ルカの福音書 7:24-35
知恵の子どもたち
前回ヨハネは驚くべき質問をしました。一言で言えば、それは「イエス様。あなたが本当に私たちが待ち望んだ 救い主でしょうか。」というものでした。獄中生活を強いられる中で、あのヨハネも疑いと戦ったのでした。し かしイエス様は旧約聖書に基づいて、ご自分がメシヤであるしるしがいくつも見られることを指し示して、最後 に「わたしにつまずかない者は幸いです。」と語られました。ヨハネの弟子たちはこのメッセージを持って、ヨ ハネのところへ帰って行きました。
イエス様はこの機会を用いて、今日の箇所で、群衆に大切なことを教えて行かれます。まずヨハネを指してこう 言われます。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。それとも柔らかい着 物を着た人ですか。」 「風に揺れる葦」という表現は、どこにでもあるありきたりの光景を指す、とある人た ちは見ます。またある人は、これは風になびくふらつきやすい人をたとえた表現であると見ます。しかしヨハネ はそんな人ではありません。彼はヘロデ王さえ恐れずにその罪を糾弾した人でした。もう一つの「柔らかい着物 を着た人」とはどういう意味でしょうか。イエス様は、そんな贅沢な暮らしをしている人を見たいなら、宮殿に 行けば良いと言います。ヨハネはそんな華やかさとはおよそ縁のない生活をしていました。では「何を見に行っ たのですか。預言者ですか。」とイエス様は問われます。その通り。群衆は確かに預言者を見に荒野に行ったの です。旧約時代の最後の預言者であるマラキ以降、イスラエルには400年間、預言者が途絶えていました。そ の長い沈黙を破る預言者がついに現れたと聞いて、人々は大ぜい彼のところに詰め掛けたのです。
そのヨハネについてイエス様はさらに「彼は単なる預言者の一人、というレベル以上の者である。」と言われま す。さらに38節では「あなたがたに言いますが、女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひと りもいません。」と言われます。これはヨハネが人格的にそれまでのどんな人――アブラハムやモーセやダビデ ――よりもすぐれた人であるという意味ではありません。27節から分かりますように、ここで考えられている のは歴史的な位置の問題です。旧約時代の預言者はみな、やがて来られる救い主を指し示しましたが、バプテス マのヨハネはメシヤの先駆者として、その方を直接的に指し示す働きをしました。そういう特権のゆえに、彼よ りすぐれた人は一人もいない、とイエス様は言われたのです。
しかし、この言葉の直後であるゆえに、続く言葉は非常にインパクトがあります。28節後半:「しかし、神の 国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。」 イエス様はここで何を仰っているのでしょうか。イエス様 はこれまでヨハネは特別な存在だと語って来ました。彼よりすぐれた人はいないと語って来ました。しかしその ヨハネは、メシヤがもたらした神の国の祝福を十分に味わうことなく、地上を去って行かなければなりません。 具体的に言えば、彼はイエス様の十字架や復活は知りませんし、その後に続く聖霊の祝福も知りません。そうい う意味で、ヨハネはそれまでの時代で最もすぐれた人ではあったけれども、神の国に入った小さい者たちの方 が、よりまさる特権にあずかっているとイエス様は言っているのです。これは約束の地に入ることを許されず に、ピスガの頂からカナンの地を眺めたモーセに似ています。モーセは素晴らしい指導者であり、イスラエルを 約束の地へ導く偉大な働きをした人ですが、彼自身はそこに入りませんでした。そういう彼よりは、約束の地に 実際に入った人たちの方がより大きな特権にあずかったわけです。このことはもちろんヨハネが将来の天国には いない、という意味ではありません。13章28節:「神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言 者たちが入っているのに、云々」 ただヨハネは地上では、イエス様によってもたらされた神の国の祝福を十分 には味わっていないのです。つまりイエス様はこの言い方によって、今までの時代に勝るいかに素晴らしい祝福 の時代がついにやって来たか、それがご自身と共に到来しているか、ということを語っておられるのです。
このようなメシヤによる祝福の時代に対して、人々が取った態度には二つの反応がありました。一つ目のグルー プは、29節にあるように、これを受け入れた人々です。彼らはヨハネのバプテスマを受け、神の正しいことを 認めました。ヨハネは人々に、そのままでは天の御国に入れないこと、だから悔い改めなければならないこと、 そして洗礼を受けて神が下さる罪の赦しを待ち望むべきことを語りました。彼らはヨハネを通してこのように 語っておられる神を正しいと認めました。そして自分たちが無であることを告白し、ただ恵みによって救って下 さる神に信頼を置いたのです。
もう一つのグループは、30節にあるパリサイ人や律法の専門家たちです。彼らはヨハネからバプテスマを受け ませんでした。つまり、悔い改めの招きを拒否しました。彼らは自分たちは律法を良く守っているという自負心 を持っていました。ですから悔い改めの洗礼を受けて、神の恵みにすがるというヨハネのメッセージは好ましく 思わなかったのです。そしてヨハネを拒否したばかりか、ヨハネが指し示したイエス様による神の国の祝福にも 入らず、これを拒否していたのです。
イエス様はそんな彼らを、市場に座って互いに呼びかけあっている子どもたちに似ていると言われました。昔の 子どもたちは、大人の生活を見ていて、しばしば結婚式ごっこや葬式ごっこをしたようです。しかし自分が思う 通りに相手が動いてくれないと、文句を言い始める。笛を吹いて、さあ結婚式ごっこをやろうと言ったのに、君 たちは踊ってくれなかった。それなら葬式ごっこをしようと言って、弔いの歌を歌ってやったのに、君たちは泣 かなかった。まさにこのように自分たちが思っている通りに振る舞ってくれないと文句を言っている子どもたち の姿に似ている、とイエス様は言われます。その具体的な内容が33~34節にあります。ヨハネは確かにパン を食べず、ぶどう酒も飲みませんでした。彼の食べ物はいなごと野蜜であった、と他の福音書にあります。彼は そうした生活とセットで、おごり高ぶる人間の罪を非難し、人々に悔い改めを求めました。そんなヨハネを見 て、パリサイ人は言うのです。「我々は笛を吹いて一緒に結婚式ごっこをやって欲しいと思ったのに、あのヨハ ネの生活は何か。我々はあんな陰気な生活ではなく、神の祝福を喜ぶ生活をしたいのだ。彼がそれを退けている のは、悪霊につかれているからだ。」 しかしイエス様に対してはどうであったか。イエス様はしばしば取税人 や罪人たちと食事の交わりをされました。イエス様は彼らがただ神の恵みによって救われることを喜びとされま した。そんな姿を見て、パリサイ人たちは文句を言うのです。「あの陽気さは一体何か。あれが信心深いユダヤ 人の姿か。我々はもっと厳かな宗教生活、言わば葬式ごっこをしたいのだ。罪人たちと救いを喜ぶようなあんな 宴会にはとても我々は加われない。」
彼らの問題点は何でしょうか。それは自分たちの好みに合う救いだけを求めていることです。彼らは言うなら ば、ヨハネもイエス様も自分たちが望む音楽にのって踊ってくれない、と文句を言っているのです。では彼らが 望んでいるのはどんな救いでしょうか。それは自分たちのプライドやメンツを満足させてくれる救いです。良く 律法を守っている自分たちを賞賛し、「あなたがたのような人たちこそ、救われるべき人たちである。さあさあ こちらの天国に入りなさい。」と招かれ、胸を張って入って行けるような救いの道を示してもらいたかった。
しかし、神が示しておられる方法は、それとは違ったのです。神はヨハネを通して、悔い改めてバプテスマを受 けよ、と示しました。これは自分に罪があることを認めることです。自分には自分を救う力がないことを認める ことです。しかし神はただ私たちを否定するためにこう言っているのではありません。そうではなく、そのこと を認めて、ただ神の恵みにより頼むようにと招いておられるのです。自分に自分を救う力はないことを認めて、 ただ神のあわれみにすがるということです。
しかし、人間はこのような神の方法が嫌なのです。神の前にへりくだりたくないのです。自分のメンツや面目を 保って救われたいのです。そのため、色々な注文を付けて、結局は自分が吹く笛に合わせて神は踊ってくれない と文句を言い、神を拒否する。しかしそこに救いはありません。救われる道はただ一つ、自分は罪ある者である ことを告白し、神の要求が正しいことを認めることです。神が悔い改める者を、ただご自身の一方的な恵みに よって救って下さる御心を感謝し、アーメンと受け入れることです。その時に私たちは、神は私が奏でる音楽に のって踊ってくれないと文句を言う生活から解放される。むしろ神が奏でて下さる天から流れて来る音楽、神の 恵みをほめたたえる賛美にのって、私たち自身がダンスし、喜び踊る者たちとなることができるのです。
最後35節でイエス様はこう言われます。「だが、知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明しま す。」 まずここで注目したいのは、神の恵みによって救われた人たちが「知恵の子どもたち」と言われている ことです。この人々は、自分たちが無であることを告白した者たちです。しかしそういう人々が「知恵の子ども たち」と言われます。それは何よりもまことの知恵である神との交わりが回復するからです。すべての知識の根 源なるお方と正しく結ばれることによって、私たちは神はどなたか、人間とは何者か、またこの世界とは何か、 私たちの人生の意味と目標は何かについて真の知識また知恵を持つ者になる。また永遠に続く価値あるものは何 か、誉れとは何か、真実とは何か、また義とは何か、愛とは何か、等々について真の知識を持つ者となる。世に は素晴らしい学歴を持っている学者がたくさんいるでしょう。しかし神の前に悔い改め、神と正しい関係に生き る者こそ、「知恵の子どもたち」と呼ばれています。
そして、さらに35節で言われていることは、その知恵の子どもたちによって、神の正しさが証明されるという ことです。つまり恵みによって救われた私たちの生き方やあり様によって、神こそ真に知恵のある正しいお方で あることが実証されるということです。私たちはただ救われるだけでなく、神の栄光を現わす器とされるという ことです。果たしてこんな私にそんなことができるだろうか、かえって神の栄光を汚すだけではないか、と私た ちは恐れるかもしれません。しかし人間的に考えて不可能なことを可能にして下さるところに神の知恵の素晴ら しさは輝き現れます。神は私たちの罪を赦し、キリストの恵みによって日々造り変えて下さることによって、ご 自身の知恵の正しいことを証明なさるのです。そうして必ず神の栄光を現わす歩みができるようになるという祝 福のもとに、私たちは今の生活を導かれているのです。
果たして、私たちは「知恵の子どもたち」であるでしょうか。神は今やイエス様を遣わして、旧約の預言者たち が示し、先駆者ヨハネが指し示した、それまでの時代にはるかに勝る神の国の祝福をもたらして下さっていま す。この祝福にあずかる方法とは、私たちが神に注文をつけて、神を私が願うように動かすことではない。そう ではなく、神が正しいことを認め、自分の罪を告白し、こんな者をキリストにある一方的な恵みによって救って 下さる神の胸に飛び込んで行くところにあるのです。そうする者を神はキリストにあって赦し、聖め、造り変え て、何と「知恵の子どもたち」として下さる。そしてご自身の栄光を現わし、また証明するための器となるまで に祝福し、用いて下さる。私たちは自分を保って神を従わせるのではなく、神を正しいと認めて、その恵みの前 に悔い改めを持ってひれ伏す者でありたい。そうして「知恵の子どもたち」として神を喜び、神の栄光のために 生きる特権と祝福に歩みたいと思います。
前回ヨハネは驚くべき質問をしました。一言で言えば、それは「イエス様。あなたが本当に私たちが待ち望んだ 救い主でしょうか。」というものでした。獄中生活を強いられる中で、あのヨハネも疑いと戦ったのでした。し かしイエス様は旧約聖書に基づいて、ご自分がメシヤであるしるしがいくつも見られることを指し示して、最後 に「わたしにつまずかない者は幸いです。」と語られました。ヨハネの弟子たちはこのメッセージを持って、ヨ ハネのところへ帰って行きました。
イエス様はこの機会を用いて、今日の箇所で、群衆に大切なことを教えて行かれます。まずヨハネを指してこう 言われます。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。それとも柔らかい着 物を着た人ですか。」 「風に揺れる葦」という表現は、どこにでもあるありきたりの光景を指す、とある人た ちは見ます。またある人は、これは風になびくふらつきやすい人をたとえた表現であると見ます。しかしヨハネ はそんな人ではありません。彼はヘロデ王さえ恐れずにその罪を糾弾した人でした。もう一つの「柔らかい着物 を着た人」とはどういう意味でしょうか。イエス様は、そんな贅沢な暮らしをしている人を見たいなら、宮殿に 行けば良いと言います。ヨハネはそんな華やかさとはおよそ縁のない生活をしていました。では「何を見に行っ たのですか。預言者ですか。」とイエス様は問われます。その通り。群衆は確かに預言者を見に荒野に行ったの です。旧約時代の最後の預言者であるマラキ以降、イスラエルには400年間、預言者が途絶えていました。そ の長い沈黙を破る預言者がついに現れたと聞いて、人々は大ぜい彼のところに詰め掛けたのです。
そのヨハネについてイエス様はさらに「彼は単なる預言者の一人、というレベル以上の者である。」と言われま す。さらに38節では「あなたがたに言いますが、女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひと りもいません。」と言われます。これはヨハネが人格的にそれまでのどんな人――アブラハムやモーセやダビデ ――よりもすぐれた人であるという意味ではありません。27節から分かりますように、ここで考えられている のは歴史的な位置の問題です。旧約時代の預言者はみな、やがて来られる救い主を指し示しましたが、バプテス マのヨハネはメシヤの先駆者として、その方を直接的に指し示す働きをしました。そういう特権のゆえに、彼よ りすぐれた人は一人もいない、とイエス様は言われたのです。
しかし、この言葉の直後であるゆえに、続く言葉は非常にインパクトがあります。28節後半:「しかし、神の 国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。」 イエス様はここで何を仰っているのでしょうか。イエス様 はこれまでヨハネは特別な存在だと語って来ました。彼よりすぐれた人はいないと語って来ました。しかしその ヨハネは、メシヤがもたらした神の国の祝福を十分に味わうことなく、地上を去って行かなければなりません。 具体的に言えば、彼はイエス様の十字架や復活は知りませんし、その後に続く聖霊の祝福も知りません。そうい う意味で、ヨハネはそれまでの時代で最もすぐれた人ではあったけれども、神の国に入った小さい者たちの方 が、よりまさる特権にあずかっているとイエス様は言っているのです。これは約束の地に入ることを許されず に、ピスガの頂からカナンの地を眺めたモーセに似ています。モーセは素晴らしい指導者であり、イスラエルを 約束の地へ導く偉大な働きをした人ですが、彼自身はそこに入りませんでした。そういう彼よりは、約束の地に 実際に入った人たちの方がより大きな特権にあずかったわけです。このことはもちろんヨハネが将来の天国には いない、という意味ではありません。13章28節:「神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言 者たちが入っているのに、云々」 ただヨハネは地上では、イエス様によってもたらされた神の国の祝福を十分 には味わっていないのです。つまりイエス様はこの言い方によって、今までの時代に勝るいかに素晴らしい祝福 の時代がついにやって来たか、それがご自身と共に到来しているか、ということを語っておられるのです。
このようなメシヤによる祝福の時代に対して、人々が取った態度には二つの反応がありました。一つ目のグルー プは、29節にあるように、これを受け入れた人々です。彼らはヨハネのバプテスマを受け、神の正しいことを 認めました。ヨハネは人々に、そのままでは天の御国に入れないこと、だから悔い改めなければならないこと、 そして洗礼を受けて神が下さる罪の赦しを待ち望むべきことを語りました。彼らはヨハネを通してこのように 語っておられる神を正しいと認めました。そして自分たちが無であることを告白し、ただ恵みによって救って下 さる神に信頼を置いたのです。
もう一つのグループは、30節にあるパリサイ人や律法の専門家たちです。彼らはヨハネからバプテスマを受け ませんでした。つまり、悔い改めの招きを拒否しました。彼らは自分たちは律法を良く守っているという自負心 を持っていました。ですから悔い改めの洗礼を受けて、神の恵みにすがるというヨハネのメッセージは好ましく 思わなかったのです。そしてヨハネを拒否したばかりか、ヨハネが指し示したイエス様による神の国の祝福にも 入らず、これを拒否していたのです。
イエス様はそんな彼らを、市場に座って互いに呼びかけあっている子どもたちに似ていると言われました。昔の 子どもたちは、大人の生活を見ていて、しばしば結婚式ごっこや葬式ごっこをしたようです。しかし自分が思う 通りに相手が動いてくれないと、文句を言い始める。笛を吹いて、さあ結婚式ごっこをやろうと言ったのに、君 たちは踊ってくれなかった。それなら葬式ごっこをしようと言って、弔いの歌を歌ってやったのに、君たちは泣 かなかった。まさにこのように自分たちが思っている通りに振る舞ってくれないと文句を言っている子どもたち の姿に似ている、とイエス様は言われます。その具体的な内容が33~34節にあります。ヨハネは確かにパン を食べず、ぶどう酒も飲みませんでした。彼の食べ物はいなごと野蜜であった、と他の福音書にあります。彼は そうした生活とセットで、おごり高ぶる人間の罪を非難し、人々に悔い改めを求めました。そんなヨハネを見 て、パリサイ人は言うのです。「我々は笛を吹いて一緒に結婚式ごっこをやって欲しいと思ったのに、あのヨハ ネの生活は何か。我々はあんな陰気な生活ではなく、神の祝福を喜ぶ生活をしたいのだ。彼がそれを退けている のは、悪霊につかれているからだ。」 しかしイエス様に対してはどうであったか。イエス様はしばしば取税人 や罪人たちと食事の交わりをされました。イエス様は彼らがただ神の恵みによって救われることを喜びとされま した。そんな姿を見て、パリサイ人たちは文句を言うのです。「あの陽気さは一体何か。あれが信心深いユダヤ 人の姿か。我々はもっと厳かな宗教生活、言わば葬式ごっこをしたいのだ。罪人たちと救いを喜ぶようなあんな 宴会にはとても我々は加われない。」
彼らの問題点は何でしょうか。それは自分たちの好みに合う救いだけを求めていることです。彼らは言うなら ば、ヨハネもイエス様も自分たちが望む音楽にのって踊ってくれない、と文句を言っているのです。では彼らが 望んでいるのはどんな救いでしょうか。それは自分たちのプライドやメンツを満足させてくれる救いです。良く 律法を守っている自分たちを賞賛し、「あなたがたのような人たちこそ、救われるべき人たちである。さあさあ こちらの天国に入りなさい。」と招かれ、胸を張って入って行けるような救いの道を示してもらいたかった。
しかし、神が示しておられる方法は、それとは違ったのです。神はヨハネを通して、悔い改めてバプテスマを受 けよ、と示しました。これは自分に罪があることを認めることです。自分には自分を救う力がないことを認める ことです。しかし神はただ私たちを否定するためにこう言っているのではありません。そうではなく、そのこと を認めて、ただ神の恵みにより頼むようにと招いておられるのです。自分に自分を救う力はないことを認めて、 ただ神のあわれみにすがるということです。
しかし、人間はこのような神の方法が嫌なのです。神の前にへりくだりたくないのです。自分のメンツや面目を 保って救われたいのです。そのため、色々な注文を付けて、結局は自分が吹く笛に合わせて神は踊ってくれない と文句を言い、神を拒否する。しかしそこに救いはありません。救われる道はただ一つ、自分は罪ある者である ことを告白し、神の要求が正しいことを認めることです。神が悔い改める者を、ただご自身の一方的な恵みに よって救って下さる御心を感謝し、アーメンと受け入れることです。その時に私たちは、神は私が奏でる音楽に のって踊ってくれないと文句を言う生活から解放される。むしろ神が奏でて下さる天から流れて来る音楽、神の 恵みをほめたたえる賛美にのって、私たち自身がダンスし、喜び踊る者たちとなることができるのです。
最後35節でイエス様はこう言われます。「だが、知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明しま す。」 まずここで注目したいのは、神の恵みによって救われた人たちが「知恵の子どもたち」と言われている ことです。この人々は、自分たちが無であることを告白した者たちです。しかしそういう人々が「知恵の子ども たち」と言われます。それは何よりもまことの知恵である神との交わりが回復するからです。すべての知識の根 源なるお方と正しく結ばれることによって、私たちは神はどなたか、人間とは何者か、またこの世界とは何か、 私たちの人生の意味と目標は何かについて真の知識また知恵を持つ者になる。また永遠に続く価値あるものは何 か、誉れとは何か、真実とは何か、また義とは何か、愛とは何か、等々について真の知識を持つ者となる。世に は素晴らしい学歴を持っている学者がたくさんいるでしょう。しかし神の前に悔い改め、神と正しい関係に生き る者こそ、「知恵の子どもたち」と呼ばれています。
そして、さらに35節で言われていることは、その知恵の子どもたちによって、神の正しさが証明されるという ことです。つまり恵みによって救われた私たちの生き方やあり様によって、神こそ真に知恵のある正しいお方で あることが実証されるということです。私たちはただ救われるだけでなく、神の栄光を現わす器とされるという ことです。果たしてこんな私にそんなことができるだろうか、かえって神の栄光を汚すだけではないか、と私た ちは恐れるかもしれません。しかし人間的に考えて不可能なことを可能にして下さるところに神の知恵の素晴ら しさは輝き現れます。神は私たちの罪を赦し、キリストの恵みによって日々造り変えて下さることによって、ご 自身の知恵の正しいことを証明なさるのです。そうして必ず神の栄光を現わす歩みができるようになるという祝 福のもとに、私たちは今の生活を導かれているのです。
果たして、私たちは「知恵の子どもたち」であるでしょうか。神は今やイエス様を遣わして、旧約の預言者たち が示し、先駆者ヨハネが指し示した、それまでの時代にはるかに勝る神の国の祝福をもたらして下さっていま す。この祝福にあずかる方法とは、私たちが神に注文をつけて、神を私が願うように動かすことではない。そう ではなく、神が正しいことを認め、自分の罪を告白し、こんな者をキリストにある一方的な恵みによって救って 下さる神の胸に飛び込んで行くところにあるのです。そうする者を神はキリストにあって赦し、聖め、造り変え て、何と「知恵の子どもたち」として下さる。そしてご自身の栄光を現わし、また証明するための器となるまで に祝福し、用いて下さる。私たちは自分を保って神を従わせるのではなく、神を正しいと認めて、その恵みの前 に悔い改めを持ってひれ伏す者でありたい。そうして「知恵の子どもたち」として神を喜び、神の栄光のために 生きる特権と祝福に歩みたいと思います。