ルカの福音書 6:12-16
十二人を選び
イエス様は12人の使徒たちを選ばれます。ご自分と一緒に神の国の福音を伝えるために重要な働きをする12人です。 イエス様はご自分一人で全部をやってしまい、後は私たちをお客さんとして神の国に迎えるのではありません。 イエス様は神の国を完成させるためのすべての力を持っていますが、先に救われた私たちをも、ご自身と共に 神の国の完成のために仕えるようにと導かれるのです。イエス様は旧約時代のイスラエル12部族を思いつつ、 ご自身がもたらしている新しい神の国のために、その基礎となる12人をここで選ばれます。「使徒」という 言葉は「遣わされる者」という意味の言葉です。彼らはやがてイエス様が天に昇って行かれた後も、イエス様の 代理人として働く者となるために、これからイエス様と共に過ごし、イエス様の生涯をつぶさに見て行きます。
さて、その12使徒の選抜においてまず注目したいことは、イエス様が最初に行なわれたことです。12節: 「このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。」 このルカの福音書では特にイ エス様の祈る姿が強調されています。これまでのところでも2回、イエス様は大切な場面で祈っていました。1 回はヨハネから洗礼を受けた時(3章21節)、もう一回は民衆がたくさん詰め掛けて、言わば人気が高まって いる状態にあった時(5章16節)でした。しかし、今回の祈りは特別です。なぜならこれは一晩中の祈りだった からです。イエス様はこれよりも前の時点から、12弟子の選抜については祈り、考えておられたことでしょ う。しかし、その最終決定のためには、ここまで祈りのために時間と心を用いられたのです。このことから思わさ れることは、イエス様でさえ物事を始める前にこのようにされたなら、私たちはそれ以上にこのような祈りを必 要とするはずではないか、ということです。イエス様でさえまず祈られたなら、私たちは祈りなしに自分が何事 かをなせるなどと考えてはならないと戒められます。何かを行うに先立ってまず祈るべきこと、人間の考えで急 いで行動する前に、まずひざまずいて祈る時間を優先すること、こうすることがイエス様に似た者となって行く ために大切な道であると教えられます。
さて、こうした祈りを経て選ばれた12人の使徒たちの名簿が14節から記されています。イエス様がまず一晩 かけて祈られたことも驚きですが、その祈りの「結果」も驚きです。ここに記されている12人は多くの人が選 ぶような人とは到底思われません。もし私たちがイエス様の立場にあって、これから神の国を広げるための器を 選ぶなら、どんな人を選抜するでしょう。やはり頼りになりそうな有能な人、知識のある人、様々な方面で優れ た人を選ぶのではないでしょうか。ところがここには一人も学者はいませんし、祭司も、長老も、支配者もいま せん。まず最初の4人、すなわちペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネはいずれもガリラヤ地方の漁師です。ガリ ラヤ地方の人々はただでさえ、エルサレムなどの都会からは田舎者として軽蔑され、見下されていました。後に ペテロやヨハネがエルサレムで説教した時、人々は「ふたりが無学な、ふつうの人であることを知って驚いた」 と使徒の働きに出て来ますが、まさにそのような彼らでした。また15節の「マタイ」は5章27節でレビとい う名前で出て来た人であり、取税人だった人です。ローマ帝国の手下になって金稼ぎばかりしているどうしよう もない裏切者・罪人と見られていた人です。また15節最後に「熱心党員と呼ばれるシモン」とあります。これ はローマ帝国を打ち倒すためには暴力革命さえ辞さないという過激な愛国主義者でした。またピリポ、トマスに ついては他の福音書から若干、その人となりを知ることができます。その他のバルトロマイ、アルパヨの子ヤコ ブ、ヤコブの子ユダについてはほとんどどんな人かは分かりません。
私たちはこのような名簿を見て不思議な思いを持つかもしれません。こんな彼らで本当に大丈夫なのだろうか。 あまりにパッとしない、平凡過ぎる人たちではないだろうか、と。しかし私たちが今日の箇所からしっかり学ぶ べきは、彼らは神によってこの働きに召されたということです。この神の選びと神の召しに基づいているという ことが、彼らの今後の働きの成功の秘訣なのです。人間の内側に神の働きを推進し、完成させる力はありませ ん。この任命が人からではなく、神から出ているというところに、すべての望みと力があるのです。ヨハネ15 章16節:「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命し たのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたが わたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」
では、この名簿の最後に記されているイスカリオテのユダが選ばれたことはどう考えたら良いのでしょうか。彼 は将来、イエス様を裏切ります。これはイエス様が一生懸命祈ったにもかかわらず、その判断を誤ったというこ とでしょうか。もちろんそうではありません。ヨハネ6章64節:「イエスは初めから、信じない者がだれであ るか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである。」つまり、父なる神は大変深い御心により、やが ては裏切るこのユダを12弟子の一人としてあえて選ばれたのです。ここには二つのメッセージがあると思いま す。一つはすべての信者にとっての警告です。自分は牧師、神学教師、伝道師、教会主事として奉仕しているか ら、あるいは長老、執事、また様々な会の長をしているから、安心であるとは言えない。何とイエス様の大側近 であった12使徒の一人が脱落するのです。ですから、どんなに信仰歴の長い人でも、またどんなに重要な奉仕に 携わっている人でも、自己吟味が必要です。果たして私はイエス様の言葉をどのように聞いているだろうか。 イエス様の愛を心から感謝し、その御言葉に真摯に従う生活をしているだろうか。ユダと同じ道を進んでいる ことはないだろうか、と。
このような警告と共に、ユダの裏切りの事実は、もう一つの益も私たちにもたらしてくれます。それはこのよう な受け入れがたい出来事さえも神の深いご計画の中にあるという信仰です。12使徒の中から裏切り者が現れる という出来事は、キリスト教会をメチャクチャに傷つけるような、これ以上は考えられないスキャンダラスな事 件です。しかし大変な神秘ではありますが、弟子たちはこの試練をくぐり抜ける中で、彼の裏切りは実は旧約聖 書に預言されていたことであり、神のご計画には何の狂いもなかったことを知ることになります。このことを通 して、人間の目から見て絶望でしかない状況に囲まれても、主はそのはるか上に主権の御手をしっかり持ってお られて、ご自身の教会を守られるということを知るに至るのです。この結果、ユダの脱落は教会の信仰を弱める どころか、むしろ逆に強めることとなるのです。それゆえに私たちはたとえ今日、教会の中で驚くべき不名誉が 生じ、大混乱が生じても、――もちろん、人間的にはそのようなことは起きない方が良いのですが、――必要以上 に困惑することから守られつつ、そのことさえも御手に収め、最善を導かれる神に信頼して行くようにと導か れるのです。
さて、以上の箇所は私たちに対してどんなメッセージを語っているでしょうか。「使徒」という働きは独特なも のです。これはイエス様と共に過ごし、イエス様の生き証人としての役割を果たした彼らにだけ当てはまるもの です。今日、「使徒」と呼ばれる人はいませんし、再び使徒職が繰り返されることもありません。しかしこの 12使徒の召命の記事は、私たちのキリストに仕える生活についても大切なことを教えてくれます。私たちもま た、神による召しにあずかった者たちです。私たちも使徒たちと同じように救いへと召されました。そしてさら に神の国のために何らかの働きを担うように召されています。大切なことは、私たちも神からの召しを受けて、 それらの奉仕や働きをしているということです。自分の意志や考えでそのことをしているのではありません。こ の後、就職式をする長老・執事の働きもそうです。その他、CS教師もそうですし、司会や奏楽、昼食、掃除、 様々な奉仕もそうです。また名前が特についていない見えないところでの働きもそうです。それをするように なった経緯には色々なことがあると思いますが、私は神からその召しを受けているのだ、という考え方が 私たちの教会生活・信仰生活の基礎です。
そして、このこととセットで考えるべきは、神は召したなら、そのための賜物や力も授けて下さるということで す。今日の箇所で12使徒に召された時の彼らを見るだけなら、一体どこに望みがあると言うべきでしょうか。 しかし召した主は、その働きを全うするための恵みと力をも備えて下さるから、彼らには望みがあるのです。 ですから、私たちも彼らと同様、自分の生まれ持っている力だけを見つめてあれこれ考えるのではなく、 主がそのために注いで下さる力に期待し、また依存すべきです。もともと有能な人も、自分の力で神の国の 働きができると思ってはなりません。神の国は人間の力で完成させるものではありません。召した方はそれを 成し遂げるための力をさらに別に備えて下さっています。そのことに思いを高く上げ、上からの力と導きを 求めて行く。その時に私たちは、私たちの思いを超えた奉仕をささげて行くことができるのです。
私たちを救いへと召して下さった神は、一人一人を神の国のための働きにも召して下さっています。私たちは自 分に与えられている働きを改めて、神の召しによるものとして受け取り直したいと思います。そうしてそれを自 分の無きに等しい力によってするのではなく、上からの力を求めてなすことができますように。イエス様のよう にまず先に祈り、上からの助けと導きを頂きながら。イエス様は「わたしを離れては、あなたがたは何もするこ とができない」と言われました(ヨハネ15章)。私たちはイエス様と結ばれてこそ、初めて実を結ぶ働きをす ることができます。主に信頼し、主の恵みによって強くさせられてこそ、私たちは必要を覚えている人々を助 け、また人々を信仰へ導き、また人々がさらに敬虔な歩みに向かってより成長するために仕え、主の御国の完成 のための働きに邁進して行くことができるのです。
イエス様は12人の使徒たちを選ばれます。ご自分と一緒に神の国の福音を伝えるために重要な働きをする12人です。 イエス様はご自分一人で全部をやってしまい、後は私たちをお客さんとして神の国に迎えるのではありません。 イエス様は神の国を完成させるためのすべての力を持っていますが、先に救われた私たちをも、ご自身と共に 神の国の完成のために仕えるようにと導かれるのです。イエス様は旧約時代のイスラエル12部族を思いつつ、 ご自身がもたらしている新しい神の国のために、その基礎となる12人をここで選ばれます。「使徒」という 言葉は「遣わされる者」という意味の言葉です。彼らはやがてイエス様が天に昇って行かれた後も、イエス様の 代理人として働く者となるために、これからイエス様と共に過ごし、イエス様の生涯をつぶさに見て行きます。
さて、その12使徒の選抜においてまず注目したいことは、イエス様が最初に行なわれたことです。12節: 「このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。」 このルカの福音書では特にイ エス様の祈る姿が強調されています。これまでのところでも2回、イエス様は大切な場面で祈っていました。1 回はヨハネから洗礼を受けた時(3章21節)、もう一回は民衆がたくさん詰め掛けて、言わば人気が高まって いる状態にあった時(5章16節)でした。しかし、今回の祈りは特別です。なぜならこれは一晩中の祈りだった からです。イエス様はこれよりも前の時点から、12弟子の選抜については祈り、考えておられたことでしょ う。しかし、その最終決定のためには、ここまで祈りのために時間と心を用いられたのです。このことから思わさ れることは、イエス様でさえ物事を始める前にこのようにされたなら、私たちはそれ以上にこのような祈りを必 要とするはずではないか、ということです。イエス様でさえまず祈られたなら、私たちは祈りなしに自分が何事 かをなせるなどと考えてはならないと戒められます。何かを行うに先立ってまず祈るべきこと、人間の考えで急 いで行動する前に、まずひざまずいて祈る時間を優先すること、こうすることがイエス様に似た者となって行く ために大切な道であると教えられます。
さて、こうした祈りを経て選ばれた12人の使徒たちの名簿が14節から記されています。イエス様がまず一晩 かけて祈られたことも驚きですが、その祈りの「結果」も驚きです。ここに記されている12人は多くの人が選 ぶような人とは到底思われません。もし私たちがイエス様の立場にあって、これから神の国を広げるための器を 選ぶなら、どんな人を選抜するでしょう。やはり頼りになりそうな有能な人、知識のある人、様々な方面で優れ た人を選ぶのではないでしょうか。ところがここには一人も学者はいませんし、祭司も、長老も、支配者もいま せん。まず最初の4人、すなわちペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネはいずれもガリラヤ地方の漁師です。ガリ ラヤ地方の人々はただでさえ、エルサレムなどの都会からは田舎者として軽蔑され、見下されていました。後に ペテロやヨハネがエルサレムで説教した時、人々は「ふたりが無学な、ふつうの人であることを知って驚いた」 と使徒の働きに出て来ますが、まさにそのような彼らでした。また15節の「マタイ」は5章27節でレビとい う名前で出て来た人であり、取税人だった人です。ローマ帝国の手下になって金稼ぎばかりしているどうしよう もない裏切者・罪人と見られていた人です。また15節最後に「熱心党員と呼ばれるシモン」とあります。これ はローマ帝国を打ち倒すためには暴力革命さえ辞さないという過激な愛国主義者でした。またピリポ、トマスに ついては他の福音書から若干、その人となりを知ることができます。その他のバルトロマイ、アルパヨの子ヤコ ブ、ヤコブの子ユダについてはほとんどどんな人かは分かりません。
私たちはこのような名簿を見て不思議な思いを持つかもしれません。こんな彼らで本当に大丈夫なのだろうか。 あまりにパッとしない、平凡過ぎる人たちではないだろうか、と。しかし私たちが今日の箇所からしっかり学ぶ べきは、彼らは神によってこの働きに召されたということです。この神の選びと神の召しに基づいているという ことが、彼らの今後の働きの成功の秘訣なのです。人間の内側に神の働きを推進し、完成させる力はありませ ん。この任命が人からではなく、神から出ているというところに、すべての望みと力があるのです。ヨハネ15 章16節:「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命し たのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたが わたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」
では、この名簿の最後に記されているイスカリオテのユダが選ばれたことはどう考えたら良いのでしょうか。彼 は将来、イエス様を裏切ります。これはイエス様が一生懸命祈ったにもかかわらず、その判断を誤ったというこ とでしょうか。もちろんそうではありません。ヨハネ6章64節:「イエスは初めから、信じない者がだれであ るか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである。」つまり、父なる神は大変深い御心により、やが ては裏切るこのユダを12弟子の一人としてあえて選ばれたのです。ここには二つのメッセージがあると思いま す。一つはすべての信者にとっての警告です。自分は牧師、神学教師、伝道師、教会主事として奉仕しているか ら、あるいは長老、執事、また様々な会の長をしているから、安心であるとは言えない。何とイエス様の大側近 であった12使徒の一人が脱落するのです。ですから、どんなに信仰歴の長い人でも、またどんなに重要な奉仕に 携わっている人でも、自己吟味が必要です。果たして私はイエス様の言葉をどのように聞いているだろうか。 イエス様の愛を心から感謝し、その御言葉に真摯に従う生活をしているだろうか。ユダと同じ道を進んでいる ことはないだろうか、と。
このような警告と共に、ユダの裏切りの事実は、もう一つの益も私たちにもたらしてくれます。それはこのよう な受け入れがたい出来事さえも神の深いご計画の中にあるという信仰です。12使徒の中から裏切り者が現れる という出来事は、キリスト教会をメチャクチャに傷つけるような、これ以上は考えられないスキャンダラスな事 件です。しかし大変な神秘ではありますが、弟子たちはこの試練をくぐり抜ける中で、彼の裏切りは実は旧約聖 書に預言されていたことであり、神のご計画には何の狂いもなかったことを知ることになります。このことを通 して、人間の目から見て絶望でしかない状況に囲まれても、主はそのはるか上に主権の御手をしっかり持ってお られて、ご自身の教会を守られるということを知るに至るのです。この結果、ユダの脱落は教会の信仰を弱める どころか、むしろ逆に強めることとなるのです。それゆえに私たちはたとえ今日、教会の中で驚くべき不名誉が 生じ、大混乱が生じても、――もちろん、人間的にはそのようなことは起きない方が良いのですが、――必要以上 に困惑することから守られつつ、そのことさえも御手に収め、最善を導かれる神に信頼して行くようにと導か れるのです。
さて、以上の箇所は私たちに対してどんなメッセージを語っているでしょうか。「使徒」という働きは独特なも のです。これはイエス様と共に過ごし、イエス様の生き証人としての役割を果たした彼らにだけ当てはまるもの です。今日、「使徒」と呼ばれる人はいませんし、再び使徒職が繰り返されることもありません。しかしこの 12使徒の召命の記事は、私たちのキリストに仕える生活についても大切なことを教えてくれます。私たちもま た、神による召しにあずかった者たちです。私たちも使徒たちと同じように救いへと召されました。そしてさら に神の国のために何らかの働きを担うように召されています。大切なことは、私たちも神からの召しを受けて、 それらの奉仕や働きをしているということです。自分の意志や考えでそのことをしているのではありません。こ の後、就職式をする長老・執事の働きもそうです。その他、CS教師もそうですし、司会や奏楽、昼食、掃除、 様々な奉仕もそうです。また名前が特についていない見えないところでの働きもそうです。それをするように なった経緯には色々なことがあると思いますが、私は神からその召しを受けているのだ、という考え方が 私たちの教会生活・信仰生活の基礎です。
そして、このこととセットで考えるべきは、神は召したなら、そのための賜物や力も授けて下さるということで す。今日の箇所で12使徒に召された時の彼らを見るだけなら、一体どこに望みがあると言うべきでしょうか。 しかし召した主は、その働きを全うするための恵みと力をも備えて下さるから、彼らには望みがあるのです。 ですから、私たちも彼らと同様、自分の生まれ持っている力だけを見つめてあれこれ考えるのではなく、 主がそのために注いで下さる力に期待し、また依存すべきです。もともと有能な人も、自分の力で神の国の 働きができると思ってはなりません。神の国は人間の力で完成させるものではありません。召した方はそれを 成し遂げるための力をさらに別に備えて下さっています。そのことに思いを高く上げ、上からの力と導きを 求めて行く。その時に私たちは、私たちの思いを超えた奉仕をささげて行くことができるのです。
私たちを救いへと召して下さった神は、一人一人を神の国のための働きにも召して下さっています。私たちは自 分に与えられている働きを改めて、神の召しによるものとして受け取り直したいと思います。そうしてそれを自 分の無きに等しい力によってするのではなく、上からの力を求めてなすことができますように。イエス様のよう にまず先に祈り、上からの助けと導きを頂きながら。イエス様は「わたしを離れては、あなたがたは何もするこ とができない」と言われました(ヨハネ15章)。私たちはイエス様と結ばれてこそ、初めて実を結ぶ働きをす ることができます。主に信頼し、主の恵みによって強くさせられてこそ、私たちは必要を覚えている人々を助 け、また人々を信仰へ導き、また人々がさらに敬虔な歩みに向かってより成長するために仕え、主の御国の完成 のための働きに邁進して行くことができるのです。