ルカの福音書 6:39-49

岩の上に土台を
ルカの福音書における「平地の説教」の終結部。説教を聞く時の一つの誘惑は、「いい話を聞いた、感銘を受け た」と言って、それで終わりにしてしまうことです。しかしそれではその説教は何の益ももたらさず、祝福はそ の人から逃げて行ってしまいます。素晴らしい説教者はそうならないように、必ず最後に聞いたことを実践する ように勧告します。今日の箇所には色んなたとえ話が記されていますが、その根本に流れているテーマはこれで しょう。それは自分自身がまずこの教えに真摯に生き抜かなければならない。それを行なうことによって神が下 さる変革の恵みにあずかる者でなければならない。

まず、39節でイエス様は「いったい、盲人に盲人の手引きができるでしょうか。」と言われます。仰りたいこ とは、自分自身の目がまず見えていなければならないということでしょう。そうでなければ、導こうとする人も ろともにやがて穴に落ちてしまう。40節もそうです。「弟子は師以上には出られない。十分に訓練を受けた者 はみな、自分の師くらいにはなるけれども」と言われています。つまり先生のレベルが非常に重要であるという ことです。人を導こうとするなら、まず先生の目が開かれていなければならない。ですからまず自分は本当に霊 的に目が開かれている者なのだろうかと問い、イエス様によって真に目が開かれた者となることを求めて行くべ きであるということです。

41~42節の「ちりと梁のたとえ」も同じでしょう。私たちは他人の欠点を見つけると、すぐにそれを指摘し てあれこれ論じたくなります。「あの人は自分の目にちりが入っているのが分からないのだろうか?あれを取れ ばもっと良くなるだろうに!私が教えてあげた方が良いだろうか?」 そしてついには「兄弟よ。あなたの目に はちりが入っていますよ。私にそれを取らせてください。」と自分の手を伸ばそうとする。しかしそんな私たち にイエス様は仰るのです。「偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。」 ちりが目の中に入ること はあっても、家を建てるための梁が目の中に入るはずはありません。しかしこのような誇張が誇張ではないほど に、私たちは他人の小さなことには厳しい一方、自分に対してはあきれるほど甘い判断しか下さない、というこ とです。ですから私たちに必要なことは、イエス様が言っているように、まず自分の目から梁を取りのけること です。人のことを云々する前に、自分自身のもっと大きな問題を扱う。目は体の中でもデリケートな部分です。 そんな目に無造作に手を突っ込まれたら大変です。そうする人は、自分の目にまず手術を施し、その痛みを知っ ている人でなくてはなりません。そういう人でこそ、良く見える目と、真の思いやりを持って、相手の真の益の ために仕えることができるのです。

43~45節の「木と実」のたとえも同じでしょう。私たちは正しい教えを語ることができるかもしれません。 しかし正しい教えを語ることができても、本当にその人がその教えを愛し、その真理に生きているかどうかは、 その人が結んでいる実を見れば分かります。何気ない会話の端々に、その表現の仕方に、その表情に、あるいは 本人さえも気がつかないふとした行動において。その外側に現れて来るものに、その人の内側の状態が映し出さ れているのです。そう聞くと、私たちは自分の行動はどうだろうか、とちょっと怖くなるかもしれません。そし てなるべくぼろを出さないように静かにしていましょう、と思うかもしれません。しかし大事なことは外側の行 動を表面的に繕うことではなく、私たちが良い木になること、あるいは良い倉を持つ者になることです。外側の 体裁ではなく、実質的な内側の変革を求めることです。そうするなら、そこからは自然と良い実が外側に生み出 されて来るでしょうし、心の良い倉からは良いものが溢れ出て来ることになるでしょう。ではどうしたら、その ような人になって行くことができるのでしょうか。そのための道が最後46~49節の「家を建てた二人の人」 のたとえにおいて示されています。

46節:「なぜ、わたしを『主よ。主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。」 私たちに 起こりやすい危険もこのことです。「主よ、主よ」という言葉は繰り返されています。ここには情熱的要素があ ります。礼拝する時は一生懸命主の名を呼びます。ところが礼拝が終わって家に帰ると、聞いた御言葉をすっか り忘れる。それを生活の中で行なわない。そういう人は大変危険であるとイエス様はこのたとえを語っていま す。ここに家を建てた二人の人がいます。この二つの家に見た目の大きな違いはありません。片方が鉄筋コンク リートで、片方がプレハブだったとは書いてありません。あるいは片方は高台にあって、片方は中州にあったと も書かれていません。どちらの家も同じような所に同じように立っていました。しかし*隠れた違いが明らかに なったのは洪水の日です。その日に、自分は御言葉をただ聞くだけの者だったのか、それとも御言葉を聞いて、 それを行なう歩みをして来た者だったのか、の違いが明らかにされるのです。ここで注目に値することは、どち らの家にも試練は来たということです。御言葉を守り行なう生活をしていれば洪水は来ない、そこには平坦な道 だけがある、とは聖書は言いません。ですから私たちは自分が突然試練に見舞われた時に、私は信仰を持って歩 んでいるのに、なぜこんなことが起きるのだろうかといぶかしく思ってはならないのです。むしろ私たちは、こ の時こそ自分の信仰の力がいよいよ試され、輝き現れる時が来たのだ、と考えるべきです。

さて、この洪水の結果、二つの家はどうなったでしょうか。まず49節の「聞いても実行しない人」は48節の 人に比べて、骨折る作業を省略しています。48節の人は、「地面を深く掘り下げる」という労苦を払っていま すが、49節の人はそれをしていません。すなわち彼は楽な歩みをして来た。手抜き工事をして来た。家が素敵 に建て上げられれば、土台がそれほどしっかりしていなくても、当面は十分やって行ける。そんなに心配するこ とはない、洪水はそうそう起きやしない、と考える。しかし49節:「川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒 れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」 その日になってその人は自分が聞いて来た御言葉が 全然自分のものになっていなかったことを発見します。天気が晴れていて、穏やかな日には、自分もうまく生活 できているように思えた。ところが試練の日に、自分はより頼むべきものを何も持っていなかったのだというこ とに気づかされるのです。耳では聞いていたイエス様の教えも、それに行なって来なかった自分にとっては何の 支えにもならないことに直面させられる。そしてなす術がないまま、洪水に翻弄され、流されて行く。

一方のイエス様のことばを聞いて、それを行なう人はどうでしょうか。こちらの人は、まず「地面を深く掘り下 げ」ています。すなわちこの人は御言葉を聞き、それを行なうことにおいて骨折っています。ここにクリスチャ ン生活とは、深く掘り下げ、格闘する生涯であることが示されています。たとえば聖書を理解することにおいて もそうです。聖書のことばはどれも深い内容を持っていて、表面的にしか読まないと何を言っているのか分かり ません。そういう聖書との取り組みを面倒に感じて、適当にしかみことばに接しない生活を送るのか、それとも 御言葉の意味を熱心に追求する生活をするのかどうか。祈りも然りです。食事の時にただ形式的に祈るだけの生 活をするのか、あるいはそうでない時も、自分で定めた時に、事あるごとに主に近づき、忍耐をもって祈り続け る生活をしているか否か。また御言葉に従って罪深い欲を殺す歩みをしているか。人間は罪を犯さざるを得ない のだ、これくらいはいいのだと言って罪を許容する生活をするのか、それとも罪を自覚したらすぐに悔い改め、 やがての完全な聖めに向かって少しずつでも前進する歩みをしているか否か。その他、他者のためのとりなし、 証をすること、御国のために自分をささげて仕えること、自分の持ち物をささげて行くこと、など色々ありま す。これらの取り組みを通して、地面を深く掘り下げる人がしていることは「岩の上に土台を据える」ことで す。これはまことの岩であるイエス様にしっかり自分を結び付けることです。ただイエス様を信じると口で言う だけでなく、その言葉に従うことを通してイエス様に真に結ばれることです。御言葉を行なう生活はイエス様に 信頼し、イエス様に助けられ、イエス様に力を与えて頂かなければできることではありません。その人は洪水の 日にどうだったでしょう。48節:「洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられてい たから、びくともしませんでした。」 洪水が来た時、人間的にはその人にとっても危機的な時だったでしょ う。しかし彼はその中で、自分がこれまでも信頼して来たイエス様によって自分は大丈夫だという確信を持てる のです。2テモテ1章12節:「私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せした ものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。」 その人はそれまでの主に従 う生活の中で主ご自身を味わい知って来たので、その方がこの時も必ず自分と共にいて助け、導いてくださると 確信していることができる。今まで私を支え、恵みの内に導いてくださった主が、この時も私を守り、ここから も益を導いてくださるとより頼むことができる。それゆえに動じないで立っていることができるのです。ローマ 書8章38~39節:「死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者 も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引 き離すことはできません。」 そしてその通りに、イエス様はその人を導いてくださるのです。

果たして私たちはどうでしょうか。穏やかな晴れの日は何の違いもないように思われるかもしれません。しかし 違いが現れるのは試練の日です。私たちはある日突然、健康を失うかもしれません。あるいは美貌を失うかもし れません。あるいは家や財産を一晩で失うかもしれません。また自分が支えにして来た大切な友人や家族を失う かもしれません。そして最後に私たちは自分自身の「死」に直面しなければなりません。私たちはその時に絶望 の海に投げ込まれるのではなく、自分はより頼むべき岩を持っているということに慰められる者でしょうか。確 かな岩の上に自分の家を建てて来ることができたということに心からの感謝を覚えることができる者でしょう か。この祝福にあずかるために必要なことは、私たちが御言葉を行なう生活をして行くということです。イエス 様の言葉を聞いて、イエス様により頼みつつ、それを行なう生活へと進んで行くということです。そういう人は 霊的に目が見える人となり、自分の目から梁を取り除いた者となり、また良い木となって良い実を結ぶ者へと変 えられて行きます。そして将来、どんな洪水が来ても、必ずそれらを乗り越えることができ、その日には自分が この信仰の道を歩んで来たことは何という祝福であったか、その価値をはっきりと知り、心からの感謝と賛美を もって主を礼拝する者へと導かれるのです。