ルカの福音書 4:31-44

ほかの町々にも福音を
ご自分が育った町ナザレから拒絶されたイエス様は、同じガリラヤの町カペナウムへ移って行かれます。その町 でもイエス様は安息日ごとに会堂で教えられ、大変な驚きが人々の間に起こったことが32節に記されています。 「人々は、その教えに驚いた。そのことばに権威があったからである。」前に見た15節にも「イエスは、彼らの 会堂で教え、みなの人にあがめられた。」とありましたし、22節にも「みなイエスをほめ、その口から 出て来る恵みのことばに驚いた。」とありました。しかし、今日開いている箇所の特徴は、御言葉の宣教に御業が 伴っていたということです。

まず一つ目は、汚れた悪霊につかれていた人の解放の御業です。その人は大声でわめきました。34節:「あ あ、ナザレ人のイエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょ う。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」 1ヨハネ3章8節に「神の子が現れたのは、悪魔 のしわざを打ちこわすためです。」とありますが、この悪霊もイエス様がその目的のもとに地上に来られたこと を知っていたのでしょう。彼は「私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」と言いました。これは 古代世界では相手の正体を言い当てることが、相手に対して何らかの力を持つと考えられていたからのようで す。しかしイエス様はそんな抵抗をものともせずに彼を叱り、「黙れ!その人から出て行け!」と語られまし た。その一言によって、悪霊はその人から出て行かなければならなくなりました。「その悪霊は人々の真ん中 で、その人を投げ倒して出て行った」とありますが、これは最後の悪あがきでしょう。しかし35節最後に「そ の人は別に何の害も受けなかった。」とあります。ここにイエス様のはるかに偉大な力を私たちは見させられま す。悪霊の懸命な抵抗と努力も、イエス様の権威の前には何の力も持ち得なかった。

二つ目に、イエス様は会堂を出てシモンの家に入り、その姑に会われました。姑は「ひどい熱で苦しんでいた」 とあります。イエス様は彼女の枕もとに来て、熱を叱りつけられました。するとその熱がすぐにひきました。そ ればかりか彼女はすぐに立ち上がって、彼らをもてなし始めたとあります。高熱でうなされていた人は、たとえ 熱が下がってもすぐには動けないものです。頭がフラフラして、体力が戻るまでには時間がかかるはずでしょ う。ましてやこの姑は高齢です。ところが彼女はそんな熱にはかかっていなかったかのように、瞬時に元の状態 に回復されたのです。ここにもイエス様の驚くべき権威と力が再び示されました。

三つ目に、40節を見ると、「日が暮れると、いろいろな病気で弱っている者をかかえた人たちがみな、その病 人をみもとに連れて来た。」とあります。ユダヤでは日没と共に日付が変わりましたので、安息日が終わりと なったことを見計らった人たちが、イエス様のもとに続々集まって来たのでしょう。イエス様はそこで一人一人 に手を置いて癒されました。また悪霊どもも「あなたこそ神の子です。」と大声で叫びながら、多くの人々から 出て行きました。

これらの記事が私たちに語っていることは何でしょうか。それは一言で言えば、イエス様と共に神の国が到来し ているということです。この「神の国」とは日本とかアメリカといった目に見える領土を持つ国のことではな く、神のご支配のことです。本来この世界は、神が造り、神がご支配したもう世界でした。創世記1章31節: 「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった」 そんな世界に苦しみや病が 入って来たのは、人間の罪ゆえでした。人間はサタンの言葉を信じ、サタンに従ったため、この世界はサタンの 支配下にあるものとなりました。そんな悪魔と罪の力に覆われている人々の上に、本来の神の祝福の支配を取り 戻すために、イエス様は来られました。どのようにしてイエス様はそのことをなすことができるのでしょう。そ れは私たちの「罪」の問題を解決して下さることによってです。そのためにイエス様はまず私たちと全く同じ人 間となり、人として一つも罪も犯さない完全な義の生涯を歩むことが必要になります。そしてその尊くきよいい のちを、地上の歩みの最後に十字架上でささげて、私たちの身代わりを果たして下さることが必要です。そうし てこそ、イエス様はご自身に信頼する者たちの罪の問題を解決し、人々をサタンと罪の支配の下から救い出すこ とができる。そして神がご計画下さった神の祝福のご支配、神の国に生かすことができるのです。確かに十字架 の御業はまだ先のことですが、イエス様は確実にその御業を成し遂げるお方として、すでにこの時から、人々に 神の国の祝福をもたらす御業を始めておられたのです。

さて、忙しい一日を終えた翌朝、42節を見ると、イエス様は寂しい所に出て行かれた、とあります。他の福音 書の並行記事から分かることは、これは父なる神との祈りの交わりの時であったということです。イエス様はど んなに忙しくても、この静かな祈りの時を大事にされました。これがイエス様の人一倍忙しい活動の力の源でし た。そしてここでも、神との交わりを通して新しく力を得、ご自身の行くべき道を確信を持って進んでいるイエ ス様の姿を私たちは見ます。カペナウムの群衆はイエス様を探し回って、みもとにやって来ました。そしてどう か自分たちから離れて行かないようにと懇願しました。そんな彼らにイエス様は言われました。43節:「しか しイエスは、彼らにこう言われた。『ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりませ ん。わたしは、そのために遣わされたのですから。』」 ここの「どうしても~しなければならない」という言 葉は、神の必然を指す言葉です。前に少年時代のイエス様が「わたしは必ず父の家にいる」と言った時の「必 ず」と訳されている言葉もそうでした。あるいは9章22節で「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭 司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらなければならない」と言われる時の「必 ず~しなければならない」と訳されている言葉も同じです。イエス様はこの日の朝早くの静かな祈りの時間を通 して、もう一度神の御心を確認されました。そしてその御心のもとで、自分はどう歩むべきなのか、ご自分の使 命を改めて確認されたのです。そしてたとえ人の意見や期待がどうであろうと、神から与えられた使命にこそ、 イエス様は忠実に生きようとされたのです。

この日の朝、イエス様がもう一度確認されたご自分の使命は何でしょうか。それは「ほかの町々にも神の国の福 音を宣べ伝える」ということです。先に見たように、イエス様は神の恵みのご支配の到来という良き知らせを もって地上に来られました。この知らせは決して、ある狭い一つの地域に閉じ込めておくべきものではありませ ん。神はあらゆる人々にこの福音が差し出されることを御心としておられます。そして多くの人がイエス様を信 じて、この神の国の祝福に生かされることを求めておられます。人が救われるために神が定めておられる方法 は、このイエス様を信じ、罪を赦されて、神の国に入らせて頂くこと以外にはないのです。ですからイエス様は 狭い一所にいつまでもとどまっていることはできない。「わたしは、そのために遣わされたのですから」と、ご 自身の使命を改めて確認し、神の御心が実現することのために出発して行かれたのです。44節:「そしてユダ ヤの諸会堂で、福音を告げ知らせておられた。」

今日の箇所から私たちは何を学び取るべきでしょうか。二つのことを申し上げたいと思います。まず一つ目はイ エス・キリストを信じるとは、新しい支配の中に入れて頂くことだ、ということです。私たちの心の中が変わる だけではなく、私たちの生活を取り巻く支配・環境が変わるのです。もし私たちがキリストの福音を受け入れな いなら、私たちは相変わらずサタンの支配下、罪の支配下にあります。しかしもし私たちがキリストを受け入 れ、この方に従うなら、私たちはサタンの支配から神の恵みのご支配に入れられます。今日の箇所で見たよう な、天国を先取りする支配に生かされることになるのです。もちろんこのことは、私たちの地上の問題や病がす べて、キリストを信じれば直ちに解決するということではありません。今日の箇所の人々はみな癒されました が、たとえば聖書にはパウロの聞かれなかった祈りも記されています。彼は肉体のとげを取り去って下さるよう に主に何度も願いましたが、かなえられませんでした。癒そうと思えばすぐにそれができる権威を持っているの に、主はさらに良い目的を持っておられたため、あえてそれを取り去らずに彼を導かれました。私たちの生活に おいてもそうです。主は私たちの思いを超えた最善のご計画をもっておられますし、そのための最善の導き方も ご存知です。ただ私たちはそういう中で、今日の箇所で教えられている大事な真理を見失ってはなりません。そ れはイエス様を信じるとは、新しい恵みのご支配に生かされることであるということです。私たちが信じるイエ ス・キリストのゆえに罪の呪いは取り去られ、やがての天国での生活につながっている神の祝福の支配に生かさ れることであるということです。ですから私たちはどのような中にあっても、自分は新しい恵みの支配・神の国 の中に生かされているのだということを覚えて、この力強い主を見上げて祈りたいと思いますし、またその主が 下さる最善の導きに信頼して行きたいと思います。主は万事を相働かせて必ず益とする恵みのご支配の中を導い て下さっています。このような神の国・神の恵みのご支配をもたらすお方として、イエス様は私たちのところに 来て下さったのです。

そして、もう一つ心に留めたいのは、「ほかの町々にも福音を」と言われたイエス様のお姿です。このイエス様 の宣教への献身のお姿は、多くの信仰の先輩たちをも、同じ宣教の歩みへと駆り立て、また燃え立たせて来たこ とでしょう。そしてこのイエス様の心を受け継いだ先達たちの祈りと努力があって、神の国の福音は私たちのと ころまで届けられました。果たしてこの恵みを受けた私たちは、この福音を自分のところで止めて満足して良い ものでしょうか。私たちもまた、イエス様と私たちに信仰を伝えてくれた先達の姿に感謝して、自らもまたこれ を宣べ広める器となって行くべきではないでしょうか。すでにイエス様と共に神の国は来ています。このイエス 様において、罪から来る様々な悩み、苦しみ、叫び、そして滅びに至る生活から救い出されて、神の祝福のご支 配、天国に通じる祝福のご支配に、今この時から生きることのできる世界が到来しています。イエス様はそのた めにご自身をささげて歩まれましたが、この福音が伝えられるべき人たちはたくさんいます。イエス様は先に 救った私たちを用いてなおこの働きを進められます。私たちは何よりも神がなお多くの人々が神の国の恵みに生 きるようになることを求めておられることに感謝し、イエス様にならい、イエス様と共に、この神の国の福音を さらに「ほかの人々に」、近くの人に、遠くの人に届ける働きに身をささげてまいりたいと思います。

「信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じる ことができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どう して宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。『良いことの知らせを伝える人々 の足は、なんとりっぱでしょう。』」(ローマ10:14~15)