ルカの福音書 7:18-23

わたしにつまずかない者は幸い
久し振りにバプテスマのヨハネが登場してきます。彼はイエス様の先駆者として、その道備えをした人でした。 彼はまだお母さんのお腹の中にいた時から、マリヤの胎にいるイエス様を指し示しました。また成人してから は、荒野で悔い改めのバプテスマを説き、ユダヤ人の間に一大ムーブメントを巻き起こしました。人々が彼こそ キリストではないかと考え始めた時、彼はきっぱり答えました。「私よりもさらに力のある方がおいでになりま す。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテス マをお授けになります。」 そして彼はイエス様に洗礼を施し、主役の座を、イエス様に明け渡して行きます。 その急激な変化にヨハネの弟子たちが戸惑って、「先生、みんながあの方のほうへ移って行きます。」と語った 時、ヨハネは喜びながらこのように語った、と他の福音書に記されています。「あの方は盛んになり私は衰えな ければなりません。」 そして彼はこの時、ヘロデ王の近親相姦の罪を激しく非難したため、牢屋に閉じ込めら れた生活を送っていました。

彼はそのような中でも、イエス様とその働きに注目し続けました。彼が閉じ込められていたのは、死海の東、マ ケルスという岩山の中に穴を掘って作られた牢屋だったと言われます。死海の湖面より1000メートル以上も 高く、目もくらむような深い谷に囲まれた場所です。そんなところに、彼の弟子たちがよじ登って来ては、逐一 イエス様の様子について報告していたのです。そのヨハネは、弟子の中から二人を呼び寄せ、イエス様にこのよ うな質問をしたとされます。19節:「すると、ヨハネは、弟子の中からふたりを呼び寄せて、主のもとに送 り、『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか。』と言わ せた。」 これは一見、読む私たちを当惑させるものです。彼は今までこのことを確信していたのではないで しょうか。彼はルカ3章で人々にこう語りました。「斧はすでに木の根元に置かれている。実を結ばない木は、 すぐにも切り倒されて、火に投げ込まれる。だから悔い改めなさい。そして救い主の到来に備えなさい。」と。 ところがその彼がここで「イエス様、あなたは本当に救い主でしょうか。」と言っています。一瞬耳を疑うよう な言葉です。しかも私たちにとってショックなのは、彼はこの後、牢屋から出られないまま、ヘロデ王に斬首さ れて地上の命を閉じることです。人生の最期に確信を失い、自分がこれまでやって来たことは良かったのだろう かと自問自答しつつ、悲惨な死を遂げたのか。そんなさみしい死に方を彼はしたのかと考える時、私たちは大変 なショックと動揺を覚えずにいられなくなるわけです。

ある人は何とか彼を弁護しようとして、これは弟子教育のためであったと言います。すなわち、ヨハネ自身はイ エス様が救い主であることを十分確信していたが、弟子たちの信仰の確立のためにイエス様のもとに遣わしたと いう見方です。しかしイエス様は22節で、これこれのことをヨハネに報告しなさい、と言っています。答えを 必要としているのは、弟子たちではなく、ヨハネ自身でした。

では、どうしてヨハネはこんな質問をしたのでしょうか。まず注意すべきことは、私たちがヨハネがまるでイエ ス様への信仰を失ったかのように考えてはならない、ということです。次回の28節でイエス様は「あなたがた に言いますが、女から生まれた者の中で、ヨハネよりすぐれた人は、ひとりもいません。」と言っておられま す。イエス様はヨハネからこの質問を受けた直後でも、彼をこれほど高く賞賛しているわけですから、私たちは あまり彼を軽く見てはならないと戒められるわけです。その先の29節から35節にかけても、イエス様はご自 分とヨハネとを同じ立場に立つ者として一つに結びつけておられます。

しかし、だからと言って私たちは彼を何の間違いも犯さない完璧な人間と見る必要もありません。聖書に出て来 る人物はどんな人でも失敗が記されています。アブラハム、イサク、ヤコブも、モーセ、ダビデ、ソロモンも然 り。そういう意味では、たとえイエス様の先駆者であったヨハネについても、その人間的弱さがここに垣間見ら れても、私たちは異常に驚くべきではないはずです。彼はこれまでこの方こそ、おいでになる方である、と固く 信じて、人々にそう教えて来ました。しかし今、彼の心の中に微妙な変化が起こりつつあったのも事実だったの です。彼はもしかするともう間もなく殺されるかもしれない、という状況にありました。その前にもう一度、主 ご自身の口から答えを頂きたい、と思ったのです。私があなたを指し示して来たことに間違いはなかったでしょ うか。それとも私たちは他の方を待つべきなのでしょうか、と。

イエス様は答えられました。22節:「そして、答えてこう言われた。『あなたがたは行って、自分たちの見た り聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。目の見えない人が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒され た者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられてい る。』」 イエス様はここでヨハネの質問に明確には答えていないように見えますが、ヨハネにはすぐ分かった と考えられます。なぜなら旧約聖書には、メシヤが現れた時の祝福がこう語られていたからです。イザヤ書35 章5~6節:「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者 は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。」 61章1節:「神である主の霊が、わたしの上に ある。主はわたしに油を注ぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、云々。」 つまりイエス様はご自分が約束のメシ ヤであるとは直接的には述べていませんが、肯定的にそう答えておられることは、旧約聖書を良く知っているヨ ハネには十分分かったのです。

しかし、この時の彼にとって最も意味のある言葉は、最後の23節の言葉だったと考えられます。23節。「だ れでもわたしにつまずかない者は幸いです。」 このイエス様の言葉から分かることは、ヨハネが救い主に思い 描いていた姿と、現実のイエス様の姿との間には、ある種のギャップがあったということです。ヨハネの心の中 には、あの方が救い主なら、あの方が私の指し示した通りのお方ならば、なぜこの世界は、またこの自分は、こ んな状況に置かれているのか、という問いがあったのです。

おそらくヨハネにとって最もつらかったことは、自分が獄中に置かれたままであった、ということだったでしょ う。もちろん彼は、正しい信仰者がこの世で不当な扱いを受けることもあるということを、旧約のイスラエルの 歴史からも良くわきまえていたでしょう。イエス様も平地の説教で、「人々があなたがたを憎む時、あなたがた は幸いです。喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。」と言われまし た。しかしヨハネはこれまで、自分のすぐ後に来られる力強いさばき主を予告して来ました。その方は手に箕を 持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされる、と宣言してきました。と ころが現実はどうでしょう。何も大きな変化は起こっていないように見えるのです。自分が期待したようなさば き主のイメージは、イエス様のどこにも見られないのです。相変わらず悪はこの地上にのさばっています。ロー マの支配も変わりません。神のしもべは牢屋につながれっぱなしです。そんな中、「本当にあなたは私の後にお いでになる方なのですか。この世はあなたが来られて、もっとドラマチックに変わるはずではなかったのです か。私はあなたをこのまま信じ続けて良いのでしょうか。」 そんな不安と疑問が彼の頭の中をかすめたとして も、不思議ではなかったのです。

私たちも信仰生活を送る中で、似たような経験をすることがあるでしょう。どうして神はもっとこうしてくれな いのだろうか。神が主権者なら、なぜそれをもっと強く表して、この世の悪を退治して下さらないのか。神は恵 みをたくさん持っておられるなら、なぜもっと私を変えて下さらないのか・・・。そしてだんだんと、聖書の約 束は本当なのだろうか、イエス様は本当にいたのだろうか・・・などと、疑いの世界へ進みかねないのです。し かしなぜ私たちはそう思うのでしょうか。それは私たちが、自分の好む神様像を勝手に作り上げて、それで神様 を量ろうとしているからではないでしょうか。この時もヨハネはすぐさまのさばきを期待しましたが、現実のイ エス様はこの地方をご自分の足で歩き、言葉を尽くして、一人一人を教え導いておられました。それ自体は素晴 らしいことですが、社会全体から見れば取るに足りない現象にしか見えません。もどかしいほどイエス様が今し ておられることはヨハネにとって非効率的なのです。そんな姿を見ていると、私たちは我慢ならなくなってくる のです。そして私たちが願い、期待するような仕方でイエス様が力を発揮しないのは、それができないからでは ないのか。この方に頼っていて果たして私の救いはあるのだろうか、と焦り、つまずき始めるのです。

しかし、私たちはこのことを考えなければなりません。イエス様はこれからの地上の生涯において、益々人間の 予想に反する道を進んで行かれる、ということを。ユダヤ人はイスラエルを高く上げてくれる地上的・政治的メ シヤを期待しました。ですからイエス様が奇跡を行なうと、人々は熱狂的にイエス様を王として祭り上げようと しました。イエス様の弟子たちも、自分たちがやがて神の国の大臣になることを期待しました。そのために、だ れが一番偉いか、とよく喧嘩をしました。しかし彼らのそういうイエス様への期待はどんどん崩されます。イエ ス様はどこへ進まれたでしょうか。それは十字架の死です。これは私たち人間の予想や期待とは全くかみ合わな いところです。しかしイエス様は、その人間が思っても見なかった道にひとり黙々と進んで行かれることによっ て、私たちの真の救いを成し遂げて下さるのです。

私たちは自分が思った通りに事が運ばないと、神様は動いてくれないと苛立ち、文句を言い始めます。自分勝手 にスケジュールを設定して、その通りにしない神様が悪い、私は神につまずいたと言うのです。しかし、私たち はその時、神が本当に悪いのか、と考えてみなければなりません。そうでなく私が独り善がりの期待を勝手に押 し付け、怒っているだけではないのか。あるいは私の言う通りに動いてくれる神様が、私たちに本当に救いをも たらして下さる神様なのだろうか、と。そう考える時に深い慰めとなってくることは、イエス様はここで少しも ヨハネの期待に自分を迎合させていないことです。慌ててさばきのわざを行うというようなことをしていない。 むしろイエス様はご自身の進むべき道を変わらずにしっかりと踏んでおられます。イエス様は、私たちを救うた めの最善の道を良くご存知で、その道をぶれることなくしっかり進んでいて下さるのです。そしてあなたがあな たの頭の中で勝手に考えた空想の救い主ではなく、このわたしの姿をそのまま見つめなさい。そのわたしにつま ずかない者は幸いですと言って、もう一度ご自身に正しくより頼むように招いて下さったのです。

ヨハネはこのイエス様のどんなに深く慰められたか、分かりません。彼はこの言葉を頂くまで、内心落ち着いて いませんでした。信仰を捨ててまではいませんが、心のどこかに不安を覚えているのも事実でした。しかしイエ ス様は仰るのです。「目を開き、耳を済まして、私が今行なっているみわざを静かに思い巡らしてご覧なさい。 目の見えない者が見、耳の聞こえない人が聞こえるようになっている。足の不自由な者が歩き、貧しい人に福音 が宣べ伝えられている。確かにあなたが宣べ伝えたように、わたしはさばき主としても現われよう。しかしわた しにはわたしの時がある。あなたは、自分の勝手な思いに邪魔されることなく、このわたしを真実な目でよく見 つめて、その本当のわたしに従って来なさい。わたしにつまずかない者は幸いです。」 ヨハネはこの言葉に よってもう一度、堅い確信の岩に立たせられたに違いないのです。これで良かったのだ。私のすることはこの方 のみわざをしっかり見つめ、そこに現されている本当のイエス様を見上げて付いて行くことなのだ。たとえ私が このまま牢獄で地上の人生を終えなければならないとしても、この方は私の救い主であられる。私はこの問題も 主の最善に委ねて、最後までこの方に従って行こう。ヨハネはこうして、二度とゆり動かされない確信を持っ て、その生涯を進んで行ったのではないでしょうか。

私たちも同じです。ヨハネだけではなく、イエス様は、「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」と 言われました。私たちには今、思い通りにならないことがあるかもしれません。神様ならもっとこうしてくれて も良いのに、という願いがあるかもしれません。しかしイエス様は、ご自分のしておられることを良くご存知で す。私たちは、自分が頭の中で考えた都合の良いイエス様ではなく、私たちのために尊い命までも捨てて完全な 救いを備えて下さったイエス様の姿を真実に見上げつつ、苦しみの中でも、悩みの中でも、この方につまずかな い幸い、つまずかないで付いていくところにある真の幸いに、なお導かれて行きたいと思うのです。