ルカの福音書 6:27-38
敵を愛しなさい
前回の20~26節では、どんな人が神の御前に幸いな人で、どんな人が哀れな人か、が述べられました。イエス様はそれに続いて、幸いな人は横の人間関係に おいてどう歩むべきかを今日の箇所で語られます。27~28節:「しかし、いま聞いているあなたがたに、わ たしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。あなたをのろう者を祝福し なさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。」 これは私たちにとってある意味で最も聞きたくない御言 葉でしょう。なぜなら私たちの生まれながらの性質はこの正反対だからです。「敵」に対する私たちの自然な反 応は、その人にやり返すということ。憎む者には憎み返す。のろう者にはのろいの言葉を返す。侮辱する者には 100倍のひどい言葉で侮辱し返す。ここで特に考えられているのは22節との関係です。イエス様に従って生 きようとするなら、その人はこの世で人々から憎まれ、除名され、辱められ、あしざまにけなされます。そうい う相手に対して私たちはどんな態度を取るべきか。イエス様は何と、愛しなさい、善を行ないなさい、祝福しな さい、とりなしの祈りをしなさい、と言うのです。さらには29~30節:「あなたの片方の頬を打つ者には、 ほかの頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。すべて求める者には与えなさ い。奪い取る者からは取り戻してはいけません。」
もちろん私たちはこれらを行なう際、他にも考慮すべきことはあります。参考になるのはイエス様の実例です。 イエス様は十字架前夜、大祭司の前で尋問された時、そばに立っていた役人から平手で打たれたことがありまし た。その時、イエス様はもう片方の頬を差し出しませんでした。むしろこう言われました。「もしわたしの言っ たことが悪いなら、その悪い証拠を示しなさい。しかし、もし正しいなら、なぜ、わたしを打つのか。」 なぜ イエス様は他の頬を向けなかったのでしょうか。それはもしそのようなことをしたら、相手は益々つけ上がって 悪に悪を重ねるだけだからです。あるいはイエス様は30節で「すべて求める者には与えなさい」と言われまし たが、常に文字通りこれを実行したらどうなるでしょうか。この礼拝が終わった後、誰かがある人に「あなたが 持っているそのバックは素敵ですね。それを私に下さい。」などと言ったら大変です。その人はそれをあげなけ ればならなくなります。あるいは泥棒が家にやって来て、お宅の車を下さい、家を下さい、財産全部を下さいと 願い出たら、それを全部あげなければならなくなります。イエス様はそのような無秩序の世界を奨励しているわ けではありません。
では、イエス様はここで何を言っているのでしょうか。それは私たちは常にこのような心の用意を持つというこ とです。片方の頬を打たれたら、カーッとなって相手の頬を打ち返してやりたいと考えるのが私たちです。しか しその時、打たれていないもう片方の頬も相手の前に差し出す心の用意を持つということです。もちろんイエス 様のように、正義のために「なぜあなたはそのようなことをするのか」と時と場合に応じて訴えることも必要で しょう。しかしイエス様は決して個人的な怒りや復讐心から、その言葉を発されたのではありませんでした。で すから私たちも自分は個人的な復讐心から解放されてその態度を取っているのだろうか、理屈をつけて相手に対 する恨みを晴らそうとしてはいないか、自分は相手を愛し、善を行ない、祝福し、祈るという戒めに従うことと セットで、このことをしようとしているだろうか、と自らに問うてみることが必要です。
こういうイエス様の命令を一言でまとめるなら31節になります。「自分にしてもらいたいと望むとおり、人に もそのようにしなさい。」 これは黄金律、ゴールデンルールと呼ばれる御言葉です。私たちは普段どんなルー ルによって生活しているでしょうか。私たちの多くが無意識に生きているルールはこれでしょう。他の人が自分 にしたように私も相手の人に対してする。ですから憎む者には憎み返し、のろう者にはのろいの言葉を返し、侮 辱する者には侮辱し返すのです。これは相手の態度に依存する生き方です。それは善を行なうことにおいてもそ うです。32~34節:「自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょ う。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからと いって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、同じことをしています。返してもらう つもりで人に貸してやったからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。貸した分を取り返すつ もりなら、罪人たちでさえ、罪人たちに貸しています。」 私たちは良い友達をたくさん持っているかもしれま せん。しかしなぜ私は良い友達をたくさん持っているのでしょう。それはイエス様がここで言っているように、 その友達が自分に良くしてくれるからではないでしょうか。その人が私を認め、私を尊び、私が喜ぶような態度 で接してくれるからうまく付き合えているだけ。そう考えると、思っていた以上に、自分は自己中心的な歩みを しているに過ぎないことが見えて来ます。結局、相手が自分に良くしてくれる時だけ、私も相手に良くしている のです。そうでない時は、私も相手に善を行なわない。むしろやり返す。そのように相手に依存する生き方でな く、自分がしてもらいたい通りに、他の人にもしなさい、とイエス様は言われるのです。相手が自分に何をした かによって自分の行動を決めるのではなく、自分ならどうしてもらいたいかを考え、善のみを相手に行なう。た とえ相手が自分を迫害し、のろい、侮辱する敵であったとしても、です。
私たちはこの言葉を聞く時、そんなことは私には到底不可能だ!と叫びたくなります。これは非現実的な教え だ、誰がこんな高尚な生き方ができるだろうか、と文句を言いたくなります。しかしイエス様は35~36節 で、どういう視点でこの勧めを語っておられるのかをはっきり示しておられます。それはあなたがたは天の父の 子どもとされた者たちなのだから、そういう者らしい特性を発揮するように!ということです。イエス様は単な る道徳的な勧めをしているのではなく、あなたがたの天の父を映し出す生活をせよ!と言っているのです。です からまず私たちがすべきことは、天の父の姿をしっかり見つめることです。35節に「いと高き方は、恩知らず の悪人にも、あわれみ深いからです。」とあります。マタイの福音書の山上の説教で、イエス様はこう言ってい ます。「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる からです。」 もし神が私たちの態度に従ってある人には太陽を上らせ、ある人にはそうしなかったらどうなる でしょう。旧約聖書にはいくつか参考になる記事があります。たとえば神はイスラエルをエジプトから導き出さ れる時、エジプト全土には激しい雹が降らせて多くの生き物や作物を打ったのに、イスラエルが住むゴシェンの 地ではそうされませんでした。またエジプト全土が三日間闇に包まれ、誰も立つことも顔を見ることもできな かった時、イスラエルの住むところにだけは光がありました。あるいは士師記におけるギデオンの祈りもそうで す。ある晩は彼が敷いた羊の毛の上にだけ夜露が降りるようにし、他の地面は一切乾いている状態にされ、次の 日には逆に地の表全部が夜露で濡れていたのに、彼が置いた羊の毛だけは全く乾いているようにされました。で すから神はしようと思えば好む人にだけ太陽の光を届け、そうでない人は暗やみの中に放置することもできるの です。また好む人にだけ天からの雨を降らせ、反抗する者には一切雨を与えないこともできるのです。なのに神 はそうなさらない。それはなぜか。ここでイエス様が述べているただ一つの理由は、神は恩知らずな悪人をもあ われんでおられるから、ということです。
私たちはこの「恩知らずな悪人」を自分とは関係のない他の人のことだと考えることはできません。実にこのよ うな神の大きなあわれみによって、私たちは救いを頂いた者たちです。私たち自身、この神のあわれみを受けて 今日も生かされ、しかも永遠のいのちにあずかっています。
そんな私たちにとって素晴らしい事実は、私たちはこの天の父にならう歩みへ召されているということです。子 は親に似るものです。見た目でもそうですし、話し方や振る舞い方もそうです。ある牧師の家に電話した時、そ の電話に出た人が先生なのか、その子どもなのか、判別できないことがしばしばあります。そして慌ててしま い、こちらから電話をかけておきながら「あの~、どちら様ですか」と逆に聞いてしまうことも・・。人間の親 は不完全なところが多くあるので、子どもは親に似ていると言われても嬉しくないかもしれません。しかしここ にあるのは、父なる神に似る!ということです。これはビックリするような光栄な招きに他なりません。このよ うに歩みができるための道は一つしかないでしょう。それは父なる神と日々共に歩むことです。父なる神と交わ り、そのお姿を見つめ、その素晴らしさを味わい、その愛とあわれみに自分自身が日々養われ続けること。そう いう中でこそ、子が父に自然と似て行くように、私たちはいと高き方を少しずつでも私たちの歩みにおいて映し 出す者へと導かれて行くことができるのです。
最後に見たいのは、このように歩む者への祝福です。35節に「そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばら しく」とあります。その報いの一つとして35節に「あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。」とあり ます。すでにイエス・キリストを信じた人は神の子どもですが、このイエス様の命令に従うことによっていよい よいと高き方の子どもらしい者へ変えられて行くのです。父なる神といよいよ一つ心の者となり、父なる神を鏡 で反映するような子どもとなって行くことほどに素晴らしい祝福は他に考えられません。
また、37~38節も、この教えに従った者への祝福が語られている部分と見ることができます。新改訳では 38節に「人々は量りをよくして、云々」と訳されていますが、ギリシャ語の原文に「人々は」と言う言葉はあ りません。むしろこの37~38節は、神が私たちにして下さることを語っている部分です。私たちが他の人を さばかず、罪に定めず、寛大に赦し、また気前良く与えるならどういうことが起きるでしょう。38節で神は 「量りをよくして、押し付け、揺すりいれ、あふれるまでにして、ふところに入れて」下さる、とあります。こ れは穀物を計量カップで量るイメージの言葉です。私たちが敵を赦し、気前良く人に与えるなら、神は私たちを 祝福するために量りをまず穀物の中に押し付け、そのカップにたくさん入れるために袋の中で揺すり入れ、すり 切り一杯どころかあふれるばかりに汲みとって、私たちの懐に入れてくださる。ですから私たちが他人にこのよ うにする時、やがての自分のためにとてつもない祝福を積み上げることになります。神は私たちが他人にした以 上の祝福をもって私たちに報いてくださるのです。それほどに神は私たちが神の子どもとして、ご自身を映し出 す歩みをすることを大変喜ばれるのです。
私たちは人々からひどいことをされた時、つい同じように、いやそれ以上に相手にやり返し、相手を倒そうとす しますが、それは相手と自分だけの小さな世界で生きることです。またそれは相手に自分の人生の主導権を握ら れ、支配され、相手にやり返すように強いられるという不自由な世界で生きる人生です。しかし私たちはもっと 大きな次元で生きるように召されています。それはあらゆる人への対処において父なる神の子どもとされている ことを証しする生活です。相手が自分に何をしようと、それに基づいてではなく、父なる神に範を取って、その 子どもらしい歩みをして行くことです。私たちのこの新しい週の生活もすべて、父なる神の子どもとしての特性 をいよいよ発揮し、発展させて行くための機会です。そのようにとらえて、私たちは喜んで今日のイエス様の戒 め、また招きの言葉に従って行きたい。そのように歩む人こそ、イエス様が言われたように、いと高き方の子ど もとなることができます。またその人に対して、神ご自身が、量りをよくして、押し付け、揺すり入れ、あふれ るまでにして懐に入れるという祝福を持って、豊かにその人を祝福してくださるのです。
前回の20~26節では、どんな人が神の御前に幸いな人で、どんな人が哀れな人か、が述べられました。イエス様はそれに続いて、幸いな人は横の人間関係に おいてどう歩むべきかを今日の箇所で語られます。27~28節:「しかし、いま聞いているあなたがたに、わ たしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。あなたをのろう者を祝福し なさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。」 これは私たちにとってある意味で最も聞きたくない御言 葉でしょう。なぜなら私たちの生まれながらの性質はこの正反対だからです。「敵」に対する私たちの自然な反 応は、その人にやり返すということ。憎む者には憎み返す。のろう者にはのろいの言葉を返す。侮辱する者には 100倍のひどい言葉で侮辱し返す。ここで特に考えられているのは22節との関係です。イエス様に従って生 きようとするなら、その人はこの世で人々から憎まれ、除名され、辱められ、あしざまにけなされます。そうい う相手に対して私たちはどんな態度を取るべきか。イエス様は何と、愛しなさい、善を行ないなさい、祝福しな さい、とりなしの祈りをしなさい、と言うのです。さらには29~30節:「あなたの片方の頬を打つ者には、 ほかの頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。すべて求める者には与えなさ い。奪い取る者からは取り戻してはいけません。」
もちろん私たちはこれらを行なう際、他にも考慮すべきことはあります。参考になるのはイエス様の実例です。 イエス様は十字架前夜、大祭司の前で尋問された時、そばに立っていた役人から平手で打たれたことがありまし た。その時、イエス様はもう片方の頬を差し出しませんでした。むしろこう言われました。「もしわたしの言っ たことが悪いなら、その悪い証拠を示しなさい。しかし、もし正しいなら、なぜ、わたしを打つのか。」 なぜ イエス様は他の頬を向けなかったのでしょうか。それはもしそのようなことをしたら、相手は益々つけ上がって 悪に悪を重ねるだけだからです。あるいはイエス様は30節で「すべて求める者には与えなさい」と言われまし たが、常に文字通りこれを実行したらどうなるでしょうか。この礼拝が終わった後、誰かがある人に「あなたが 持っているそのバックは素敵ですね。それを私に下さい。」などと言ったら大変です。その人はそれをあげなけ ればならなくなります。あるいは泥棒が家にやって来て、お宅の車を下さい、家を下さい、財産全部を下さいと 願い出たら、それを全部あげなければならなくなります。イエス様はそのような無秩序の世界を奨励しているわ けではありません。
では、イエス様はここで何を言っているのでしょうか。それは私たちは常にこのような心の用意を持つというこ とです。片方の頬を打たれたら、カーッとなって相手の頬を打ち返してやりたいと考えるのが私たちです。しか しその時、打たれていないもう片方の頬も相手の前に差し出す心の用意を持つということです。もちろんイエス 様のように、正義のために「なぜあなたはそのようなことをするのか」と時と場合に応じて訴えることも必要で しょう。しかしイエス様は決して個人的な怒りや復讐心から、その言葉を発されたのではありませんでした。で すから私たちも自分は個人的な復讐心から解放されてその態度を取っているのだろうか、理屈をつけて相手に対 する恨みを晴らそうとしてはいないか、自分は相手を愛し、善を行ない、祝福し、祈るという戒めに従うことと セットで、このことをしようとしているだろうか、と自らに問うてみることが必要です。
こういうイエス様の命令を一言でまとめるなら31節になります。「自分にしてもらいたいと望むとおり、人に もそのようにしなさい。」 これは黄金律、ゴールデンルールと呼ばれる御言葉です。私たちは普段どんなルー ルによって生活しているでしょうか。私たちの多くが無意識に生きているルールはこれでしょう。他の人が自分 にしたように私も相手の人に対してする。ですから憎む者には憎み返し、のろう者にはのろいの言葉を返し、侮 辱する者には侮辱し返すのです。これは相手の態度に依存する生き方です。それは善を行なうことにおいてもそ うです。32~34節:「自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょ う。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからと いって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、同じことをしています。返してもらう つもりで人に貸してやったからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。貸した分を取り返すつ もりなら、罪人たちでさえ、罪人たちに貸しています。」 私たちは良い友達をたくさん持っているかもしれま せん。しかしなぜ私は良い友達をたくさん持っているのでしょう。それはイエス様がここで言っているように、 その友達が自分に良くしてくれるからではないでしょうか。その人が私を認め、私を尊び、私が喜ぶような態度 で接してくれるからうまく付き合えているだけ。そう考えると、思っていた以上に、自分は自己中心的な歩みを しているに過ぎないことが見えて来ます。結局、相手が自分に良くしてくれる時だけ、私も相手に良くしている のです。そうでない時は、私も相手に善を行なわない。むしろやり返す。そのように相手に依存する生き方でな く、自分がしてもらいたい通りに、他の人にもしなさい、とイエス様は言われるのです。相手が自分に何をした かによって自分の行動を決めるのではなく、自分ならどうしてもらいたいかを考え、善のみを相手に行なう。た とえ相手が自分を迫害し、のろい、侮辱する敵であったとしても、です。
私たちはこの言葉を聞く時、そんなことは私には到底不可能だ!と叫びたくなります。これは非現実的な教え だ、誰がこんな高尚な生き方ができるだろうか、と文句を言いたくなります。しかしイエス様は35~36節 で、どういう視点でこの勧めを語っておられるのかをはっきり示しておられます。それはあなたがたは天の父の 子どもとされた者たちなのだから、そういう者らしい特性を発揮するように!ということです。イエス様は単な る道徳的な勧めをしているのではなく、あなたがたの天の父を映し出す生活をせよ!と言っているのです。です からまず私たちがすべきことは、天の父の姿をしっかり見つめることです。35節に「いと高き方は、恩知らず の悪人にも、あわれみ深いからです。」とあります。マタイの福音書の山上の説教で、イエス様はこう言ってい ます。「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる からです。」 もし神が私たちの態度に従ってある人には太陽を上らせ、ある人にはそうしなかったらどうなる でしょう。旧約聖書にはいくつか参考になる記事があります。たとえば神はイスラエルをエジプトから導き出さ れる時、エジプト全土には激しい雹が降らせて多くの生き物や作物を打ったのに、イスラエルが住むゴシェンの 地ではそうされませんでした。またエジプト全土が三日間闇に包まれ、誰も立つことも顔を見ることもできな かった時、イスラエルの住むところにだけは光がありました。あるいは士師記におけるギデオンの祈りもそうで す。ある晩は彼が敷いた羊の毛の上にだけ夜露が降りるようにし、他の地面は一切乾いている状態にされ、次の 日には逆に地の表全部が夜露で濡れていたのに、彼が置いた羊の毛だけは全く乾いているようにされました。で すから神はしようと思えば好む人にだけ太陽の光を届け、そうでない人は暗やみの中に放置することもできるの です。また好む人にだけ天からの雨を降らせ、反抗する者には一切雨を与えないこともできるのです。なのに神 はそうなさらない。それはなぜか。ここでイエス様が述べているただ一つの理由は、神は恩知らずな悪人をもあ われんでおられるから、ということです。
私たちはこの「恩知らずな悪人」を自分とは関係のない他の人のことだと考えることはできません。実にこのよ うな神の大きなあわれみによって、私たちは救いを頂いた者たちです。私たち自身、この神のあわれみを受けて 今日も生かされ、しかも永遠のいのちにあずかっています。
そんな私たちにとって素晴らしい事実は、私たちはこの天の父にならう歩みへ召されているということです。子 は親に似るものです。見た目でもそうですし、話し方や振る舞い方もそうです。ある牧師の家に電話した時、そ の電話に出た人が先生なのか、その子どもなのか、判別できないことがしばしばあります。そして慌ててしま い、こちらから電話をかけておきながら「あの~、どちら様ですか」と逆に聞いてしまうことも・・。人間の親 は不完全なところが多くあるので、子どもは親に似ていると言われても嬉しくないかもしれません。しかしここ にあるのは、父なる神に似る!ということです。これはビックリするような光栄な招きに他なりません。このよ うに歩みができるための道は一つしかないでしょう。それは父なる神と日々共に歩むことです。父なる神と交わ り、そのお姿を見つめ、その素晴らしさを味わい、その愛とあわれみに自分自身が日々養われ続けること。そう いう中でこそ、子が父に自然と似て行くように、私たちはいと高き方を少しずつでも私たちの歩みにおいて映し 出す者へと導かれて行くことができるのです。
最後に見たいのは、このように歩む者への祝福です。35節に「そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばら しく」とあります。その報いの一つとして35節に「あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。」とあり ます。すでにイエス・キリストを信じた人は神の子どもですが、このイエス様の命令に従うことによっていよい よいと高き方の子どもらしい者へ変えられて行くのです。父なる神といよいよ一つ心の者となり、父なる神を鏡 で反映するような子どもとなって行くことほどに素晴らしい祝福は他に考えられません。
また、37~38節も、この教えに従った者への祝福が語られている部分と見ることができます。新改訳では 38節に「人々は量りをよくして、云々」と訳されていますが、ギリシャ語の原文に「人々は」と言う言葉はあ りません。むしろこの37~38節は、神が私たちにして下さることを語っている部分です。私たちが他の人を さばかず、罪に定めず、寛大に赦し、また気前良く与えるならどういうことが起きるでしょう。38節で神は 「量りをよくして、押し付け、揺すりいれ、あふれるまでにして、ふところに入れて」下さる、とあります。こ れは穀物を計量カップで量るイメージの言葉です。私たちが敵を赦し、気前良く人に与えるなら、神は私たちを 祝福するために量りをまず穀物の中に押し付け、そのカップにたくさん入れるために袋の中で揺すり入れ、すり 切り一杯どころかあふれるばかりに汲みとって、私たちの懐に入れてくださる。ですから私たちが他人にこのよ うにする時、やがての自分のためにとてつもない祝福を積み上げることになります。神は私たちが他人にした以 上の祝福をもって私たちに報いてくださるのです。それほどに神は私たちが神の子どもとして、ご自身を映し出 す歩みをすることを大変喜ばれるのです。
私たちは人々からひどいことをされた時、つい同じように、いやそれ以上に相手にやり返し、相手を倒そうとす しますが、それは相手と自分だけの小さな世界で生きることです。またそれは相手に自分の人生の主導権を握ら れ、支配され、相手にやり返すように強いられるという不自由な世界で生きる人生です。しかし私たちはもっと 大きな次元で生きるように召されています。それはあらゆる人への対処において父なる神の子どもとされている ことを証しする生活です。相手が自分に何をしようと、それに基づいてではなく、父なる神に範を取って、その 子どもらしい歩みをして行くことです。私たちのこの新しい週の生活もすべて、父なる神の子どもとしての特性 をいよいよ発揮し、発展させて行くための機会です。そのようにとらえて、私たちは喜んで今日のイエス様の戒 め、また招きの言葉に従って行きたい。そのように歩む人こそ、イエス様が言われたように、いと高き方の子ど もとなることができます。またその人に対して、神ご自身が、量りをよくして、押し付け、揺すり入れ、あふれ るまでにして懐に入れるという祝福を持って、豊かにその人を祝福してくださるのです。