ルカの福音書 9:46-50

一番偉い者

「さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。」と今日の箇所は始まり ます。弟子たちはこのところ続けて、イエス 様の受難予告を聞きました。そのイエス様について来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そし てわたしについて来なさい、と言われまし た。その彼らが「だれが一番偉いか」という議論を始めたと言います。全くもって無理解であった弟子たちの姿が露 呈されています。なぜ彼らはこの議論を始め たのでしょうか。考えられる一つのことは、少し前にペテロとヨハネとヤコブだけが、イエス様と一緒に高い山に連 れられて、イエス様の栄光の姿を見る特権に あずかったことです。一方、残りの9人は山の下で悪霊につかれた子どもを癒すことができませんでした。そんな 中、いつしか、「12弟子はどのようにランク 付けされるのか」「だれが一番偉いのか」、互いに話し、自分のポジションを確かめずにいられない気持ちになって いたのかもしれません。そんな彼らの心の中 を知っておられたイエス様が彼らを教えて行かれます。イエス様はひとりの子どもの手を取り、ご自分のそばに立た せて、こう言われました。48節:「だれで も、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入 れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れ る者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」

ここで子どもはどんな存在としてイエス様のそばに立たされたのでしょうか。聖書の中には「子どものように神の国 を受け入れる者でなければ、云々」などとあ るように、良い模範として提示されている場合もあります。しかしここではちょっと意味合いが違います。ここで子 どもは、大人の間では重要と見られていない 存在、取るに足りないちっぽけな存在の象徴として取り上げられています。弟子たちはこの時、だれが一番偉いかと 論じ合っていましたが、まさか子どもがライ バルになるとは思ってもいません。子どもは競争相手ではないのです。人間が考える偉さとは何の関係もないところ で生きている存在です。ところがイエス様は 言われます。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者で す。」 はっきり分かることは、イエス様はご自 身と子どもたちと結びつけているということです。弟子たちは上を、上を、と目指して互いに高いポジションを取ろ うと争っていますが、イエス様はそのような ところにはいない。イエス様はむしろ、彼らが見下している子どもたちと同じところにいる。さらにそこにはイエス 様だけがいるのではなく、父なる神様もおら れる。そしてイエス様は言われます。「あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」 ここには二つ の理解の仕方があると思います。一つは、こ のような子どもを受け入れる小さい者こそ、神の国では一番偉い者であるという意味です。これは弟子たちに、大き い者になることを目指すのではなく、小さな 者になることを目指せ!というメッセージを送るものになります。もう一つの解釈は、一番小さい者とはここでは子 どもたちを指し、そういう小さな存在こそ神 の目には一番偉いのであるという意味です。なぜ偉いのかということについての説明はありません。とにかく神の判 断によればそうである。それゆえ、その人間 の目には小さい者、しかし神の目には偉いと評価されている存在を大事にし、これに仕えることに心を用いよ!とい うことです。どちらであっても私たちに対す る適用はほぼ同じだと思います。二つのメッセージをここから読み取ることができると思います。

その一つは、弟子たちがしたような「だれが一番偉いか」という議論や争いは神の国にはないということです。イエ ス様と父なる神様の姿を見れば、そのような 偉大さをご自分のためには求めていません。それに対して、私たちは何と違う方向を向いているでしょうか。私たち はお互いに集まると、口に出しませんが、心 の中ではすぐにランク付けを始めます。この中で誰が一番偉いか。誰が知識があり、学歴があり、立派な仕事に付い ているか。誰が社会的地位があり、収入もあ り、生活レベルの高い人か。誰が若くて、美貌もあって、素敵な服を着、良いものを身につけているか。その中で私 は何番目にあたるか・・。そして比較的上位 の方に自分があると思えば安心し、反対に下の方にあると思うと居心地が悪くなる。また上の方にあると思うと高ぶ り、下の方にあると上の人を羨み、妬む。教 会においてさえ同じです。どちらの方がサイズが大きいか、どちらの会堂が立派か、どちらが財的に豊かか、どちら が地域に名が通っていて効果的な伝道をして いるか。そして上位にあると自負する教会は満足し、プライドを持ち、下の方にある教会は妬み、悔しがり、敗北し た者たちであるかのような気分になる。しか しこのような考えは、神の国とは相容れないということです。

そして、もう一つのメッセージは、真の偉大さは人の上に立つ歩みにあるのではなく、仕える歩みにこそあるという ことです。イエス様はここで一人の子どもを 立たせましたが、大人にとって子どもと友だちになるには謙遜さが必要です。まず子どものレベルまで降りなくては いけません。そして子どもが理解できる言葉 で話さなければなりません。これは本当にへりくだった心がなければできないことでしょう。そうして小さい者たち に仕えることこそ、神の目に尊いと見られま す。もちろん子どもに限定されません。人々から重んじられていない人々、心に留められていない人々、弱い人々、 助けを必要としている人々に対しても同じで す。そのような見過ごしにされているような人々を心に留め、その人々に仕えることに心を用いて歩む。実際にイエ ス様はそのように歩まれました。イエス様は 神の御子としての栄光ある地位にとどまるのではなく、ご自身を低めて、私たちのような取るに足りない者たちの所 に来て、住んで下さいました。そして人々が 話しかけないような人に話しかけられました。社会の底辺にいるような人たちと食事の交わりをされました。人々が 決して触らない汚れた人のところに行って、 彼らに触られました。イエス様は自分のために立派な宮殿を持たず、頭に王冠をかぶらず、また特別な護衛兵も従え てもいませんでした。その一生は貧しい飼い 葉おけから始まり、最後は同じく人から借りた墓に入られました。イエス様はこのように生涯、小さき者たちに仕え ることにご自分の心と生活をささげられまし た。これが神の国で尊いと評価される生き方であるということです。神の国に生きようとする者は、このイエス様の 生き方に倣う者でなければならないというこ とです。

さて、これを聞いてヨハネがこう答えたと49節にあります。「先生。私たちは、先生の名を唱えて悪霊を追い出し ている者を見ましたが、やめさせました。私 たちの仲間ではないので、やめさせたのです。」 なぜヨハネはこのようなことを語ったのでしょうか。多くの注解 者は、これはヨハネの反論だと言います。 「いくら小さい者を受け入れると言っても、そこには限界があるのではないですか。さすがにこのようなケースに、 その原則は当てはまらないでしょう。」とい う反論です。ヨハネはイエス様の言葉によって自分の心が刺され、何か自己弁護せざるを得ない気持ちになって、こ う言ったのだろう、と。しかしイエス様は言 われました。50節:「しかしイエスは、彼に言われた。『やめさせることはありません。あなたがたに反対しない 者は、あなたがたの味方です。』」 このヨ ハネに見られる誤りは何でしょう。それは自分たちこそ正しい主の弟子であり、他の人はそうでないという独善で す。ヨハネとしては、12弟子以外の者が悪霊 を追い出しているのを見て面白くないと思ったのでしょう。ましてや前回、弟子たちは悪霊を追い出すことができま せんでした。なのに他の人が成功している! 確かにその人は12弟子ではありません。主に直接権威を授けられてはいません。しかし主の名を使えば、誰でも自 動的に悪霊追い出しができたわけではないの です。その人が悪霊追い出しができたのは、主がそれをよしとされたからです。その人はその人なりの仕方で主に 従っていたのです。それを見て、あれは私たち の仲間ではないからやめさせる、というのは違うとイエス様は言われる。

これもともすると私たちが犯しやすい誤りではないでしょうか。私たちもすぐ自分が正しくて、他の人がやっている ことは正しくないと結論したい。そのため、 自分と考え方が違う人や、立場が違う教会が成功したり、祝福されている様子を見ると、面白くなく感じる。そして ヨハネのように力ずくでやめさせることまで はしなくても、何か一言言って、その足を引っ張ってやりたい。そして自分たちより下に下がっていてもらいたい。 これも結局、「だれが一番偉いか」と競い合 い、自分を持ち上げようとすることではないでしょうか。一見、大義名分をもって正しい批判しているようですが、 実際には相手をライバル視してこき下ろし、 自分を偉い者にしようとする試みではないでしょうか。イエス様はそのことを禁じているのです。たとえ立場や考え 方が違う人であっても、その人が主の働きの ために用いられるなら、あなたはそれを喜ぶべきである。自分のやり方だけが正しいと思ってはならない。あなたは その人と張り合って、「誰が一番偉いか」と いう議論に支配されるのではなく、あなたはあなたとして、自分が召された御国のための仕える働きに専心没頭しな さい。

果たして、私たちはこの御言葉の前でどうでしょうか。ある人は私たちがどんな生き方をしているかは、普段どんな 人との関係を持って生活しているかを見れば 分かると言いました。もし私たちが偉い人、すなわち社会的地位のある人、学歴のある人、事業が成功している人、 裕福な人、美しい人、この世から褒めそやさ れている人との関わりだけを求め、そうでない人は視野にも入れず、見下してさえいるなら、それはこの時の弟子た ちと同じ生き方をしているということです。 その反対にもし私たちが見過ごしにされているような人、誰からも声をかけられないような人、困っている人のこと を心にかけ、そのような人々のいくらかでも 支えになろうとし、その人たちのそばにいるなら、それはイエス様に倣う生き方をしているということです。もしそ のような生き方ができるとすれば、それはイ エス様が自分にして下さったことを心から感謝し、受け止めているからに他ならないでしょう。イエス様は取るに足 りない私たちのような者に目を留め、ご自身 の栄光を捨てて、私たちのところに来て下さいました。そして私たちと関わり、話しかけ、愛を注ぎ、ついには何の 価値もないような私たちのために尊い命まで 投げ出して仕えて下さいました。このようにしてただ一方的な恵みによって救われ、立たせて頂いている私たちが 「だれが一番偉いか」などと問うのはおかしな ことです。偉い者などはどこにもいません。すべてはただ恵みによることです。誇ることは私たちに何もないはずで す。むしろ私たちはイエス様がして下さった ことを良く見て、私たちの感謝を、少しでもイエス様に倣う歩みに表して行きたい。具体的にそれはどうすることで しょう。その一つは、今日の箇所にあるよう に、子どもたちを軽んじず、主のゆえに彼らを受け入れ、その益に仕える歩みをすることがそうです。教会学校でそ のために仕えることもそうですし、教会学校 で奉仕しなくても、子どもたちを大事にし、声をかけることもそうです。また話す友達がいない人のそばに行って友 だちになること、病の中にある人を見舞うこ と、体の不自由な人の何らかの支えになること、外国人や身寄りのない人を家に迎え入れること、世界中で困難の中 にある人々のために祈り、支援献金をささげ ること。その他、この世の人々が目を留めないような人々、軽んじられている人々を尊び、イエス様に頂いた愛を分 かち合うこと。そのようにすることは、イエ ス様ご自身を受け入れることであり、またイエス様を遣わした父なる神様を受け入れることだ、と今日の御言葉は 語っています。私たちはそこでイエス様及び父 なる神様との豊かな交わりを新たに経験します。それは「だれが一番偉いか」と論じて、人の上に自分を持ち上げて 高ぶっている時よりはるかに勝る、本当に豊 かな神の国の祝福に生かされることなのです。