ルカの福音書 10:17-24
喜びにあふれて
今日の箇所は、宣教の旅に遣わされた70人の弟子たちが喜んで帰って来て、イエス様に様子を報告したことから始 まります。彼らは言いました。「主よ。あな たの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」 彼らにとって、今回の旅は興奮に満ちた宣教旅行で した。悪霊は人間より強い存在であり、当時 は多くの人々がこの悪霊の力に悩まされていました。ところが70人の弟子たちは、イエス様に権威を授けられて御 名を使った際、悪霊たちを追い出すことがで きたのです。人々を病や悩みから解放することができたのです。彼らが大きな喜びを抱いて、イエス様のもとに戻っ て来たのも良く分かります。するとイエス様 は言われました。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あな たがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあら ゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。」 一体イエス 様はいつのことを言っておられるのか、いく つかの見方がありますが、やはりふさわしいのは、これを70人の弟子たちの活動と結びつけて考えることでしょ う。弟子たちが各地で悪霊を追い出すみわざを なした時、イエス様はそこにサタンがいなずまのように天から落ちた様子を幻を見るようにして見たのです。イエス 様はすでに40日40夜の荒野の誘惑におい て、サタンとの戦いに勝利しました。またその後もサタンは様々な仕方でイエス様に誘惑をしかけましたが、――た とえばペテロは信仰告白の後、イエス様に十 字架に進まないように進言しましたが、――イエス様は「下がれ、サタン」と言って悪魔の誘惑を退け、勝利されま した。そしてここでも70人の弟子たちに よって圧倒的勝利を収められました。イエス様がこのような力を持つのは、やがて十字架にかかって、私たちの罪を 全部、身代わりに背負って下さるからです。 それによってこの世界の上にサタンが持っている支配権を滅ぼして下さるからです。「いなずまのように」という表 現は「突然」という意味でしょう。サタンは 自分が予期していない形で、このように地に落とされたのです。まだまだ世界の支配者として君臨できると思ってい たのに、イエス様の名を使う弟子たちによっ て、いなずまのように落ちざるを得なかった。これは私たちにとって大きな慰めです。この世界には色々な力が働い ています。私たちの力を超える得体の知れな い力が働いています。それは突き詰めればサタンに帰されます。しかし私たちがイエス・キリストにより頼むなら、 そのサタンの存在は恐れるに足りない。イエ ス様の前で、サタンはいなずまのように天から落ちざるを得ないのです。私たちははるかに勝るイエス様のもとで平 安を頂き、守られる歩みへ進むことができる のです。
しかし、イエス様は喜ぶ弟子たちにこう言われました。20節:「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するか らと言って、喜んではなりません。ただあな たがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」 イエス様はここでもっと喜ぶべき大きな喜びがあるこ とを指摘されました。そしてそちらにこそ、 喜びの土台を置くように!と言われたのです。どういうことでしょうか。私たちは往々にして、自分が成し遂げた業 績や特別な体験に喜びを覚えやすいもので す。そこには二つの危険が考えられます。一つは今回のようにうまく行った場合です。その素晴らしい体験に酔い、 知らず知らずの内に自分を持ち上げ、自分を 誇る。互いにどのように素晴らしい経験をし、また素晴らしい成果を残せたか、比較し合い、競い合って、ついには 自慢し合うようになるかもしれません。また もう一つはうまく行かなかった場合です。願うような結果が出なかった時、私たちはすべての喜びを失ったかのよう な状態になりがちです。私たちはやがて思う ようには働けない年齢、成果を出したくても出せないような健康状態に至るでしょう。その時、私たちはどんな喜び を持って日々を過ごすことができるのでしょ う。もし私たちが自分の成し遂げたことに喜びの基礎を置くなら、私たちの生活はとてもあやふやなものになりま す。日々変わりゆく状況に一喜一憂し、ジェッ トコースターに乗っているような生活になってしまいます。ですからイエス様はもっと喜ぶべき確かなことに喜びの 基礎を置くようにと言われたのです。それと は「あなたがたの名が天に書き記されている」ということです。ローマ皇帝アウグストが住民登録をさせたように、 また私たちの名前がそれぞれの市町村の住民 台帳に載っているように、私たちの名が天に書き記されているとは、私たちが天国の民とされているということで す。今、地上にありながら、すでにそうであ る。そしてやがて必ず天の故郷に帰り、罪を全く赦され、聖められた者として、聖なる神と永遠に共に生きる。これ ほど私たちにとって大きな喜びは他にあるで しょうか。この神が与えて下さっている大きな恵み、揺るがない恵みこそを自分の最大の喜びとするようにと言われ ているのです。他のものに喜びを移すことに よって、この喜びを軽んじたり、奪われたりしないようにしなさい。言い換えれば、私たちは神から与えられている この最大の喜びを常にしっかり喜ぶことに よって、どんな中でも揺るがない生活ができるということです。地上の歩みにおいて私たちには様々な悩みや戦いが ありますが、私たちはそのただ中でこの喜び を常にふつふつと心に覚えながら生きることができる。どんな奉仕の喜びも、この一番の喜びに取って代えてはなら ない。天に自分の名が書き記されていること を常に喜ぶところから、私たちの日々のあらゆる生活が導かれて行くべきであるということです。
さて、今日の箇所はこれで終わりません。その喜びを上回るさらなる三つ目の喜びについて21節から記されて行き ます。21節:「ちょうどこのとき、イエス は、聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを 賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たち に現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。』」 ここにある喜びは何で しょうか。それは一言で言えば三位一体の神 の間にある喜びです。神の御子なるイエス様が聖霊によって、父なる神を賛美し、喜びにあふれています。私たちは ここに三位一体の神が互いの間に持っておら れる完全な神的喜びを垣間見ます。具体的にイエス様は何を喜んでおられるのでしょうか。それは父なる神が救いの 恵みを賢い者や知恵のある者には隠し、幼子 たちに現わされたことです。この賢い者や知恵のある者とは字義通り、自分を賢い人、また知恵ある人と自負し、高 ぶっている人のことです。そういう人は自分 の頭を非常に信頼しているので、その枠に収まらない神の啓示を素直に受け入れようとしません。そのような人に は、神の方でも真理を隠すということをなされ る。一方の幼子は、自分には誇るところが何もないと思っている弱い人、無力さを自覚している人のことです。そう いう人はへりくだって信頼する心で神の啓示 に応答します。そういう人に対して神はご自身の恵みを豊かに現わして下さる。私たちはどちらの人でしょうか。も し私たちが自分を誇り、自分はひとかどの人 物であると高ぶっているなら、非常に危険です。そういう人は、知らず知らずの内に尊大な態度を取り、神によって 真理を隠される人になります。あるいは反対 に私たちが幼子のような者、自分の愚かさを告白して恵みに素直によりすがる人なら、真理を次々に悟る者とされ、 豊かな恵みに生かされて行く人になります。 いかに教えられやすい、柔らかい心が必要かということです。
その幼子たちに与えられる祝福が22節に示されています「すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されてい ます。それで、子がだれであるかは、父のほ かには知る者がありません。また父がだれであるかは、子と、子が知らせようと心に定めた人たちのほかは、だれも 知る者がありません。」 ここには三位一体 の父と子の間にある親しい交わりが示されています。しかし22節後半には重要な付加があります。それは「子と、 子が父を知らせようと心に定めた人たちのほ かは」という部分です。すなわちここには、三位一体の神の親しい完全な交わりの喜びの中に、イエス・キリストを 通して他の者も引き入れられるということが 言われています。本来は三位一体の神以外は、誰もその輪に加わることはできないはずです。なのに、子が定めた人 たちも、子が父を知るように、父を知ること ができる。ヨハネの福音書14章6節:「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなけ れば、だれひとり父のみもとに来ることはあ りません。」 何と私たちはイエス様を通して、父、子、聖霊の神が永遠の昔からご自分の内に持っておられる完全 な喜びの交わりにあずからせて頂くことがで きるのです。
ですから、イエス様は弟子たちの方を向いて言われました。23~24節:「それからイエスは、弟子たちのほうに 向いて、ひそかに言われた。『あなたがたの 見ていることを見る目は幸いです。あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを 見たいと願ったのに、見られなかったので す。また、あなたがたの聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けなかったのです。』」 今、イエス様を前に して、その御言葉に聞いている彼らは、まさ にイエス様が喜びにあふれたところの三位一体の神の喜びの中に招き入れられています。イエス様は先ほど引用した ヨハネ14章で、「わたしを見た者は、父を 見たのです。」と言われましたが、そのイエス様を通して彼らは、父、子、聖霊の神の溢れるばかりの神的喜びにあ ずかる者と導かれているのです。これはイエ ス様が天に昇られたことによって、私たちから失われた祝福ではありません。私たちは聖書を通してイエス様をより 良く知り、交わることによって、一層豊かに この三位一体の神の交わりに生きるように招かれています。あなたがたは幸いです!という23~24節のイエス様 の言葉は、さらに強く私たちの上に成就して いるのです。
果たして、私たちは自分の喜びをどこに持っているでしょうか。ある人は自分が欲しいと思っていたものを買ったこ とに喜びを覚えているかもしれません。ある 人は有名な学校に進学したことに、ある人はいい会社に入ったことに、あるいはいい給料をもらっていることに、あ る人はいい家に住んでいること、また仕事の 成功に、自分の名誉向上に、あるいは自分の美貌に、また教会での奉仕に喜びを覚えているかもしれません。しかし ここに究極の私たちの喜びがあります。それ は自分の名が天に書き記されているという喜びであり、さらには三位一体の神の聖なる交わりに引き入れられている という喜びです。ウェストミンスター小教理 問答問4の答えにあるように、神は「その存在、知恵、力、聖、義、慈しみ、まことにおいて無限、永遠、不変」の 方ですから、その一つ一つの素晴らしい属性 において無限、永遠、不変の方に接することは神にとっても永遠の喜びです。その無限、永遠、不変の神をいよいよ 深く知り、味わい知る完全な喜びに私たちも イエス・キリストを通して入れられることができるのです。ですから今日の箇所はまだイエス・キリストを信じてい ない人に、キリストのもとにこそ来るように と招いています。へりくだった、幼子の心でキリストの御言葉を受け入れ、その招きに従うなら、その人はこの三位 一体の神の完全な喜びの中に永遠に招かれる という特権にあずかることができる。これは地上のどんな喜びにもはるかに勝る、私たちの言葉の表現能力をはるか に超える祝福の世界です。そしてすでに信仰 を持っている人に対しても、今日の箇所はあなたの喜びをここにこそ置き続けるようにと語っています。イエス様は 弟子たちに向かって「あなたがたは何と幸い か」と言われましたが、私たちはそれほどに自分が幸いであることを自覚しているでしょうか。喜びを他の何かに置 いているため、イエス様が喜びにあふれて宣 言されたこの幸いがあまりピンと来ないということはないでしょうか。私たちは日々どんな歩みをすることにおいて も、この最大の喜びが自分から奪われること のないようにしたい。もちろんこの言葉を語られたイエス様が宣教へと弟子たちを招かれたのですから、私たちもそ の御心に従って奉仕をします。しかし私たち は自分の喜びを他の何かに基礎づけることによって、この与えられている最も大事な喜びを奪われることがないよう に。キリストを信じる私たちの名が天に書き 記されていること、またキリストにあって三位一体の神の交わりに導き入れられていることを日々自分の一番の喜び とするところから、この喜びに押し出され て、神と共に、やがての御国のために身をささげ、仕えて行く者へ導かれたいと思います。
今日の箇所は、宣教の旅に遣わされた70人の弟子たちが喜んで帰って来て、イエス様に様子を報告したことから始 まります。彼らは言いました。「主よ。あな たの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」 彼らにとって、今回の旅は興奮に満ちた宣教旅行で した。悪霊は人間より強い存在であり、当時 は多くの人々がこの悪霊の力に悩まされていました。ところが70人の弟子たちは、イエス様に権威を授けられて御 名を使った際、悪霊たちを追い出すことがで きたのです。人々を病や悩みから解放することができたのです。彼らが大きな喜びを抱いて、イエス様のもとに戻っ て来たのも良く分かります。するとイエス様 は言われました。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あな たがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあら ゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。」 一体イエス 様はいつのことを言っておられるのか、いく つかの見方がありますが、やはりふさわしいのは、これを70人の弟子たちの活動と結びつけて考えることでしょ う。弟子たちが各地で悪霊を追い出すみわざを なした時、イエス様はそこにサタンがいなずまのように天から落ちた様子を幻を見るようにして見たのです。イエス 様はすでに40日40夜の荒野の誘惑におい て、サタンとの戦いに勝利しました。またその後もサタンは様々な仕方でイエス様に誘惑をしかけましたが、――た とえばペテロは信仰告白の後、イエス様に十 字架に進まないように進言しましたが、――イエス様は「下がれ、サタン」と言って悪魔の誘惑を退け、勝利されま した。そしてここでも70人の弟子たちに よって圧倒的勝利を収められました。イエス様がこのような力を持つのは、やがて十字架にかかって、私たちの罪を 全部、身代わりに背負って下さるからです。 それによってこの世界の上にサタンが持っている支配権を滅ぼして下さるからです。「いなずまのように」という表 現は「突然」という意味でしょう。サタンは 自分が予期していない形で、このように地に落とされたのです。まだまだ世界の支配者として君臨できると思ってい たのに、イエス様の名を使う弟子たちによっ て、いなずまのように落ちざるを得なかった。これは私たちにとって大きな慰めです。この世界には色々な力が働い ています。私たちの力を超える得体の知れな い力が働いています。それは突き詰めればサタンに帰されます。しかし私たちがイエス・キリストにより頼むなら、 そのサタンの存在は恐れるに足りない。イエ ス様の前で、サタンはいなずまのように天から落ちざるを得ないのです。私たちははるかに勝るイエス様のもとで平 安を頂き、守られる歩みへ進むことができる のです。
しかし、イエス様は喜ぶ弟子たちにこう言われました。20節:「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するか らと言って、喜んではなりません。ただあな たがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」 イエス様はここでもっと喜ぶべき大きな喜びがあるこ とを指摘されました。そしてそちらにこそ、 喜びの土台を置くように!と言われたのです。どういうことでしょうか。私たちは往々にして、自分が成し遂げた業 績や特別な体験に喜びを覚えやすいもので す。そこには二つの危険が考えられます。一つは今回のようにうまく行った場合です。その素晴らしい体験に酔い、 知らず知らずの内に自分を持ち上げ、自分を 誇る。互いにどのように素晴らしい経験をし、また素晴らしい成果を残せたか、比較し合い、競い合って、ついには 自慢し合うようになるかもしれません。また もう一つはうまく行かなかった場合です。願うような結果が出なかった時、私たちはすべての喜びを失ったかのよう な状態になりがちです。私たちはやがて思う ようには働けない年齢、成果を出したくても出せないような健康状態に至るでしょう。その時、私たちはどんな喜び を持って日々を過ごすことができるのでしょ う。もし私たちが自分の成し遂げたことに喜びの基礎を置くなら、私たちの生活はとてもあやふやなものになりま す。日々変わりゆく状況に一喜一憂し、ジェッ トコースターに乗っているような生活になってしまいます。ですからイエス様はもっと喜ぶべき確かなことに喜びの 基礎を置くようにと言われたのです。それと は「あなたがたの名が天に書き記されている」ということです。ローマ皇帝アウグストが住民登録をさせたように、 また私たちの名前がそれぞれの市町村の住民 台帳に載っているように、私たちの名が天に書き記されているとは、私たちが天国の民とされているということで す。今、地上にありながら、すでにそうであ る。そしてやがて必ず天の故郷に帰り、罪を全く赦され、聖められた者として、聖なる神と永遠に共に生きる。これ ほど私たちにとって大きな喜びは他にあるで しょうか。この神が与えて下さっている大きな恵み、揺るがない恵みこそを自分の最大の喜びとするようにと言われ ているのです。他のものに喜びを移すことに よって、この喜びを軽んじたり、奪われたりしないようにしなさい。言い換えれば、私たちは神から与えられている この最大の喜びを常にしっかり喜ぶことに よって、どんな中でも揺るがない生活ができるということです。地上の歩みにおいて私たちには様々な悩みや戦いが ありますが、私たちはそのただ中でこの喜び を常にふつふつと心に覚えながら生きることができる。どんな奉仕の喜びも、この一番の喜びに取って代えてはなら ない。天に自分の名が書き記されていること を常に喜ぶところから、私たちの日々のあらゆる生活が導かれて行くべきであるということです。
さて、今日の箇所はこれで終わりません。その喜びを上回るさらなる三つ目の喜びについて21節から記されて行き ます。21節:「ちょうどこのとき、イエス は、聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを 賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たち に現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。』」 ここにある喜びは何で しょうか。それは一言で言えば三位一体の神 の間にある喜びです。神の御子なるイエス様が聖霊によって、父なる神を賛美し、喜びにあふれています。私たちは ここに三位一体の神が互いの間に持っておら れる完全な神的喜びを垣間見ます。具体的にイエス様は何を喜んでおられるのでしょうか。それは父なる神が救いの 恵みを賢い者や知恵のある者には隠し、幼子 たちに現わされたことです。この賢い者や知恵のある者とは字義通り、自分を賢い人、また知恵ある人と自負し、高 ぶっている人のことです。そういう人は自分 の頭を非常に信頼しているので、その枠に収まらない神の啓示を素直に受け入れようとしません。そのような人に は、神の方でも真理を隠すということをなされ る。一方の幼子は、自分には誇るところが何もないと思っている弱い人、無力さを自覚している人のことです。そう いう人はへりくだって信頼する心で神の啓示 に応答します。そういう人に対して神はご自身の恵みを豊かに現わして下さる。私たちはどちらの人でしょうか。も し私たちが自分を誇り、自分はひとかどの人 物であると高ぶっているなら、非常に危険です。そういう人は、知らず知らずの内に尊大な態度を取り、神によって 真理を隠される人になります。あるいは反対 に私たちが幼子のような者、自分の愚かさを告白して恵みに素直によりすがる人なら、真理を次々に悟る者とされ、 豊かな恵みに生かされて行く人になります。 いかに教えられやすい、柔らかい心が必要かということです。
その幼子たちに与えられる祝福が22節に示されています「すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されてい ます。それで、子がだれであるかは、父のほ かには知る者がありません。また父がだれであるかは、子と、子が知らせようと心に定めた人たちのほかは、だれも 知る者がありません。」 ここには三位一体 の父と子の間にある親しい交わりが示されています。しかし22節後半には重要な付加があります。それは「子と、 子が父を知らせようと心に定めた人たちのほ かは」という部分です。すなわちここには、三位一体の神の親しい完全な交わりの喜びの中に、イエス・キリストを 通して他の者も引き入れられるということが 言われています。本来は三位一体の神以外は、誰もその輪に加わることはできないはずです。なのに、子が定めた人 たちも、子が父を知るように、父を知ること ができる。ヨハネの福音書14章6節:「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなけ れば、だれひとり父のみもとに来ることはあ りません。」 何と私たちはイエス様を通して、父、子、聖霊の神が永遠の昔からご自分の内に持っておられる完全 な喜びの交わりにあずからせて頂くことがで きるのです。
ですから、イエス様は弟子たちの方を向いて言われました。23~24節:「それからイエスは、弟子たちのほうに 向いて、ひそかに言われた。『あなたがたの 見ていることを見る目は幸いです。あなたがたに言いますが、多くの預言者や王たちがあなたがたの見ていることを 見たいと願ったのに、見られなかったので す。また、あなたがたの聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けなかったのです。』」 今、イエス様を前に して、その御言葉に聞いている彼らは、まさ にイエス様が喜びにあふれたところの三位一体の神の喜びの中に招き入れられています。イエス様は先ほど引用した ヨハネ14章で、「わたしを見た者は、父を 見たのです。」と言われましたが、そのイエス様を通して彼らは、父、子、聖霊の神の溢れるばかりの神的喜びにあ ずかる者と導かれているのです。これはイエ ス様が天に昇られたことによって、私たちから失われた祝福ではありません。私たちは聖書を通してイエス様をより 良く知り、交わることによって、一層豊かに この三位一体の神の交わりに生きるように招かれています。あなたがたは幸いです!という23~24節のイエス様 の言葉は、さらに強く私たちの上に成就して いるのです。
果たして、私たちは自分の喜びをどこに持っているでしょうか。ある人は自分が欲しいと思っていたものを買ったこ とに喜びを覚えているかもしれません。ある 人は有名な学校に進学したことに、ある人はいい会社に入ったことに、あるいはいい給料をもらっていることに、あ る人はいい家に住んでいること、また仕事の 成功に、自分の名誉向上に、あるいは自分の美貌に、また教会での奉仕に喜びを覚えているかもしれません。しかし ここに究極の私たちの喜びがあります。それ は自分の名が天に書き記されているという喜びであり、さらには三位一体の神の聖なる交わりに引き入れられている という喜びです。ウェストミンスター小教理 問答問4の答えにあるように、神は「その存在、知恵、力、聖、義、慈しみ、まことにおいて無限、永遠、不変」の 方ですから、その一つ一つの素晴らしい属性 において無限、永遠、不変の方に接することは神にとっても永遠の喜びです。その無限、永遠、不変の神をいよいよ 深く知り、味わい知る完全な喜びに私たちも イエス・キリストを通して入れられることができるのです。ですから今日の箇所はまだイエス・キリストを信じてい ない人に、キリストのもとにこそ来るように と招いています。へりくだった、幼子の心でキリストの御言葉を受け入れ、その招きに従うなら、その人はこの三位 一体の神の完全な喜びの中に永遠に招かれる という特権にあずかることができる。これは地上のどんな喜びにもはるかに勝る、私たちの言葉の表現能力をはるか に超える祝福の世界です。そしてすでに信仰 を持っている人に対しても、今日の箇所はあなたの喜びをここにこそ置き続けるようにと語っています。イエス様は 弟子たちに向かって「あなたがたは何と幸い か」と言われましたが、私たちはそれほどに自分が幸いであることを自覚しているでしょうか。喜びを他の何かに置 いているため、イエス様が喜びにあふれて宣 言されたこの幸いがあまりピンと来ないということはないでしょうか。私たちは日々どんな歩みをすることにおいて も、この最大の喜びが自分から奪われること のないようにしたい。もちろんこの言葉を語られたイエス様が宣教へと弟子たちを招かれたのですから、私たちもそ の御心に従って奉仕をします。しかし私たち は自分の喜びを他の何かに基礎づけることによって、この与えられている最も大事な喜びを奪われることがないよう に。キリストを信じる私たちの名が天に書き 記されていること、またキリストにあって三位一体の神の交わりに導き入れられていることを日々自分の一番の喜び とするところから、この喜びに押し出され て、神と共に、やがての御国のために身をささげ、仕えて行く者へ導かれたいと思います。