ルカの福音書 9:1-9
至る所で福音を
12人の使徒たちは今日の箇所で初めて、神の国の宣教の働きへと派遣されます。彼らはすでにイエス様によって選 ばれ、「使徒」という名を頂いていました が、これまではイエス様のそばにいて、イエス様から学ぶだけの者たちでした。8章1節に「その後、イエスは、神 の国を説き、その福音を宣べ伝えながら、町 や村を次から次に旅をしておられた。12弟子もお供をした。」とありましたが、彼らはそのイエス様について、イ エス様の働きを見て来ました。そういう彼ら が今度はイエス様にならう働きへと進むのです。イエス様がこのように導いたのは、やがての将来を見据えてのこと です。イエス様は復活後に天に昇り、聖霊を 遣わし、ペンテコステをもって地上の教会を地の果てまで宣教する教会として新しく立たせます。使徒1章8節: 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれると き、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの 証人となります。」 そのやがての本格的な 働きに向けての準備の時、訓練の時、言わばインターンの時がこの時だったです。
私たちはこの箇所を単に12使徒たちにだけ関係する箇所として読んではなりません。次の10章1節を見ると、別 に70人が宣教に派遣されます。その彼らに 対してもイエス様は同じように語られて、宣教へ遣わします。ですから宣教の働きは12使徒ばかりでなく、主を信 じる民みなが携わるように召されている働き です。マタイ28章最後にはいわゆる「大宣教命令」もあります。そのような御心へとつながっている今日の9章1 節からの部分です。ですから私たちはここか ら教会の宣教について大切な原則を学ぶことができます。もちろんこの言葉が語られた当時にのみ関わること、また 12使徒にのみ当てはまる独特な事柄も含ま れるでしょうけれども、根本的な原則は同じと言えます。
まず第一に私たちが学ぶことは、イエス様は彼らに力と権威を授けて遣わされたことです。すなわちイエス様は彼ら の人間的な力に任せず、この働きをなすため の上からの力と権威を与えて下さった。具体的にそれは「すべての悪霊を追い出し、病気を直すための」力と権威で す。これは12使徒たちにのみ当てはまる独 特な事柄です。彼らは行く先々で確かに神の国が来ていることを目に見えるようにして示す必要がありました。しか しこのことは私たちはこのようなものを何も 与えられていないということではありません。イエス様はルカ24章49節で、天に昇る前に「さあ、わたしは、わ たしの父の約束してくださったものをあなた がたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」と言われまし た。その聖霊を私たちも頂いています。また 私たちには完結した聖書の御言葉が与えられています。御言葉は神の言葉であるがゆえに、その御言葉が忠実に取り 次がれるなら、そこには神の権威が示されま す。宣教へと召しているイエス様は、それを成し遂げるに必要な力と権威も私たちに与えて下さっています。私たち はその神が下さっている力と権威により頼 み、あるいはそれがさらに豊かに与えられることを祈り求めつつ、この働きに携わって行くべきであるということで す。
二つ目に注目したいのは、働きの内容です。2節:「それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わ された。」 ここに二つのことが言われてい ます。まず一つ目は神の国を宣べ伝えることです。神の国とは神の恵みのご支配のことです。人間は罪を犯してサタ ンと罪の支配の下にある者となりましたが、 イエス様が来られたことにより、再び恵みの支配が地に臨み始めました。すなわちイエス様がその十字架と復活を もって私たちの罪の問題を解決して下さること により、再び私たちの上には神の祝福の支配が臨むようになったのです。ただしこれを受け取るには悔い改めをもっ てイエス様により頼む信仰が必要です。その ようにして神の国の祝福に入るようにと人々を招くことが、神の国を宣べ伝えることです。もう一つのことは病気を 直すことです。神の恵みの支配の中に入れら れることは、あらゆる呪いが取り去られ、祝福のみが満ち溢れるようになることです。すなわち福音書における様々 な癒しの出来事は、神の恵みの支配が確かに ここに来ていることを目に見えるように示すしるしとしての意味を持ちます。しかしこれは単に神の国の到来を証明 するという意義しかないものではないでしょ う。ここには神が私たちの霊的状態ばかりでなく、肉体的な状態も心にかけていて下さることが示されています。と するならば、私たちの働きも、人々の魂に関 することばかりでなく、その肉体的生活に関することにまで視野が拡げられなければなりません。すなわち御言葉の 宣教と共に、あわれみの働きもセットで考え られて行くべきであるということです。飢えている人に食べさせ、裸の人に着せ、病の人を見舞い、身寄りのない人 や外国人を迎え入れ、ホームレスの人々を支 える、等々。もちろん人々の地上の生活をどんなに支えても、それでその人が永遠に生きるわけではなく、やがては すべての人が死に至ります。そういう意味で 第一に重要なのは福音の宣教です。しかし神ご自身が私たちの魂ばかりでなく、体も含めた全存在を心にかけて下 さっています。ですから私たちの宣教の働き も、この神を映し出すものでなくてはならないのです。
三つ目に注目したいのは、この働きに当たる際の心得です。まず、3節:「イエスは、こう言われた。『旅のために 何も持って行かないようにしなさい。杖も、 袋も、パンも、金も。また下着も、二枚は、いりません。』」 これは宣教に出て行く者の恒久的ルールではありま せん。後の22章36節でイエス様は弟子た ちに「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。」 と言われます。ですから状況状況の中で判断 して行くべきことがあるということになります。イエス様のここでのポイントは必要以上に多く持つな!ということ でしょう。神の摂理の御手に信頼してこの働 きに励みなさい、ということでしょう。私たちはある意味でできる準備はするのです。何も準備しないで、神が支え て下さる!と言って出て行って神を試し、ま たみなに迷惑をかけるようなことになってはいけません。しかしともすると私たちは必要以上に持ち過ぎているかも しれません。万が一、神の助けがなくても やって行けるようなレベルまで備えようとしているかもしれません。それでは神への信頼はどこにあるのか、という ことになってしまいます。神の国を伝える人 は、まず自分自身が神に信頼して生かされているという祝福の中に生きていなければなりません。
4節:「どんな家に入っても、そこにとどまり、そこから次の旅に出かけなさい。」 これは招いてくれるもっと素 敵な家が見つかったからと言って、そっちに 移動してはならないということでしょう。彼らは快適な暮らしを求めて旅をしているのではありません。宣教の働き に出かけるのです。そのために神が用意して 下さったところに満足して泊らせて頂き、なすべき働きに没頭する。12章31節:「なにはともあれ、あなたがた は、神の国を求めなさい。そうすれば、これ らの物は、それに加えて与えられます。」
5節:「人々があなたがたを受け入れない場合は、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、足のちりを 払い落しなさい。」 ユダヤ人は異邦人の地 域を通ってユダヤ人の地に戻って来る時、その境界線上でこのようなことをしました。それは足の裏に付いた塵につ いても、神を信じる私たちとそうでないあな たがたとの間には関係がないということを示す象徴的行為でした。これを12使徒たちは自分たちを受け入れないユ ダヤ人に対してするのです。もちろんこれは 自分が拒絶されたことへの腹いせに行なうものではありません。そうではなく、これによって人々の取った行動がど んなに厳粛な意味を持つかを警告するので す。ここからも福音を伝える者たちが権威を与えられて遣わされていることが分かります。彼らを退けることはイエ ス様ご自身を退けることであり、神の国の最 終的拒否と同じとされています。まさにイエス様の代理人・イエス様の大使として遣わされている彼らなのです。
こうした彼らの働きの結果が7~9節に示されています。人々の間には大きな反響が起こりました。ある人々は「ヨ ハネが死人の中からよみがえったのだ」と言 い、他の人々は「エリヤが現れたのだ」と言い、さらに別の人々は「昔の預言者のひとりがよみがえったのだ」と言 いました。そのうわさはヘロデの宮殿にまで 到達します。そしてヘロデの心がうずいたことが記されています。彼はバプテスマのヨハネを牢に閉じ込めていまし たが、その彼の首をはねていました。そのこ とを思い出したのです。そして「こうしたことがうわさされているこの人は、いったいだれなのだろう。」と問い、 イエス様に会ってみようとした、と記されて います。このヘロデの問いは、この後の18~20節の部分と呼応しています。そこで今の問いに答えるようにし て、ペテロの信仰告白が語られます。しかしこ こでは弟子たちの宣教活動はこれほどのインパクトを与えたということが語られているのでしょう。弟子たちが至る 所で福音を宣べ伝えたことによって、イエス 様の働きは急速に拡大したのです。まるでイエス様の分身があちこちに現れたかのようだったのです。人々はそのた めに、このイエスとは誰なのか、互いに問わ ざるを得なかった。これは理想的な宣教の姿です。弟子たちは自分たちの名を売ることをしませんでした。自分たち に栄光を帰しませんでした。彼らは至るとこ ろでイエス様を証ししたのです。しかし同時にこれはイエス様が彼らの宣教に実際に伴っておられたことの証拠で しょう。単に弟子たちがイエス様に栄光を帰す 活動をしたからイエス様が浮かび上がったのでなく、イエス様が彼らを用いて実際に働いておられたのです。ですか ら彼らの活動はこのような反響を呼び起こ し、イエス様の御名に人々の関心と問いは集中して向けられたのです。
イエス様はやがてのペンテコステ以降の教会の宣教の歩みを見据えて、その第一ステップを導かれました。そのイエ ス様は10章で70人を遣わし、ついに復活 後には天から聖霊を送って教会を全世界への宣教の歩みへと導かれます。そしてその働きは今日の教会を通してもな されていますし、これからも世の終わりまで なされて行きます。ですから今日の私たちもただ主から救いを頂くだけで終わりではなく、主と共に神の国を広げ、 その完成のために仕える光栄に召されていま す。この神の国の宣教は何よりも父、子、聖霊の三位一体の神による働きであり、その神の世界に対する一大プロ ジェクトに私たちも共に携わるように招かれて いるのです。その際、私たちはとりあえずやってみなさい、という形で招かれているのではなく、必要な力と権威を 与えられてこの働きに当たるのです。
私たちは今週も遣わされて行きます。職場、学校、地域、また家庭に私たちは神の国の大使として派遣されるので す。この使命と特権を覚え、その遣わされる場 で、言葉と行ないを持って神の国を宣べ伝えることができるように。自らがまず神の国の恵みに生きつつ、御言葉を 持って人々をこの恵みの支配に招き、また神 のあわれみの目を共有している者として、人々の具体的な必要にも心を砕き、主の祝福が注がれるための道具となる ことができますように。そうしてイエス様の 分身として「至る所で福音を宣べ伝える」という歩みをさらに展開し、神の国がさらに拡げられて行く光栄な使命と 祝福に歩みたいと思います。
12人の使徒たちは今日の箇所で初めて、神の国の宣教の働きへと派遣されます。彼らはすでにイエス様によって選 ばれ、「使徒」という名を頂いていました が、これまではイエス様のそばにいて、イエス様から学ぶだけの者たちでした。8章1節に「その後、イエスは、神 の国を説き、その福音を宣べ伝えながら、町 や村を次から次に旅をしておられた。12弟子もお供をした。」とありましたが、彼らはそのイエス様について、イ エス様の働きを見て来ました。そういう彼ら が今度はイエス様にならう働きへと進むのです。イエス様がこのように導いたのは、やがての将来を見据えてのこと です。イエス様は復活後に天に昇り、聖霊を 遣わし、ペンテコステをもって地上の教会を地の果てまで宣教する教会として新しく立たせます。使徒1章8節: 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれると き、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの 証人となります。」 そのやがての本格的な 働きに向けての準備の時、訓練の時、言わばインターンの時がこの時だったです。
私たちはこの箇所を単に12使徒たちにだけ関係する箇所として読んではなりません。次の10章1節を見ると、別 に70人が宣教に派遣されます。その彼らに 対してもイエス様は同じように語られて、宣教へ遣わします。ですから宣教の働きは12使徒ばかりでなく、主を信 じる民みなが携わるように召されている働き です。マタイ28章最後にはいわゆる「大宣教命令」もあります。そのような御心へとつながっている今日の9章1 節からの部分です。ですから私たちはここか ら教会の宣教について大切な原則を学ぶことができます。もちろんこの言葉が語られた当時にのみ関わること、また 12使徒にのみ当てはまる独特な事柄も含ま れるでしょうけれども、根本的な原則は同じと言えます。
まず第一に私たちが学ぶことは、イエス様は彼らに力と権威を授けて遣わされたことです。すなわちイエス様は彼ら の人間的な力に任せず、この働きをなすため の上からの力と権威を与えて下さった。具体的にそれは「すべての悪霊を追い出し、病気を直すための」力と権威で す。これは12使徒たちにのみ当てはまる独 特な事柄です。彼らは行く先々で確かに神の国が来ていることを目に見えるようにして示す必要がありました。しか しこのことは私たちはこのようなものを何も 与えられていないということではありません。イエス様はルカ24章49節で、天に昇る前に「さあ、わたしは、わ たしの父の約束してくださったものをあなた がたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」と言われまし た。その聖霊を私たちも頂いています。また 私たちには完結した聖書の御言葉が与えられています。御言葉は神の言葉であるがゆえに、その御言葉が忠実に取り 次がれるなら、そこには神の権威が示されま す。宣教へと召しているイエス様は、それを成し遂げるに必要な力と権威も私たちに与えて下さっています。私たち はその神が下さっている力と権威により頼 み、あるいはそれがさらに豊かに与えられることを祈り求めつつ、この働きに携わって行くべきであるということで す。
二つ目に注目したいのは、働きの内容です。2節:「それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わ された。」 ここに二つのことが言われてい ます。まず一つ目は神の国を宣べ伝えることです。神の国とは神の恵みのご支配のことです。人間は罪を犯してサタ ンと罪の支配の下にある者となりましたが、 イエス様が来られたことにより、再び恵みの支配が地に臨み始めました。すなわちイエス様がその十字架と復活を もって私たちの罪の問題を解決して下さること により、再び私たちの上には神の祝福の支配が臨むようになったのです。ただしこれを受け取るには悔い改めをもっ てイエス様により頼む信仰が必要です。その ようにして神の国の祝福に入るようにと人々を招くことが、神の国を宣べ伝えることです。もう一つのことは病気を 直すことです。神の恵みの支配の中に入れら れることは、あらゆる呪いが取り去られ、祝福のみが満ち溢れるようになることです。すなわち福音書における様々 な癒しの出来事は、神の恵みの支配が確かに ここに来ていることを目に見えるように示すしるしとしての意味を持ちます。しかしこれは単に神の国の到来を証明 するという意義しかないものではないでしょ う。ここには神が私たちの霊的状態ばかりでなく、肉体的な状態も心にかけていて下さることが示されています。と するならば、私たちの働きも、人々の魂に関 することばかりでなく、その肉体的生活に関することにまで視野が拡げられなければなりません。すなわち御言葉の 宣教と共に、あわれみの働きもセットで考え られて行くべきであるということです。飢えている人に食べさせ、裸の人に着せ、病の人を見舞い、身寄りのない人 や外国人を迎え入れ、ホームレスの人々を支 える、等々。もちろん人々の地上の生活をどんなに支えても、それでその人が永遠に生きるわけではなく、やがては すべての人が死に至ります。そういう意味で 第一に重要なのは福音の宣教です。しかし神ご自身が私たちの魂ばかりでなく、体も含めた全存在を心にかけて下 さっています。ですから私たちの宣教の働き も、この神を映し出すものでなくてはならないのです。
三つ目に注目したいのは、この働きに当たる際の心得です。まず、3節:「イエスは、こう言われた。『旅のために 何も持って行かないようにしなさい。杖も、 袋も、パンも、金も。また下着も、二枚は、いりません。』」 これは宣教に出て行く者の恒久的ルールではありま せん。後の22章36節でイエス様は弟子た ちに「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。」 と言われます。ですから状況状況の中で判断 して行くべきことがあるということになります。イエス様のここでのポイントは必要以上に多く持つな!ということ でしょう。神の摂理の御手に信頼してこの働 きに励みなさい、ということでしょう。私たちはある意味でできる準備はするのです。何も準備しないで、神が支え て下さる!と言って出て行って神を試し、ま たみなに迷惑をかけるようなことになってはいけません。しかしともすると私たちは必要以上に持ち過ぎているかも しれません。万が一、神の助けがなくても やって行けるようなレベルまで備えようとしているかもしれません。それでは神への信頼はどこにあるのか、という ことになってしまいます。神の国を伝える人 は、まず自分自身が神に信頼して生かされているという祝福の中に生きていなければなりません。
4節:「どんな家に入っても、そこにとどまり、そこから次の旅に出かけなさい。」 これは招いてくれるもっと素 敵な家が見つかったからと言って、そっちに 移動してはならないということでしょう。彼らは快適な暮らしを求めて旅をしているのではありません。宣教の働き に出かけるのです。そのために神が用意して 下さったところに満足して泊らせて頂き、なすべき働きに没頭する。12章31節:「なにはともあれ、あなたがた は、神の国を求めなさい。そうすれば、これ らの物は、それに加えて与えられます。」
5節:「人々があなたがたを受け入れない場合は、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、足のちりを 払い落しなさい。」 ユダヤ人は異邦人の地 域を通ってユダヤ人の地に戻って来る時、その境界線上でこのようなことをしました。それは足の裏に付いた塵につ いても、神を信じる私たちとそうでないあな たがたとの間には関係がないということを示す象徴的行為でした。これを12使徒たちは自分たちを受け入れないユ ダヤ人に対してするのです。もちろんこれは 自分が拒絶されたことへの腹いせに行なうものではありません。そうではなく、これによって人々の取った行動がど んなに厳粛な意味を持つかを警告するので す。ここからも福音を伝える者たちが権威を与えられて遣わされていることが分かります。彼らを退けることはイエ ス様ご自身を退けることであり、神の国の最 終的拒否と同じとされています。まさにイエス様の代理人・イエス様の大使として遣わされている彼らなのです。
こうした彼らの働きの結果が7~9節に示されています。人々の間には大きな反響が起こりました。ある人々は「ヨ ハネが死人の中からよみがえったのだ」と言 い、他の人々は「エリヤが現れたのだ」と言い、さらに別の人々は「昔の預言者のひとりがよみがえったのだ」と言 いました。そのうわさはヘロデの宮殿にまで 到達します。そしてヘロデの心がうずいたことが記されています。彼はバプテスマのヨハネを牢に閉じ込めていまし たが、その彼の首をはねていました。そのこ とを思い出したのです。そして「こうしたことがうわさされているこの人は、いったいだれなのだろう。」と問い、 イエス様に会ってみようとした、と記されて います。このヘロデの問いは、この後の18~20節の部分と呼応しています。そこで今の問いに答えるようにし て、ペテロの信仰告白が語られます。しかしこ こでは弟子たちの宣教活動はこれほどのインパクトを与えたということが語られているのでしょう。弟子たちが至る 所で福音を宣べ伝えたことによって、イエス 様の働きは急速に拡大したのです。まるでイエス様の分身があちこちに現れたかのようだったのです。人々はそのた めに、このイエスとは誰なのか、互いに問わ ざるを得なかった。これは理想的な宣教の姿です。弟子たちは自分たちの名を売ることをしませんでした。自分たち に栄光を帰しませんでした。彼らは至るとこ ろでイエス様を証ししたのです。しかし同時にこれはイエス様が彼らの宣教に実際に伴っておられたことの証拠で しょう。単に弟子たちがイエス様に栄光を帰す 活動をしたからイエス様が浮かび上がったのでなく、イエス様が彼らを用いて実際に働いておられたのです。ですか ら彼らの活動はこのような反響を呼び起こ し、イエス様の御名に人々の関心と問いは集中して向けられたのです。
イエス様はやがてのペンテコステ以降の教会の宣教の歩みを見据えて、その第一ステップを導かれました。そのイエ ス様は10章で70人を遣わし、ついに復活 後には天から聖霊を送って教会を全世界への宣教の歩みへと導かれます。そしてその働きは今日の教会を通してもな されていますし、これからも世の終わりまで なされて行きます。ですから今日の私たちもただ主から救いを頂くだけで終わりではなく、主と共に神の国を広げ、 その完成のために仕える光栄に召されていま す。この神の国の宣教は何よりも父、子、聖霊の三位一体の神による働きであり、その神の世界に対する一大プロ ジェクトに私たちも共に携わるように招かれて いるのです。その際、私たちはとりあえずやってみなさい、という形で招かれているのではなく、必要な力と権威を 与えられてこの働きに当たるのです。
私たちは今週も遣わされて行きます。職場、学校、地域、また家庭に私たちは神の国の大使として派遣されるので す。この使命と特権を覚え、その遣わされる場 で、言葉と行ないを持って神の国を宣べ伝えることができるように。自らがまず神の国の恵みに生きつつ、御言葉を 持って人々をこの恵みの支配に招き、また神 のあわれみの目を共有している者として、人々の具体的な必要にも心を砕き、主の祝福が注がれるための道具となる ことができますように。そうしてイエス様の 分身として「至る所で福音を宣べ伝える」という歩みをさらに展開し、神の国がさらに拡げられて行く光栄な使命と 祝福に歩みたいと思います。