ルカの福音書 4:1-4
人はパンだけで生きるのでは
ない
イエス様がヨハネから洗礼を受けてまず最初に向かった所は、悪魔の試みを受けるための荒野でした。これは 私たちにとって不思議に思えることです。ヨハネの洗礼を通して、旧約聖書が指し示して来た救い主であること が公に示されたイエス様は、さっそく何か素晴らしいことをして華々しいデビューを飾ってくれることを私たち は期待するのではないでしょうか。ところがイエス様はまず人里離れた荒野へ向かわれました。そこで悪魔の試み を受けられました。これは聖霊に導かれたこと、つまり神様のご計画のもとでなされたことでした。なぜ聖霊は このように導いたのでしょうか。それはイエス様はこのためにこそ、地上に来られたからです。神は創世記3章 15節で原始福音と呼ばれる約束を下さいました。「わたしは、お前と女との間に、また、おまえの子孫と女の 子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」 ここで 「女の子孫」と呼ばれるメシヤがやがて現れて、ヘビすなわちサタンと戦うと言われています。そして、その者は サタンにかかとを噛みつかれて大変な傷を負うが、その者はサタンの頭を踏み砕き、滅ぼすと言われていました。 この約束に従ってついに現れた女の子孫がキリストです。従ってキリストはこの真の敵との戦いへまず真っすぐ 向かわれたのです。
では、イエス様はどのように悪魔と戦われるのでしょうか。前回、3章後半で系図を見ましたが、最初の人間ア ダムは罪を犯して、その後の人間はみな罪の下に入ってしまいました。そこから人間を救い出す救い主は、まず 人として完全に正しい生活をする人でなくてはなりません。最初のアダムとは違う罪を犯さないアダムが必要で す。ですから今日の箇所を見る大切な視点は、イエス様は人として戦っているということです。悪魔が「あなた が神の子なら、云々」と問うているのに対し、イエス様は「人は、云々」と答えています。
2節を見るとイエス様は40日の間も悪魔の試みを受けられたようです。その間、イエス様は何も食べませんで した。そして一連の誘惑のクライマックスとして、これから見て行く3つの誘惑があったのです。今日はその一 つ目の誘惑についてです。3~4節:「そこで、悪魔はイエスに言った。『あなたが神の子なら、この石に、パ ンになれと言いつけなさい。』イエスは答えられた。『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある。」
まず、このイエス様の答えについて注目したいのは、イエス様は聖書を正しく引用していることです。エデンの 園で誘惑されたエバも、最初はみことばをもって戦おうとしました。しかし彼女は神様の言葉に本来なかったこ とを付け加えたり、そこにあったものを割り引いたりしました。表面的には御言葉を用いたのですが、一部をい い加減に改変した結果、滑り落ちてしまった。しかしイエス様は3つの誘惑いずれにおいても、御言葉を正しく 引用しています。ですから御言葉は何となく、適当に覚えているのでは不十分なのです。正しく心に刻まれたみ ことばこそ、私たちをあらゆる罪の誘惑から守ってくれる防波堤となるものなのです。
では、内容を見て行きたいと思います。この「人はパンだけで生きるのではない」という言葉は、しばしば次の ような意味で言われることがあります。すなわち人はパンだけで生きるのではなく、霊の糧である聖書の御言葉 によっても生きる存在である。だから肉体を支えるパンばかりでなく、霊の食物である聖書のみことばもよく摂 取しなくてはならない、と。しかしここはそういう意味ではありません。引用元の申命記8章2~3節:「あな たの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あ なたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためで あった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを 食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、とい うことを、あなたに分からせるためであった。」 ここに荒野の四十年は、「人はパンだけで生きるのではな い」という真理を教えるためのものであった、と言われています。パンは神が人間の通常の食事のために定めた ものです。ですからそれを否定はしていません。しかしこの御言葉が言っていることは、そのパンに私たち人間 の命がかかっているように勘違いしてはならない。私たちがより心を向けるべきは、「人は主の口から出るすべ てのもので生きる」という真理です。この「主の口から出るすべてのもので生きる」という意味は、「主の御心 によって人は生きる」ということです。神の意志は言葉によって現わされます。「光よ、あれ」と神が言われる と、光ができました。そのように神が「かくかくしかじかこのようにあれ!」と意志して下さることによって、 人は生きる。パンが人の命を支えているのではない。自分を生かして下さるのは神ご自身であることを見上げ、 その神にこそより頼まなければならない。
その学びが荒野におけるマナの生活によって与えられました。荒野では当然、普通の食事はできません。マナと いう言葉の意味を皆さんはご存じでしょうか。出エジプト記に書いてありますが、それは「一体これは何だろ う?」というものです。つまりそれは彼らが見たことも聞いたこともないもの、彼らの経験外のものでした。神 はそのように必要とあらば、「一体これは何?」と私たちが言わずにいられないような不思議なものをもって も、私たちを生かし、支えて下さる。だから目の前にパンがなくても、それが手に入らない荒野にあっても、私 たちの命を支え、時に従って必ず必要を満たして下さる神に目を上げ、信頼の歩みをして行くべきである、と いうことです。
まさにこのことが、イエス様が経験された一つ目の誘惑の中心的な事柄でした。悪魔はイエス様が40日間も断 食して困っているのだから、神の力でパンを作ってみたら?と提案しました。確かにイエス様は、それをしよう と思えばできます。しかしそうすることは、父なる神様の上からの守りと支えを否定することです。大切な視点 はイエス様はここで人としての歩みをしているということです。普通の人間は石をパンに変える力を持っていま せん。ですからここでお腹がすいたからと言って、イエス様が神の力を使ったら、人間として歩んでいることに なりません。それは反則行為です。それにメシヤは自分が困った時は、そのように神の力を都合よく自分のため に使う救い主なのか、ということになってしまいます。自分を助けるために、特別な力を利己的に使っている、 と。
神の力を持っているイエス様にとって、これは本当に大きな誘惑でした。私たちが思い巡らすべきは、イエス様 は私たちと同じ人間性、すなわち同じ肉体・同じ精神を持つ方であったということです。そういう人間が40日 40夜、断食した時の空腹を誰が想像できるでしょうか。2節に「空腹を覚えられた」とありますが、これは小 腹がすいたという程度のことではありません!想像を絶する空腹です。ほとんどの人が経験したことのないギリ ギリのレベルだったと思います。そういう状態で「石をパンに変えてみたら」とサタンに提案された時、イエス 様にとって目の前にあった丸い石が美味しいパンにダブって見えた、というのは現実の話だったでしょう。しか しイエス様は人として神への信頼に生きました。自身がこうして荒野で40日の断食の中にあることにも神の計 画がある。神は必ず自分の必要を満たして下さる。そのタイミングもきちんと計画していて下さる。それが自分 の願うタイミングと違うからと言って、神の子の力でパンを作り出したら、それは神を信じていないことです。 人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つのことばによる。イエス様はそうして神に目を 上げ、神に信頼する道を選び取ったのです。
私たちはどうでしょうか。私たちもこの時のイエス様のように、様々な困難の中を通らされます。そういう中で 私たちはしばしば焦ります。何とか自分を救い出さなくては、と駆り立てられます。最初は神に祈ります。そし てある程度は待ちます。しかしなかなか思う通りに行かないと苦しくなって来る。そういう中で私たちの心の深 いところに起こる誘惑は、もう神に頼ることはやめて、自分で道を切り開こうという方向への切り替えです。そ のためにあまり良いことではないと思いながら、少しのウソをつく。そうすれば自分を救い出せる。今より良い 待遇を受けられる。あるいは聖書が禁じていることを無視して、そこからはみ出す歩みに進んで行く。それは神 への信頼をわきに投げ捨て、目の前のパンやモノ、お金、あるいは人間関係、自分の知恵に悟り、信頼すること です。これこそ今日の箇所が扱っている問題でしょう。むしろ私たちが生きるべきは、神に真心から信頼する生 活です。イエス様は山上の説教で、空の鳥や野のユリを見なさい、と言われました。それらを御心に留め、養 い、美しく装って下さっている神は、ましてやご自分の子であるあなたがたに良くして下さらないわけがありま しょうか、と言われた。神はこの私を深く心に留め、きちんと最善のご計画を持っている。今の私にそれが見え なくても、確かに持っておられ、「一体これは何だろう」というような不思議な導きをもって、私を支え、養っ て下さる。その神にこそ信頼し、御前で正しい、御心にかなう道にのみ進み、神の時を待つ。それがこの時、イ エス様が取られた道であり、また私たちが歩むべき道なのです。
私たちにとっての慰めとチャレンジは、この悪魔の誘惑に人として見事打ち勝った人がここにいる、ということ です。アダムの罪以来、悪魔の支配下に置かれてきた人類史上、初めての人の勝利です。ここにすべての人に とって希望の光が差し込み始めました。この戦いはこれからもなお続きます。その最終的勝負は十字架上でなさ れます。その第一ラウンドがここに終わったのです。そしてこれから引き続くイエス様の勝利の生涯によって、 私たちの救いは勝ち取られて行きます。
このキリストに今や結ばれ、悪魔に打ち勝つことができる者として、私たちもまた悪魔に立ち向かい、悪魔と戦 うように召されています。サタンは様々な方法で誘惑をしかけて来ますが、その常套手段の一つは、私たちが置 かれている困難な状況を指し示すことです。あなたの今の状態では、神の御心などと言っている場合ではないの ではないか。あなたは神に見捨てられているから、そんな状態に放っておかれているのではないか。だからもう 神に信頼を置くのはやめて、自分で自分を救い出せ!神に従うと可能性はどんどん少なくなるなら、そんな制限 は取り払ってあなたがしたいと思う道に進んで行け!そのようにサタンは私たちの不安をあおり、私たちを浮き 足立たせ、軽率な歩みへ、そして滑り落ちる歩みへ導こうとするのです。しかしそこで私たちがイエス様に倣っ てしっかり掲げるべきは、この御言葉です。「人はパンだけで生きるのではない、と書いてある。」 私を守っ て下さるのは神様です。神が私を心にかけ、愛をもって養い導いて下さる。もしこの信仰に立つことができるな ら、何と幸いなことでしょうか。もはや自分で自分を守らなくて良い。勇み足を踏んで、御心に従っていないと いう後ろめたさや良心の呵責に悩まなくて良い。神が私を配慮し、ケアし、ご計画をもって必ず一番良い道へ導 いて下さる。だから私はこの神に信頼し、私を愛して下さる神から真の祝福を頂こう。この信仰の歩みへと、神 はキリストにあって私たちをも招いておられるのです。
イエス様がヨハネから洗礼を受けてまず最初に向かった所は、悪魔の試みを受けるための荒野でした。これは 私たちにとって不思議に思えることです。ヨハネの洗礼を通して、旧約聖書が指し示して来た救い主であること が公に示されたイエス様は、さっそく何か素晴らしいことをして華々しいデビューを飾ってくれることを私たち は期待するのではないでしょうか。ところがイエス様はまず人里離れた荒野へ向かわれました。そこで悪魔の試み を受けられました。これは聖霊に導かれたこと、つまり神様のご計画のもとでなされたことでした。なぜ聖霊は このように導いたのでしょうか。それはイエス様はこのためにこそ、地上に来られたからです。神は創世記3章 15節で原始福音と呼ばれる約束を下さいました。「わたしは、お前と女との間に、また、おまえの子孫と女の 子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」 ここで 「女の子孫」と呼ばれるメシヤがやがて現れて、ヘビすなわちサタンと戦うと言われています。そして、その者は サタンにかかとを噛みつかれて大変な傷を負うが、その者はサタンの頭を踏み砕き、滅ぼすと言われていました。 この約束に従ってついに現れた女の子孫がキリストです。従ってキリストはこの真の敵との戦いへまず真っすぐ 向かわれたのです。
では、イエス様はどのように悪魔と戦われるのでしょうか。前回、3章後半で系図を見ましたが、最初の人間ア ダムは罪を犯して、その後の人間はみな罪の下に入ってしまいました。そこから人間を救い出す救い主は、まず 人として完全に正しい生活をする人でなくてはなりません。最初のアダムとは違う罪を犯さないアダムが必要で す。ですから今日の箇所を見る大切な視点は、イエス様は人として戦っているということです。悪魔が「あなた が神の子なら、云々」と問うているのに対し、イエス様は「人は、云々」と答えています。
2節を見るとイエス様は40日の間も悪魔の試みを受けられたようです。その間、イエス様は何も食べませんで した。そして一連の誘惑のクライマックスとして、これから見て行く3つの誘惑があったのです。今日はその一 つ目の誘惑についてです。3~4節:「そこで、悪魔はイエスに言った。『あなたが神の子なら、この石に、パ ンになれと言いつけなさい。』イエスは答えられた。『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある。」
まず、このイエス様の答えについて注目したいのは、イエス様は聖書を正しく引用していることです。エデンの 園で誘惑されたエバも、最初はみことばをもって戦おうとしました。しかし彼女は神様の言葉に本来なかったこ とを付け加えたり、そこにあったものを割り引いたりしました。表面的には御言葉を用いたのですが、一部をい い加減に改変した結果、滑り落ちてしまった。しかしイエス様は3つの誘惑いずれにおいても、御言葉を正しく 引用しています。ですから御言葉は何となく、適当に覚えているのでは不十分なのです。正しく心に刻まれたみ ことばこそ、私たちをあらゆる罪の誘惑から守ってくれる防波堤となるものなのです。
では、内容を見て行きたいと思います。この「人はパンだけで生きるのではない」という言葉は、しばしば次の ような意味で言われることがあります。すなわち人はパンだけで生きるのではなく、霊の糧である聖書の御言葉 によっても生きる存在である。だから肉体を支えるパンばかりでなく、霊の食物である聖書のみことばもよく摂 取しなくてはならない、と。しかしここはそういう意味ではありません。引用元の申命記8章2~3節:「あな たの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あ なたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためで あった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを 食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、とい うことを、あなたに分からせるためであった。」 ここに荒野の四十年は、「人はパンだけで生きるのではな い」という真理を教えるためのものであった、と言われています。パンは神が人間の通常の食事のために定めた ものです。ですからそれを否定はしていません。しかしこの御言葉が言っていることは、そのパンに私たち人間 の命がかかっているように勘違いしてはならない。私たちがより心を向けるべきは、「人は主の口から出るすべ てのもので生きる」という真理です。この「主の口から出るすべてのもので生きる」という意味は、「主の御心 によって人は生きる」ということです。神の意志は言葉によって現わされます。「光よ、あれ」と神が言われる と、光ができました。そのように神が「かくかくしかじかこのようにあれ!」と意志して下さることによって、 人は生きる。パンが人の命を支えているのではない。自分を生かして下さるのは神ご自身であることを見上げ、 その神にこそより頼まなければならない。
その学びが荒野におけるマナの生活によって与えられました。荒野では当然、普通の食事はできません。マナと いう言葉の意味を皆さんはご存じでしょうか。出エジプト記に書いてありますが、それは「一体これは何だろ う?」というものです。つまりそれは彼らが見たことも聞いたこともないもの、彼らの経験外のものでした。神 はそのように必要とあらば、「一体これは何?」と私たちが言わずにいられないような不思議なものをもって も、私たちを生かし、支えて下さる。だから目の前にパンがなくても、それが手に入らない荒野にあっても、私 たちの命を支え、時に従って必ず必要を満たして下さる神に目を上げ、信頼の歩みをして行くべきである、と いうことです。
まさにこのことが、イエス様が経験された一つ目の誘惑の中心的な事柄でした。悪魔はイエス様が40日間も断 食して困っているのだから、神の力でパンを作ってみたら?と提案しました。確かにイエス様は、それをしよう と思えばできます。しかしそうすることは、父なる神様の上からの守りと支えを否定することです。大切な視点 はイエス様はここで人としての歩みをしているということです。普通の人間は石をパンに変える力を持っていま せん。ですからここでお腹がすいたからと言って、イエス様が神の力を使ったら、人間として歩んでいることに なりません。それは反則行為です。それにメシヤは自分が困った時は、そのように神の力を都合よく自分のため に使う救い主なのか、ということになってしまいます。自分を助けるために、特別な力を利己的に使っている、 と。
神の力を持っているイエス様にとって、これは本当に大きな誘惑でした。私たちが思い巡らすべきは、イエス様 は私たちと同じ人間性、すなわち同じ肉体・同じ精神を持つ方であったということです。そういう人間が40日 40夜、断食した時の空腹を誰が想像できるでしょうか。2節に「空腹を覚えられた」とありますが、これは小 腹がすいたという程度のことではありません!想像を絶する空腹です。ほとんどの人が経験したことのないギリ ギリのレベルだったと思います。そういう状態で「石をパンに変えてみたら」とサタンに提案された時、イエス 様にとって目の前にあった丸い石が美味しいパンにダブって見えた、というのは現実の話だったでしょう。しか しイエス様は人として神への信頼に生きました。自身がこうして荒野で40日の断食の中にあることにも神の計 画がある。神は必ず自分の必要を満たして下さる。そのタイミングもきちんと計画していて下さる。それが自分 の願うタイミングと違うからと言って、神の子の力でパンを作り出したら、それは神を信じていないことです。 人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つのことばによる。イエス様はそうして神に目を 上げ、神に信頼する道を選び取ったのです。
私たちはどうでしょうか。私たちもこの時のイエス様のように、様々な困難の中を通らされます。そういう中で 私たちはしばしば焦ります。何とか自分を救い出さなくては、と駆り立てられます。最初は神に祈ります。そし てある程度は待ちます。しかしなかなか思う通りに行かないと苦しくなって来る。そういう中で私たちの心の深 いところに起こる誘惑は、もう神に頼ることはやめて、自分で道を切り開こうという方向への切り替えです。そ のためにあまり良いことではないと思いながら、少しのウソをつく。そうすれば自分を救い出せる。今より良い 待遇を受けられる。あるいは聖書が禁じていることを無視して、そこからはみ出す歩みに進んで行く。それは神 への信頼をわきに投げ捨て、目の前のパンやモノ、お金、あるいは人間関係、自分の知恵に悟り、信頼すること です。これこそ今日の箇所が扱っている問題でしょう。むしろ私たちが生きるべきは、神に真心から信頼する生 活です。イエス様は山上の説教で、空の鳥や野のユリを見なさい、と言われました。それらを御心に留め、養 い、美しく装って下さっている神は、ましてやご自分の子であるあなたがたに良くして下さらないわけがありま しょうか、と言われた。神はこの私を深く心に留め、きちんと最善のご計画を持っている。今の私にそれが見え なくても、確かに持っておられ、「一体これは何だろう」というような不思議な導きをもって、私を支え、養っ て下さる。その神にこそ信頼し、御前で正しい、御心にかなう道にのみ進み、神の時を待つ。それがこの時、イ エス様が取られた道であり、また私たちが歩むべき道なのです。
私たちにとっての慰めとチャレンジは、この悪魔の誘惑に人として見事打ち勝った人がここにいる、ということ です。アダムの罪以来、悪魔の支配下に置かれてきた人類史上、初めての人の勝利です。ここにすべての人に とって希望の光が差し込み始めました。この戦いはこれからもなお続きます。その最終的勝負は十字架上でなさ れます。その第一ラウンドがここに終わったのです。そしてこれから引き続くイエス様の勝利の生涯によって、 私たちの救いは勝ち取られて行きます。
このキリストに今や結ばれ、悪魔に打ち勝つことができる者として、私たちもまた悪魔に立ち向かい、悪魔と戦 うように召されています。サタンは様々な方法で誘惑をしかけて来ますが、その常套手段の一つは、私たちが置 かれている困難な状況を指し示すことです。あなたの今の状態では、神の御心などと言っている場合ではないの ではないか。あなたは神に見捨てられているから、そんな状態に放っておかれているのではないか。だからもう 神に信頼を置くのはやめて、自分で自分を救い出せ!神に従うと可能性はどんどん少なくなるなら、そんな制限 は取り払ってあなたがしたいと思う道に進んで行け!そのようにサタンは私たちの不安をあおり、私たちを浮き 足立たせ、軽率な歩みへ、そして滑り落ちる歩みへ導こうとするのです。しかしそこで私たちがイエス様に倣っ てしっかり掲げるべきは、この御言葉です。「人はパンだけで生きるのではない、と書いてある。」 私を守っ て下さるのは神様です。神が私を心にかけ、愛をもって養い導いて下さる。もしこの信仰に立つことができるな ら、何と幸いなことでしょうか。もはや自分で自分を守らなくて良い。勇み足を踏んで、御心に従っていないと いう後ろめたさや良心の呵責に悩まなくて良い。神が私を配慮し、ケアし、ご計画をもって必ず一番良い道へ導 いて下さる。だから私はこの神に信頼し、私を愛して下さる神から真の祝福を頂こう。この信仰の歩みへと、神 はキリストにあって私たちをも招いておられるのです。