ルカの福音書 4:5-8
主にだけ仕えなさい
荒野における悪魔の誘惑の二つ目です。2節にイエス様は「40日間、悪魔の試みに会われた」とありますが、その 誘惑のクライマックスとして三つの誘惑がありました。一つ目の誘惑については、イエス様は見事勝利しました。 しかし、悪魔は引き下がりません。次にサタンはイエス様を連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、 こう言いました。6~7節:「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に 任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてを あなたのものとしましょう。」
まずここで問うべきは悪魔が言っていることは本当か、ということです。確かに聖書は悪魔がこの世界の上に、 ある支配権を持っていると語っています。最初の人間アダムとエバがサタンの言葉に聞き従い、その支配下に 入って以来、そのようになりました。聖書の中で「この世の支配する者」(ヨハネ12:31)、「この世の 神」(2コリント4:4)、「世全体は悪い者の支配下にある」(1ヨハネ5:10)と言われています。その 一方、ヨブやペテロが悪魔に試みられた時、悪魔は神からの許可を得てそのことをした、と聖書に書かれていま す。ですからサタンが究極的な意味で支配権を持っているのではない。サタンが「いっさいの権力と栄光は私に 任されている」と言っているのは、全くのウソではないが、全くの本当でもない、半分の真理であるということ が分かります。
さて、今回のサタンの誘惑の本質は何でしょうか。彼は「もしあなたが私を拝むなら、すべてをあげましょ う。」と言っています。ここにあるメッセージは、今すぐ栄光を手に入れよ!というものです。イエス様は確か にご自分が王となって治める御国を勝ち取るために地上の歩みをしています。そんなイエス様にサタンは、あな たが望んでいる栄光の支配と国々をあげるよ!と言っています。これは一言で言えば、苦難を経ずして栄光を手 に入れよ!という誘惑です。これから長い時間をかけて、父なる神の御心に服従して栄光にたどり着くという遠 回りの道ではなく、今すぐに栄光を手にできるこっちの道を進んで来なさい、という招きです。
悪魔はエデンの園でも最初の人間を同じように誘惑しました。人間は神のかたちに造られましたが、最初から完 全に造られたのではなく、神に信頼し、従う生活を通して、最終的な栄光に達するようにという道のりの最初に 置かれました。しかしサタンはアダムとエバに木の実を食べて、すぐに神になるというショートカットの道を提 案した。何も神が定めた時間がかかる面倒な道を行かなくても、これを食べれば瞬時に神になれる!一気に栄光 に達する!だから食べなさい!とけしかけた。しかし結果はどうだったでしょう。アダムとエバは、善悪の知識 の木の実を食べた結果、神のように素晴らしく変わった自分たちを発見したどころか、反対にあまりにも惨めな 状態に堕ちた自分たちを発見しました。その自分たちの姿に愕然として、急いでいちじくの葉っぱで腰の覆いを 作り、恥ずかしい自分たちを覆い隠そうとした。それと同じ誘惑をサタンは新しいアダム、第二のアダムである イエス様に仕掛けたのです。
イエス様はどう対処されたでしょうか。イエス様は今回もみことばを引用されました。引用したのは申命記6章 13節です。申命記6章10~14節:「あなたの神、主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓 われた地にあなたを導き入れ、あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、あなたが満たさなかった、 すべての良い物が満ちた家々、あなたが掘らなかった掘り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑、 これらをあなたに与え、あなたが食べて、満ち足りるとき、あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷 の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい。あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなけれ ばならない。御名によって誓わなければならない。ほかの神々、あなたがたの周りにいる国々の民の神に従って はならない。」 これはこれから約束の地に入ろうとするイスラエルに向かって語られた主の言葉です。彼らは 乳と蜜の流れる地カナンに入ると、それまでは経験しなかったようなたくさんの祝福に囲まれます。一気にこの 世の栄華、栄光を見せられるような日々となります。しかしそこで主を忘れてはならない。主を恐れ、主に仕え ることを第一としなければならない。周りの国々の神に従ってはならない。イエス様はまさにそのことをここで 告白しました。どんなに素晴らしい、目を見張るような栄光が目の前にぶら下げられても、主に仕えることが後 回しになってはならない。主を拝み、主にだけ仕えるということが、何よりも優先されなければならない。だか らわたしはサタンの祝福におびき寄せられて、彼の前にひれ伏すようなことはしない!と言ったのです。
しかし、イエス様にとってこれは決して簡単な誘惑でなかったことを私たちは十分に良く考えるべきだと思いま す。なぜならこのサタンの誘惑を退けることはイコール十字架の道を進むということに他ならないからです。イ エス様の前にあるのは全身全霊を注ぎこまなければ通り抜けて行けないような苦難の道です。現にここでも40 日40夜断食をして、私たちの想像を絶する空腹の中にありました。また13節に「悪魔はしばらく間イエスか ら離れた」とありますが、その言葉の通り、イエス様はこれからも悪魔から様々な誘惑を受ける中を歩んで行か れます。そしてルカ12章50節でイエス様はこう言われます。「わたしには受けるバプテスマがあります。そ れが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。」 また十字架前夜、ゲッセマネの園では「父よ、 どうかこの杯を、できることなら取りのけてください。」と祈られ、汗が血のしずくのように落ちるほどの戦い をされました。そして十字架上では「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」とその 深さを誰も測り知ることができない、イエス様が払われた大きさが犠牲が示されている叫びが発されます。イエ ス様にとって、この道は言うまでもなく、本当に苦しい道、逃げ出したくなるような道でした。そんなイエス様 に対してなされた「こっちに来れば栄光がすぐ手に入るよ!しかも何の苦しみもなしで!」というサタンの誘惑 は決して小さなものではなかったのです。
イエス様はどのようにしてこの正しい御心の道を選ぶことができたのでしょうか。それは祝福は神からこそ来る のであり、それは「主にだけ仕える」歩みを通して与えられることをしっかり見つめることによってでしょう。 ヘブル書12章2節:「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご 自分の前に置かれた喜びのゆえに、辱しめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」 ここにイエス様が十字架の辱めをものともせずに進んで行かれたのは、「ご自分の前に置かれた喜びのゆえ に」とあります。父なる神の計画に従う先には、とてつもなく素晴らしい祝福が備えられている。そこまで行け ば、神が救わんとした民をみな救い出すことができる。そして神の義が支配し、神の栄光がほめたたえられる永 遠の御国を打ち立てることができる。確かにサタンが差し出す権力と栄光も魅力的なものであったに違いありま せんが、十字架の向こうに神が用意していて下さる喜びに比べれば、それは安っぽいものでしかない。イエス様 はこの苦難の向こうにある喜びを見つめて、そこから目を離さなかったので、サタンの栄光を退け、十字架の道 をものともせずに選び取って行かれたのです。そしてついにその祝福を勝ち取って下さったのです。
前回から見ていますように、この荒野の誘惑の重要なメッセージは、このようにして初めて悪魔に打ち勝つ人が 現れた!ということです。人類史上初めて悪魔と戦い、悪魔に勝利する人が現れた。神がそのような方を送って 下さった。そしてこのきよい方がやがて私たちの代わりに十字架上で死んで下さることによって、この方に信頼 するすべての人は、サタンと罪の支配から贖い出されることができるのです。そして今やこの勝利の主に結ばれ ている者として、私たちもサタンと戦い、サタンに打ち勝つ歩みに召されています。聖書の様々な御言葉から分 かることは、信じて救いを頂いた私たちもイエス様の後に従って歩むということです。イエス様は「わたしにつ いて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしについて来なさい。」と言われまし た。また「狭い門から入りなさい。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれです。」と 言われました。私たちがイエス様を信じて歩く道は、しばしばでこぼこの道であり、歩きにくい道です。神を信 じたらバラ色の世界になるかと思うのですが、そうはうまく事は運ばない。そういう中で意気消沈していると、 サタンがやって来て「この栄光の道はどうかね」と言って私たちを誘うのです。あなたの今の道をそのまま進ん でも埒が明かないのではないか。苦難ばかりしかなく、それで終わってしまうのではなかろうか。それよりもこ こにあるせっかくのチャンスを自分のものとしたらどうだろうか。そのためには少々聖書の原則に目をつぶって も仕方がない。そんなにお堅く考える必要はない。人間に完全はあり得ないのだから、多少の妥協はやむを得な いとすべし。それよりもこの祝福に進んで来なさい!とサタンは招く。
しかし、私たちはそのような時、イエス様の模範に倣うべきでしょう。すなわち従う歩みの先に用意されている 栄光を喜び見つめるということです。聖書は至るところで、「苦難とそれに続く栄光」という順番があると言っ ています。そして向こう側にある栄光を喜ぶがゆえに手前にある苦難さえも喜ぶと言っています。たとえばロー マ5章2~3節でパウロは「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れ られた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」と言い、「そればかりではなく、患難さえも喜んで います。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、云々」と言っています。また8章 17節では「私たちがキリストと、栄光を受けるために苦難をともにしているなら」と述べ、続く18節では 「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りない」と 言っています。またヤコブも1章2節で「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜 びと思いなさい。」と言いました。ですからこの「苦難」をバイパスするような栄光への誘いは本物ではないの です。むしろ私たちが信仰によって歩みながら、今、困難の中にあるなら、それはやがての栄光に通じる道とし て、そこに置かれている。栄光に至る道には困難、重荷を負うこと、楽でない生き方があるのです。そういう中 で私たちはしびれを切らして、サタンがぶら下げる罠に引っ掛かってはならない。安っぽい栄光に手を出しては ならないのです。
私たちがしっかり見上げるべきは、神に信頼する道を行く者に神は確かに栄光を備えているということです。先 にこの道を進まれたイエス様がすでにサタンに勝利されたがゆえに、苦難を経て栄光に至るというこの道を邪魔 できる者は一人もいない。ですから私たちは心を騒がせてはなりません。慌てる必要はありません。サタンの誘 いに飛びついてはなりません。あらゆる誘惑の中で、私たちが告白すべき御言葉はこれです。「『あなたの神で ある主を拝み、主にだけ仕えなさい』と書いてある。」 ここに立つ時、先にこの道を進まれたイエス様の後に 従って、私たちも確実に栄光へ至る神の祝福の道を歩んで行くことができるのです。
荒野における悪魔の誘惑の二つ目です。2節にイエス様は「40日間、悪魔の試みに会われた」とありますが、その 誘惑のクライマックスとして三つの誘惑がありました。一つ目の誘惑については、イエス様は見事勝利しました。 しかし、悪魔は引き下がりません。次にサタンはイエス様を連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、 こう言いました。6~7節:「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に 任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてを あなたのものとしましょう。」
まずここで問うべきは悪魔が言っていることは本当か、ということです。確かに聖書は悪魔がこの世界の上に、 ある支配権を持っていると語っています。最初の人間アダムとエバがサタンの言葉に聞き従い、その支配下に 入って以来、そのようになりました。聖書の中で「この世の支配する者」(ヨハネ12:31)、「この世の 神」(2コリント4:4)、「世全体は悪い者の支配下にある」(1ヨハネ5:10)と言われています。その 一方、ヨブやペテロが悪魔に試みられた時、悪魔は神からの許可を得てそのことをした、と聖書に書かれていま す。ですからサタンが究極的な意味で支配権を持っているのではない。サタンが「いっさいの権力と栄光は私に 任されている」と言っているのは、全くのウソではないが、全くの本当でもない、半分の真理であるということ が分かります。
さて、今回のサタンの誘惑の本質は何でしょうか。彼は「もしあなたが私を拝むなら、すべてをあげましょ う。」と言っています。ここにあるメッセージは、今すぐ栄光を手に入れよ!というものです。イエス様は確か にご自分が王となって治める御国を勝ち取るために地上の歩みをしています。そんなイエス様にサタンは、あな たが望んでいる栄光の支配と国々をあげるよ!と言っています。これは一言で言えば、苦難を経ずして栄光を手 に入れよ!という誘惑です。これから長い時間をかけて、父なる神の御心に服従して栄光にたどり着くという遠 回りの道ではなく、今すぐに栄光を手にできるこっちの道を進んで来なさい、という招きです。
悪魔はエデンの園でも最初の人間を同じように誘惑しました。人間は神のかたちに造られましたが、最初から完 全に造られたのではなく、神に信頼し、従う生活を通して、最終的な栄光に達するようにという道のりの最初に 置かれました。しかしサタンはアダムとエバに木の実を食べて、すぐに神になるというショートカットの道を提 案した。何も神が定めた時間がかかる面倒な道を行かなくても、これを食べれば瞬時に神になれる!一気に栄光 に達する!だから食べなさい!とけしかけた。しかし結果はどうだったでしょう。アダムとエバは、善悪の知識 の木の実を食べた結果、神のように素晴らしく変わった自分たちを発見したどころか、反対にあまりにも惨めな 状態に堕ちた自分たちを発見しました。その自分たちの姿に愕然として、急いでいちじくの葉っぱで腰の覆いを 作り、恥ずかしい自分たちを覆い隠そうとした。それと同じ誘惑をサタンは新しいアダム、第二のアダムである イエス様に仕掛けたのです。
イエス様はどう対処されたでしょうか。イエス様は今回もみことばを引用されました。引用したのは申命記6章 13節です。申命記6章10~14節:「あなたの神、主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓 われた地にあなたを導き入れ、あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、あなたが満たさなかった、 すべての良い物が満ちた家々、あなたが掘らなかった掘り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑、 これらをあなたに与え、あなたが食べて、満ち足りるとき、あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷 の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい。あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなけれ ばならない。御名によって誓わなければならない。ほかの神々、あなたがたの周りにいる国々の民の神に従って はならない。」 これはこれから約束の地に入ろうとするイスラエルに向かって語られた主の言葉です。彼らは 乳と蜜の流れる地カナンに入ると、それまでは経験しなかったようなたくさんの祝福に囲まれます。一気にこの 世の栄華、栄光を見せられるような日々となります。しかしそこで主を忘れてはならない。主を恐れ、主に仕え ることを第一としなければならない。周りの国々の神に従ってはならない。イエス様はまさにそのことをここで 告白しました。どんなに素晴らしい、目を見張るような栄光が目の前にぶら下げられても、主に仕えることが後 回しになってはならない。主を拝み、主にだけ仕えるということが、何よりも優先されなければならない。だか らわたしはサタンの祝福におびき寄せられて、彼の前にひれ伏すようなことはしない!と言ったのです。
しかし、イエス様にとってこれは決して簡単な誘惑でなかったことを私たちは十分に良く考えるべきだと思いま す。なぜならこのサタンの誘惑を退けることはイコール十字架の道を進むということに他ならないからです。イ エス様の前にあるのは全身全霊を注ぎこまなければ通り抜けて行けないような苦難の道です。現にここでも40 日40夜断食をして、私たちの想像を絶する空腹の中にありました。また13節に「悪魔はしばらく間イエスか ら離れた」とありますが、その言葉の通り、イエス様はこれからも悪魔から様々な誘惑を受ける中を歩んで行か れます。そしてルカ12章50節でイエス様はこう言われます。「わたしには受けるバプテスマがあります。そ れが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。」 また十字架前夜、ゲッセマネの園では「父よ、 どうかこの杯を、できることなら取りのけてください。」と祈られ、汗が血のしずくのように落ちるほどの戦い をされました。そして十字架上では「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」とその 深さを誰も測り知ることができない、イエス様が払われた大きさが犠牲が示されている叫びが発されます。イエ ス様にとって、この道は言うまでもなく、本当に苦しい道、逃げ出したくなるような道でした。そんなイエス様 に対してなされた「こっちに来れば栄光がすぐ手に入るよ!しかも何の苦しみもなしで!」というサタンの誘惑 は決して小さなものではなかったのです。
イエス様はどのようにしてこの正しい御心の道を選ぶことができたのでしょうか。それは祝福は神からこそ来る のであり、それは「主にだけ仕える」歩みを通して与えられることをしっかり見つめることによってでしょう。 ヘブル書12章2節:「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご 自分の前に置かれた喜びのゆえに、辱しめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」 ここにイエス様が十字架の辱めをものともせずに進んで行かれたのは、「ご自分の前に置かれた喜びのゆえ に」とあります。父なる神の計画に従う先には、とてつもなく素晴らしい祝福が備えられている。そこまで行け ば、神が救わんとした民をみな救い出すことができる。そして神の義が支配し、神の栄光がほめたたえられる永 遠の御国を打ち立てることができる。確かにサタンが差し出す権力と栄光も魅力的なものであったに違いありま せんが、十字架の向こうに神が用意していて下さる喜びに比べれば、それは安っぽいものでしかない。イエス様 はこの苦難の向こうにある喜びを見つめて、そこから目を離さなかったので、サタンの栄光を退け、十字架の道 をものともせずに選び取って行かれたのです。そしてついにその祝福を勝ち取って下さったのです。
前回から見ていますように、この荒野の誘惑の重要なメッセージは、このようにして初めて悪魔に打ち勝つ人が 現れた!ということです。人類史上初めて悪魔と戦い、悪魔に勝利する人が現れた。神がそのような方を送って 下さった。そしてこのきよい方がやがて私たちの代わりに十字架上で死んで下さることによって、この方に信頼 するすべての人は、サタンと罪の支配から贖い出されることができるのです。そして今やこの勝利の主に結ばれ ている者として、私たちもサタンと戦い、サタンに打ち勝つ歩みに召されています。聖書の様々な御言葉から分 かることは、信じて救いを頂いた私たちもイエス様の後に従って歩むということです。イエス様は「わたしにつ いて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしについて来なさい。」と言われまし た。また「狭い門から入りなさい。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれです。」と 言われました。私たちがイエス様を信じて歩く道は、しばしばでこぼこの道であり、歩きにくい道です。神を信 じたらバラ色の世界になるかと思うのですが、そうはうまく事は運ばない。そういう中で意気消沈していると、 サタンがやって来て「この栄光の道はどうかね」と言って私たちを誘うのです。あなたの今の道をそのまま進ん でも埒が明かないのではないか。苦難ばかりしかなく、それで終わってしまうのではなかろうか。それよりもこ こにあるせっかくのチャンスを自分のものとしたらどうだろうか。そのためには少々聖書の原則に目をつぶって も仕方がない。そんなにお堅く考える必要はない。人間に完全はあり得ないのだから、多少の妥協はやむを得な いとすべし。それよりもこの祝福に進んで来なさい!とサタンは招く。
しかし、私たちはそのような時、イエス様の模範に倣うべきでしょう。すなわち従う歩みの先に用意されている 栄光を喜び見つめるということです。聖書は至るところで、「苦難とそれに続く栄光」という順番があると言っ ています。そして向こう側にある栄光を喜ぶがゆえに手前にある苦難さえも喜ぶと言っています。たとえばロー マ5章2~3節でパウロは「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れ られた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」と言い、「そればかりではなく、患難さえも喜んで います。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、云々」と言っています。また8章 17節では「私たちがキリストと、栄光を受けるために苦難をともにしているなら」と述べ、続く18節では 「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りない」と 言っています。またヤコブも1章2節で「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜 びと思いなさい。」と言いました。ですからこの「苦難」をバイパスするような栄光への誘いは本物ではないの です。むしろ私たちが信仰によって歩みながら、今、困難の中にあるなら、それはやがての栄光に通じる道とし て、そこに置かれている。栄光に至る道には困難、重荷を負うこと、楽でない生き方があるのです。そういう中 で私たちはしびれを切らして、サタンがぶら下げる罠に引っ掛かってはならない。安っぽい栄光に手を出しては ならないのです。
私たちがしっかり見上げるべきは、神に信頼する道を行く者に神は確かに栄光を備えているということです。先 にこの道を進まれたイエス様がすでにサタンに勝利されたがゆえに、苦難を経て栄光に至るというこの道を邪魔 できる者は一人もいない。ですから私たちは心を騒がせてはなりません。慌てる必要はありません。サタンの誘 いに飛びついてはなりません。あらゆる誘惑の中で、私たちが告白すべき御言葉はこれです。「『あなたの神で ある主を拝み、主にだけ仕えなさい』と書いてある。」 ここに立つ時、先にこの道を進まれたイエス様の後に 従って、私たちも確実に栄光へ至る神の祝福の道を歩んで行くことができるのです。