ルカの福音書 7:11-17
泣かなくてもよい
イエス様はナインという町へ行かれます。この町は前回のカペナウムより、南西へ約30キロメートルほど行った町でした。そこに弟子たちと大勢の人の群れが 一緒に行った、と11節にあります。この人々は6章で見た「平地の説教」を聞いた人々だと思われます。彼ら は7章9節で、イエス様に「ついて来ていた群衆」と記されていましたが、そこからさらに30キロ以上の道を 歩かなければならないとしても、このお方が次には何を話し、どんなみわざをするだろうかと期待しながら、行 列をなすようにして、ナインの町までやって来たのでしょう。その時、この町から同じように行列をなして外に 出て来る人たちがいました。それは死人が担ぎ出され、町の外に運び出されるという行列でした。そういう意味 で、この町の門でまさに対称的な二つの大行列がバッタリ出くわしたことになります。
この葬儀の行列は特に悲しいものでした。この「死」によって取り残されたのは、すでにやもめとなっていた母 親でした。彼女にどういう過去があったのか分かりませんが、夫と死に別れ、それだけでも大変な生活を強いら れてきたでしょうに、さらに自分より先に息子を失う、という耐え難い困難に見舞われていました。しかもそれ はたった一人の息子でした。肉体的にも、精神的にも、彼女の支えとなり得るただ一人の肉親でした。その大切 な息子が若くして自分より先に死んでしまい、そのなきがらを人々の日常生活とは切り離された、町の外の墓に 葬るために運び出そうとしていました。これは最も悲しみが深い瞬間ではなかったでしょうか。葬儀に出席し て、棺のふたを閉ざして「出棺する」という時、遺族には別離が決定的なものとなる実感が重くのしかかってき ます。イエス様に付き従ってきた大勢の行列も、向こうからそのような行列が進んで来たのを見て、これはもう どうしようもない、ただなきがらに対し、また遺族の悲しみに対し、同情を表しつつ、静かにこれを迎えるより 他、何もできない。そう思って沈黙してしまったのではないかと思います。
そんな中、ルカが記していることは、イエス様は彼女を「かわいそうに思い」、彼女に近づいて行かれたという ことです。そしてこれが、今日の箇所を通してルカが私たちに伝えようとしている第一番目のことです。この 「かわいそうに思う」と訳されている言葉は、ご存知の通り、聖書の中では有名な言葉です。もとのギリシャ語 では「内臓」とか「はらわた」を意味する言葉から作られています。すなわち誰かの苦しみを見て、自分の内臓 やはらわたがよじれて痛むほどの激しい心の動きを表す言葉です。これと同じ言葉は、今後10章の「よきサマ リヤ人のたとえ」と、15章の「放蕩息子のたとえ」に出てきます。良きサマリヤ人のたとえでは、一人の旅人 が強盗に襲われて、道端に半殺しの状態に放置されますが、そこを通りかかったサマリヤ人が彼を「かわいそう に思って」介抱するという話が出てきます。また放蕩息子のたとえでは、弟息子が財産の分け前をもらって遠い 国で湯水のように財産を放蕩します。そして一文無しとなり、変わり果てた姿で父のところに戻って来たとこ ろ、その姿を遠くから発見した父親は「かわいそうに思って」走り寄り、彼を抱いて迎え入れます。いずれも相 手の置かれた状況に対して、はらわたが痛むほどの激しい思いを表現するものとして使われています。
私たちも似たような感情を持つことがあるかもしれません。胸が痛くなる、おなかが痛くなる、その人の苦しみ や悲しみを考えると、胃が痛くなって来て夜も眠れない…。このナインの町の人々も、そのような感情を持った のでしょう。ですから人々は大勢、彼女の列に付き添ったのです。しかしこの言葉について言われなければなら ないもう一つのことは、聖書でこの言葉は10回以上出て来るにもかかわらず、それらはいずれもイエス様にだ けしか使われていないことです。先ほど見ましたように、たとえ話で使われていることもありますが、その場合 もイエス様もしくは神様の愛を表すものとして使われています。つまりこの「かわいそうに思う」という言葉 は、私たち人間の一般的な感情としての同情やあわれみと比較して考えられるようなものではない、それとは別 のカテゴリーに入れられるべき、イエス様独特の深いあわれみを表す言葉であるということです。人々の付き添 いは確かにこの時の母親にとって大きな支えでしょう。しかし同時に、そこには限界があるのも事実ではないで しょうか。この母親にとって、この息子は地上に残された最後の望み、最後の慰め、最後の生きがいでした。そ の彼を失った悲しみを、一体誰が十分に想像できるでしょうか。一人息子が死んで担ぎ出されたこの時、それは 本人でなければ分からない、どうにも表現できない、誰とも分かち合うことのできない悲しみ、というものが あったのではないでしょうか。そういう彼女を、イエス様は他の誰がするよりもはるかに深い意味で憐れんで下 さるのです。
イエス様は彼女に慰めの言葉をかけ、御業をなして行かれます。注目に値することは、ここでは人間の側の信仰 が問われていないことです。彼女は涙で目をぬらすあまり、反対側からやって来るイエス様の存在を見ていな かったかもしれません。ある意味で、そうできる状況ではなかったのです。そんな彼女にイエス様の方から近づ いて、声をかけ、みわざをなして下さった。これは私たちにとって深い慰めではないでしょうか。私たちは調子 が良い時は、自分は立派な信仰生活を送っている、私は主に従う生活をしている、と思っているかもしれませ ん。しかし本当の試練や困難にぶつかると、私たちはまるで手足をもぎ取られたように動けなくなる時があるも のです。すべての望みを失って、力もなくなり、神様の名前を呼ぶことさえできない。しかしそんな時に、イエ ス様が私たちを深く憐れんで、その苦しみのただ中に来て下さる、そしていつの間にか私のそばにいて下さる。 このことを知ることは何という慰めでしょうか。
そして、この深いあわれみと共に今日の箇所が示しているもう一つのことは、イエス様は私たちの悲しみを根本 的に解決して下さるお方であるということです。イエス様は彼女に「泣かなくてもよい。」と語りかけられまし た。普通、このように語りかけられる人はいません。むしろこういう時は精一杯泣くより他ない、と思います。 しかしだからと言って、泣いている人に向かって改めて「泣きなさい」と言うのも不適切ですし、そういう場に ある時の私たちは、何と声をかけたら良いものか、途方にくれてしまいます。私たちの言葉の力のなさ、無力さ をしみじみと悟らされる時です。しかしイエス様は何と「泣かなくても良い」「泣く必要はない」「泣き続けて いるのをやめなさい」と語ることができました。それはご自身が、彼女の悩みに解決を与えることのできるお方 だからです。どのようにしてでしょうか。それは前回同様、ただ「お言葉によって」でした。
前回の百人隊長は、権威の上にある者は一言発するだけで下にある者を従わせることができると言い、すべての 上に主権を持つイエス様のお言葉によって、私のしもべは必ず癒されると告白しました。その通り、イエス様は 今日の箇所の14節でもただ、「青年よ。あなたに言う。起きなさい。」と語られただけです。その結果、死ん でいた彼は起き上がって、ものを言い始めます。ここに示されていることは、イエス様は病気やこの世の出来事 の上に権威を持つだけではなく、死の向こう側にも主権を持っておられるということです。病気にかかった人 は、たとえそれが重い病気でも、最後の瞬間までは望みを持ちます。しかし一旦死んでら、そうでありません。 どんなことにも挑戦を続ける人間でも、この死の前には黙って従うより他ないのです。しかしそのような死に対 しても、イエス様は主権を持っておられる、それをひっくり返すことができるということがここに示されていま す。
イエス様はそうしてこの青年を母親に返されます。イエス様はここに、同情以上のことをして下さいました。私 たちは誰かが深く同情してくれることによって、試練を乗り越え、立ち上がって行くことが可能になりますが、 そればかりでなく、悲しみの原因を取り除いてもらったなら、この母親の場合のように息子を自分の手に取り戻 すことができたなら、それほど願わしいことはありません。イエス様はそのように、私たちのあらゆる悲惨を取 り除くことができるということがここに語られているのです。単に心理的な意味で私たちを慰めて下さるばかり ではなく、すべての悲惨から私たちを完全に救い出して真の慰めを与えることができる、ということが示されて いるのです。
この御業に触れて、人々は言いました。16節:「人々は恐れを抱き、『大預言者が私たちのうちに現われ た。』とか、『神がその民を顧みてくださった。』などと言って、神をあがめた。」 人々の頭にあったのはエ リヤとエリシャの物語であったと考えられます。いずれも神の力によって死人を生き返らせたことがありまし た。エリヤは1列王記18章でツァレファテのやもめの子を、一方のエリシャは2列王記4章でシュネムの女の 子を生き返らせました。人々がそのかつての出来事を彷彿とさせるような預言者、いやそれを上回る大預言者が 現われた!と言ったとしても、不思議ではありません。また「神がその民を顧みて下さった。」という表現は、 エジプトに捕われていたイスラエルを神が顧みて下さった時のことを思い起こさせる言葉です。人々はそのよう に、イエス様の内に、神の新たな支配が力を持って臨んでいることを賛美したのです。そしてその噂は、17節 にありますように、周りの地方に広く伝わって行きました。
しかし、最後に短く考えてみたいことは、私たちはこのようなイエス様の力あるみわざを見て、ただイエス様は すごい、イエス様は偉大な力で私たちのあらゆる悩みを取り去って下さる、だから私たちもこのお方を信じよ う!と言うだけで良いのか、ということです。もう少し後の9章18節からの部分で、イエス様は弟子たちに、 あなたがたはわたしを誰だと言いますか、と質問されるところがあります。その際にまず、群集はイエス様のこ とをエリヤや昔の預言者の再来だと言っている、ということが言われます。まさに今日の箇所の群集の反応と同 じです。しかし、ではあなたがたはどうですかと問われて、ペテロは「あなたは神のキリストです」と素晴らし い告白をしますが、大切なのはその後です。イエス様はそのキリストとは何を意味するのか、ということについ て次のように語り始められます。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てら れ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」 ここにイエス様が死者をよみがえらせる権威 を持っている理由はなぜか、ということが語られています。
イエス様は神様だから、ご自分の望むことは何でもできる、たとえ死の向こうにいる者さえ呼び戻すことができ る!そういうことが今日の箇所で言われているのではありません。イエス様が死に対しても権威を持つのは、ご 自分の十字架と復活を通して、死の力を滅ぼしてしまわれるからです。イエス様はここで死の悲しみに直面して いたやもめを深く憐れんで下さいましたが、そうできるのはイエス様ご自身が私たちのために死んで下さるから です。いや、私たちを深く憐れんで下さるお方であるがゆえに、イエス様はついに十字架の死にまで進んで下さ るのです。イエス様は決して、私は死など知らない、私は神の子である、と言って高い位置から私たちを見下ろ し、憐れむのではなく、まさにはらわたがよじれるほどに深く私たちに同情して下さったがゆえに、ついには十 字架の死にまでも至る道を最後まで踏んで行かれるのです。そのようにやがて私たちのために死を味わわれるお 方として、イエス様は棺に手をかけておられるのですし、また私たちに永遠のいのちをもたらすお方として、死 の行列にストップをかける権威を持っておられたのです。
私たちはいつ何時、この母親のような状況に見舞われないとも限りません。あるいは愛する者との死別でなくて も、自分では動けないような、どうにもできない悲しみの中に、無力感の中に、一人取り残されるような時があ るかもしれません。しかしここから教えられることは、その時の私であっても、私は一人ではないということで す。一人ぼっちになり、こんな目にあっているのは自分だけだと思うような中にあっても、イエス様がいつの間 にかそばにいて下さり、泣かなくても良い!と語りかけて下さる。そしてイエス様は私たちの苦しみを深く理解 し、同情して下さるだけでなく、私たちのためにその尊い命までもささげて死んで下さり、またよみがえって下 さったお方として、「青年よ、あなたに言う、起きなさい!」と言って下さる。その力強いお言葉を頂いて私た ちはこの週も、この方がどんな中でも共に歩んで下さる喜びの中に生かされていきたいと思います。
イエス様はナインという町へ行かれます。この町は前回のカペナウムより、南西へ約30キロメートルほど行った町でした。そこに弟子たちと大勢の人の群れが 一緒に行った、と11節にあります。この人々は6章で見た「平地の説教」を聞いた人々だと思われます。彼ら は7章9節で、イエス様に「ついて来ていた群衆」と記されていましたが、そこからさらに30キロ以上の道を 歩かなければならないとしても、このお方が次には何を話し、どんなみわざをするだろうかと期待しながら、行 列をなすようにして、ナインの町までやって来たのでしょう。その時、この町から同じように行列をなして外に 出て来る人たちがいました。それは死人が担ぎ出され、町の外に運び出されるという行列でした。そういう意味 で、この町の門でまさに対称的な二つの大行列がバッタリ出くわしたことになります。
この葬儀の行列は特に悲しいものでした。この「死」によって取り残されたのは、すでにやもめとなっていた母 親でした。彼女にどういう過去があったのか分かりませんが、夫と死に別れ、それだけでも大変な生活を強いら れてきたでしょうに、さらに自分より先に息子を失う、という耐え難い困難に見舞われていました。しかもそれ はたった一人の息子でした。肉体的にも、精神的にも、彼女の支えとなり得るただ一人の肉親でした。その大切 な息子が若くして自分より先に死んでしまい、そのなきがらを人々の日常生活とは切り離された、町の外の墓に 葬るために運び出そうとしていました。これは最も悲しみが深い瞬間ではなかったでしょうか。葬儀に出席し て、棺のふたを閉ざして「出棺する」という時、遺族には別離が決定的なものとなる実感が重くのしかかってき ます。イエス様に付き従ってきた大勢の行列も、向こうからそのような行列が進んで来たのを見て、これはもう どうしようもない、ただなきがらに対し、また遺族の悲しみに対し、同情を表しつつ、静かにこれを迎えるより 他、何もできない。そう思って沈黙してしまったのではないかと思います。
そんな中、ルカが記していることは、イエス様は彼女を「かわいそうに思い」、彼女に近づいて行かれたという ことです。そしてこれが、今日の箇所を通してルカが私たちに伝えようとしている第一番目のことです。この 「かわいそうに思う」と訳されている言葉は、ご存知の通り、聖書の中では有名な言葉です。もとのギリシャ語 では「内臓」とか「はらわた」を意味する言葉から作られています。すなわち誰かの苦しみを見て、自分の内臓 やはらわたがよじれて痛むほどの激しい心の動きを表す言葉です。これと同じ言葉は、今後10章の「よきサマ リヤ人のたとえ」と、15章の「放蕩息子のたとえ」に出てきます。良きサマリヤ人のたとえでは、一人の旅人 が強盗に襲われて、道端に半殺しの状態に放置されますが、そこを通りかかったサマリヤ人が彼を「かわいそう に思って」介抱するという話が出てきます。また放蕩息子のたとえでは、弟息子が財産の分け前をもらって遠い 国で湯水のように財産を放蕩します。そして一文無しとなり、変わり果てた姿で父のところに戻って来たとこ ろ、その姿を遠くから発見した父親は「かわいそうに思って」走り寄り、彼を抱いて迎え入れます。いずれも相 手の置かれた状況に対して、はらわたが痛むほどの激しい思いを表現するものとして使われています。
私たちも似たような感情を持つことがあるかもしれません。胸が痛くなる、おなかが痛くなる、その人の苦しみ や悲しみを考えると、胃が痛くなって来て夜も眠れない…。このナインの町の人々も、そのような感情を持った のでしょう。ですから人々は大勢、彼女の列に付き添ったのです。しかしこの言葉について言われなければなら ないもう一つのことは、聖書でこの言葉は10回以上出て来るにもかかわらず、それらはいずれもイエス様にだ けしか使われていないことです。先ほど見ましたように、たとえ話で使われていることもありますが、その場合 もイエス様もしくは神様の愛を表すものとして使われています。つまりこの「かわいそうに思う」という言葉 は、私たち人間の一般的な感情としての同情やあわれみと比較して考えられるようなものではない、それとは別 のカテゴリーに入れられるべき、イエス様独特の深いあわれみを表す言葉であるということです。人々の付き添 いは確かにこの時の母親にとって大きな支えでしょう。しかし同時に、そこには限界があるのも事実ではないで しょうか。この母親にとって、この息子は地上に残された最後の望み、最後の慰め、最後の生きがいでした。そ の彼を失った悲しみを、一体誰が十分に想像できるでしょうか。一人息子が死んで担ぎ出されたこの時、それは 本人でなければ分からない、どうにも表現できない、誰とも分かち合うことのできない悲しみ、というものが あったのではないでしょうか。そういう彼女を、イエス様は他の誰がするよりもはるかに深い意味で憐れんで下 さるのです。
イエス様は彼女に慰めの言葉をかけ、御業をなして行かれます。注目に値することは、ここでは人間の側の信仰 が問われていないことです。彼女は涙で目をぬらすあまり、反対側からやって来るイエス様の存在を見ていな かったかもしれません。ある意味で、そうできる状況ではなかったのです。そんな彼女にイエス様の方から近づ いて、声をかけ、みわざをなして下さった。これは私たちにとって深い慰めではないでしょうか。私たちは調子 が良い時は、自分は立派な信仰生活を送っている、私は主に従う生活をしている、と思っているかもしれませ ん。しかし本当の試練や困難にぶつかると、私たちはまるで手足をもぎ取られたように動けなくなる時があるも のです。すべての望みを失って、力もなくなり、神様の名前を呼ぶことさえできない。しかしそんな時に、イエ ス様が私たちを深く憐れんで、その苦しみのただ中に来て下さる、そしていつの間にか私のそばにいて下さる。 このことを知ることは何という慰めでしょうか。
そして、この深いあわれみと共に今日の箇所が示しているもう一つのことは、イエス様は私たちの悲しみを根本 的に解決して下さるお方であるということです。イエス様は彼女に「泣かなくてもよい。」と語りかけられまし た。普通、このように語りかけられる人はいません。むしろこういう時は精一杯泣くより他ない、と思います。 しかしだからと言って、泣いている人に向かって改めて「泣きなさい」と言うのも不適切ですし、そういう場に ある時の私たちは、何と声をかけたら良いものか、途方にくれてしまいます。私たちの言葉の力のなさ、無力さ をしみじみと悟らされる時です。しかしイエス様は何と「泣かなくても良い」「泣く必要はない」「泣き続けて いるのをやめなさい」と語ることができました。それはご自身が、彼女の悩みに解決を与えることのできるお方 だからです。どのようにしてでしょうか。それは前回同様、ただ「お言葉によって」でした。
前回の百人隊長は、権威の上にある者は一言発するだけで下にある者を従わせることができると言い、すべての 上に主権を持つイエス様のお言葉によって、私のしもべは必ず癒されると告白しました。その通り、イエス様は 今日の箇所の14節でもただ、「青年よ。あなたに言う。起きなさい。」と語られただけです。その結果、死ん でいた彼は起き上がって、ものを言い始めます。ここに示されていることは、イエス様は病気やこの世の出来事 の上に権威を持つだけではなく、死の向こう側にも主権を持っておられるということです。病気にかかった人 は、たとえそれが重い病気でも、最後の瞬間までは望みを持ちます。しかし一旦死んでら、そうでありません。 どんなことにも挑戦を続ける人間でも、この死の前には黙って従うより他ないのです。しかしそのような死に対 しても、イエス様は主権を持っておられる、それをひっくり返すことができるということがここに示されていま す。
イエス様はそうしてこの青年を母親に返されます。イエス様はここに、同情以上のことをして下さいました。私 たちは誰かが深く同情してくれることによって、試練を乗り越え、立ち上がって行くことが可能になりますが、 そればかりでなく、悲しみの原因を取り除いてもらったなら、この母親の場合のように息子を自分の手に取り戻 すことができたなら、それほど願わしいことはありません。イエス様はそのように、私たちのあらゆる悲惨を取 り除くことができるということがここに語られているのです。単に心理的な意味で私たちを慰めて下さるばかり ではなく、すべての悲惨から私たちを完全に救い出して真の慰めを与えることができる、ということが示されて いるのです。
この御業に触れて、人々は言いました。16節:「人々は恐れを抱き、『大預言者が私たちのうちに現われ た。』とか、『神がその民を顧みてくださった。』などと言って、神をあがめた。」 人々の頭にあったのはエ リヤとエリシャの物語であったと考えられます。いずれも神の力によって死人を生き返らせたことがありまし た。エリヤは1列王記18章でツァレファテのやもめの子を、一方のエリシャは2列王記4章でシュネムの女の 子を生き返らせました。人々がそのかつての出来事を彷彿とさせるような預言者、いやそれを上回る大預言者が 現われた!と言ったとしても、不思議ではありません。また「神がその民を顧みて下さった。」という表現は、 エジプトに捕われていたイスラエルを神が顧みて下さった時のことを思い起こさせる言葉です。人々はそのよう に、イエス様の内に、神の新たな支配が力を持って臨んでいることを賛美したのです。そしてその噂は、17節 にありますように、周りの地方に広く伝わって行きました。
しかし、最後に短く考えてみたいことは、私たちはこのようなイエス様の力あるみわざを見て、ただイエス様は すごい、イエス様は偉大な力で私たちのあらゆる悩みを取り去って下さる、だから私たちもこのお方を信じよ う!と言うだけで良いのか、ということです。もう少し後の9章18節からの部分で、イエス様は弟子たちに、 あなたがたはわたしを誰だと言いますか、と質問されるところがあります。その際にまず、群集はイエス様のこ とをエリヤや昔の預言者の再来だと言っている、ということが言われます。まさに今日の箇所の群集の反応と同 じです。しかし、ではあなたがたはどうですかと問われて、ペテロは「あなたは神のキリストです」と素晴らし い告白をしますが、大切なのはその後です。イエス様はそのキリストとは何を意味するのか、ということについ て次のように語り始められます。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てら れ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」 ここにイエス様が死者をよみがえらせる権威 を持っている理由はなぜか、ということが語られています。
イエス様は神様だから、ご自分の望むことは何でもできる、たとえ死の向こうにいる者さえ呼び戻すことができ る!そういうことが今日の箇所で言われているのではありません。イエス様が死に対しても権威を持つのは、ご 自分の十字架と復活を通して、死の力を滅ぼしてしまわれるからです。イエス様はここで死の悲しみに直面して いたやもめを深く憐れんで下さいましたが、そうできるのはイエス様ご自身が私たちのために死んで下さるから です。いや、私たちを深く憐れんで下さるお方であるがゆえに、イエス様はついに十字架の死にまで進んで下さ るのです。イエス様は決して、私は死など知らない、私は神の子である、と言って高い位置から私たちを見下ろ し、憐れむのではなく、まさにはらわたがよじれるほどに深く私たちに同情して下さったがゆえに、ついには十 字架の死にまでも至る道を最後まで踏んで行かれるのです。そのようにやがて私たちのために死を味わわれるお 方として、イエス様は棺に手をかけておられるのですし、また私たちに永遠のいのちをもたらすお方として、死 の行列にストップをかける権威を持っておられたのです。
私たちはいつ何時、この母親のような状況に見舞われないとも限りません。あるいは愛する者との死別でなくて も、自分では動けないような、どうにもできない悲しみの中に、無力感の中に、一人取り残されるような時があ るかもしれません。しかしここから教えられることは、その時の私であっても、私は一人ではないということで す。一人ぼっちになり、こんな目にあっているのは自分だけだと思うような中にあっても、イエス様がいつの間 にかそばにいて下さり、泣かなくても良い!と語りかけて下さる。そしてイエス様は私たちの苦しみを深く理解 し、同情して下さるだけでなく、私たちのためにその尊い命までもささげて死んで下さり、またよみがえって下 さったお方として、「青年よ、あなたに言う、起きなさい!」と言って下さる。その力強いお言葉を頂いて私た ちはこの週も、この方がどんな中でも共に歩んで下さる喜びの中に生かされていきたいと思います。