ルカの福音書 5:17-26
罪を赦す権威
今日の箇所で初めてパリサイ人と律法の教師たちが出て来ます。彼らはガリラヤとユダヤとのすべての村々から ばかりでなく、エルサレムからも来ていた、と記されています。つまり本部からの調査団だったのでしょう。 その彼らが見ている前で、今日の箇所の出来事が起こります。ある家で人々がイエス様の話を聞くためにたく さん詰め掛けていたところ、そこに中風を患っている人が男たちによって床のまま運ばれて来ました。中風とは 半身不随あるいは腕や足が麻痺して動けない状態にある人のことです。しかし群衆が多くてイエス様に近づけ ません。それでどうしたか。何と彼らは屋上に上って屋根の瓦をはがし、ちょうど人々の真ん中にいるイエス様 の前につり降ろしました。人々の視線は一気に集中します。果たしてイエス様はどうされるのでしょうか。
まず注目したいことは、20節に「彼らの信仰を見て」とあることです。この「彼ら」という言葉は、少なくと も中風の人を運んで来た男たちを含んでいます。確かに彼らの行動には彼らの信仰が証しされていました。彼ら はイエス様にはこの人の病を癒すことができると信じたから、彼をここまで運んで来ました。そんな彼らの前に は大きな壁がありました。人々がギュウギュウ詰めかけているため、イエス様に近づけない。ところが彼らはそ こであきらめませんでした。屋根に上って瓦をはがし、そこからつり降ろすという、果たして他人の家にそこま でしていいのかと思うほどのことをしました。もちろんそのための修理費用などは自分たちが償おうとしたので しょう。その信仰をイエス様は見て、運んで来た人に恵みを施されたのです。これは私たちみなにとってのチャ レンジでしょう。確かに救いを頂くには、一人一人の信仰が大事です。ある人のために誰かが代わりに信仰を 持って、その人を救うということはできません。しかしだからと言って、私たちは友人のために何もできないの ではないのです。愛する人をイエス様のもとに連れて行こうとする信仰をイエス様は見ておられる。そしてイエ ス様はその信仰のゆえに私たちの愛する人、心にかけている人に恵みを施して下さる。思い起こせば私たちもそ うだったのではないでしょうか。陰で祈られ、声をかけられ、イエス様の前まで連れて来てもらったのではない でしょうか。そのような私たちの祈り、願い、努力を主は見ておられて、その信仰に大きく報いて下さるという ことを私たちはここに見させられるのです。
さて、その彼に言われた言葉を見て行きたいと思います。人々は当然、イエス様はこの人の病を癒されるに違い ない、と思ったでしょう。運んで来た男たちも、また中風の人本人もそのことを期待したでしょう。ところがイ エス様が言われた言葉はこれでした。「友よ。あなたの罪は赦されました。」 これは一体どういうことでしょ うか。この人の病には何か彼の特別の罪が関係していたということでしょうか。そういうことがないわけではあ りません。暴飲暴食をすれば体を壊しますし、不道徳な生活によって病気になることもあります。しかしイエス 様はヨハネ9章で、ある人の病はその人の特別な罪の結果であるという短絡的な見方を否定されました。生まれ つき目が見えない人を指して、「これは誰が罪を犯したからですか。本人ですか、その両親ですか。」と問うた 弟子たちに、イエス様は「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがそのこの人に現れ るためです。」と言われました。しかしこの世にある様々や病や苦しみは罪ゆえにこの世界に生じるようになっ たと言うのは本当です。最初に造られた世界は「見よ、それは非常に良かった」と言われる世界であり、そこに は何の苦しみも悲しみも叫びもありませんでした。そんなこの世界に様々な悲惨が入って来たのは、罪ゆえであ ると聖書は示しています。イエス様はその罪の問題、人間に災いをもたらしている根っこの問題にまっすぐ向か われたのです。
しかし、この発言を聞いて、律法学者やパリサイ人たちが理屈を言い始めます。21節の括弧の中:「神をけが すことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」 彼らがこう考えた 理由の一つに、罪の赦しは本当にそれがなされたのかどうか、良く目に見えないということがあります。イエス 様は「友よ。あなたの罪は赦されました。」と言いましたが、実際にそれが起こったかどうかは、誰も証明でき ません。それをいいことにこのイエスは自分を神の立場に置いている!と彼らは批判したのです。罪を赦す権威 は神にしかないのに、自分が神であるかのように振る舞い、人々を惑わしている!と。そんな彼らにイエス様は 言われました。22節:「その理屈を見抜いておられたイエスは、彼らに言われた。『なぜ心の中でそんな理屈 を言っているのか。【あなたの罪は赦された】と言うのと、【起きて歩け】と言うのと、どちらがやさしい か。』」 ここに「心の中で」とありますように、律法学者やパリサイ人たちの理屈は、彼らの心の中でなされ たことが分かります。その心の思いを一発で見抜かれたことの内に、イエス様が神であることが証しされていま す。それはさておいて、果たしてこの二つの言葉、「あなたの罪は赦された」という言葉と「起きて歩け」とい う言葉を言うのではどちらがたやすいでしょうか。ただ口でその言葉を語るだけなら、どちらも簡単です。しか し現実的には「起きて歩け」と言う方が難しい。なぜなら「あなたの罪は赦されました」と言っても、先に述べ たように、それが本当に起こったかどうかは目に見えるようにして証明できません。ですからいかにもそれが起 こっているような振りをすることはできます。しかし「起きて歩け」という言葉は、その言葉を発した直後に、 それが本当かどうかがはっきりします。中風の人がすぐ起きて歩かなければ、それは偽りだと誰にでも分かりま す。イエス様はその彼らの論理に立って、こう言われます。24~26節:「『人の子が地上で罪を赦す権威を 持っていることを、あなたがたに悟らせるために』と言って、中風の人に、『あなたに命じる。起きなさい。寝 床をたたんで、家に帰りなさい』と言われた。すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床を たたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。人々はみな、ひどく驚き、神をあがめ、恐れに満たされて、 『わたしたちは、きょう、驚くべきことを見た』と言った。」
私たちはここから何を学ぶべきでしょうか。人々は中風の人の癒しを見て驚きましたが、私たちも彼らと一緒に ただそのことに驚いて終わりとしてはなりません。今日の箇所が示しているメッセージは何でしょうか。それは 「起きて歩け」と言われたイエス様の言葉が真実であるように、「あなたの罪は赦された」というイエス様のお ことばも真実である!ということです。イエス様は24節で「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていること を、あなたがたに悟らせるために」とその目的を明確に述べてみわざを行なわれました。ですから私たちが一番 関心を向けなければならないのは、イエス様は本当に罪を赦す権威を持っておられる!ということです。目には 見えないけれども、私たちの罪が本当に神の前に赦されるという世界が、イエス様と共に私たちのところにやっ て来た!ということです。
この「罪の赦し」は直ちに目に見えるものではないために、私たちもいつしか軽んじやすいものです。人間は大 きく二つのグループに分けられます。すなわち罪を赦されている人と、罪を赦されていない人の2種類です。し かし、どの人が罪を赦された人で、どの人がそうでないかは、私たちの目に良く分かりません。また信仰を持っ ているクリスチャンも、そうでない一般の人々も、外側だけを見ていると、そう大きな違いはないかのようにも 見えます。むしろ世の中にも立派で素晴らしい人がたくさんいる。そうして私たちはいつの間にか、この目には 見えない「罪の赦し」という祝福を軽んじやすいのです。
しかし、この「罪の赦し」は、私たちにとって決定的な事柄です。なぜならこれは私たちの永遠の運命に関わる からです。もし罪が赦されているなら、私たちは聖なる神と永遠に天の御国で共に歩むことができます。しかし もし罪が赦されていないなら、その人はやがて自分の罪の報いを受けなくてはなりません。聖書にそれは火の池 に投げ込まれることであり、永遠に昼も夜も苦しみを受けることであると言われています。重大なことは、私た ちの目に誰が罪赦されている人であり、誰がそうでないかは今はよく分かりませんが、その区別がやがての日に はっきり現れるということです。また罪の赦しは将来にだけ関わるものではありません。イエス様は「あなたの 罪は赦されました」と語られました。すなわち今この時点で、罪を赦されるのです。もしこの祝福を頂かないな ら、私たちは地上の生活においてずっと神に対して後ろめたい思いを持ちながら生活することになります。神が 怖くて、神に近づけず、いつかさばかれるという思いで生活しなければなりません。しかし罪の赦しを受けるな ら、この地上にある時から神に大胆に近づく生活ができます。神への真心からの感謝と、澄み切った青空のよう な心を頂いて、大胆に神を「アバ父よ!」とお呼びしながら近づく生活ができます。そして神が聖書において与 えて下さっている色々な約束に心から信頼し、御国へとつながる今日の生活を確信を持って歩むことができま す。このように罪の赦しは「将来」と「現在」に直ちに大きな意味を持つことを述べましたが、もう一つ、その 将来に至るまでのすべての歩みにおいて、私たちが経験する出来事が全く違った意味合いを持つようになりま す。もし罪を赦されていないなら、この世で多くの困難に出会う時、私たちはこれは神からの罰だ!と思いま す。自分は神の前に正しくない人間だから、このような災いが降りかかって来るのだ、と思う。しかしもし罪の 赦しを頂いているなら、見方は違って来ます。罪の問題を根本的に解決された者として、私の前にあるのは必ず 天国に至る歩みです。その途中に病や試練があっても、それは決して私を滅ぼすものではありません。それらか らはもはや呪いの要素は取り除かれています。それらはただ私を一層聖め、いよいよ天国に入るにふさわしく整 え、訓練するための補助手段でしかないのです。このように罪の赦しを頂き、心に受け止め、感謝して歩む時、 私たちは全く違った目を持って試練に立ち向かい、神の愛とその絶対的な守りの御手に信頼して歩むことが できるのです。
私たちはこの罪の赦しの祝福を欲しいと思わないでしょうか。この罪の赦しは、ただお一人イエス様だけが与え ることができます。なぜならイエス様は私たちの身代わりに十字架にかかって下さった方だからです。本来、私 たち一人一人がその身に刈り取らなければならないすべての罰と呪いを、イエス様はご自分の上にみな引き受け て下さいました。父なる神と同等同質の神であるイエス様が人となって、十字架上でささげて下さった犠牲は限 りない価値を持っています。その御業を必ず成し遂げるお方として、イエス様は今日の箇所ですでにその権威を 発揮しておられたのですし、それを完全に成し遂げられた今は間違いなくその権威を発揮することができます。 ですから私たちはこのお方のもとに行って、最も大切なこの罪の赦しを頂く者でありたい。また私たちは自分ば かりでなく、他の人をもこの方のもとに連れて行きたい。「罪の赦し」を与えられる方はこの方だけだ、と思う ならそうです。周りの方々の救いのために労を取り、その人を何とかしてイエス様のもとに連れて行くなら、イ エス様はその私たちの信仰を見て恵みを施して下さいます。そして私たち一人一人に言って下さいます。「友 よ。あなたの罪は赦されました。」 この言葉を頂いて、私たちは地上にある今日この時から喜びを持って神に 近づき、人生のすべてを通して私たちを祝福し、永遠の御国へ導いて下さるという新しい恵みの生活へと進んで 行くことができるのです。
今日の箇所で初めてパリサイ人と律法の教師たちが出て来ます。彼らはガリラヤとユダヤとのすべての村々から ばかりでなく、エルサレムからも来ていた、と記されています。つまり本部からの調査団だったのでしょう。 その彼らが見ている前で、今日の箇所の出来事が起こります。ある家で人々がイエス様の話を聞くためにたく さん詰め掛けていたところ、そこに中風を患っている人が男たちによって床のまま運ばれて来ました。中風とは 半身不随あるいは腕や足が麻痺して動けない状態にある人のことです。しかし群衆が多くてイエス様に近づけ ません。それでどうしたか。何と彼らは屋上に上って屋根の瓦をはがし、ちょうど人々の真ん中にいるイエス様 の前につり降ろしました。人々の視線は一気に集中します。果たしてイエス様はどうされるのでしょうか。
まず注目したいことは、20節に「彼らの信仰を見て」とあることです。この「彼ら」という言葉は、少なくと も中風の人を運んで来た男たちを含んでいます。確かに彼らの行動には彼らの信仰が証しされていました。彼ら はイエス様にはこの人の病を癒すことができると信じたから、彼をここまで運んで来ました。そんな彼らの前に は大きな壁がありました。人々がギュウギュウ詰めかけているため、イエス様に近づけない。ところが彼らはそ こであきらめませんでした。屋根に上って瓦をはがし、そこからつり降ろすという、果たして他人の家にそこま でしていいのかと思うほどのことをしました。もちろんそのための修理費用などは自分たちが償おうとしたので しょう。その信仰をイエス様は見て、運んで来た人に恵みを施されたのです。これは私たちみなにとってのチャ レンジでしょう。確かに救いを頂くには、一人一人の信仰が大事です。ある人のために誰かが代わりに信仰を 持って、その人を救うということはできません。しかしだからと言って、私たちは友人のために何もできないの ではないのです。愛する人をイエス様のもとに連れて行こうとする信仰をイエス様は見ておられる。そしてイエ ス様はその信仰のゆえに私たちの愛する人、心にかけている人に恵みを施して下さる。思い起こせば私たちもそ うだったのではないでしょうか。陰で祈られ、声をかけられ、イエス様の前まで連れて来てもらったのではない でしょうか。そのような私たちの祈り、願い、努力を主は見ておられて、その信仰に大きく報いて下さるという ことを私たちはここに見させられるのです。
さて、その彼に言われた言葉を見て行きたいと思います。人々は当然、イエス様はこの人の病を癒されるに違い ない、と思ったでしょう。運んで来た男たちも、また中風の人本人もそのことを期待したでしょう。ところがイ エス様が言われた言葉はこれでした。「友よ。あなたの罪は赦されました。」 これは一体どういうことでしょ うか。この人の病には何か彼の特別の罪が関係していたということでしょうか。そういうことがないわけではあ りません。暴飲暴食をすれば体を壊しますし、不道徳な生活によって病気になることもあります。しかしイエス 様はヨハネ9章で、ある人の病はその人の特別な罪の結果であるという短絡的な見方を否定されました。生まれ つき目が見えない人を指して、「これは誰が罪を犯したからですか。本人ですか、その両親ですか。」と問うた 弟子たちに、イエス様は「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがそのこの人に現れ るためです。」と言われました。しかしこの世にある様々や病や苦しみは罪ゆえにこの世界に生じるようになっ たと言うのは本当です。最初に造られた世界は「見よ、それは非常に良かった」と言われる世界であり、そこに は何の苦しみも悲しみも叫びもありませんでした。そんなこの世界に様々な悲惨が入って来たのは、罪ゆえであ ると聖書は示しています。イエス様はその罪の問題、人間に災いをもたらしている根っこの問題にまっすぐ向か われたのです。
しかし、この発言を聞いて、律法学者やパリサイ人たちが理屈を言い始めます。21節の括弧の中:「神をけが すことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」 彼らがこう考えた 理由の一つに、罪の赦しは本当にそれがなされたのかどうか、良く目に見えないということがあります。イエス 様は「友よ。あなたの罪は赦されました。」と言いましたが、実際にそれが起こったかどうかは、誰も証明でき ません。それをいいことにこのイエスは自分を神の立場に置いている!と彼らは批判したのです。罪を赦す権威 は神にしかないのに、自分が神であるかのように振る舞い、人々を惑わしている!と。そんな彼らにイエス様は 言われました。22節:「その理屈を見抜いておられたイエスは、彼らに言われた。『なぜ心の中でそんな理屈 を言っているのか。【あなたの罪は赦された】と言うのと、【起きて歩け】と言うのと、どちらがやさしい か。』」 ここに「心の中で」とありますように、律法学者やパリサイ人たちの理屈は、彼らの心の中でなされ たことが分かります。その心の思いを一発で見抜かれたことの内に、イエス様が神であることが証しされていま す。それはさておいて、果たしてこの二つの言葉、「あなたの罪は赦された」という言葉と「起きて歩け」とい う言葉を言うのではどちらがたやすいでしょうか。ただ口でその言葉を語るだけなら、どちらも簡単です。しか し現実的には「起きて歩け」と言う方が難しい。なぜなら「あなたの罪は赦されました」と言っても、先に述べ たように、それが本当に起こったかどうかは目に見えるようにして証明できません。ですからいかにもそれが起 こっているような振りをすることはできます。しかし「起きて歩け」という言葉は、その言葉を発した直後に、 それが本当かどうかがはっきりします。中風の人がすぐ起きて歩かなければ、それは偽りだと誰にでも分かりま す。イエス様はその彼らの論理に立って、こう言われます。24~26節:「『人の子が地上で罪を赦す権威を 持っていることを、あなたがたに悟らせるために』と言って、中風の人に、『あなたに命じる。起きなさい。寝 床をたたんで、家に帰りなさい』と言われた。すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床を たたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。人々はみな、ひどく驚き、神をあがめ、恐れに満たされて、 『わたしたちは、きょう、驚くべきことを見た』と言った。」
私たちはここから何を学ぶべきでしょうか。人々は中風の人の癒しを見て驚きましたが、私たちも彼らと一緒に ただそのことに驚いて終わりとしてはなりません。今日の箇所が示しているメッセージは何でしょうか。それは 「起きて歩け」と言われたイエス様の言葉が真実であるように、「あなたの罪は赦された」というイエス様のお ことばも真実である!ということです。イエス様は24節で「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていること を、あなたがたに悟らせるために」とその目的を明確に述べてみわざを行なわれました。ですから私たちが一番 関心を向けなければならないのは、イエス様は本当に罪を赦す権威を持っておられる!ということです。目には 見えないけれども、私たちの罪が本当に神の前に赦されるという世界が、イエス様と共に私たちのところにやっ て来た!ということです。
この「罪の赦し」は直ちに目に見えるものではないために、私たちもいつしか軽んじやすいものです。人間は大 きく二つのグループに分けられます。すなわち罪を赦されている人と、罪を赦されていない人の2種類です。し かし、どの人が罪を赦された人で、どの人がそうでないかは、私たちの目に良く分かりません。また信仰を持っ ているクリスチャンも、そうでない一般の人々も、外側だけを見ていると、そう大きな違いはないかのようにも 見えます。むしろ世の中にも立派で素晴らしい人がたくさんいる。そうして私たちはいつの間にか、この目には 見えない「罪の赦し」という祝福を軽んじやすいのです。
しかし、この「罪の赦し」は、私たちにとって決定的な事柄です。なぜならこれは私たちの永遠の運命に関わる からです。もし罪が赦されているなら、私たちは聖なる神と永遠に天の御国で共に歩むことができます。しかし もし罪が赦されていないなら、その人はやがて自分の罪の報いを受けなくてはなりません。聖書にそれは火の池 に投げ込まれることであり、永遠に昼も夜も苦しみを受けることであると言われています。重大なことは、私た ちの目に誰が罪赦されている人であり、誰がそうでないかは今はよく分かりませんが、その区別がやがての日に はっきり現れるということです。また罪の赦しは将来にだけ関わるものではありません。イエス様は「あなたの 罪は赦されました」と語られました。すなわち今この時点で、罪を赦されるのです。もしこの祝福を頂かないな ら、私たちは地上の生活においてずっと神に対して後ろめたい思いを持ちながら生活することになります。神が 怖くて、神に近づけず、いつかさばかれるという思いで生活しなければなりません。しかし罪の赦しを受けるな ら、この地上にある時から神に大胆に近づく生活ができます。神への真心からの感謝と、澄み切った青空のよう な心を頂いて、大胆に神を「アバ父よ!」とお呼びしながら近づく生活ができます。そして神が聖書において与 えて下さっている色々な約束に心から信頼し、御国へとつながる今日の生活を確信を持って歩むことができま す。このように罪の赦しは「将来」と「現在」に直ちに大きな意味を持つことを述べましたが、もう一つ、その 将来に至るまでのすべての歩みにおいて、私たちが経験する出来事が全く違った意味合いを持つようになりま す。もし罪を赦されていないなら、この世で多くの困難に出会う時、私たちはこれは神からの罰だ!と思いま す。自分は神の前に正しくない人間だから、このような災いが降りかかって来るのだ、と思う。しかしもし罪の 赦しを頂いているなら、見方は違って来ます。罪の問題を根本的に解決された者として、私の前にあるのは必ず 天国に至る歩みです。その途中に病や試練があっても、それは決して私を滅ぼすものではありません。それらか らはもはや呪いの要素は取り除かれています。それらはただ私を一層聖め、いよいよ天国に入るにふさわしく整 え、訓練するための補助手段でしかないのです。このように罪の赦しを頂き、心に受け止め、感謝して歩む時、 私たちは全く違った目を持って試練に立ち向かい、神の愛とその絶対的な守りの御手に信頼して歩むことが できるのです。
私たちはこの罪の赦しの祝福を欲しいと思わないでしょうか。この罪の赦しは、ただお一人イエス様だけが与え ることができます。なぜならイエス様は私たちの身代わりに十字架にかかって下さった方だからです。本来、私 たち一人一人がその身に刈り取らなければならないすべての罰と呪いを、イエス様はご自分の上にみな引き受け て下さいました。父なる神と同等同質の神であるイエス様が人となって、十字架上でささげて下さった犠牲は限 りない価値を持っています。その御業を必ず成し遂げるお方として、イエス様は今日の箇所ですでにその権威を 発揮しておられたのですし、それを完全に成し遂げられた今は間違いなくその権威を発揮することができます。 ですから私たちはこのお方のもとに行って、最も大切なこの罪の赦しを頂く者でありたい。また私たちは自分ば かりでなく、他の人をもこの方のもとに連れて行きたい。「罪の赦し」を与えられる方はこの方だけだ、と思う ならそうです。周りの方々の救いのために労を取り、その人を何とかしてイエス様のもとに連れて行くなら、イ エス様はその私たちの信仰を見て恵みを施して下さいます。そして私たち一人一人に言って下さいます。「友 よ。あなたの罪は赦されました。」 この言葉を頂いて、私たちは地上にある今日この時から喜びを持って神に 近づき、人生のすべてを通して私たちを祝福し、永遠の御国へ導いて下さるという新しい恵みの生活へと進んで 行くことができるのです。