ルカの福音書 8:26-39

どんなに大きなことを

イエス様の一行はガリラヤ湖を渡り、ゲラサ人の地方に着きます。この地方はガリラヤ湖の東側にあたり、異邦人が 住む場所だったと考えられます。そこでイエ ス様と弟子たちを真っ先に迎えたのは悪霊につかれている男でした。彼は同じ人間とは思えない変わり果てた姿、い や動物のような姿をしていました。彼は長い 間、着物を着けず、裸で生活していました。また家には住まないで、墓場で生活していました。その彼はイエス様を 見ると叫び声を御前にひれ伏し、大声を上げ て話し始めます。誰もが不気味さを覚え、思わず後退りしたくなるような姿がそこにはありました。

しかし、この男は自分がそうしたくてそうしているわけではありませんでした。イエス様は「何という名か」と尋ね ると、彼は「レギオンです」と答えます。レ ギオンとは、ローマ帝国の最大6000人からなる軍団を指す言葉です。すなわち6000もの悪霊が取り付いてい たかどうかは分かりませんが、30節後半で ルカが説明していますように、大ぜいの悪霊が彼に入っていたことは事実でした。その彼を誰もつなぎ留めておくこ とはできません。人々は彼を鎖や足かせでつ ないで監視していましたが、悪霊は恐るべき力をもってそれらを断ち切っては、彼を荒野に追いやっていました。

私たちはこのような記事をどう読むでしょうか。これは科学が発達した今日ではまともに受け入れられない古い時代 の迷信に満ちた話でしょうか。聖書ははっき りと悪霊の存在やその長であるサタンの存在について述べています。たとえばヨハネ16章でイエス様は悪魔のこと を「この世を支配する者」と述べておられま す。またⅠヨハネ5章19節に「世全体は悪い者の支配下にある」と記されています。パウロもエペソ書2章で悪魔 のことを「空中の権威を持つ支配者」と呼 び、その霊は今も不従順の子らの中に働いていると言っています。なぜ悪魔の支配がこの世界の上に臨むようになっ たのかと言えば、それは最初の人間アダムと エバの堕落によります。あの堕落の出来事において、人間はサタンの言葉を信じました。その結果、人間とこの世界 の上にはサタンが支配権を持つようになった のです。そして今日の箇所にある男の姿は、まさにそのサタンの支配下にあったかつての私たちの姿を示しているも のと見ることができます。あるいはイエス・ キリストによる救いをまだ受けておらず、今なおサタンの支配下にある人々の姿とも言えます。ここに示されている 真理とは何でしょうか。それはサタンの支配 下にある時、人は正しい意味での人間性を失うということです。自分で自分のことがコントロールできず、非人間化 の方向へ導かれる。私たちもかつての自分を 振り返る時、まさにこのような状態にあったのではないでしょうか。すなわち彼が着物を付けていなかったように、 私たちも罪の姿をさらけ出し、それを何とも 思わず、これの一体何が悪いかと主張するような生活をしていた。また彼が疎外されていたように、私たちも神との 交わりを失い、他の人との交わりを失う生活 をしていた。また彼が鎖や足かせを断ち切る凶暴な性質を持っていたように、私たちも言葉や行ないにおいて凶暴性 を発揮していた。そして彼が墓場に住んでい たように、私たちも霊的な死の領域の中で生きていた。このような悪霊の働きは今日も認められます。なぜ人々は本 来の人間性とは相容れない様々な凶悪事件、 人殺し、詐欺、テロ、自殺、その他の不正へと走るのでしょうか。それはその背後に悪霊の働きがあるからではない でしょうか。また私たちもそうです。自分は 悪霊とは何の関係もない紳士であり、淑女であると思っているかもしれません。しかしいつも人間らしい理性や良心 の鎖によって、自分を律しているでしょう か。常軌を逸して暴走することはないでしょうか。「魔が差した」という言葉がありますが、つい悪い心を持った結 果、思わぬところまで進んでしまい、ひどい 言葉を口から発したり、凶暴な態度を取ったり、・・。そう考えると、これは決して人ごとではありません。聖書が 私たちに示していることは、今日もサタンと 悪霊の働きは確かにあるということです。その力は私たちをはるかに上回るものであり、その力に支配されるなら、 今日も私たちはこの男と同じ悲惨な状況に陥 るし、また現に多くの人々が実質的にこれと変わらない悲惨と苦しみに追いやられているのです。

しかし、同時に聖書がもう一方で示していることは、私たちはこのサタンと悪霊の力を必要以上に恐れなくて良いと いうことです。なぜならイエス・キリストは この悪霊の上に圧倒的な権威を持っているからです。イエス様がゲラサ人の地に着いた時、悪霊につかれた男が叫び 声をあげ、御前にひれ伏して大声で言いまし た。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのです。お願いです。どうか私を苦しめないで ください。」 人間たちはまだイエス様の本 質が分かっていないのに、悪霊たちは「いと高き神の子イエスさま!」と言っています。31節では「底知れぬとこ ろに行け、とはお命じになりませんよう に。」と願っています。「底知れぬ所」とは、黙示録20章その他の箇所に示されていますが、悪霊が審判の日まで 閉じ込められる場所です。つまり悪霊は自分 たちがやがて底知れぬ所に投げ込まれ、さばかれることを知っているのです。ヤコブ2章19節に「悪霊どもも、神 はおひとりだと信じて、身震いしていま す。」とありますが、まさにその通りです。

さて、その悪霊どもはここで豚の中に入ることを許して下さい、と願い出ます。イエス様はそれを許可されます。そ してその後で大変なことが起こります。33 節後半に「すると、豚の群れはいきなりがけを駆け下って湖に入り、おぼれ死んだ。」とあります。マルコの福音書 によれば、おぼれ死んだ豚の数は2000匹 ほどであったと記されています。このことを思う時に、私たちは激しいショックを覚えます。と同時に色々な疑問を 持ちます。一つは、なぜイエス様は悪霊ども が豚の中に乗り移ることをお許しになったのだろうか、ということです。イエス様は豚がおぼれ死ぬことを見越して おられなかったのだろうか。もし見越してお られたなら、これはあまりにも残酷な話ではないだろうか、と。また悪霊についても、なぜ彼らは豚に乗り移ること を願ったのか。せっかく乗り移っても、こう やって湖に突っ込んで死んでしまったなら、結局同じではないだろうか。それとも豚は死んでも、悪霊はなお存在し 続けたのだろうか、等々。こうした問いに対 しては、注解者たちも色々議論していますが、なかなか満足する答えは得られません。それはこの箇所はそういうこ とに焦点を当てていないので、私たちが知り たいと思うことについては詳しく書いていないから、ということになるでしょう。

しかし、少なくとも次のことは言えると思います。それはこのおびただしい数の豚がおぼれ死んだ出来事は、いかに とてつもない悪の力が、これまでゲラサ人の 男の上に臨んでいたかを目に見えるように現わすものだったということです。彼に多くの悪霊が取り付いていたこと は住民たちも知っていましたが、まさか豚 2000匹を湖になだれ込ませて、こんな無残な死に方をさせるほどに恐ろしく、残虐な性格と力を持つものとまで は思っていなかった。ここに私たちはレギオ ンが彼の上に及ぼしていた力を衝撃的な仕方で見させられるのです。またこれは、人がサタンの支配から解放される ためには多大な犠牲が必要となることも示し ています。私たち人間が陥った悲惨と呪いから解放されるには、これほどの相当の代価が必要とされるであろうとい うこと。これはやがてキリストが払って下さ る十字架の死の代償の大きさを指し示すものでもあります。そしてもう一つは確かに豚2000匹は多大な犠牲であ るけれども、イエス様はこの一人の男の救い をそれ以上に尊いと見ておられるということです。豚2000匹の損失の大きさにショックを受ければ受けるほど明 らかになることは、イエス様は私たち一人一 人をもっと尊く見ておられるということ。そのように神の前で見られている自分であり、またお互い一人一人なので す。

さて、このようにして悪霊につかれていた人の救いを見たゲラサ地方の住民の反応が、その後に記されています。彼 らはこの男が着物を着て、正気に返ってす わっているのを見て、恐ろしくなったとあります。そして事の次第を知ってすっかり怯えてしまい、自分たちのとこ ろから離れて頂きたいとイエス様に願ったと あります。本来なら、あれだけ手の施しようがなかったけだもの同然の彼がこのように救われたのを見て、神の救い の到来を喜び、自分たちもこの方がもたらす 祝福を求めれば良かったのに、彼らは自分たちの生活が変えられること好まなかった。この方がここにおられると、 また豚何千匹が失われるかもしれない。また それ以上に、このとてつもない権威を持つ方がおられると、自分たちの生活全体が根本的に変わらざるを得ないかも しれない。そのことを思って、彼らはせっか く目の前まで来られたイエス様を拒否したのです。今まで通りの生活を続けることを選び、永遠の祝福を捨てたので す。今日も何とこのようにして多くの人々 が、差し出されているチャンスを自分のものとせず、真の祝福を逃していることでしょうか。

そんな中、悪霊を追い出された人がお供をしたいとイエス様にしきりに願ったとあります。彼にとって今やイエス様 は自分の人生のすべてです。しかしイエス様 は彼に、「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」と言われ ました。ここに一人一人に対する神の計画は 違うということを私たちは見ます。皆がいわゆる直接献身をするのではない。皆が自分の住む土地を離れて遠い場所 で宣教するのではない。そのように召される 人もいますが、今、自分が置かれているところで励むという働きに召されている人たちもいるのです。この召しを受 け止めて、彼は一生懸命に励みました。39 節後半:「そこで彼は出て行って、イエスがどんなに大きなことをしてくださったかを、町中に言い広めた。」 

以上の箇所から、最後に二つのメッセージを私たちは改めて心に刻みたいと思います。一つはイエス・キリストこ そ、堕落以来、悪霊の支配下にある人間たち を、そこから救い出し、真の人間性へと回復して下さる救い主であるということです。私たちはこのゲラサ人のよう に、イエス様によって恐るべき悪の力の下か ら救い出された者たちです。もしこのイエス様がいなければ、私たちは益々非人間化の道を歩いていました。この男 のようにしたいと思うことができず、人格を 破壊され、滅びに向かって追い立てられて行くだけの人生でした。しかし主の救いの恵みにより、私たちは暗やみの 圧政から解放され、愛する御子のご支配の中 に移して頂きました。そこに用意されているのは本当の人間性を益々取り戻していく道です。私たちはこの主が自分 にして下さった御業を今朝、心から感謝した いと思います。

そしてもう一つのことは、私たちもこの男のように、神の救いの恵みを人々に伝える働きへ召されているということ です。私たちも悪霊の支配から解放され、主 の恵みのご支配へと導き入れられた者です。そのことを私たちは自分の生き様とことばとを持って、置かれていると ころで証しするように召されています。共に 住む家族の中で、また地域において、職場において、学校において。イエス様は「家に帰って、神があなたにどんな に大きなことをしてくださったかを、話して 聞かせなさい。」と言われました。これは私たちにとってのチャレンジです。私たちは遠くに行かなくても、今置か れているところで神に応える歩みをすること ができるのです。悪の支配に勝るイエス・キリストの恵みの支配を宣べ伝えることができるのです。そしてイエス様 と共に、神の国を広げるわざのために仕え、 このゲラサ人のように尊いその一翼を担う歩みを御前にささげて行くことができるのです。