人々が王を 迎えるための準備を導きます。山道を切り開き、でこぼこ道を平らにし、うねった道をまっすぐにして、王の 到来を心から歓迎できるようにするのです。では先駆者ヨハネはどのようにこの準備をするのでしょうか。当時の 人々は救い主に誤った期待を抱いていました。彼らの多くはイスラエルを高く上げてくれるいわゆる武力的メシ ヤ、政治的メシヤを期待していました。今日の人々なら救い主に何を期待するでしょうか。テレビで新年に期待 することは?というインタビューを聞いていると、多くの人は経済とか雇用の回復と言っています。そういう 今日の人々は、経済を良くしてくれる救い主、自分たちの懐を暖かくしてくれる救い主を求めているということ になるでしょうか。しかし人間にとって一番の問題は、そんな表面のことではありません。人間の一番の問題は 罪の問題です。罪がすべての祝福の源なる神との関係を妨げているのです。しかし多くの罪を犯して来た私たちは どうしたら良いのでしょうか。

そんな私たちにヨハネは希望のメッセージを語っています。3節に「罪が赦されるための悔い改めに基づくバプ テスマ」とあります。ここに私たちの罪が赦されるという福音があります。その赦しを頂くには「悔い改め」と いう道を通るべきことが言われています。もちろん私たちがする悔い改めの行為に罪を解決する力があるわけで はありません。その力は具体的にはヨハネが指し示すメシヤなるお方の内にこそあります。しかしその恵みにあ ずかるために私たちに求められているのが悔い改めなのです。この悔い改めこそ、メシヤがまっすぐ私の心に 入って来て下さるための道を用意することです。

ヨハネは7節で人々にこう言います。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたの か。」 一体ヨハネは人々にバプテスマを受けさせようと思っているのか、それとも受けさせまいとしているの か、読む私たちは一瞬戸惑ってしまいますが、もちろん彼は人々が悔い改めてこのバプテスマを受けることを望 んでいます。しかし彼は自分のところにやって来た群衆の心が正しくないことを見て取っていた。彼らはこの悔 い改めのムーブメントに乗っかって、さばきだけ逃れようとしている!ヨハネは人々に言います。我々の父はア ブラハムだから、とりあえずこの洗礼を受けておけば良いだろう、という考えではダメである。もちろんこのバ プテスマを受けることは良いことです。しかしそれなら悔い改めにふさわしい実を結ばなくてはならない。すな わち生活の変革に現れるような真剣な悔い改めでなくてはならない!ということです。悔い改めとは一時的な悲 しみの感情とか、後悔の念ではなく、生き方の転換です。神に背を向け、自分中心に歩んでいた生き方から、神 を愛し、神に喜ばれる生き方へ方向転換することです。

具体的にどうすれば良いのか、という群衆からの質問に対して、ヨハネは11~14節のことを述べています。 群衆に対しては「下着を二枚持っている者は、一つも持たない者に分けなさい。食べ物を持っている者も、そう しなさい。」 取税人には「決められたもの以上には、何も取り立ててはいけません。」 兵士には「だれから も、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」 

 このヨハネのアドバイスには二つの特徴があります。一つはそれぞれの置かれた状況にはそれぞれ固有の誘惑 や罪があるということです。ある人はこう言っています。会社の事務員には不平不満を絶えず口にする誘惑があ る。労働者には作業の手抜きをする誘惑がある。実業家は強欲になる誘惑がある。学者や音楽家には高慢になる 誘惑がある。教師には短気になる誘惑がある。子供には親に反抗する誘惑がある。男性にはポルノを見たり、権 威を乱用する誘惑がある。女性にはうわさ話をしたり、言葉で人を操作しようとする誘惑がある。不当な仕打ち を受けた人には苦々しい人になる誘惑がある。苦しみの中にある人には自己憐憫の誘惑がある。ですから、私は 取税人や兵士ではないからここで言われていることは関係ないとは言えない。それぞれにはそれぞれの誘惑があ り、悔い改めるべきことがあります。

もう一つは、この三つの例は、いずれもお金や持ち物に関する内容になっていることです。お金をどう使うか は、この福音書の大きな関心の一つです。私たちはともすると一円でも多くお金を手に入れ、それを自分の豊か な生活のために使いたいと思いやすい者です。今日は買い物が少し前の時代よりも便利になり、インターネット では激安店を色々検索できて、あれも欲しい、これも欲しい、そのためにもっとお金を持ちたい、人にあげてい る場合ではない、と駆り立てられます。人にあげてしまうと、あれやこれやの欲しいものが買えないのです。し かし聖書のメッセージは、今自分が持っているもので満足しなさいということです。そしてできるなら積極的に 困っている人に与える生活をしなさいということです。たとえその人が口でどんなに立派なことを言っても、実 際のお金の使い方を見れば、その人の価値観や優先順位がはっきりそこに現れます。ヨハネはこれらのことがす べてきちんとできたら洗礼を授けると言っているのではありません。彼は真の悔い改めはこのような具体的な生 活の変化に現れるものだ、と言っているのです。その生活を変えるつもりがない悔い改めは、表面的なものでし かない。そうではなく、生き方の変化に必ず現れる真に悔い改めを!と求めたのです。

私たちは果たしてこのヨハネの言葉の前にどうでしょうか。彼が求めるような悔い改めを私はできるのでしょう か。今、私が悔い改めの心を持ったとしても、ここにあるような生活の具体的変化にまでは至らない自分にぶつ かるだけではないでしょうか。そういう私の悔い改めは中途半端なものにしか過ぎず、いつになっても神が求め る基準には達しないのではないか、と恐れるでしょうか。しかしそう考えるあまり、私たちは今、御前で心から 真に悔い改めることの重要性を減じてはなりません。神は私たちが御前で正直に自分を振り返り、その罪を告白 する時、決してその私たちを軽しめられません。「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神 よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51篇) 「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の 砕かれた者を救われる。」(詩篇34篇) また少し前に見たマリヤの賛歌で彼女は「主は、・・心の思いの高 ぶっている者を追い散らし、・・低い者を高く引き上げ」て下さる、と言っていました。神は心を頑なにして、 自分は今のままでいいのだ、と言って自己弁護する者には何のあわれみも垂れません。しかし自分を正直に振り 返り、みじめな自分であることをそのまま認めてあわれみを請う時、そういう者を決して軽んじず、むしろ豊か に恵みを施して下さる。もちろん私たちはこの悔い改めを単なる手続きやパフォーマンスとして考えてはなりま せん。大切なことは、私たちが真剣に神の前で自分とそのあり方を省みることです。そして自分がいかに正しい 道を外れて神を悲しませる歩みをして来たかを認め、そのような自分をさらけ出して、ただあわれみを願い求め ることです。

このような者に救い主はどんなみわざをなして下さるかを、ヨハネは15節以降で語っています。ヨハネはそこ で、間もなく来られるメシヤは、自分と比べられるような方ではないと言っています。自分はその方のくつのひ もを解く値打ちさえない。自分は水でバプテスマを授けているが、その方は聖霊と火のバプテスマをあなたがた に授けて下さる、と。この聖霊と火のバプテスマとは何のことでしょうか。これはどちらも同じ一つのバプテス マを指していると考えられます。それが聖霊のバプテスマと言われているのは、主はご自分の十字架と復活の生 涯によって勝ち取って下さる祝福を、聖霊によって私たちに当てはめて下さるからです。主はご自身と私たちを 聖霊によって結びつけ、聖霊において私たちに恵みの上にさらに恵みを与えるという豊かなみわざをなして下さ るのです。基本的に私たちが信じた時に受ける洗礼は、この目に見えない聖霊の内的なバプテスマを表すもので す。そのバプテスマが火のバプテスマとも言われているのは、特に清める働きを指す表現と考えられます。火は 残りかすを燃やし尽くし、金や銀の純度を高いものにします。そのようにキリストはご自身が持つとてつもない 力、火の力によって悔い改める者たちの罪を赦し、きよめ、新しい力の下にある者たちとして下さるのです。し かし罪を悔い改めない者にとって、このメシヤの到来はバッド・ニュースです。信じる者に対しては清める働き をした火は、悔い改めない人に対しては、その人がしがみついている罪と一緒にその人をさばき、滅ぼすものと なります。17節には主がやがて人々を二つのグループに分けると言われています。すなわち麦と殻です。麦は 倉、すなわち天の御国の祝福に入れ、殻は火、すなわちさばきの火に投げ入れられます。これはキリストが再び この世に来られる再臨の日、最後の審判の日に目に見える形ではっきり行なわれると聖書は述べています。最後 の18~20節には、このヨハネをとらえたヘロデのことが記されています。ヨハネは臆せずにヘロデ王の悪事 も責めました。しかしヘロデは悔い改めず、20節に「ヨハネを牢に閉じ込め、すべての悪事にもう一つこの悪 事を加えた。」とあります。ヨハネが語る福音によれば、悔い改めを通してその罪が赦される道が開かれている のに、ヘロデはそのせっかくのチャンスを退け、自分の生き方を変えず、罪を増し加えたのです。ですからこれ はヨハネの悲劇を語っている箇所のように見えますが、実はヘロデの悲劇を語っているものです。彼は赦しの道 を遠ざけ、福音を拒絶し、そのようにして救いの外に自分自身を置くという悲惨な道を自ら選んだのです。

私たちはどうでしょうか。ヨハネは斧はすでに木の根元に置かれていると言いました。もはや待ったなしの状態 にあるということです。自分で自分を変えることができない私たち。もはやたくさん罪を犯してしまった私は手 遅れでしょうか。今ら悔い改めても自分の将来を大きく変えることはできないでしょうか。そうではありませ ん!ヨハネはメシヤによって罪が赦されるという福音を語りました。その赦しにあずかるための悔い改めのバプ テスマを説きました。今日、私たちはヨハネのバプテスマを受ける必要はありませんが、私たちにとって大切な ことは、同じように罪の赦しの祝福を仰ぎ見て悔い改めへと進むことです。単なるパフォーマンスとしてではな く、心から正直に自分の貧しさと罪を認め、悲しみ、御前に告白することです。そしてただ神のあわれみを請 い、今日においてはイエス様が命じられたキリスト教洗礼を受けることです。そのように悔い改める者を神は決 して軽しめ給わない。悔い改めをもって主の道を用意する者に対して、メシヤはその道をまっすぐに進んで来 て、私の上に大いなるみわざをなして下さる。私は主の聖霊の力と火によって罪を赦され、きよめて頂き、その 内的変化が良き実となって外に現れる生活、頂いた救いが外に現れて行く生活へと進めるのです。この福音を感 謝して、私たちは御前に悔い改め、主の恵みが自分の上に臨み、これからの歩みを導いて下さることを祈り求め たいと思います。