ルカの福音書 9:37-45
いまに人々の手に
イエス様の一行は山から降りて来ます。その前日にペテロとヨハネとヤコブは山の上で素晴らしい経験をしました。 彼らはイエス様が栄光の内に光り輝く姿を見 ました。さらにそこにモーセとエリヤも現れました。ペテロはその状態にいつまでもとどまりたいと願って、「幕屋 を三つ造ります!」と申し出ました。しかし 結論から言えば、イエス様はそこでもう一度、十字架への道を選び取られました。イエス様は高い山でただお一人栄 光に輝くために来られたのではなく、私たち の代わりに尊いいのちをささげて、私たちに救いを与えるために来られました。そのために栄光の山を降りられたの です。
すると、山のふもとでイエス様を待っていたのは嘆きであり、混乱の世界でした。38~39節:「すると、群衆の 中から、ひとりの人が叫んで言った。『先 生。お願いです。息子を見てやってください。ひとり息子です。ご覧ください。霊がこの子に取りつきますと、突然 叫び出すのです。そしてひきつけさせてあわ を吹かせ、かき裂いて、なかなか離れようとしません。』」 先ほどまでの山の上とは全く異なるこの世の現実で す。この混乱を一層大きくしていたのは、弟子 たちがこの霊を追い出せないでいたことでした。父親は40節で「お弟子たちに、この霊を追い出してくださるよう お願いしたのですが、お弟子たちにはできま せんでした。」と言っています。ここで指差されていたのは、ペテロとヨハネとヤコブを除く残りの9人の使徒たち だったでしょう。彼らはすでに9章1節で、 すべての悪霊を追い出し、病気を直すための力と権威を授けられていました。そして実際、彼らはそれを用いて、み わざを行なって来ました。ところが今回はう まく行かない。ある人がダメなら、他の弟子が、その人がダメならさらに他の弟子が、という具合に、交代交代に やってみたことでしょう。それでもダメなら9 人が力を合わせ、声を合わせて悪霊追い出しを試みたかもしれません。しかし彼らの発する言葉は空しく空中に消え て行くだけ。そのような姿を見て、父親はひ どく失望したのです。周りで見ていた群衆もため息をついていたことでしょう。そして弟子たちも主がおられない 中、どうしたら良いものか、途方に暮れるだけ だったのです。山の下にあったのは、このような嘆きと失望で一杯の世界でした。
そんな彼らを見て、イエス様は言われました。41節:「イエスは答えて言われた。『ああ、不信仰な、曲がった今 の世だ。いつまで、あなたがたといっしょに いて、あなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。あなたの子をここに連れて来なさい。』」 イエス 様は誰を指してこの言葉を発されたのでしょ うか。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ」と言っていますから、ご自身が目の前にしていたこの世の有様全体を 指してこの言葉を発されたのでしょう。しか しその中心には、そのただ中で何もできないでいる弟子たちへの嘆きが強くあったのではないでしょうか。なぜ弟子 たちは今回、そのわざができなかったので しょうか。それは「不信仰のため」とここで言われています。マタイの福音書の並行記事を参考にすると、イエス様 は弟子たちに「あなたがたの信仰が薄いから です。」と言っています。また「からし種ほどの信仰があるなら、云々」とも言っています。彼らは繰り返し、この わざを行なう中で、いつしか自分の力で自分 の思う時にそれができると考えるようになっていたのかもしれません。信仰によってではなく、唱える言葉や形式に 頼り、その働きがルーチンワークのようなも のになっていたのかもしれません。その結果、神の恵みを取り次ぐことができなかった。信仰という管を通して神の 恵みは注がれますが、それが「ああ、不信仰 な」とイエス様が言われるような状態であったために、恵みは流れようにも流れることができない状態となっていた のです。
私たちはイエス様がこのことに深く嘆かれたことを心に留めたいと思います。実にイエス様を苦しめ、イエス様に嘆 きの声を発させることの一つは、ご自身の民 の不信仰であるということです。今日の私たちも同じことをイエス様にしていないだろうか、と考えてみたい。私た ちはイエス様を信じています。クリスチャン として生きています。しかしその生活において、神を証しし、神の恵みを取り次ぐ歩みをしているでしょうか。もち ろん私たちは使徒たちと同じことができるわ けではありません。彼らは悪霊を追い出し、病気を直すための力と権威を与えられましたが、私たちはそれを与えら れてはいません。しかし私たちも一人一人、 神の栄光を現わすための賜物を与えられており、また聖霊を頂いています。私たちはその賜物を自分の力によってで はなく、神の力によって用いて、神の国を広 げる働きへ召されています。私たちはそのことをイエス様が喜ぶ仕方で、すなわち信仰を通して、上からの恵みの力 によって行なっているでしょうか。私たちも 信仰はどこかへ投げやって、ただ人間的な力で毎日の働きをしてしまっていることはないでしょうか。その結果、そ こには何の神の力も現れず、神の栄光が現わ されることもない。それを見てイエス様が「ああ、不信仰な!」と嘆いておられることはないでしょうか。
しかし、ここにある慰めは、イエス様は失望のあまり、弟子たちを見捨てたり、この世を見捨てたりなさらなかった ということです。「いつまで、あなたがたと いっしょにいて、あなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。」と言いつつ、なお忍耐し、背負ってい て下さる。イエス様は「あなたの子をここに 連れて来なさい。」と父親に言います。その子が連れて来られる間も、悪霊は激しく抵抗し、その凶暴さをあらわに します。しかしイエス様が汚れた霊を叱る と、その子はいやされ、父親の手に返されます。人々はこれを見て神のご威光に驚嘆しました。嘆きと叫びで一杯で あった山のふもとに賛美が起こったのです。 イエス様がおられるなら、そこにはこのような神の栄光が現れるのです。このイエス様が共にいて下さることこそ、 私たちにとってのすべての望みです。
さて、人々がこのようにイエス様のみわざに驚き、喜びに沸き返っているただ中で、イエス様は弟子たちに言われま した。44節:「このことばを、しっかりと 耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。」 これは9章22節で見た受難予告に続く2回 目の予告です。イエス様は「このことばを しっかり耳に入れておきなさい。」と強調されます。また「いまに人々の手に渡される」という時の「いまに」とい う言葉は、その時が近いというニュアンスを 持っています。なぜイエス様はこのような言葉を繰り返されるのでしょうか。それはこのような時こそ、イエス様の これからの受難の意味を、弟子たちの心に刻 むように教えるのに大切な時と考えられたからでしょう。イエス様が仰いたいことはこういうことでしょう。あなた がたはただこの栄光だけを見ていてはならな い。悪霊につかれた子が解放された出来事を見て、ただ喜んでいるだけではならない。そのような祝福が勝ち取られ るために、わたしはこれからエルサレムで苦 しみを受けようとしているのだ、ということです。私たちは栄光だけに目をやりたい者たちです。祝福だけに目を向 け、それを喜ぶことだけをしたい。しかし罪 ある私たちが祝福にあずかることができるのは、それ相当の犠牲を誰かが代わりに払って下さるからに他なりませ ん。まさにそのためにイエス様は世に来て下さ いました。そして悪霊につかれた子を癒しつつ、ここでもご自分がこれから進む十字架をしっかり見つめておられた のです。「人々の手に渡される」とは激しい 言葉です。22節に「長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され」とありましたが、したい放題に扱われ、あ らゆる辱めと侮辱的な扱いを受け、最後には 捨てられ、殺される。イエス様はそのようなご自分の行き先を見据えているのです。そしてその道をご自分から選び 取っているのです。そのことを弟子たちが理 解するように、そしてこれからの歩みに備えるように、彼らにこの言葉を語られたのです。
しかし、45節に「弟子たちは、このみことばが理解できなかった。」とあります。弟子たちの反応がこうであった ことはある意味で理解できます。なぜ神が遣 わしたキリストが、人々の手に渡されるというようなことが起こり得るのか。人々の上に立ち、人々を治めて当然の 方が、なぜ逆に人々に捕らえられ、ひどい扱 いを受け、殺されるのか。彼らの頭には全く矛盾した話としか思えない。マタイの福音書の並行記事には、彼らはこ の2回目の受難予告を聞いて「非常に悲しん だ」とあります。しかしそんな無理解な彼らに対して、なおイエス様が忍耐をもって接しておられることがここに示 されています。45節に「このみことばの意 味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。」とあります。今の状況ではまだ彼らは理解できないこ とをイエス様はご存知であられた。もう少し 後になってから初めて分かるように計画されていたのです。だからこの時点では分からなくても仕方がない。その状 態にあることをキリストは忍耐し、今は「こ のことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。」と言うにとどめ、なおそんな彼らを運んで行かれるのです。この 後の箇所でも、弟子たちの無知や理解不足が 次々と記されます。次回の46~50節でも、そのようなエピソードが二つ記されます。しかしイエス様はそれで がっかりしてしまって、彼らを見捨てることを なさらない。「いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしていなければならないのでしょう」 と嘆きつつも、なお担って行って下さる。そ して私たちの救いを成し遂げるために、いよいよ十字架をしっかり見据えつつ、その道を黙々と進んで行って下さる のです。
私たちはこのイエス様の前で自分を振り返ってどうでしょうか。私たちもまた、弟子たちのように鈍い者であり、失 敗を繰り返し、歩みの遅い者たちです。彼ら と同じように「ああ、いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう!」と主に嘆かせてばかりい るような私たちです。そんな私たちが今日も このように主の道を歩むことができているのは、同じく主が私たちを支え、担っていて下さるからではないでしょう か。イエス様は「いつまで、あなたがたと いっしょにいて、云々」と語っていますが、主はいつまで私たちと共にいて、担い運んで下さるのでしょうか。それ は私たちが最後の救いに到達する日まで、ま た私たちが主に喜ばれる奉仕をささげることができる者となるまで、でしょう。私たちはこのようにして今日も十字 架の恵みをもって私たちに忍耐下さり、導い て下さっている主を仰いで、心からの感謝の礼拝を今朝ささげたいと思います。そしてこのように主が我慢して下 さっているのは、私たちがその状態に胡坐をか いてとどまるためではなく、少しでも成長・進歩するためです。私たちはこの主の恵みにどのように応答して行くべ きでしょうか。イエス様は今日の箇所で「こ のことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。」と言われました。すなわち私たちのために十字架へ進まれたイエ ス様をしっかり見つめることです。ただ栄光 ばかりを喜ぶのではなく、それが勝ち取られるために払われたイエス様の大きな犠牲をもしっかり見つめることで す。この主の命をかけた歩みがあって初めて私 たちの救いが勝ち取られたことを思う時、そしてその主が私たちに「日々自分の十字架を負い、わたしについて来な さい。」と招いておられることを覚える時、 私たちは主に従う中で与えられる十字架を避けずに、むしろこれを喜んで背負い、担って行こう!という思いに導か れます。そして自分に与えられている日々の 働きを行なう際にも、このイエス様に信頼し、希望を置いている者として、イエス様の力によってその働きをなすよ うに祈り、仕える者へと導かれます。その時 に、私たちは主と共に、この地上に神の国を広げる働きのために用いられる者たちとなることができます。
私たちは今週も、それぞれ遣わされたところへ出て行きます。何度も失敗を繰り返す私たちですが、なお主はそのよ うな私たちを赦し、担い運んでご自身につい て来るようにと招いて下さっています。私たちはその声に聞きつつ、私たちのために黙々と十字架へ進まれた主を目 の前に見つめて、この方の後に従って行きた いと思います。そして遣わされる所で、自分の力によってではなく、主の恵みを祈り求めて、主の栄光の光を輝か せ、主と共に神の国を広げ、主をお喜ばせする 歩みへ進みたいと思います。
イエス様の一行は山から降りて来ます。その前日にペテロとヨハネとヤコブは山の上で素晴らしい経験をしました。 彼らはイエス様が栄光の内に光り輝く姿を見 ました。さらにそこにモーセとエリヤも現れました。ペテロはその状態にいつまでもとどまりたいと願って、「幕屋 を三つ造ります!」と申し出ました。しかし 結論から言えば、イエス様はそこでもう一度、十字架への道を選び取られました。イエス様は高い山でただお一人栄 光に輝くために来られたのではなく、私たち の代わりに尊いいのちをささげて、私たちに救いを与えるために来られました。そのために栄光の山を降りられたの です。
すると、山のふもとでイエス様を待っていたのは嘆きであり、混乱の世界でした。38~39節:「すると、群衆の 中から、ひとりの人が叫んで言った。『先 生。お願いです。息子を見てやってください。ひとり息子です。ご覧ください。霊がこの子に取りつきますと、突然 叫び出すのです。そしてひきつけさせてあわ を吹かせ、かき裂いて、なかなか離れようとしません。』」 先ほどまでの山の上とは全く異なるこの世の現実で す。この混乱を一層大きくしていたのは、弟子 たちがこの霊を追い出せないでいたことでした。父親は40節で「お弟子たちに、この霊を追い出してくださるよう お願いしたのですが、お弟子たちにはできま せんでした。」と言っています。ここで指差されていたのは、ペテロとヨハネとヤコブを除く残りの9人の使徒たち だったでしょう。彼らはすでに9章1節で、 すべての悪霊を追い出し、病気を直すための力と権威を授けられていました。そして実際、彼らはそれを用いて、み わざを行なって来ました。ところが今回はう まく行かない。ある人がダメなら、他の弟子が、その人がダメならさらに他の弟子が、という具合に、交代交代に やってみたことでしょう。それでもダメなら9 人が力を合わせ、声を合わせて悪霊追い出しを試みたかもしれません。しかし彼らの発する言葉は空しく空中に消え て行くだけ。そのような姿を見て、父親はひ どく失望したのです。周りで見ていた群衆もため息をついていたことでしょう。そして弟子たちも主がおられない 中、どうしたら良いものか、途方に暮れるだけ だったのです。山の下にあったのは、このような嘆きと失望で一杯の世界でした。
そんな彼らを見て、イエス様は言われました。41節:「イエスは答えて言われた。『ああ、不信仰な、曲がった今 の世だ。いつまで、あなたがたといっしょに いて、あなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。あなたの子をここに連れて来なさい。』」 イエス 様は誰を指してこの言葉を発されたのでしょ うか。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ」と言っていますから、ご自身が目の前にしていたこの世の有様全体を 指してこの言葉を発されたのでしょう。しか しその中心には、そのただ中で何もできないでいる弟子たちへの嘆きが強くあったのではないでしょうか。なぜ弟子 たちは今回、そのわざができなかったので しょうか。それは「不信仰のため」とここで言われています。マタイの福音書の並行記事を参考にすると、イエス様 は弟子たちに「あなたがたの信仰が薄いから です。」と言っています。また「からし種ほどの信仰があるなら、云々」とも言っています。彼らは繰り返し、この わざを行なう中で、いつしか自分の力で自分 の思う時にそれができると考えるようになっていたのかもしれません。信仰によってではなく、唱える言葉や形式に 頼り、その働きがルーチンワークのようなも のになっていたのかもしれません。その結果、神の恵みを取り次ぐことができなかった。信仰という管を通して神の 恵みは注がれますが、それが「ああ、不信仰 な」とイエス様が言われるような状態であったために、恵みは流れようにも流れることができない状態となっていた のです。
私たちはイエス様がこのことに深く嘆かれたことを心に留めたいと思います。実にイエス様を苦しめ、イエス様に嘆 きの声を発させることの一つは、ご自身の民 の不信仰であるということです。今日の私たちも同じことをイエス様にしていないだろうか、と考えてみたい。私た ちはイエス様を信じています。クリスチャン として生きています。しかしその生活において、神を証しし、神の恵みを取り次ぐ歩みをしているでしょうか。もち ろん私たちは使徒たちと同じことができるわ けではありません。彼らは悪霊を追い出し、病気を直すための力と権威を与えられましたが、私たちはそれを与えら れてはいません。しかし私たちも一人一人、 神の栄光を現わすための賜物を与えられており、また聖霊を頂いています。私たちはその賜物を自分の力によってで はなく、神の力によって用いて、神の国を広 げる働きへ召されています。私たちはそのことをイエス様が喜ぶ仕方で、すなわち信仰を通して、上からの恵みの力 によって行なっているでしょうか。私たちも 信仰はどこかへ投げやって、ただ人間的な力で毎日の働きをしてしまっていることはないでしょうか。その結果、そ こには何の神の力も現れず、神の栄光が現わ されることもない。それを見てイエス様が「ああ、不信仰な!」と嘆いておられることはないでしょうか。
しかし、ここにある慰めは、イエス様は失望のあまり、弟子たちを見捨てたり、この世を見捨てたりなさらなかった ということです。「いつまで、あなたがたと いっしょにいて、あなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。」と言いつつ、なお忍耐し、背負ってい て下さる。イエス様は「あなたの子をここに 連れて来なさい。」と父親に言います。その子が連れて来られる間も、悪霊は激しく抵抗し、その凶暴さをあらわに します。しかしイエス様が汚れた霊を叱る と、その子はいやされ、父親の手に返されます。人々はこれを見て神のご威光に驚嘆しました。嘆きと叫びで一杯で あった山のふもとに賛美が起こったのです。 イエス様がおられるなら、そこにはこのような神の栄光が現れるのです。このイエス様が共にいて下さることこそ、 私たちにとってのすべての望みです。
さて、人々がこのようにイエス様のみわざに驚き、喜びに沸き返っているただ中で、イエス様は弟子たちに言われま した。44節:「このことばを、しっかりと 耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。」 これは9章22節で見た受難予告に続く2回 目の予告です。イエス様は「このことばを しっかり耳に入れておきなさい。」と強調されます。また「いまに人々の手に渡される」という時の「いまに」とい う言葉は、その時が近いというニュアンスを 持っています。なぜイエス様はこのような言葉を繰り返されるのでしょうか。それはこのような時こそ、イエス様の これからの受難の意味を、弟子たちの心に刻 むように教えるのに大切な時と考えられたからでしょう。イエス様が仰いたいことはこういうことでしょう。あなた がたはただこの栄光だけを見ていてはならな い。悪霊につかれた子が解放された出来事を見て、ただ喜んでいるだけではならない。そのような祝福が勝ち取られ るために、わたしはこれからエルサレムで苦 しみを受けようとしているのだ、ということです。私たちは栄光だけに目をやりたい者たちです。祝福だけに目を向 け、それを喜ぶことだけをしたい。しかし罪 ある私たちが祝福にあずかることができるのは、それ相当の犠牲を誰かが代わりに払って下さるからに他なりませ ん。まさにそのためにイエス様は世に来て下さ いました。そして悪霊につかれた子を癒しつつ、ここでもご自分がこれから進む十字架をしっかり見つめておられた のです。「人々の手に渡される」とは激しい 言葉です。22節に「長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され」とありましたが、したい放題に扱われ、あ らゆる辱めと侮辱的な扱いを受け、最後には 捨てられ、殺される。イエス様はそのようなご自分の行き先を見据えているのです。そしてその道をご自分から選び 取っているのです。そのことを弟子たちが理 解するように、そしてこれからの歩みに備えるように、彼らにこの言葉を語られたのです。
しかし、45節に「弟子たちは、このみことばが理解できなかった。」とあります。弟子たちの反応がこうであった ことはある意味で理解できます。なぜ神が遣 わしたキリストが、人々の手に渡されるというようなことが起こり得るのか。人々の上に立ち、人々を治めて当然の 方が、なぜ逆に人々に捕らえられ、ひどい扱 いを受け、殺されるのか。彼らの頭には全く矛盾した話としか思えない。マタイの福音書の並行記事には、彼らはこ の2回目の受難予告を聞いて「非常に悲しん だ」とあります。しかしそんな無理解な彼らに対して、なおイエス様が忍耐をもって接しておられることがここに示 されています。45節に「このみことばの意 味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。」とあります。今の状況ではまだ彼らは理解できないこ とをイエス様はご存知であられた。もう少し 後になってから初めて分かるように計画されていたのです。だからこの時点では分からなくても仕方がない。その状 態にあることをキリストは忍耐し、今は「こ のことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。」と言うにとどめ、なおそんな彼らを運んで行かれるのです。この 後の箇所でも、弟子たちの無知や理解不足が 次々と記されます。次回の46~50節でも、そのようなエピソードが二つ記されます。しかしイエス様はそれで がっかりしてしまって、彼らを見捨てることを なさらない。「いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしていなければならないのでしょう」 と嘆きつつも、なお担って行って下さる。そ して私たちの救いを成し遂げるために、いよいよ十字架をしっかり見据えつつ、その道を黙々と進んで行って下さる のです。
私たちはこのイエス様の前で自分を振り返ってどうでしょうか。私たちもまた、弟子たちのように鈍い者であり、失 敗を繰り返し、歩みの遅い者たちです。彼ら と同じように「ああ、いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう!」と主に嘆かせてばかりい るような私たちです。そんな私たちが今日も このように主の道を歩むことができているのは、同じく主が私たちを支え、担っていて下さるからではないでしょう か。イエス様は「いつまで、あなたがたと いっしょにいて、云々」と語っていますが、主はいつまで私たちと共にいて、担い運んで下さるのでしょうか。それ は私たちが最後の救いに到達する日まで、ま た私たちが主に喜ばれる奉仕をささげることができる者となるまで、でしょう。私たちはこのようにして今日も十字 架の恵みをもって私たちに忍耐下さり、導い て下さっている主を仰いで、心からの感謝の礼拝を今朝ささげたいと思います。そしてこのように主が我慢して下 さっているのは、私たちがその状態に胡坐をか いてとどまるためではなく、少しでも成長・進歩するためです。私たちはこの主の恵みにどのように応答して行くべ きでしょうか。イエス様は今日の箇所で「こ のことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。」と言われました。すなわち私たちのために十字架へ進まれたイエ ス様をしっかり見つめることです。ただ栄光 ばかりを喜ぶのではなく、それが勝ち取られるために払われたイエス様の大きな犠牲をもしっかり見つめることで す。この主の命をかけた歩みがあって初めて私 たちの救いが勝ち取られたことを思う時、そしてその主が私たちに「日々自分の十字架を負い、わたしについて来な さい。」と招いておられることを覚える時、 私たちは主に従う中で与えられる十字架を避けずに、むしろこれを喜んで背負い、担って行こう!という思いに導か れます。そして自分に与えられている日々の 働きを行なう際にも、このイエス様に信頼し、希望を置いている者として、イエス様の力によってその働きをなすよ うに祈り、仕える者へと導かれます。その時 に、私たちは主と共に、この地上に神の国を広げる働きのために用いられる者たちとなることができます。
私たちは今週も、それぞれ遣わされたところへ出て行きます。何度も失敗を繰り返す私たちですが、なお主はそのよ うな私たちを赦し、担い運んでご自身につい て来るようにと招いて下さっています。私たちはその声に聞きつつ、私たちのために黙々と十字架へ進まれた主を目 の前に見つめて、この方の後に従って行きた いと思います。そして遣わされる所で、自分の力によってではなく、主の恵みを祈り求めて、主の栄光の光を輝か せ、主と共に神の国を広げ、主をお喜ばせする 歩みへ進みたいと思います。