ルカの福音書 8:1-21

百倍の実を結ぶ
イエス様は神の国を説き、福音を宣べ伝えながら、町や村を次から次に旅をしておられました。12弟子もお供 をしていました。ここで特徴的なことは、そこに 大ぜいの女たちも一緒にいたことです。イエス様の周りには、このような形で神の国が現れていたということで しょう。まずここに記されている一人目の人は、 七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリヤです。一つの悪霊につかれているだけでも大変 なのに、彼女は7つもの悪霊に支配されていまし た。その苦しみから彼女は救って頂きました。二人目はヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ。このヘロデはガリラ ヤの国主ヘロデ・アンティパスのことと思われま す。つまりあのヘロデの宮廷にも神の国の福音は浸透していたということでしょう。3人目のスザンナは、他に 聖書に記事がないので、どんな人か良く分かりま せん。「そのほか大ぜいの女たちもいっしょであった。」とあります。そしてこの多くの女たちを指して、「自 分の財産をもって彼らに仕えていた」と原文には 記されています。ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナだけではなく、ここにいた多くの女性たちみながそうだった のです。ここに神の国の性質が現れています。彼 女たちは喜びをもって、自分たちの財産を用いてイエス様に献身的に仕えていたのです。2節に「悪霊や病気を 治していただいた女たち」とありますように、彼 女たちは様々な苦悩から救って頂き、その感謝からイエス様のために、神の国のために、このように大きな奉仕 をしていたのです。女性があまり重んじられてい なかった当時、彼女たちがこうして一個の魂として大切にされ、恵みを喜び、神の国のために尊い貢献をしてい た姿は、確かに神の国の性質を物語っています。 ガラテヤ書3章28節:「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜ なら、あなたがたはみな、キリスト・イエスに あって、一つだからです。」

さて、イエス様は大ぜいの人々が集まって来たのを見て、神の国について語り始めます。4節以降にあるのは 「種まきのたとえ」です。皆さんはたとえ話が好き でしょうか。多くの人は好きと答えるでしょう。小難しい話より、日常生活でなじみがある何かを用いて話され る方が親しみがわきます。また新しい面から考え ることができます。気分転換して改めて話に集中できます。しかしここを読んで行くと、イエス様は必ずしも話 を分かりやすくするためにたとえを語られたので はなかったようです。実際「種まきのたとえ」を聞いて、弟子たちはこの意味が分かりませんでした。ですから 彼らは9節でイエス様に尋ねたのです。私たちは その後のイエス様の解説を先に読んで知っているので、このたとえは簡単であるように思っていますが、5~8 節のたとえを聞くだけでは、そうではなかったの です。

イエス様はなぜ、このようにたとえで語られたのでしょうか。10節:「そこでイエスは言われた。『あなたが たに、神の国の奥義を知ることが許されている が、他のものには、たとえで話します。彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らないためです。』」 ここ を読むと、イエス様は弟子たちには神の国の奥義 について直接的に話すが、そうでない人々にはたとえで話すと言っているように見えます。そうするとたとえは 人々がはっきり理解することを妨げ、チンプンカ ンプンの状態に放置するための、否定的な方法という風に読めます。しかしこれは原文の意図ではないと思われ ます。新改訳の10節の真ん中の部分は「ほかの 者にはたとえで話します。」と訳されていますが、原文では「ほかの者には『たとえの中』」とあるだけです。 これは彼らにとっては、すべてがたとえの中に包 まれた状態である、あるいは弟子たちには示された神の国の奥義が他の人たちに対してはたとえの中にとどまり 続ける状態である、という意味ではないかと思わ れます。つまりたとえは弟子たちにもそうでない者たちにも語られるのです。そして弟子たちはたとえを通して さらに深い神の国の奥義へと導かれます。しかし 他の者たちは同じたとえを聞いて、大切な真理がその中に包まれたままの状態となる。なぜそうなのかと言う と、10節後半に「彼らが見ていても見えず、聞い ていても悟らないためです。」とあります。これはイザヤ書6章9節のみことばを下敷きにした言葉です。イザ ヤ書6章でイザヤは主の召命を受けて、御言葉の 宣教へと遣わされますが、それは人々が「自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返って いやされることのない」ためであると言われてい ます。これは一体どういうことかと私たちは思いますが、これは御言葉に反抗する者へのさばきということで す。御言葉を受け入れようとしない人々は、御言葉 が自分に差し向けられると益々心を頑なにしてこれに反発する。そのことにおいてその人は自分がどんな人間で あるかを示し、真理を拒否することによって益々 真理が分からなくなる状態へ自分を追いやるということです。

たとえ話もそのような効果を持つとイエス様は仰っています。一方でたとえ話は真剣な聞き手には神の国の奥義 をより深く悟らせます。しかし真剣ではない聞き 手は、「これは分かりやすい!日常的なお話だ!」と思いつつ、表面的なレベルで満足し、肝心な霊的真理を理 解するところまでは行かない。ですからたとえ話 は、聞き手を試すものなのです。もし私たちが聞く耳を持っていない者なら、すべてはたとえの中にくるまれた 状態に終わり、何の益も受けない。しかし聞く耳 のある者は、熱心にその意味を問い、そこからさらに深い真理へ導かれる。弟子たちはたとえを聞いた後、今の たとえはどういう意味ですかとイエス様に問いま した。そのことにおいて、彼らは真剣な聞き手であることを示しました。そういう人々にイエス様はさらに豊か な真理を教えて下さるのです。

イエス様によれば種は神の言葉です。そしてその種を受け入れる私たちの心はどのような状態であるか、4つの 土地のたとえを通して私たちに問うています。一 つ目の人の心は道ばたのような心です。すなわち踏み固められた道のように、みことばを受け付けない。その内 にサタンという鳥がやって来て、その種を持ち 去ってしまいます。二つ目の岩の上に落ちるとは、「一時的な信仰者」のことです。御言葉を聞いて喜んで受け 入れ、芽を出すところまでは行きますが、ちょっ とした試練や困難があると、御言葉がごく浅くしか根付いていないので、ポロっと根が取れ、身を引いてしま う。三つ目のいばらの地にたとえられている人は、 「二心の人」です。御言葉を聞いて少しは成長しますが、他にも多くのこと――この世の生活、お金、娯楽、趣 味、流行、など――に関心を持っているため、心 が分かれて、キリスト教信仰が窒息してしまう。しかし四つ目は良い地にたとえられている人です。この人は正 しい、良い心で御言葉を聞き、それをしっかり守 り行ない、よく耐えて、8節では「百倍の実を結ぶ」とまで言われていました。ここで強調されていることは何 でしょうか。それは御言葉の隠れた力です。種は 一般にどんなものでも小さく、それ自体では何の力もないように見えます。またまかれた土地によっては何の結 果も出ません。ところがそんな種も、良い地にま かれると驚くべき実を実らせる。つまり神の言葉はそのように私たちに豊かな祝福をもたらす種であるというこ とです。この種も私たちは軽蔑することができま す。世の様々な処世術のお話の方がもっと有用と思ったりもします。しかし大事なのは私たちの心はどうである か、ということ。もし良い心で神の御言葉という 種を受け入れるなら、驚くべき結果が生じる。百倍もの実がなる。だからそのような心で御言葉を聞き、神の国 の祝福に生きるようにとイエス様は言っているの です。

その後に付いている二つの話も、今のメッセージを一層強めるものです。16節:「あかりをつけてから、それ を器で隠したり、寝台の下に置いたりする者はあ りません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。」 イエス様の言葉を良い心 で聞き、これを守る人は必ず良い実を結び、周り の人々を照らす者になるのです。17節にある通り、「隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密に されているもので、知られず、また現れないもの はありません。」 クリスチャンはそのように良い実を結んで、人々に神の光を輝かせ、その証をするような生 き方をしなければならないということです。「だ から、聞き方に注意しなさい。」とイエス様は18節で言われます。「というのは、持っている人は、さらに与 えられ、持たない人は、持っていると思っている ものまでも取り上げられるからです。」と。これは私たちにとってチャレンジとなる御言葉です。これが意味し ていることは、私たちがもし今日、御言葉に真剣 に耳を傾けるなら、次回はもっと多くを知る者となるということ。持っている人はさらに与えられる!しかし反 対に、今日はちょっと気が乗らないから、面倒だ からと言って御言葉にいい加減な態度でいると、次回はもっと真理が悟れなくなる。持たない人は、持っている ものまで取り上げられる!ですから御言葉に接す る1回1回が非常に重要な意味を持っているということになります。具体的に今、この礼拝における私たちの御 言葉への態度はどうでしょうか。

最後19~21節では、そのように御言葉を聞いて行なう人こそ、イエス様の家族であると言われています。イ エス様はもちろんご自身の肉の家族を大切にされ ました。色々な場面にそれを見ることができます。しかし御言葉に真剣に耳を傾け、これを行なう人こそ、地上 の家族に勝るイエス様との深い結びつき、深い一 致に生きている人であり、イエス様の真の家族、天の御国で永遠にイエス様と共に住む神の家族であると言って いるのです。

私たちは今日の御言葉の光の下で自分を振り返り、どうでしょうか。私たちはしばしば説教について色々評価し ます。今日の説教は良かったとか良くなかったと か、あの説教者の方が良いとか良くないとか。しかし今日の箇所によれば、私が評価する立場にあるのではな く、むしろ御言葉を前にしている私たちの心が問わ れているということです。あなたの心は、今語られている御言葉の前でどんな状態か。この4つの土地の内、ど れだろうか、と。ボンヘッファーというかつての ドイツの有名な牧師また神学者は、説教演習を教えるクラスで、神学生が説教する間、ペンをわきに置いて、聖 書を開いて、熱心に聞き入ったそうです。その時 間は神学生の説教を聞き、それを批判するための時間なのに、その時さえも、たとえその神学生の説教がどんな に貧しくても、神の言葉の宣教は神ご自身の声に 聞くようにして注意して聞くべきものだと信じてそうしていた。私たちもそのような姿勢でたえず御言葉に注意 して聞き、御言葉に望みを置いて聞き入りたいと 思います。礼拝で説教を聞く時も、聖書研究会で学ぶ時も、また家で個人のデボーションの時間に聖書を開く時 も。その時に、私たちは自分の将来に大きな望み を持つことができます。そういう人の行く先には、百倍の実を結ぶという歩みが約束されています。その人はい よいよ神の家族の特権と祝福に生き、その光を輝 かせて、イエス様と共に神の国を広げ、用いて頂けるという栄えある歩みへと進んで行くことができるのです。