ルカの福音書 9:28-36
彼の言うことを聞きなさい
イエス様はペテロとヨハネとヤコブを連れて、祈るために山に登られます。イエス様は特別な機会に、この3人だけ を連れて行かれました。その彼らの前で驚く べきことが起こります。「祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。」と29節にありま す。マタイの福音書の並行記事では「御顔は太 陽のように輝き」と記されています。また御衣についてマルコの福音書には「世のさらし屋ではとてもできないほど の白さであった。」とあります。またルカの 29節の「光り輝いた」という部分には印が付いていて、欄外の注を見ると、直訳では「いなずまのように光り輝い た」とあります。
さらに、そこに二人の人が現れます。それはあの旧約時代の偉大なしもべモーセとエリヤです。モーセはイスラエル をエジプトから導き出し、約束の地の直前ま で導いた大指導者です。一方のエリヤはイスラエルに多く与えられた預言者の中の代表的人物です。このイスラエル の歴史を代表する二大人物が、栄光の内に現 れてイエス様と話し合っていた。それは目を疑うような、あまりにも不思議で素晴らしい光景だったことでしょう。
しかし、その3人が話し合っていた内容は、見た目の輝かしさとは釣り合わないようなことでした。31節に「イエ スがエルサレムで遂げようとしておられるご 最期についていっしょに話していたのである。」とあります。ここは少し説明を加える必要があると思います。まず 「イエスがエルサレムで遂げようとしておら れる」とありますが、この「遂げようとしておられる」という言葉は、原文では「満たす」とか「成就する」という 意味の言葉です。つまりここは単にイエス様 がエルサレムで死ぬことだけを言っているのではなく、イエス様が神のご計画を成就することについて語っているこ とになります。そしてもう一つ、ここで「ご 最期」と訳されている言葉は、ギリシャ語ではエクソダスという言葉です。エクソダスとはご存知のように出エジプ トを指す言葉です。イエス様はそのようにこ の世を抜け出て、天の父の栄光のもとへと行く。ですからここでは単にイエス様の十字架の死のことだけが語られて いたのではなかった。十字架を経て父の栄光 のもとへとエクソダスする出来事について話し合っていたのです。そしてこのエクソダスは、旧約時代のエクソダス が指し示す本当の意味での「エクソダス」 「救い」をもたらすものとなる。まさにこのことを旧約聖書は示して来ました。モーセは律法の代表であり、エリヤ は預言者の代表です。そして「律法と預言 者」という表現で、旧約聖書全体が意味されます。ですからこのモーセとエリヤが現れてイエス様と話していた出来 事は、旧約聖書全体のメッセージとイエス様 がこれからの十字架への歩みは一致するということを意味しています。かねてから神が示して来られた救いは、いよ いよこのイエス様において実現しようとして いるのです。
ここまでのことから教えられることは何でしょうか。それはまずイエス様の本質についてです。ペテロは前回、イエ ス様を「神のキリストです」と告白しまし た。しかし今日の箇所から思わされることは、イエス様はこのようなとてつもない輝きに満ちたお方であるというこ とです。ヘブル書1章3節:「御子は神の栄 光の輝き、また神の本質の完全な現れであり」 ピリピ書2章6節:「キリストは神の御姿であられるのに」 イエ ス様が人の性質を加えて地上で歩まれた時 は、肉の目では私たちと同じ人間のようにしか見えない状態でしたが、その本質はこのような方であられるのです。 そしてこのことから分かることは、十字架に 向かうイエス様の歩みは決して嫌々ながら引っ張って行かれたものではないということです。それはただ、イエス様 がご自身からその道を選んで進まれたからと いう以外に理由はありません。十字架はイエス様の弱さを示すものではなく、むしろイエス様の父なる神への全き従 順と、私たちへの限りない愛と、この苦しみ に決然と進むイエス様の真の力強さを示す出来事なのです。
さて、イエス様と一緒に連れて行ってもらった3人の弟子たちはどうしていたでしょうか。32節に、ペテロと仲間 たちは「眠くてたまらなかった」とありま す。祈るために山に登ったはずなのに。後にゲッセマネの園でイエス様が祈りの格闘をされた時、弟子たちは眠りこ んでいたと記されますが、あの時だけではな かったのです。その彼らもイエス様の太陽のような輝きについに目が覚めます。そこで素晴らしい光景を目撃しま す。しかしモーセとエリヤがイエス様と別れそ うな様子を見て、ペテロは言います。「先生。ここにいることは、すばらしいことです。私たちが三つの幕屋を造り ます。あなたのために一つ、モーセのために 一つ、エリヤのために一つ。」 「ペテロは何を言うべきかを知らなかったのである。」という注釈からすれば、こ れは模範的な言葉ではなかったということに なります。実際、この彼の言葉が遮られるかのように、次の34節の出来事が起こります。ですからこの彼の発言は ふさわしいものではなかった。どんな点がそ うなのでしょうか。まずそれはペテロがイエス様を他の二人と同列に扱っていることでしょう。彼はモーセとエリヤ と同じレベルでイエス様を扱っています。し かし一番の問題点はこのことです。なぜペテロはここで幕屋を造ることを申し出たのか。それはこの素晴らしい栄光 の状態にいつまでもとどまりたいと願ったか らでしょう。この情景はほとんど天国的です。なのに二人がイエス様から離れて行くことによって、それが終わろう としている。そこでペテロは幕屋を造り、そ こに住んで頂いて、別な言い方をすればそこに引き留めておいて、いつまでもこの栄光の状態を楽しむことを望ん だ。しかしそれは神の御心とは反対でした。ペ テロの申し出を遮るように、雲が沸き起こります。雲は神の臨在を象徴するものです。そしてその雲の中から声があ りました。「これは、わたしの愛する子、わ たしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」 この天からの声こそ、この出来事に接した弟子たち、また 今日の箇所を読む私たちに対する神からの メッセージです。
まず、天からの声は「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。」と言いました。これと似た言葉はイ エス様がヨハネから洗礼を受けた時にも天か ら語られました。「あなたは、わたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」 いずれも詩篇2篇7節とイザヤ書 42章1節を組み合わせた言葉です。まず前半 の「これはわたしの愛する子」という詩篇2篇7節の言葉は、イエス様の輝かしいステイタスについて語っている言 葉です。もともとは神によって立てられた王 について歌っている詩篇の言葉ですが、それはやがて神によって遣わされるまことの王・神の御子・メシヤを指すも のと理解されて来ました。そのメシヤがここ にいる!と天の声は語ります。一方の「わたしの選んだ者である。」という方はイザヤ書42章1節に基づく言葉で す。「見よ。わたしのささえるわたしのしも べ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。」 こ こでイザヤが描いているしもべは仕えるしも べであり、服従、謙遜、そして何と言っても苦難で特徴づけられるしもべです。このようにここでは「輝かしい身 分」と「仕えるしもべ」という二つの対照的な イメージがドッキングされています。そしてこのようなイエス様の姿を喜ぶと父なる神は言われたのです。父なる神 にとって愛する御子が十字架の道を進むこと は、心引き裂かれずにいない犠牲だったでしょう。しかし神は私たちの救いのためにこれを御心として下さり、その ご計画に従って十字架への道を選び取って行 くイエス様を見て、これこそわたしが喜ぶメシヤである、と繰り返し証言されたのです。この父なる神の姿と、その 御心に従順に従う御子の姿を前にして、私た ちはどれほど自分の額を地面にこすりつけて礼拝しなければならないことでしょう。
そして、天からの声は、私たちがなすべき応答として「彼の言うことを聞きなさい。」と語ります。これは申命記 18章15節のモーセの言葉と関係します。 「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こ される。彼に聞き従わなければならない。」 その神が遣わした約束の預言者、最終的な預言者こそ、このイエス様なのです。ですからこのイエス様に聞くこと こそを最も大事なこととしなければなりませ ん。ペテロはこの直前で、何を言うべきか分からない状態にありながら、すぐしゃべろうとしました。そんなペテロ は口をつぐみ、まずこの方に聞くことを自分 のなすべき第一のこととして行かなければならないのです。
この声がした時、そこに残されていたのはイエス様だけでした。弟子たちはがっかりしたでしょうか。残念に思った でしょうか。しかし彼らは覚えていなければ なりません。目の前におられるイエス様は、自分たちが垣間見たあの栄光の輝きに満ちたお方であるということを。 その方がこれから十字架への道をたどって行 かれる。それはこの方が弱いからではない。栄光に満ちた方がご自分からその道を進まれるのです。そして旧約から 約束されて来た私たちの救いを実現して下さ るのです。そしてそれは十字架で終わるものではなく、さらにその先にある栄光へ至るものです。前回の26節に も、イエス様はやがて栄光を帯びて再び来られ ると語られました。そしてその日には救いにあずかった私たちも、今日の箇所でモーセとエリヤが主の栄光にあず かって光り輝いていたように、イエス様にあっ て光り輝く栄光にあずかることができるのです。
そのために今日の箇所が私たちに命じることは、イエス様がお語りになることに聞くことです。世の中には様々な声 が飛び交っています。学者の声、有識者の 声、専門家の声、また家族の声、友人の声、愛する人の声、あるいはテレビのコマーシャルの「この新製品を買いな さい」という声。しかしそれらの声をわきに 押しのけてでも、まずイエス様の言うことに聞くことを何よりも大切なこととする。具体的にそれはどうすることで しょうか。それはまず聖日礼拝を通して、そ こにおける聖書朗読を通して、また説教を通して語られる主の言葉に聞くことを大切なこととする。また一週間の生 活においても、個人的に日々聖書を開き、そ の御言葉に聞き入ることを大切なこととする。これを妨げ、これを2番目、3番目にするようにと私たちに働きかけ る様々な誘惑があります。それらと戦い、イ エス様が語ることに聞いて行く。テレビやインターネットを押しのけてでも、まず御言葉に耳を傾ける時間を優先的 に確保して行く。また「聞く」とは単に耳で 聞くだけでなく、先ほどのモーセの言葉にあったように「聞き従う」ということです。たとえそれが難しい言葉で あっても。前回見た「自分を捨て、日々自分の 十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」という御言葉もそうです。イエス様が私たちに語る言葉はすべ て、私たちをご自身が勝ち取った救いにあずか らせるための言葉です。そのイエス様の言うことに聞き従うところにこそ、神が永遠の昔から用意下さった救いがあ ります。この神がお送り下さった御子の言葉 に耳を澄まし、付いて行くところにこそ、私たちもまた、ペテロたちが垣間見た言葉に尽くせない栄光にあずかるや がての日が導かれるのです。
イエス様はペテロとヨハネとヤコブを連れて、祈るために山に登られます。イエス様は特別な機会に、この3人だけ を連れて行かれました。その彼らの前で驚く べきことが起こります。「祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。」と29節にありま す。マタイの福音書の並行記事では「御顔は太 陽のように輝き」と記されています。また御衣についてマルコの福音書には「世のさらし屋ではとてもできないほど の白さであった。」とあります。またルカの 29節の「光り輝いた」という部分には印が付いていて、欄外の注を見ると、直訳では「いなずまのように光り輝い た」とあります。
さらに、そこに二人の人が現れます。それはあの旧約時代の偉大なしもべモーセとエリヤです。モーセはイスラエル をエジプトから導き出し、約束の地の直前ま で導いた大指導者です。一方のエリヤはイスラエルに多く与えられた預言者の中の代表的人物です。このイスラエル の歴史を代表する二大人物が、栄光の内に現 れてイエス様と話し合っていた。それは目を疑うような、あまりにも不思議で素晴らしい光景だったことでしょう。
しかし、その3人が話し合っていた内容は、見た目の輝かしさとは釣り合わないようなことでした。31節に「イエ スがエルサレムで遂げようとしておられるご 最期についていっしょに話していたのである。」とあります。ここは少し説明を加える必要があると思います。まず 「イエスがエルサレムで遂げようとしておら れる」とありますが、この「遂げようとしておられる」という言葉は、原文では「満たす」とか「成就する」という 意味の言葉です。つまりここは単にイエス様 がエルサレムで死ぬことだけを言っているのではなく、イエス様が神のご計画を成就することについて語っているこ とになります。そしてもう一つ、ここで「ご 最期」と訳されている言葉は、ギリシャ語ではエクソダスという言葉です。エクソダスとはご存知のように出エジプ トを指す言葉です。イエス様はそのようにこ の世を抜け出て、天の父の栄光のもとへと行く。ですからここでは単にイエス様の十字架の死のことだけが語られて いたのではなかった。十字架を経て父の栄光 のもとへとエクソダスする出来事について話し合っていたのです。そしてこのエクソダスは、旧約時代のエクソダス が指し示す本当の意味での「エクソダス」 「救い」をもたらすものとなる。まさにこのことを旧約聖書は示して来ました。モーセは律法の代表であり、エリヤ は預言者の代表です。そして「律法と預言 者」という表現で、旧約聖書全体が意味されます。ですからこのモーセとエリヤが現れてイエス様と話していた出来 事は、旧約聖書全体のメッセージとイエス様 がこれからの十字架への歩みは一致するということを意味しています。かねてから神が示して来られた救いは、いよ いよこのイエス様において実現しようとして いるのです。
ここまでのことから教えられることは何でしょうか。それはまずイエス様の本質についてです。ペテロは前回、イエ ス様を「神のキリストです」と告白しまし た。しかし今日の箇所から思わされることは、イエス様はこのようなとてつもない輝きに満ちたお方であるというこ とです。ヘブル書1章3節:「御子は神の栄 光の輝き、また神の本質の完全な現れであり」 ピリピ書2章6節:「キリストは神の御姿であられるのに」 イエ ス様が人の性質を加えて地上で歩まれた時 は、肉の目では私たちと同じ人間のようにしか見えない状態でしたが、その本質はこのような方であられるのです。 そしてこのことから分かることは、十字架に 向かうイエス様の歩みは決して嫌々ながら引っ張って行かれたものではないということです。それはただ、イエス様 がご自身からその道を選んで進まれたからと いう以外に理由はありません。十字架はイエス様の弱さを示すものではなく、むしろイエス様の父なる神への全き従 順と、私たちへの限りない愛と、この苦しみ に決然と進むイエス様の真の力強さを示す出来事なのです。
さて、イエス様と一緒に連れて行ってもらった3人の弟子たちはどうしていたでしょうか。32節に、ペテロと仲間 たちは「眠くてたまらなかった」とありま す。祈るために山に登ったはずなのに。後にゲッセマネの園でイエス様が祈りの格闘をされた時、弟子たちは眠りこ んでいたと記されますが、あの時だけではな かったのです。その彼らもイエス様の太陽のような輝きについに目が覚めます。そこで素晴らしい光景を目撃しま す。しかしモーセとエリヤがイエス様と別れそ うな様子を見て、ペテロは言います。「先生。ここにいることは、すばらしいことです。私たちが三つの幕屋を造り ます。あなたのために一つ、モーセのために 一つ、エリヤのために一つ。」 「ペテロは何を言うべきかを知らなかったのである。」という注釈からすれば、こ れは模範的な言葉ではなかったということに なります。実際、この彼の言葉が遮られるかのように、次の34節の出来事が起こります。ですからこの彼の発言は ふさわしいものではなかった。どんな点がそ うなのでしょうか。まずそれはペテロがイエス様を他の二人と同列に扱っていることでしょう。彼はモーセとエリヤ と同じレベルでイエス様を扱っています。し かし一番の問題点はこのことです。なぜペテロはここで幕屋を造ることを申し出たのか。それはこの素晴らしい栄光 の状態にいつまでもとどまりたいと願ったか らでしょう。この情景はほとんど天国的です。なのに二人がイエス様から離れて行くことによって、それが終わろう としている。そこでペテロは幕屋を造り、そ こに住んで頂いて、別な言い方をすればそこに引き留めておいて、いつまでもこの栄光の状態を楽しむことを望ん だ。しかしそれは神の御心とは反対でした。ペ テロの申し出を遮るように、雲が沸き起こります。雲は神の臨在を象徴するものです。そしてその雲の中から声があ りました。「これは、わたしの愛する子、わ たしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」 この天からの声こそ、この出来事に接した弟子たち、また 今日の箇所を読む私たちに対する神からの メッセージです。
まず、天からの声は「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。」と言いました。これと似た言葉はイ エス様がヨハネから洗礼を受けた時にも天か ら語られました。「あなたは、わたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」 いずれも詩篇2篇7節とイザヤ書 42章1節を組み合わせた言葉です。まず前半 の「これはわたしの愛する子」という詩篇2篇7節の言葉は、イエス様の輝かしいステイタスについて語っている言 葉です。もともとは神によって立てられた王 について歌っている詩篇の言葉ですが、それはやがて神によって遣わされるまことの王・神の御子・メシヤを指すも のと理解されて来ました。そのメシヤがここ にいる!と天の声は語ります。一方の「わたしの選んだ者である。」という方はイザヤ書42章1節に基づく言葉で す。「見よ。わたしのささえるわたしのしも べ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。」 こ こでイザヤが描いているしもべは仕えるしも べであり、服従、謙遜、そして何と言っても苦難で特徴づけられるしもべです。このようにここでは「輝かしい身 分」と「仕えるしもべ」という二つの対照的な イメージがドッキングされています。そしてこのようなイエス様の姿を喜ぶと父なる神は言われたのです。父なる神 にとって愛する御子が十字架の道を進むこと は、心引き裂かれずにいない犠牲だったでしょう。しかし神は私たちの救いのためにこれを御心として下さり、その ご計画に従って十字架への道を選び取って行 くイエス様を見て、これこそわたしが喜ぶメシヤである、と繰り返し証言されたのです。この父なる神の姿と、その 御心に従順に従う御子の姿を前にして、私た ちはどれほど自分の額を地面にこすりつけて礼拝しなければならないことでしょう。
そして、天からの声は、私たちがなすべき応答として「彼の言うことを聞きなさい。」と語ります。これは申命記 18章15節のモーセの言葉と関係します。 「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こ される。彼に聞き従わなければならない。」 その神が遣わした約束の預言者、最終的な預言者こそ、このイエス様なのです。ですからこのイエス様に聞くこと こそを最も大事なこととしなければなりませ ん。ペテロはこの直前で、何を言うべきか分からない状態にありながら、すぐしゃべろうとしました。そんなペテロ は口をつぐみ、まずこの方に聞くことを自分 のなすべき第一のこととして行かなければならないのです。
この声がした時、そこに残されていたのはイエス様だけでした。弟子たちはがっかりしたでしょうか。残念に思った でしょうか。しかし彼らは覚えていなければ なりません。目の前におられるイエス様は、自分たちが垣間見たあの栄光の輝きに満ちたお方であるということを。 その方がこれから十字架への道をたどって行 かれる。それはこの方が弱いからではない。栄光に満ちた方がご自分からその道を進まれるのです。そして旧約から 約束されて来た私たちの救いを実現して下さ るのです。そしてそれは十字架で終わるものではなく、さらにその先にある栄光へ至るものです。前回の26節に も、イエス様はやがて栄光を帯びて再び来られ ると語られました。そしてその日には救いにあずかった私たちも、今日の箇所でモーセとエリヤが主の栄光にあず かって光り輝いていたように、イエス様にあっ て光り輝く栄光にあずかることができるのです。
そのために今日の箇所が私たちに命じることは、イエス様がお語りになることに聞くことです。世の中には様々な声 が飛び交っています。学者の声、有識者の 声、専門家の声、また家族の声、友人の声、愛する人の声、あるいはテレビのコマーシャルの「この新製品を買いな さい」という声。しかしそれらの声をわきに 押しのけてでも、まずイエス様の言うことに聞くことを何よりも大切なこととする。具体的にそれはどうすることで しょうか。それはまず聖日礼拝を通して、そ こにおける聖書朗読を通して、また説教を通して語られる主の言葉に聞くことを大切なこととする。また一週間の生 活においても、個人的に日々聖書を開き、そ の御言葉に聞き入ることを大切なこととする。これを妨げ、これを2番目、3番目にするようにと私たちに働きかけ る様々な誘惑があります。それらと戦い、イ エス様が語ることに聞いて行く。テレビやインターネットを押しのけてでも、まず御言葉に耳を傾ける時間を優先的 に確保して行く。また「聞く」とは単に耳で 聞くだけでなく、先ほどのモーセの言葉にあったように「聞き従う」ということです。たとえそれが難しい言葉で あっても。前回見た「自分を捨て、日々自分の 十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」という御言葉もそうです。イエス様が私たちに語る言葉はすべ て、私たちをご自身が勝ち取った救いにあずか らせるための言葉です。そのイエス様の言うことに聞き従うところにこそ、神が永遠の昔から用意下さった救いがあ ります。この神がお送り下さった御子の言葉 に耳を澄まし、付いて行くところにこそ、私たちもまた、ペテロたちが垣間見た言葉に尽くせない栄光にあずかるや がての日が導かれるのです。