ルカの福音書 4:14-30

主の恵みの年
14節に「イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。」とあります。イエス様と御霊なる神との関係について、 直前に二つの記事がありました。一つはイエス様の洗礼の記事です。ヨハネから洗礼を受けた時、イエス様の上に 聖霊が鳩のような形をして下りました。もう一つは荒野における悪魔の誘惑の記事です。イエス様は御霊に導かれ て荒野へ行かれました。そこであらゆる誘惑を受けながらも、イエス様は人として一つも罪を犯さず、これから 救い主の働きをして行くにふさわしい資格ある人であることを証明されました。このようにして大事なテストを パスしたイエス様は、いよいよ御霊の力を帯びてガリラヤに帰って来られたのです。その評判は周り一帯にくま なく広まり、イエス様は会堂で教えて、「みなの人にあがめられた」と15節に記されています。

それから、イエス様はご自分が育った町ナザレに行かれました。すでにイエス様の評判は相当この町にも伝わっ ていたでしょうから、安息日に会堂に行った時、会堂管理者がイエス様に説教を依頼したのも当然の成り行きで した。イエス様は手渡された預言者イザヤの書の中から次の聖句を選んで朗読されました。18~19節:「わ たしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだか ら。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげら れている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」 これはやがて現れるメシヤの時代の祝福に ついて述べている御言葉です。主の御霊がその上にとどまるメシヤが現れると、その方は貧しい人々に福音を伝 えて下さる。この貧しい人々の具体的な例が18節後半に「捕らわれ人」「盲人」「しいたげられている人々」 とあげられています。最初の「捕らわれ人」とは、戦争で捕虜になった人や、身を売って奴隷になった人などを 指します。そのような人々が恩赦を受け、解放される。またそれまで目が見えなかった人が見えるようになる。 またしいたげられ、抑圧されていた弱い立場にある人たちが自由にされる。これらは文字通り以上の意味を含ん でいます。一つ目の「捕らわれ人」に関して言えば、人間は罪を犯してサタンの言葉に従い、サタンの力の下に ある者となりました。「この世はサタンの支配下にある」と聖書が語っている通りです。また自分の罪の奴隷に なっています。私は誰の奴隷にもなっていない、自分の好きなような自由に生きていると思っても、一日を振り 返って自分がしたくないと思っている悪を行なっているなら、その人は罪の奴隷となっているということに他な りません。また罪に堕ちた人間は、たとえ肉の目は開いていても、霊的な目が開かれていない状態にあります。 大事なことを見分けられず、誤った道をどんどん進んでしまいます。祝福は、すべての良きものの源なる神様に しかないのに、その神様を認められないため、全くそれとは反対の祝福から遠ざかる道にのみ進んで行きやす い。また罪に堕ちた結果、人は様々な苦しみや悩みの下でしいたげられています。自分の力ではどうすることも できない環境、力、人間関係の下で圧迫され、苦しみあえいでいます。このようなものすべてからメシヤは私た ちを解放し、自由にして下さる。19節に「主の恵みの年を告げ知らせるために。」とあります。これは旧約聖 書にある「ヨベルの年」を思い起こさせるものです。レビ記25章に記されていますが、7年に一度の安息年を 7回経た後の50年目は「ヨベルの年」とされ、すべての負債は赦され、奴隷は解放されました。これは貧しさ にあえぐ人々にとっては、どんなに大きな喜びと自由を与えてくれるものだったでしょう。そのようなすべての 束縛や苦しみからの自由と解放の祝福を、やがて来るメシヤはもたらして下さる。

このような箇所を朗読した後、イエス様は何と説教されたでしょうか。皆が固唾を飲んで見守ったところ、その 口から出て来た第一声はとても驚くべき言葉でした。21節:「イエスは人々にこう言って話し始められた。 『きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおりに実現しました。』」 イエス様はここで、イザ ヤ書が約束して来た救いの時代はついに今日、到来した!と宣言しました。しかしそれ以上に驚くべきことは、 その約束の祝福はご自分において今ここに実現した!と語ったことです。一言で言えば、旧約聖書が指し示して 来たメシヤはわたしのことである!とイエス様は宣言された。イエス様がそのような方であることは、続く説教 の言葉にも実証されました。22節に「みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。」とあ ります。15節でガリラヤの会堂で教えた時も、イエス様は「みなの人にあがめられた」とありました。この後 の32節でもそうです。「人々は、その教えに驚いた。そのことばに権威があったからである。」

さて、ナザレの人々はこのイエス様の言葉にどう応答したでしょうか。彼らは最初はイエス様の口から出て来る 恵みの言葉に驚きましたが、その後、急速にイエス様を受け入れない方向に傾き始めます。彼らは互いに言い始 めました。「この人はヨセフの子ではないか!」と。「このイエスは、我々が良く知っているあのヨセフの子ど もではないか。彼は我々とどこも変わらないごくごく普通の家出身の者ではないか!」 もしエルサレムの名門 校で学んだ学者や博士だったら、彼らはそうは言わなかったでしょう。しかし自分たちと同じ環境で育って来た 彼、その家族も良く知っている彼、そしてこの見栄えもしない、特別な教育を受けたわけでもない彼が、自分た ちが待ち望み、期待したメシヤであるとは到底考えられない!一方では今、イエス様の言葉に接して驚き、戸惑 い、神の恵みを生き生きと感じ始めた心が彼らの内にありながらも、いやあのヨセフの子が我々の救い主である はずがない、我々のメシヤはそんな方ではない、という方向に態度を固めて行ったのです。

そんな彼らの心の中の思いが23節のイエス様の言葉に示されています。23節:「イエスは言われた。『きっ とあなたがたは<医者よ。自分を直せ>というたとえを引いて、カペナウムで行われたと聞いていることを、あ なたの郷里のここでもしてくれ、というでしょう。』」 「医者よ。自分を直せ」ということわざはどういう意 味で引用されているか議論がありますが、おそらく「まず自分の町であるナザレで、他の場所でも行なった奇跡 をやって見せよ」ということでしょう。そうしたら我々はあなたをメシヤとして信じるから、と。これは一言で 言えばしるしを求める態度です。この問題については前回の悪魔の誘惑の記事で見ました。これは人間が神をテ ストしようとする態度です。すなわち人間が神の上に立っている態度です。それは神をも自分の思い通りに動か し、操り、操作しようとするもので、神と人間の立場を逆転させるものです。ですからイエス様は他の箇所で も、このようなしるしを求める要求には一切答えられませんでした。もしこれを受け入れたら、それ以後も何か あるたびにその人は神に何かを要求し、神に命令を下し、神を操作する人になってしまいます。これは信仰でも 何でもありません。すでに、開かれた心さえあれば、信じるに十分なものは彼らの前に差し出されていました。 彼らはイエス様の口から出て来る恵みの言葉に驚き、強烈な印象を持ったはずです。

イエス様はそんな彼らに二つの例を上げて、その不信仰に警告を与えられました。一つは25~26節のエリヤ の例、もう一つは27節のエリシャの例です。どちらも旧約時代に北イスラエルに遣わされた預言者ですが、イ スラエル人は彼らの言葉に耳を傾けませんでした。その結果、エリヤは異邦人のシドンのサレプタにいたやもめ 女にだけ遣わされました。当時イスラエルには多くのやもめがいて、大ききんはイスラエルにも臨んでいたの に、神の祝福は異邦人のところに行ってしまったのです。もう一つのエリシャの場合も同じです。当時イスラエ ルにツァラアトという病気に冒された人がたくさんいましたが、イスラエル人の不信仰のため、ツァラアトの癒 しの祝福はシリヤ人ナアマンの上に臨みました。このように差し出されている福音を軽んじたり、拒否している と、祝福は他の人のところへ行ってしまう!異邦人に与えられる結果となる!とイエス様は警告されました。こ れを聞いて、人々はひどく怒ったと28節にあります。彼らはイエス様を町の外に追い出し、崖のふちまで連れ て行き、そこから投げ落とそうとします。やがての十字架の前兆がここにあります。

しかし、注目すべきは30節:「しかしイエスは、彼らの真中を通り抜けて、行ってしまわれた。」 これはど ういうことでしょうか。あと一息で彼らはイエス様を投げ落せるところまで追い込んだのに、思わず恐れて身を 引くような威厳が、この時のイエス様には見られたということでしょうか。あるいは前回、「神は、御使いたち に命じてあなたを守らせる。」という御言葉を見ましたが、その御使いによる超自然的な守りがこのように与え られた、ということなのでしょうか。いずれにせよ、イエス様が死に追いやられることがなかったのは、その 「時」がまだ来ていなかったからです。そしてよりここで重大なことは、イエス様が「彼らの真ん中を通り抜け て、行ってしまわれた」と記されていることです。この福音書から知ることは、イエス様がナザレに来られたの はこの時が最後です。イエス様は彼らの真ん中を通り抜けて、二度とここには戻って来られなかった。彼らがイ エス様をこのように拒絶した結果、ナザレの人々はこの福音に接するチャンスを失ったのです!彼らは約束のメ シヤの祝福に入るチャンスを二度と得ることはなかったのです!

私たちはどうでしょうか。イエス様とその福音に対してナザレの人々のようであるなら、イエス様は真ん中を通 り抜けて行ってしまわれます。せっかく素晴らしい祝福を携えて来て下さっているのに、そこに入るための絶好 の機会をその人は失うのです。私たちのイエス様とその福音に対する態度は、永遠の光に照らして何と重大な意 味を持っていることでしょうか。イエス様は旧約から約束されて来た「主の恵みの年」の祝福をついに来たらせ て下さったお方です。イエス様はどうしてこの祝福をもたらすことができるのでしょう。それは悪魔の試みを通 しても証明された、罪を一つも犯さない完全な生涯を最後まで歩み通されたこと、そしてその全くきよいご自身 を十字架上で私たちの身代わりにささげて下さることによって!です。そうしてサタンと罪と死の力を打ち破っ て下さいました。このイエス様を自分の救い主として信じ、従う時、私たちは自分がこれまで置かれて来た奴隷 状態から真に解放されることができます。また私たちの霊的視力は回復され、神との交わりを通して、何を人生 の目標とし、どのように歩んで行ったら良いの、真の祝福の道を見て取ることができる開かれた目を頂くことが できます。また今、色々な苦しみや悩みやストレスのただ中にあっても、キリストにあって自由を頂き、やがて 完全にそれらのものから解放される天の御国へとつながる生活へ導かれることができます。この祝福にあずかる ために私たちがすることは、すでに目の前に差し出されている福音に耳を傾け、そこにある神の招きに従うこと です。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおりに実現しました。」とイエス様は言われま した。この恵みの日が閉じられる前に、またイエス様を他のところに行かせてしまうことがないように、「きょ う」と言われている内にここにある主の招きに従い、「ヨベルの年」が指し示す自由と解放の祝福、「主の恵み の年」の祝福に生かされる者となって行きたいと思います。