ルカの福音書 7:1-10

ただ、おことばを
「ある百人隊長に重んじられているひとりのしもべが、病気で死にかけていた。」と今日の箇所は始まります。この百人隊長は、この地方の領主ヘロデ・アン ティパスに仕える百人隊長で、その肩書き通り、約100人の兵士たちを指揮する人物でした。その彼は自分の 一人のしもべが死にかけているという状況にありました。「しもべ」という言葉は「奴隷」とも訳される言葉で す。奴隷と言えば所有物のごとくに扱われても不思議ではありません。もはや役に立たなくなった弱い奴隷一人 がいなくなったところで・・・と見捨てられてもおかしくありません。しかしこのしもべは百人隊長に重んじら れていました。百人隊長は彼を大切にし、特別の愛情を注いで来たようです。その大事な一人が失われようとし ていた。そういう中で彼は、「イエスのことを聞いた」と3節にあります。彼はこれまでにイエス様の教えとみ わざについて聞いたことがあったのでしょう。そのイエス様が近くまで来られたというニュースを聞きつけて、 助けを求めたのです。

その際、イエス様のもとにはユダヤ人の長老たちが送られました。彼らは百人隊長と同じ地域に住む長老たちで あったと考えられます。なぜ異邦人のために、ユダヤ人の長老たちがわざわざお願いに来るのか、と私たちは少 し不思議な感じを持つかもしれません。読んで行くと分かりますように、長老たちは力で強制されてイエス様の もとに送られたわけではありませんでした。百人隊長としては、自分たち異邦人より、ユダヤ人の長老に行って もらった方が、より聞いて頂くことができると判断したことはあったのでしょう。しかし長老たちは嫌々ながら ではなく、心から熱心に彼のためにとりなしています。4~5節:「イエスのもとに来たその人たちは、熱心に お願いして言った。『この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。この人は、私たちの国民を愛 し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。』」 普通、異邦人はユダヤ人から、まことの神を知らない汚 れた人たちと軽蔑されていました。ところがこの長老たちは言うのです。「この人は違います。この人は特別の 待遇を受けて然るべき人です!」と。この百人隊長はユダヤ人と対立的な関係になかったばかりか、彼らの信仰 に理解を持って接していました。そしてさらにユダヤ人のために会堂まで建ててくれました。もし彼がユダヤ教 の洗礼を受けた改宗者だったら、長老たちはそのことにも触れたはずでしょう。しかしそうしていないことから 見ると、彼はまだそこまでは行っていなかった人だと思われます。しかし長老たちは懇願します。「この人は異 邦人ではあるけれども、どうかあわれみを施してください。この人は事実、そうされる資格がある人なので す!」と。この求めを聞いて、イエス様は彼らと共に出発されました。

そうして、百人隊長の家からあまり遠くないところまで来た時、別の使いが百人隊長から遣わされます。ここに 初めて百人隊長の言葉が記されます。百人隊長その人は今日の箇所には出て来ないのですが、遣わされたこの友 人たちの言葉の中に、私たちは後にイエス様に賞賛される百人隊長の信仰を見ることができます。

まず、彼が語ったことは「主よ。わざわざおいでくださいませんように。」ということです。表面的に読むと、 これは3節と矛盾します。3節では、「しもべを助けに来てくださるようお願いした」とあるのに、いざ近くま で来ると「来ないでください!」と言っている。一体来てもらいたいのか、来てもらいたくないのか、どっちな のか。もちろん彼は来てもらいたいと思って願ったのです。しかしイエス様がいよいよ近くまで来られたと知っ た時に彼が思ったことは、自分はふさわしくない人間である、ということです。自分はイエス様の御前に出るに ふさわしくない人間であり、同じ屋根の下にイエス様をお入れする資格はない。ここに先のユダヤ人の執り成し の言葉とのコントラストがあります。ユダヤ人たちは、「この人こそふさわしい人です!この人こそ資格があり ます!」とイエス様に推奨しましたが、当の本人は「私はふさわしくない人間です。資格のない人間です。」と 言っている。このギャップに私たちが百人隊長から見習うべき健全な自己評価があります。私たちはともする と、この反対になりやすい。すなわち周りの人は誰も評価していないのに、自分では自分を特別に重要な、価値 の高い人間であると自負している。そしてチャンスを見つけては自分を売り込み、持ち上げ、資格ある人間であ ることを認めさせて、当然の権利として色々な祝福を受け取ろうとする。しかしこの百人隊長はそうでありませ ん。周りの人が皆、「彼こそふさわしい人間だ、彼こそ資格がある人だ。」と言っているのに、本人は「私はふ さわしくない。資格がない人間です。」と言っている。これはあのバプテスマのヨハネが、私は主のくつのひも を解く値打ちさえないと告白したことと同じでしょう。

しかし、素晴らしいことは、私は資格がない人間だからイエス様に願いを聞いて頂くことはできない、とは彼は 考えなかったことです。彼は自分の貧しさを正直に告白しつつも、そんな者をあわれんでくださるイエス様を見 上げています。そしてこう述べました。7~8節:「ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。 ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。と申しますのは、私も 権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者 に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」 彼が願っ たことは「ただ、おことばをいただかせてください。」ということです。「それだけで十分です!」ということ です。彼はこのことをいかにも軍人らしいたとえで表現しています。彼は一介の百人隊長ですが、上から権威を 着せられ、自分の下には従うべき兵士たちを持っています。その権威を持つ者として、一言発するだけで下にあ る者を動かすことができる。「行け」と言えばその兵士は必ず行くし、他の者に「来い」と言えば必ず来る。ま た「これをせよ」と言えば、必ず彼はそれをする。だからイエス様、あなたもお言葉を発して下さるだけで十分 なのです。私はそのことを経験を通して知っていますし、必ずそうなることを信じています、と彼は述べた。イ エス様はこのカペナウムの町で、安息日ごとに会堂で教え、またいくつもの癒しの御業を行なって来られまし た。百人隊長はその出来事を見聞きする中で、イエス様は自分が立っている権威よりもはるかに大きな権威、神 の権威の下に生きておられることを見たのです。自分は自分の働きを通してヘロデ・アンティパスの支配を確立 しているが、イエス様の周りでは自分が広げている支配とは比較にならない仕方で神のご支配が始まっている。 だからその偉大な権威を持つイエス様が一言命じてくださるなら、そのことは必ず起こる。わざわざここまでお いでいただなくても、このことを御心とし、そう仰っていただければ、私のしもべは癒されることができる。そ のように彼は信じたのです。

イエス様はこれを聞いて大変驚かれました。そして群衆に向かってこう言われました。「あなたがたに言います が、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」 イエス様にとって驚くべき要 素がここにはたくさんありました。まず百人隊長がイエス様に求めたこと。次に彼はふさわしいへりくだりを もってイエス様に近づいたこと。そしてイエス様の権威に対して優れた洞察と信仰を持っていたこと。そして彼 はイスラエル人ではなく、異邦人であったこと。イエス様は驚きをもって彼の信仰を喜ばれました。それゆえ、 彼の願いは彼が願った通り聞かれます。10節:「使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなって いた。」 これはこれまでのみわざよりもさらに偉大なみわざです。イエス様はこの百人隊長のしもべにまだ一 度も会ったことがありません。彼に触っていません。どんな人か見ていません。彼は死にかけていました。とこ ろがそんな彼をイエス様はたった一言で、離れた場所から癒してしまわれたのです。

イエス様が9節で群衆に向かって「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも 見たことがありません。」と言われたのは、単にご自身の驚きを表すためだけではなく、このりっぱな信仰に私 たちも倣うように招くためでもあったでしょう。今日の箇所のまとめとして、百人隊長の信仰から学ぶべきこと を二点、最後に申し上げたいと思います。その一つ目は、へりくだりをもって神に近づくということです。今日 の箇所から改めて教えられることは、私たちは自分の立派さを土台にして神に近づく必要はないということで す。私たちは百人隊長のように、自分は資格がない人間であることを率直に認めて良いのです。いやむしろそれ こそ、恵みを受ける道です。ヤコブ書4章6節:「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けにな る。」 自分は資格ある人間であると胸を張って近づく者を、神は退けられる。しかし自分の霊的な貧しさ認め て近づく者に、神はあわれみをかけてくださる。もちろんこれはへり下りが功績となるということではありませ ん。私たちは神の前に何もないのです。イザヤ書に「私たちの義はみな、不潔な着物のようです。」とありま す。しかし素晴らしい福音は、そういう自分であることを認め、悲しみ、告白して、なお神のあわれみに望みを かけて近づく者を、神は豊かに祝福してくださるということ。ですから私たちは自分を何か立派な者であるかの ように飾って神の前に出て行く必要はないのです。そのままの自分で、あわれんでくださる神を見上げて、へり くだって近づいて行けば良いのです。

そしてもう一つ、私たちが百人隊長から学ぶべきは、イエス様のとてつもなく偉大な権威に対する信頼です。私 たちも日々の生活の中で様々な困難にぶつかります。この時の百人隊長のように危機的な状況に直面する時があ ります。その時に私たちが見上げるべきは、百人隊長のように、イエス様こそ、このことの上にも権威を持って いるお方であるということです。イエス様はどのようにして私の状況を変えてくださることができるのでしょ う。それは「ただ、おことばによって」です。一言そのように発してくれさえすれば、そのようになるのです。 私たちの言葉は力がなく、口から発しても消えて行くだけのようです。そのため、私たちは言葉を語るだけでは 何にもならない、と思ったりします。しかしイエス様は違うのです。イエス様の言葉には権威があるのです。イ エス様はたった一言、そうなれ!と命じるだけで、私たちの状況を、その不思議かつ力強い御手で、劇的に変え てくださることができるのです。もちろんイエス様がこのような権威を持つのは、ただ神様であるからではあり ません。私たちのためにやがて十字架上で死に、私たちの罪の負債をすべて支払い、その犠牲を経て、今や望む 者に圧倒的な恵みの主権を発揮することができるお方となられたからです。私たちは様々な困難の中にあって、 どうしてこのとてつもない権威を持つお方に近づかないでいるべきでしょうか。どうして百人隊長のように、こ の力強い恵みの主権を持つお方に願い出ないままでいるべきでしょう。私たちも彼のように貧しい自分を告白し つつ、いつもこの方に近づきたいと思います。主よ、どうかこの私の問題のところにも来てください。主よ、ど うかあなたのおことばをいただかせてください。あなたはそのおことばだけで、すべてを動かす比類なき力を 持っておられる主であることを感謝します!と。主は決してへりくだって祈る者の祈りをさげすまれません。む しろその信仰から出た祈りを喜び、十字架を通して勝ち取った恵みの主権をもって最善の道を開き、その力強い 御手で私たちを救いと祝福の道へと導いて下さるのです。