ルカの福音書 11:1-2
主の祈り(一)
このルカの福音書では、祈るイエス様の姿が強調されています。その最初はイエス様がヨハネから洗礼を受けた時で す。3章21節:「イエスもバプテスマをお 受けになり、そして祈っておられると、天が開け、聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるをご覧になっ た。」 マタイやマルコの並行記事には、こ のようなイエス様の姿は記されていません。次は5章16節。イエス様のうわさが益々広まり、多くの人の群れがイ エス様のところにやって来た時、「しかし、 イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。」とあります。これもルカに独特の記事です。さらに6章12 節で12使徒を選ぶ時も、イエス様は祈るた めに山に行き、神に祈りながら夜を明かされました。これもルカにだけ記されています。また9章18節以降で弟子 たちに「あなたがたはわたしをだれだと言い ますか。」と信仰告白を求めた直前も、ひとりで祈っておられたと記されていますし(これもルカに独特)、9章 28節で高い山で栄光の御姿に変貌された時 も、「祈っておられると」御姿が変わられたとあります(これもルカに独特)。そして10章21~22節で見た、 聖霊によって喜びにあふれて父に向かって語 られた言葉も祈りと言えます。このように見て来ると、ルカはイエス様の様々な活動の背後に祈りの生活があったこ とを強調していることが分かって来ます。も しイエス様がこのようにご自身の一生涯の働きを全うするために絶えず祈られたなら、なおさら私たちは、私たちの 人生にも神が定めておられる使命を果たすた めに、祈りの生活が欠かせないということになるのではないでしょうか。私たちはともすると、祈りよりも行動が大 事と思いやすいのですが、このイエス様の姿 は、祈りは何かをすることと同じくらいに重要であること、いや祈りによって、私たちはより大きな働きを成し遂げ ることができることを教えているのではない でしょうか。
弟子たちはこの11章1節でも祈るイエス様の姿を見ました。そこで彼らは、イエス様にこう申し出たのです。「主 よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私た ちにも祈りを教えてください。」 この願いに応えてイエス様が教えて下さったのが、これから見て行く「主の祈 り」です。
さて、この箇所を見る時に多少気になることは、マタイの福音書に記されている主の祈りと若干違う点があるという ことでしょう。通常礼拝で祈る主の祈りはマ タイの福音書の言葉に基づいていますが、それと比べるとこのルカの福音書の主の祈りは、表現や言葉においていく らか少ないところがあります。するとある人 たちが持つ疑問は、一体どっちが本当の主の祈りなのか、ということです。結論から言えば、どちらも主の祈りで す。イエス様は同じ内容を繰り返し、別の状況 で語られたと考えることができます。マタイの福音書における主の祈りは、山上の説教すなわちガリラヤにいた時に 語られたものであるのに対し、ルカの福音書 における主の祈りはエルサレムに向かう旅の途中で語られたものです。教師は生徒に繰り返し教える際、その強調点 をはっきりさせるために、あるいは生徒の学 習状況を見ながら別の言い方で、もう一度教えるということがあります。しかしその本質は同じであり、変わらな い。私たちはここから次のことを学びます。す なわちこの主の祈りは、一字一句全くずれてはならない祈りとして与えられたものではない。もちろん礼拝などで共 に祈るために、一つの決まったヴァージョン があるのは良いことです。しかし大切なのは機械的にその言葉を唱えることではなく、ここに示されている原則や枠 組みを理解して祈ることです。そのような視 点で見るなら、マタイのヴァージョンもルカのヴァージョンも全く同じことを私たちに教えています。
さて、内容を見て行きますが、まずイエス様が教えて下さったことは「父よ」という最初の呼びかけです。この 「父」という言葉はアラム語の「アバ」に相当 し、幼児が全き信頼を持ってお父さんに呼びかける時の親愛の情のこもった言葉です。イエス様の前の時代に、神に 対してこのように呼びかけることができた人 はいませんでした。旧約聖書にも神はイスラエルの父であるという考えは見られますが、この「アバ」という言葉に 込められている親しさからは程遠いもので す。なぜイエス様はそのように祈れたのでしょうか。一言で言えば、それはイエス様は三位一体の神における御子な る神であられるからです。永遠の昔より父の ふところにおられる一人子の神であられるから、「父よ!」という特別に親しい呼びかけの言葉で神を呼ぶことがで きたのです。しかしここで注目すべきこと は、その呼びかけを私たちも使うように、とイエス様が招いておられることです。どうして私たちのような者が、そ のように神を呼べるのでしょうか。それはま ずイエス様がご自身の十字架のみわざをもって、私たちの罪を赦して下さるからです。罪がある限り、私たちは聖な る神に近づくことはできません。しかしイエ ス様の身代わりの十字架を通して、私たちは罪赦された者として神の前に出ることができる。そしてそればかりか、 私たちはイエス様と結ばれた者として、イエ ス様と同じ立場に立たせて頂くということも聖書は語っています。ヨハネの福音書1章12節:「この方を受け入れ た人々、すなわち、その名を信じた人々に は、神の子どもとされる特権をお与えになった。」 さらに神は私たちがこの関係を心から確信して神に近づけるよ うに、聖霊を遣わして下さいました。ローマ 8章15節:「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子として下さる御霊を 受けたのです。私たちは御霊によって、『ア バ、父』と呼びます。」
何という祝福に私たちは招き入れられていることでしょうか。もし私たちがこの恵みを理解して、イエス様が教えて 下さったように、真心から「父よ」と呼びか けることができれば、もう私たちは何も祈らなくても良いと言えるほどです。私たちは世界に唯一の神を、キリスト にあって「私の父」として持っているので す。父なる神は私たちの思いをはるかに超える知恵と偉大な御力をもって、私を子として愛し、慈しみ、育んで下さ る方です。この神に「アバ、父よ」正しく呼 びかけることができれば、私たちが祈る前に持っていた恐れや不安、悩みや心配はずっと小さなものになるでしょ う。そして私たちの口から最初に出て来る祈り は、次に見ますように、神とその栄光に関する祈りになるでしょう。主の祈りは大きく「神とその栄光に関する祈 り」と、「私たち人間の必要に関する祈り」の 二つの部分に区分できますが、最初に来るのは神とその栄光に関する祈りです。私たちは自分の祈りを振り返ってど うでしょうか。神様と呼びかけても、ああし て下さい、こうして下さい、と自分に関することだけを祈っている。それは神に真の意味で目を上げていないという ことを表しており、ただ自分を見つめて独り 言をつぶやいているのとあまり変わらない。そんな状態でいくらたくさんの言葉を発しても、何の力も感じられない し、最後にため息をついて終わり、という結 果に至るのは想像がつきます。そうではなく、私たちはまず神に正しく目を上げることから始めなければならない。 私をご自身の子として扱って下さっている父 なる神への感謝と喜びを持って、まずその神が賛美され、神にすべての栄光が帰されることを願う。この神に関する 祈りがまず優先されるべきことを、主の祈り は私たちに教えています。そこに祝された祈り、力ある祈りがあるのです。
第一の祈りは「御名があがめられますように。」 これは原文では「あなたの名前が聖とされますように」という言 葉です。聖書における「聖」という言葉の基 本的意味は、「取り分ける」とか「区別する」というものです。つまりこの第一の祈りは、神様ご自身が他のあらゆ るもの一切から区別されて、ふさわしく敬わ れ、尊敬され、栄光が帰されるように、というものです。こう祈るのは現実がそうなっていないからです。神でない ものが神としてあがめられ、神にふさわしい 賛美と誉れが神に帰されていないからです。しかし私たちはこれを他人事のように語ることはできません。まず問わ れることは、「自分はどうか」ということで す。私は神を神とし、ふさわしい賛美と敬いを帰しているか。礼拝で今、賛美においてそうしているかもしれません が、一週間の生活において神に対してそうし ているか。そう考えると全く理想から程遠い自分であることを思わざるを得ません。ですからこれはまず私たちを悔 い改めに導く祈りです。他のものを神として あがめ、神にのみふさわしい栄光を神に帰していない自分を振り返って、胸を打ちたたいて悲しみ、あなたよりも他 の物を大事にしてしまった私の罪をお赦しく ださい、あなたにすべての感謝と栄光を帰す歩みを私にさせてください、と求める祈りです。そして同時にこれは私 だけではなく、全世界の人々が神をあがめ、 ふさわしい礼拝と賛美を帰すようにと願う祈りでもあります。
第二の祈りは「御国が来ますように。」 御国とは一言で言えば、「神の恵みの支配」を指します。第一の祈りでは 神ご自身が他のものから正しく区別され、敬 われ、礼拝されるようにと祈られましたが、そのように神をあがめる領域の広がりを求める祈りです。こちらにおい てもまず私たちが祈るべきは、自分自身が神 の恵みの支配に生きる者となるように、ということです。御国はどこからか飛んで来るものではなく、まず私の心か ら始まるべきものです。私の心と生活の両方 において、神の支配を喜び、これに服する者となるように。そして同時にこれは全世界の隅々にまで、恵みの支配が 拡がるようにという祈りであり、伝道のため の祈り、教会の宣教のための祈り、個人の証における導きを求める祈りです。そうして神の御名こそがあがめられる 御国の実現を熱心に求めるのです。これらの ことがまず優先的に私たちの祈りに現れて来なければなりません。その後で、来週見る3節以降の私たちの必要に関 する祈りが祈られるべきなのです。
果たして私たちの祈りは、この主の祈りに教えられ、導かれ、実践されているでしょうか。父よ!という呼びかけ、 そして続けて「御名があがめられますよう に」と真っ先に出て来る祈りになっているでしょうか。これが正しくなされれば、もはや私たちの願いはすべてかな えられたと同じです。主が示して下さったこ の道順に沿って進むなら、私たちは自分中心の祈りをするよりはるかに自由に祈ることができますし、また私たちの 祈りが大きく変わることは確かです。イエス 様はその祈りを教えて下さいました。私たちはこの祈りに学んで、祈りの力とその祝福を益々味わい知る者になりた いと思います。そしてイエス様のように、絶 えざる祈りの生活を通して、神が私たち一人一人に定めて下さっている使命を、上からの力で成し遂げ、神の栄光に 仕えるという私たち人間にとって最も幸い な、意義ある地上の歩みへ導かれて行きたいと思います。
このルカの福音書では、祈るイエス様の姿が強調されています。その最初はイエス様がヨハネから洗礼を受けた時で す。3章21節:「イエスもバプテスマをお 受けになり、そして祈っておられると、天が開け、聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるをご覧になっ た。」 マタイやマルコの並行記事には、こ のようなイエス様の姿は記されていません。次は5章16節。イエス様のうわさが益々広まり、多くの人の群れがイ エス様のところにやって来た時、「しかし、 イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。」とあります。これもルカに独特の記事です。さらに6章12 節で12使徒を選ぶ時も、イエス様は祈るた めに山に行き、神に祈りながら夜を明かされました。これもルカにだけ記されています。また9章18節以降で弟子 たちに「あなたがたはわたしをだれだと言い ますか。」と信仰告白を求めた直前も、ひとりで祈っておられたと記されていますし(これもルカに独特)、9章 28節で高い山で栄光の御姿に変貌された時 も、「祈っておられると」御姿が変わられたとあります(これもルカに独特)。そして10章21~22節で見た、 聖霊によって喜びにあふれて父に向かって語 られた言葉も祈りと言えます。このように見て来ると、ルカはイエス様の様々な活動の背後に祈りの生活があったこ とを強調していることが分かって来ます。も しイエス様がこのようにご自身の一生涯の働きを全うするために絶えず祈られたなら、なおさら私たちは、私たちの 人生にも神が定めておられる使命を果たすた めに、祈りの生活が欠かせないということになるのではないでしょうか。私たちはともすると、祈りよりも行動が大 事と思いやすいのですが、このイエス様の姿 は、祈りは何かをすることと同じくらいに重要であること、いや祈りによって、私たちはより大きな働きを成し遂げ ることができることを教えているのではない でしょうか。
弟子たちはこの11章1節でも祈るイエス様の姿を見ました。そこで彼らは、イエス様にこう申し出たのです。「主 よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私た ちにも祈りを教えてください。」 この願いに応えてイエス様が教えて下さったのが、これから見て行く「主の祈 り」です。
さて、この箇所を見る時に多少気になることは、マタイの福音書に記されている主の祈りと若干違う点があるという ことでしょう。通常礼拝で祈る主の祈りはマ タイの福音書の言葉に基づいていますが、それと比べるとこのルカの福音書の主の祈りは、表現や言葉においていく らか少ないところがあります。するとある人 たちが持つ疑問は、一体どっちが本当の主の祈りなのか、ということです。結論から言えば、どちらも主の祈りで す。イエス様は同じ内容を繰り返し、別の状況 で語られたと考えることができます。マタイの福音書における主の祈りは、山上の説教すなわちガリラヤにいた時に 語られたものであるのに対し、ルカの福音書 における主の祈りはエルサレムに向かう旅の途中で語られたものです。教師は生徒に繰り返し教える際、その強調点 をはっきりさせるために、あるいは生徒の学 習状況を見ながら別の言い方で、もう一度教えるということがあります。しかしその本質は同じであり、変わらな い。私たちはここから次のことを学びます。す なわちこの主の祈りは、一字一句全くずれてはならない祈りとして与えられたものではない。もちろん礼拝などで共 に祈るために、一つの決まったヴァージョン があるのは良いことです。しかし大切なのは機械的にその言葉を唱えることではなく、ここに示されている原則や枠 組みを理解して祈ることです。そのような視 点で見るなら、マタイのヴァージョンもルカのヴァージョンも全く同じことを私たちに教えています。
さて、内容を見て行きますが、まずイエス様が教えて下さったことは「父よ」という最初の呼びかけです。この 「父」という言葉はアラム語の「アバ」に相当 し、幼児が全き信頼を持ってお父さんに呼びかける時の親愛の情のこもった言葉です。イエス様の前の時代に、神に 対してこのように呼びかけることができた人 はいませんでした。旧約聖書にも神はイスラエルの父であるという考えは見られますが、この「アバ」という言葉に 込められている親しさからは程遠いもので す。なぜイエス様はそのように祈れたのでしょうか。一言で言えば、それはイエス様は三位一体の神における御子な る神であられるからです。永遠の昔より父の ふところにおられる一人子の神であられるから、「父よ!」という特別に親しい呼びかけの言葉で神を呼ぶことがで きたのです。しかしここで注目すべきこと は、その呼びかけを私たちも使うように、とイエス様が招いておられることです。どうして私たちのような者が、そ のように神を呼べるのでしょうか。それはま ずイエス様がご自身の十字架のみわざをもって、私たちの罪を赦して下さるからです。罪がある限り、私たちは聖な る神に近づくことはできません。しかしイエ ス様の身代わりの十字架を通して、私たちは罪赦された者として神の前に出ることができる。そしてそればかりか、 私たちはイエス様と結ばれた者として、イエ ス様と同じ立場に立たせて頂くということも聖書は語っています。ヨハネの福音書1章12節:「この方を受け入れ た人々、すなわち、その名を信じた人々に は、神の子どもとされる特権をお与えになった。」 さらに神は私たちがこの関係を心から確信して神に近づけるよ うに、聖霊を遣わして下さいました。ローマ 8章15節:「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子として下さる御霊を 受けたのです。私たちは御霊によって、『ア バ、父』と呼びます。」
何という祝福に私たちは招き入れられていることでしょうか。もし私たちがこの恵みを理解して、イエス様が教えて 下さったように、真心から「父よ」と呼びか けることができれば、もう私たちは何も祈らなくても良いと言えるほどです。私たちは世界に唯一の神を、キリスト にあって「私の父」として持っているので す。父なる神は私たちの思いをはるかに超える知恵と偉大な御力をもって、私を子として愛し、慈しみ、育んで下さ る方です。この神に「アバ、父よ」正しく呼 びかけることができれば、私たちが祈る前に持っていた恐れや不安、悩みや心配はずっと小さなものになるでしょ う。そして私たちの口から最初に出て来る祈り は、次に見ますように、神とその栄光に関する祈りになるでしょう。主の祈りは大きく「神とその栄光に関する祈 り」と、「私たち人間の必要に関する祈り」の 二つの部分に区分できますが、最初に来るのは神とその栄光に関する祈りです。私たちは自分の祈りを振り返ってど うでしょうか。神様と呼びかけても、ああし て下さい、こうして下さい、と自分に関することだけを祈っている。それは神に真の意味で目を上げていないという ことを表しており、ただ自分を見つめて独り 言をつぶやいているのとあまり変わらない。そんな状態でいくらたくさんの言葉を発しても、何の力も感じられない し、最後にため息をついて終わり、という結 果に至るのは想像がつきます。そうではなく、私たちはまず神に正しく目を上げることから始めなければならない。 私をご自身の子として扱って下さっている父 なる神への感謝と喜びを持って、まずその神が賛美され、神にすべての栄光が帰されることを願う。この神に関する 祈りがまず優先されるべきことを、主の祈り は私たちに教えています。そこに祝された祈り、力ある祈りがあるのです。
第一の祈りは「御名があがめられますように。」 これは原文では「あなたの名前が聖とされますように」という言 葉です。聖書における「聖」という言葉の基 本的意味は、「取り分ける」とか「区別する」というものです。つまりこの第一の祈りは、神様ご自身が他のあらゆ るもの一切から区別されて、ふさわしく敬わ れ、尊敬され、栄光が帰されるように、というものです。こう祈るのは現実がそうなっていないからです。神でない ものが神としてあがめられ、神にふさわしい 賛美と誉れが神に帰されていないからです。しかし私たちはこれを他人事のように語ることはできません。まず問わ れることは、「自分はどうか」ということで す。私は神を神とし、ふさわしい賛美と敬いを帰しているか。礼拝で今、賛美においてそうしているかもしれません が、一週間の生活において神に対してそうし ているか。そう考えると全く理想から程遠い自分であることを思わざるを得ません。ですからこれはまず私たちを悔 い改めに導く祈りです。他のものを神として あがめ、神にのみふさわしい栄光を神に帰していない自分を振り返って、胸を打ちたたいて悲しみ、あなたよりも他 の物を大事にしてしまった私の罪をお赦しく ださい、あなたにすべての感謝と栄光を帰す歩みを私にさせてください、と求める祈りです。そして同時にこれは私 だけではなく、全世界の人々が神をあがめ、 ふさわしい礼拝と賛美を帰すようにと願う祈りでもあります。
第二の祈りは「御国が来ますように。」 御国とは一言で言えば、「神の恵みの支配」を指します。第一の祈りでは 神ご自身が他のものから正しく区別され、敬 われ、礼拝されるようにと祈られましたが、そのように神をあがめる領域の広がりを求める祈りです。こちらにおい てもまず私たちが祈るべきは、自分自身が神 の恵みの支配に生きる者となるように、ということです。御国はどこからか飛んで来るものではなく、まず私の心か ら始まるべきものです。私の心と生活の両方 において、神の支配を喜び、これに服する者となるように。そして同時にこれは全世界の隅々にまで、恵みの支配が 拡がるようにという祈りであり、伝道のため の祈り、教会の宣教のための祈り、個人の証における導きを求める祈りです。そうして神の御名こそがあがめられる 御国の実現を熱心に求めるのです。これらの ことがまず優先的に私たちの祈りに現れて来なければなりません。その後で、来週見る3節以降の私たちの必要に関 する祈りが祈られるべきなのです。
果たして私たちの祈りは、この主の祈りに教えられ、導かれ、実践されているでしょうか。父よ!という呼びかけ、 そして続けて「御名があがめられますよう に」と真っ先に出て来る祈りになっているでしょうか。これが正しくなされれば、もはや私たちの願いはすべてかな えられたと同じです。主が示して下さったこ の道順に沿って進むなら、私たちは自分中心の祈りをするよりはるかに自由に祈ることができますし、また私たちの 祈りが大きく変わることは確かです。イエス 様はその祈りを教えて下さいました。私たちはこの祈りに学んで、祈りの力とその祝福を益々味わい知る者になりた いと思います。そしてイエス様のように、絶 えざる祈りの生活を通して、神が私たち一人一人に定めて下さっている使命を、上からの力で成し遂げ、神の栄光に 仕えるという私たち人間にとって最も幸い な、意義ある地上の歩みへ導かれて行きたいと思います。