ルカの福音書 5:12-16
わたしの心だ。きよくなれ
「さて、イエスがある町におられたとき、全身ツァラアトの人がいた。」とあります。「ツァラアト」という 言葉は、新改訳聖書の第2版までは「らい病」と訳されていました。しかしこの訳語は正確なものではないし、 誤った差別を助長しかねないということで、ヘブル語の発音のまま「ツァラアト」という言葉に改訂されました。 聖書からこのツァラアトについて分かることは、何らかの原因によって、皮膚に腫れ物・かさぶた・光る斑点が できて、その患部が皮膚より深く見えているという状態になるということ、そしてそれはだんだん広がりやすい ということです。この病気にかかったモーセの姉ミリヤムは「雪のように白くなった」と言われていますし、 それを見たアロンは「その肉が半ば腐って母の胎から出て来る死人のようだ」と表現しています。そして大変 不思議なことですが、この病の特徴は、そのしるしが衣服や家の壁にさえも現われたということです。新改訳 第3版の後書きにこうあります。「聖書のツァラアトは皮膚に現われるだけでなく、家の壁や衣服にも認められ る現象であり、それが厳密に何を指しているのかはいまだ明らかでないからである」。従って、この病に かかった人は隔離され、町の外で一人寂しく暮らさなければなりませんでした。レビ記13章45節46節:「患部の あるそのツァラアトの者は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れて いる。汚れている。』と叫ばなければならない。その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れている ので、一人で住み、その住まいは宿営の外でなければならない。」
病気になることは誰でもつらいものです。しかしツァラアトに冒された人の場合、社会的・宗教的にも疎外され ます。また自分から人に近づく時にも、「私は汚れている」と叫ばなければなりません。家族や友人、日常生活 から隔離され、死ぬのを待つだけの生ける屍の状態です。その絶望の深さは私たちの想像もつかないもので あったと言えます。
そのようなツァラアトに冒された人が、突然現われて来ました。新改訳には訳されていませんが、「見よ!」と いう言葉が原文にはあります。人々が思わずギクッとせずにいられない状況がありました。しかもこの人は「全 身」ツァラアトです。その彼はイエス様のもとにやって来てひれ伏し、お願いしました。「主よ。お心一つで、 私をきよくしていただけます。」 今日はこの箇所から大きく二つのことに目を留めて行きたいと思います。
第一に注目したいのは「お心一つで」という言葉です。彼がイエス様のところに来るまでには色々な戦いや困難 があったことでしょう。人々の前に出れば、皆から嫌悪されたり、罵声を浴びせられることがあったでしょう。 当時の書物の中には「多くの人々がツァラアトに冒された人を見て逃げ去る中、私は勇敢にも石を投げつけて、 彼を追い払ってやった」と記されているものもあるそうです。しかし彼はそういったものを振り切って、イエス 様のみもとに来ました。ここに彼の信仰が示されています。彼はイエス様には自分の病を癒す力があると心から 信じたから、どのような障害が目の前に立ちはだかろうとも、あるいは人々からどんなにひどい扱いをされよう とも、こうしてイエス様の前までやって来たのです。
その際、彼は「お心一つで」と言いました。これは直訳すると「あなたが願って下さるなら」という意味です。 彼は今述べましたように、イエス様にその力があることは信じています。しかしその力を、この汚れた自分のた めに用いて下さるだろうか、そういうお心を果たして持って下さるだろうかということについては、何とも分か らないところがありました。彼がここで問うているのはまさにそのことです。私はあなたに癒す力があることを 信じていますが、果たしてあなたはツァラアトの私のきよめをお心として下さるでしょうか。あなたがそのこと をご自身の願いとして下さるでしょうか。それを良しとして下さるでしょうか。そのような問いをもってイエ ス様の前にひれ伏したのです。
そういう彼に対するイエス様のお答えは、大変素晴らしいものでした。13節:「イエスは手を伸ばして、彼に さわり、『わたしの心だ。きよくなれ。』と言われた。すると、すぐにそのツァラアトが消えた。」 イエス様 の「わたしの心だ。」という言葉は、直訳すれば「わたしはそれを望む」とか「わたしは意志する」という言葉 です。これは12節のツァラアトの人の言葉に呼応しています。彼が「もしあなたが願って下さるなら、云々」 と語ったのに対し、イエス様はまず「わたしは願う」と言われたのです。ここに私たちが今日の箇所で良く思い 巡らすべきイエス様の姿、また神様の姿があります。私たちも時に、自分を振り返って、次のような恐れを抱く のではないでしょうか。神はこんな罪深い私のことを心に留めて下さるだろうか。神に不可能なことは何もない とは言え、現実にこんな汚れに満ちている私を引き上げて下さろうとする積極的なお心を果たして持っていて下 さるだろうか、と。しかしイエス様は全身ツァラアトに冒された人に言われたのです。「わたしはあなたのきよ めを望む!」「それをわたしは願う!」「それを御心とする!」と。
これは聖書の様々な箇所で語られている真理です。たとえば1テモテ2章4節に「神は、すべての人が救われ て、真理を知るようになるのを望んでおられます。」とあります。ここの「望んでいる」という言葉は、今日の 箇所の「わたしの心だ」と訳されている言葉と同じです。聖なる神は、罪深く、取り上げるにも値しない私たち 一人一人の救いをご自身の切なる願いとして下さっているのです。それをわたしは「望んでいる」と仰って下 さっています。2ペテロ3章9節:「主は、ある人たちが遅いと思っているように、その約束のことを遅らせて おられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びるこ とを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」
ですから、私たちはこのような神のお姿を見上げて感謝し、恐れずに近づいて良いのです。ある人は言いまし た。「もし私たちの罪がきよめられていないなら、それはイエス様が御心としておられないからではない。理由 はただ一つ。私たちが私たちの救いを願うイエス様のみもとに行っていないからである。」と。
もう一つ今日の箇所から注目したいこと、それはイエス様が彼に手を伸ばして触って下さったことです。イエス 様は、他の箇所でしばしばそうであるように、言葉を発するだけで十分に彼を癒すことができました。人々と一 緒にウワーっと言って飛び退きながら、「きよくなれ!」と言うこともできました。しかしイエス様はあえて彼 にさわられました。ここに神様の深い憐れみの心を私たちは見ます。
この彼の心の深い傷は、単に自分が病気であるということだけでなく、誰からも無視され、人間扱いしてもらえ ないことにあったでしょう。自分が歩けば、皆が避けて通る。誰も触れようとはしない。また自分からも「近づ かないで下さい!」と言って、距離を取って歩かなければならない。イエス様はそんな彼にとって、誰かに触れ られることがどれほど大きな意味を持っているかを良く知っておられたのです。
しかし、さわる方としては当然犠牲が伴います。皆さんは汚い物に触るのが得意でしょうか。千葉で奉仕してい た時、教会堂の前に駐車した車に鳥の糞がベットリ付いていることが良くありました。いつもひどい状態でたく さんついているため、果たしてこれは1羽分なのだろうか、とよく考え込んだものでした。そしてまずは車の中 にあるティッシュを2~3枚取って拭き始めますが、あっちこっちを使っているうちに、糞が手についてしま う。すると私は心の中で悲鳴を上げながら、急いでそれを処理して、手を念入りに洗うわけです。少々手が汚れ ても洗えばきれいになるとも思うのですが、「鳥インフルエンザにかかったらどうしよう!」とか、早く洗わな いと塗り薬のように鳥の糞の成分が体の中に入ってしまうのではないか!」等と慌てたものです。
交通事故でなくなったダイアナ妃が、かつてエイズに感染した患者を見舞い、握手をして激励した姿が報道され た時がありました。まだエイズは、さわるだけでも移るのではないかと恐れられていた時でした。そんな中で手 を差し出し、その人に触れ、自ら握手した姿は、非常に衝撃的な姿として多くの人の目に留まったと言われま す。イエス様のこの時の姿もそのように、いやそれよりももっと衝撃的だったに違いありません。人々が皆顔色 を変えて、この人のそばから飛び退こうとする中、イエス様は彼から逃げ去らないばかりか、彼に触れて下さっ た。自らが汚れた者となることも厭わずして、その聖なる御手を伸ばして下さった。人間はみな汚いものを嫌が りますが、イエス様はそんな汚い私たちをあわれんでこの世に来て下さいました。そして私たちの汚れと痛みを 全部ご自分の身に引き受けられて、やがての十字架に至る道を進んで下さったのです。イエス様はそのようにし て、私たちの重荷をすべてご自分に担って下さるお方として、私たちにきよい手を触れ、「わたしの心だ。きよ くなれ。」と言って下さるのです。
イエス様は14節で「だれにも話してはいけない。」と言われました。これはメシヤに対する人々の誤った期待 が助長されないためでしょう。人々は表面に見えることに熱狂し、イエス様を現世的な御利益を下さる救い主と してたてまつろうとします。ただあかしのために、モーセが命じたようにきよめの供え物をしなさい、と言われ ます。しかしイエス様のうわさは益々広まり、多くの人の群れがイエス様のところに集まって来ました。そんな 中、イエス様は16節にありますように、「よく荒野に退いて祈って」おられました。イエス様はご自分の歩み が父なる神の御心から逸れることがないように、祈りの時を何よりも大事にされ、その中で正しいメシヤとして の歩みへと常に向かって行かれたのです。
私たちもこのツァラアトの人のように、罪の汚れで全身覆われていた者、また今なお繰り返し自分の罪によって 自らを汚している者です。しかし今日の箇所を通して私たちが見上げるべきは、この罪深い私たちの癒しときよ めを他ならぬイエス様がご自身の御心・願いとしていて下さるということ。そのきよい手で私たちに触れて下さ り、私たちを完全にきよめて下さるということ。ですから私たちはこの主のお姿を感謝し、恐れることなく、汚 れた自分を正直に御前に持って行って、御心の通りにきよめて頂く幸いにあずかりたい。主はそのような私たち 一人一人に必ず答えて下さいます。「わたしの心だ。きよくなれ」 イエス様は十字架上でささげて下さった無 限の犠牲をもって、私たちの罪を確かにきよめて下さり、ついには全き癒しを与えて、御国に生きる祝福へと 私たちを導いて下さるのです。
「さて、イエスがある町におられたとき、全身ツァラアトの人がいた。」とあります。「ツァラアト」という 言葉は、新改訳聖書の第2版までは「らい病」と訳されていました。しかしこの訳語は正確なものではないし、 誤った差別を助長しかねないということで、ヘブル語の発音のまま「ツァラアト」という言葉に改訂されました。 聖書からこのツァラアトについて分かることは、何らかの原因によって、皮膚に腫れ物・かさぶた・光る斑点が できて、その患部が皮膚より深く見えているという状態になるということ、そしてそれはだんだん広がりやすい ということです。この病気にかかったモーセの姉ミリヤムは「雪のように白くなった」と言われていますし、 それを見たアロンは「その肉が半ば腐って母の胎から出て来る死人のようだ」と表現しています。そして大変 不思議なことですが、この病の特徴は、そのしるしが衣服や家の壁にさえも現われたということです。新改訳 第3版の後書きにこうあります。「聖書のツァラアトは皮膚に現われるだけでなく、家の壁や衣服にも認められ る現象であり、それが厳密に何を指しているのかはいまだ明らかでないからである」。従って、この病に かかった人は隔離され、町の外で一人寂しく暮らさなければなりませんでした。レビ記13章45節46節:「患部の あるそのツァラアトの者は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れて いる。汚れている。』と叫ばなければならない。その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れている ので、一人で住み、その住まいは宿営の外でなければならない。」
病気になることは誰でもつらいものです。しかしツァラアトに冒された人の場合、社会的・宗教的にも疎外され ます。また自分から人に近づく時にも、「私は汚れている」と叫ばなければなりません。家族や友人、日常生活 から隔離され、死ぬのを待つだけの生ける屍の状態です。その絶望の深さは私たちの想像もつかないもので あったと言えます。
そのようなツァラアトに冒された人が、突然現われて来ました。新改訳には訳されていませんが、「見よ!」と いう言葉が原文にはあります。人々が思わずギクッとせずにいられない状況がありました。しかもこの人は「全 身」ツァラアトです。その彼はイエス様のもとにやって来てひれ伏し、お願いしました。「主よ。お心一つで、 私をきよくしていただけます。」 今日はこの箇所から大きく二つのことに目を留めて行きたいと思います。
第一に注目したいのは「お心一つで」という言葉です。彼がイエス様のところに来るまでには色々な戦いや困難 があったことでしょう。人々の前に出れば、皆から嫌悪されたり、罵声を浴びせられることがあったでしょう。 当時の書物の中には「多くの人々がツァラアトに冒された人を見て逃げ去る中、私は勇敢にも石を投げつけて、 彼を追い払ってやった」と記されているものもあるそうです。しかし彼はそういったものを振り切って、イエス 様のみもとに来ました。ここに彼の信仰が示されています。彼はイエス様には自分の病を癒す力があると心から 信じたから、どのような障害が目の前に立ちはだかろうとも、あるいは人々からどんなにひどい扱いをされよう とも、こうしてイエス様の前までやって来たのです。
その際、彼は「お心一つで」と言いました。これは直訳すると「あなたが願って下さるなら」という意味です。 彼は今述べましたように、イエス様にその力があることは信じています。しかしその力を、この汚れた自分のた めに用いて下さるだろうか、そういうお心を果たして持って下さるだろうかということについては、何とも分か らないところがありました。彼がここで問うているのはまさにそのことです。私はあなたに癒す力があることを 信じていますが、果たしてあなたはツァラアトの私のきよめをお心として下さるでしょうか。あなたがそのこと をご自身の願いとして下さるでしょうか。それを良しとして下さるでしょうか。そのような問いをもってイエ ス様の前にひれ伏したのです。
そういう彼に対するイエス様のお答えは、大変素晴らしいものでした。13節:「イエスは手を伸ばして、彼に さわり、『わたしの心だ。きよくなれ。』と言われた。すると、すぐにそのツァラアトが消えた。」 イエス様 の「わたしの心だ。」という言葉は、直訳すれば「わたしはそれを望む」とか「わたしは意志する」という言葉 です。これは12節のツァラアトの人の言葉に呼応しています。彼が「もしあなたが願って下さるなら、云々」 と語ったのに対し、イエス様はまず「わたしは願う」と言われたのです。ここに私たちが今日の箇所で良く思い 巡らすべきイエス様の姿、また神様の姿があります。私たちも時に、自分を振り返って、次のような恐れを抱く のではないでしょうか。神はこんな罪深い私のことを心に留めて下さるだろうか。神に不可能なことは何もない とは言え、現実にこんな汚れに満ちている私を引き上げて下さろうとする積極的なお心を果たして持っていて下 さるだろうか、と。しかしイエス様は全身ツァラアトに冒された人に言われたのです。「わたしはあなたのきよ めを望む!」「それをわたしは願う!」「それを御心とする!」と。
これは聖書の様々な箇所で語られている真理です。たとえば1テモテ2章4節に「神は、すべての人が救われ て、真理を知るようになるのを望んでおられます。」とあります。ここの「望んでいる」という言葉は、今日の 箇所の「わたしの心だ」と訳されている言葉と同じです。聖なる神は、罪深く、取り上げるにも値しない私たち 一人一人の救いをご自身の切なる願いとして下さっているのです。それをわたしは「望んでいる」と仰って下 さっています。2ペテロ3章9節:「主は、ある人たちが遅いと思っているように、その約束のことを遅らせて おられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びるこ とを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」
ですから、私たちはこのような神のお姿を見上げて感謝し、恐れずに近づいて良いのです。ある人は言いまし た。「もし私たちの罪がきよめられていないなら、それはイエス様が御心としておられないからではない。理由 はただ一つ。私たちが私たちの救いを願うイエス様のみもとに行っていないからである。」と。
もう一つ今日の箇所から注目したいこと、それはイエス様が彼に手を伸ばして触って下さったことです。イエス 様は、他の箇所でしばしばそうであるように、言葉を発するだけで十分に彼を癒すことができました。人々と一 緒にウワーっと言って飛び退きながら、「きよくなれ!」と言うこともできました。しかしイエス様はあえて彼 にさわられました。ここに神様の深い憐れみの心を私たちは見ます。
この彼の心の深い傷は、単に自分が病気であるということだけでなく、誰からも無視され、人間扱いしてもらえ ないことにあったでしょう。自分が歩けば、皆が避けて通る。誰も触れようとはしない。また自分からも「近づ かないで下さい!」と言って、距離を取って歩かなければならない。イエス様はそんな彼にとって、誰かに触れ られることがどれほど大きな意味を持っているかを良く知っておられたのです。
しかし、さわる方としては当然犠牲が伴います。皆さんは汚い物に触るのが得意でしょうか。千葉で奉仕してい た時、教会堂の前に駐車した車に鳥の糞がベットリ付いていることが良くありました。いつもひどい状態でたく さんついているため、果たしてこれは1羽分なのだろうか、とよく考え込んだものでした。そしてまずは車の中 にあるティッシュを2~3枚取って拭き始めますが、あっちこっちを使っているうちに、糞が手についてしま う。すると私は心の中で悲鳴を上げながら、急いでそれを処理して、手を念入りに洗うわけです。少々手が汚れ ても洗えばきれいになるとも思うのですが、「鳥インフルエンザにかかったらどうしよう!」とか、早く洗わな いと塗り薬のように鳥の糞の成分が体の中に入ってしまうのではないか!」等と慌てたものです。
交通事故でなくなったダイアナ妃が、かつてエイズに感染した患者を見舞い、握手をして激励した姿が報道され た時がありました。まだエイズは、さわるだけでも移るのではないかと恐れられていた時でした。そんな中で手 を差し出し、その人に触れ、自ら握手した姿は、非常に衝撃的な姿として多くの人の目に留まったと言われま す。イエス様のこの時の姿もそのように、いやそれよりももっと衝撃的だったに違いありません。人々が皆顔色 を変えて、この人のそばから飛び退こうとする中、イエス様は彼から逃げ去らないばかりか、彼に触れて下さっ た。自らが汚れた者となることも厭わずして、その聖なる御手を伸ばして下さった。人間はみな汚いものを嫌が りますが、イエス様はそんな汚い私たちをあわれんでこの世に来て下さいました。そして私たちの汚れと痛みを 全部ご自分の身に引き受けられて、やがての十字架に至る道を進んで下さったのです。イエス様はそのようにし て、私たちの重荷をすべてご自分に担って下さるお方として、私たちにきよい手を触れ、「わたしの心だ。きよ くなれ。」と言って下さるのです。
イエス様は14節で「だれにも話してはいけない。」と言われました。これはメシヤに対する人々の誤った期待 が助長されないためでしょう。人々は表面に見えることに熱狂し、イエス様を現世的な御利益を下さる救い主と してたてまつろうとします。ただあかしのために、モーセが命じたようにきよめの供え物をしなさい、と言われ ます。しかしイエス様のうわさは益々広まり、多くの人の群れがイエス様のところに集まって来ました。そんな 中、イエス様は16節にありますように、「よく荒野に退いて祈って」おられました。イエス様はご自分の歩み が父なる神の御心から逸れることがないように、祈りの時を何よりも大事にされ、その中で正しいメシヤとして の歩みへと常に向かって行かれたのです。
私たちもこのツァラアトの人のように、罪の汚れで全身覆われていた者、また今なお繰り返し自分の罪によって 自らを汚している者です。しかし今日の箇所を通して私たちが見上げるべきは、この罪深い私たちの癒しときよ めを他ならぬイエス様がご自身の御心・願いとしていて下さるということ。そのきよい手で私たちに触れて下さ り、私たちを完全にきよめて下さるということ。ですから私たちはこの主のお姿を感謝し、恐れることなく、汚 れた自分を正直に御前に持って行って、御心の通りにきよめて頂く幸いにあずかりたい。主はそのような私たち 一人一人に必ず答えて下さいます。「わたしの心だ。きよくなれ」 イエス様は十字架上でささげて下さった無 限の犠牲をもって、私たちの罪を確かにきよめて下さり、ついには全き癒しを与えて、御国に生きる祝福へと 私たちを導いて下さるのです。