ルカの福音書 11:5-13
求める者は受け
今日の御言葉は、主の祈りに続いて語られています。そのことに注目することは、今日の箇所を正しく読む上で重要 なことと思います。まずイエス様は「真夜中 の友人のたとえ」を語られました。ある人のところに友人が訪ねて来ます。今日のようにケータイやメールや、郵便 制度が整っていたわけではありませんので、 何日のいつ頃着くのか、前もって正確な連絡をするのは難しいことでした。できれば夕方までには着きたいと願いま すが、常にそうできるとは限りません。この たとえのように真夜中になって到着することもあり得ます。さて迎える方は大変です。ユダヤ人の間では、到着した お客にはまず食事を出すことがエチケットで した。ところが時間が遅いため、もうパンはなかった。今から焼くのでは時間がかかりますし、もうそんな時間では ありません。それでその人はどうしたでしょ うか。彼は他の友達のところに行ってパンを分けてもらおうとします。真夜中に玄関を叩かれて、パンをくれ!と言 われる方も、ある意味ではいい迷惑です。最 初は友人も家の中からこう答えます。「めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも 私も寝ている。起きて、何かをやることはで きない。」 しかしこういう友だちもついには、パンを求めてやって来た人のために起き上がり、求めるものを与え るでしょう、とイエス様は言われます。果た してこのたとえは、何を言っているのでしょうか。
しばしばここから言われるのは、私たちも執拗に祈る必要があるというものです。1回断られたからと言ってあきら めず、粘り強く、繰り返し、ついには神様を 根負けさせるほどに祈るべきである、と。しかしこれだと神様はたとえの中の友人のように、そう簡単には聞いて下 さらない方であって、私たちは余程の覚悟と 決心をもって祈らなければならないということになります。そういうメッセージは私たちに励ましを与えるどころ か、逆に落胆させるものです。私たちがこのよ うにこの箇所を読んでしまいやすい理由の一つは、8節の「あくまで頼み続けるなら」という訳と関係していると思 われます。有名な学者たちが異口同音に述べ ていることは、この言葉には「しつこく」とか「粘り強く」という意味はないということです。正しい訳は、欄外に 注がありますように「あつかましさのゆえ に」というものです。あるいは「大胆さのゆえに」ということです。「粘り強く求める」ことと「大胆に求める」こ とは、似ている部分もありますが、全く同じ ではありません。イエス様がここで述べていることは、繰り返し、しつこく祈ることではなく、大胆に求めることで す。そしてその祈りは聞かれるということを 言いたい。そのためにイエス様はたとえにおいて、あえて困難な状況設定をしているのです。時は真夜中、相手の家 族はみな寝ている。友だちも友だちだからと いうことでは与えようとしない。1回は拒否している。そういう状況でも、大胆に願った彼の願いは聞かれた。であ るなら、なおさら神に願うあなたがたの祈り は聞かれる、とイエス様は仰いたい。大事な視点はたとえの中の友人と神様は同じではないということです。たとえ の中の友人は、友達だからということでは行 動してくれない友人です。しかし神は違います。ですから神は私たちが祈る祈りにもっと速やかに、喜んで、確実に 答えて下さる!粘らなければ神様も聞いて下 さらない、というメッセージは、イエス様が全く伝えようとはしていなかったものです。
そのことは9~10節の言葉からも分かります。まず9節:「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そう すれば与えられます。捜しなさい。そうすれ ば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」 もしイエス様が執拗に祈ることの大切さを教えようと されたら、9節はこう語る方が良かったはず です。「求めなさい。捜しなさい。たたきなさい。そうすれば与えられます。」 つまり、ただ求めるだけでは不十 分で、さらに捜し、さらにたたかなければな らない。そうしたプロセスを経てこそ、祝福は与えられる、と。しかしそうなってはいません。求めれば与えられ る。捜せば見つかる。たたけば開かれる。10 節も同じです。もし「だれであっても求め、捜し、たたく者は受けます。」とあるなら、第一段階を突破し、第二段 階も突破し、第三段階にまで到達するような 執拗な祈りであってこそ祝福を受けるというメッセージになりますが、そうなっていません。求める者は受ける。捜 す者は見つける。たたく者には開かれる。私 たちはこのように約束下さっている神を仰ぎ、大きな希望を抱いて、大胆に神の前に出て祈るべきなのです。
私たちの祈りを振り返ってどうでしょうか。もし私たちの祈りが、このような積極的なものになっていないとすれ ば、その理由の一つは、私たちがここに示され ているようには神様を仰いでいないからではないでしょうか。私たちは時に自分の祈りは空しく空中に消えて行くだ けだと思っている。神様に届いていないと感 じている。しかしそうではないのです。イエス様が今日の箇所で言っていることは、友達としては行動してくれない この人でも、こうやって願いを聞くなら、ま してや神は大胆に近づく私たちの祈りを喜んで聞いて下さるということです。この神の姿を正しく仰ぐなら、私たち は祈ることへ励まされることでしょう。神は 喜んで答えて下さる神です。祈るなら、待っていたとばかりに恵んで下さる神なのです。
しかし、ある人は9~10節の御言葉は本当だろうかと問うかもしれません。祈っても聞かれないことがたくさん私 にはある、と。しかしここで今日の御言葉は 主の祈りに続けて語られた言葉であることを思い起こすことが必要だと思います。この約束は、私たちがどんな祈り をしても、――自分の好き勝手なお祈りをし ても、――自動的にみな聞かれるということを言っているものではありません。これは主の祈りを祈る人に与えられ ている約束です。私たちは主の祈りを通し て、あるべき祈りのモデルについて学びました。その特徴は何と言っても、神中心の祈りであるということでした。 神への感謝と賛美に満ち溢れて、まず第一に 神の御栄えを求める祈り、そのもとで私たちの必要を求める祈り、です。このような祈りが聞かれるとイエス様は 言っているのです。逆に言えば、主の祈りに 沿っていない祈りについては、イエス様は何の約束もしていないし、保証もしていない。
ですから、私たちは祈る時、常に主の祈りを思い起こし、これに倣って祈るように努めることが大事だと思います。 具体的には、ある祈りたいことがあった場 合、まず主の祈りを祈ることから始めてみる。その一つ一つを口に出して祈り、自分が祈ろうと思っていたことは、 この主の祈りの光に照らしてどうなのか、確 かめ、考えながら祈る。すると私たちが祈ろうと思っていた願いは、自分勝手なものであることに気が付くかもしれ ません。神様そっちのけで単に自分の肉的な 満たしを求めるレベルのものであったことに気づくかも知れません。あるいは神の栄光を第一に求めるという基本線 のもとで、自分が願っていたことはそれほど 重要な事柄ではないと教えられるかもしれません。もっと優先して祈るべきことが他にあると気づかされるかもしれ ません。そうして私たちの祈りは修正される かもしれません。こうした主の祈りに沿う祈り、すなわち御心にかなう祈りについて、イエス様は9~10節の約束 をしているのです。
さらに、イエス様は私たちの祈りを励ますために11~13節のことを語ります。ここで子どもが魚を下さいと言う のに蛇を与える父親がいるか、また卵を下さ いと言うのに誰がさそりを与えるか、とあります。このペアについてある人は向こうの地域ではヘビに似た細長い魚 があったとか、サソリは丸まると卵に似る、 などと説明します。他の人は、外観が似ているかどうかは特に関係はなく、パレスチナ地方では子どもにとって蛇と さそりが最も危険なものだったから、こう言 われているだけだと言います。いずれであれ、親は子に良いものだけを与えます。13節にあるように「悪い者では あっても」と言われている私たちでも、自分 の子には良いものを与えることを知っている。とするなら、ましてや天の父はなおさら良いものだけを与えるのでは ないか、とイエス様は言われます。ここから も私たちはなぜ神は時々、私たちの祈りをかなえて下さらないのかを知ることができます。人間の親も子にできるだ け、子が望むものを与えようとします。しか しそれは子どもの言いなるになるということではありません。もし子が求めても、それがふさわしくないと考えた り、今がその時でないと考えれば「ダメ」と言 いますし、我慢させます。それは子を愛しているからです。ましてや神はそうです。神は良いものだけを与え、そう でないものは与えないのです。
では、その天の父が与えて下さる良いものとは何でしょうか。それがここでは「聖霊」と言われています。これはす べての祝福を包含する祝福です。たとえば旧 約聖書ヨエル書で「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年 は幻を見、老人は夢を見る。」と預言されて いたように、聖霊が与えられる祝福は旧約時代がずっと待ち望んだ祝福であり、天国を先取りする祝福、また天国に つながる祝福です。そしてこの聖霊の祝福は 特に御子が地上に現れたことと密接に関連します。ですから次のように言ったら良いかもしれません。
天の父は聖霊を与えて下さるとここで言われていますが、まず天の父は私たちに御子を与えて下さいました。ここに 神の私たちに対する態度が明らかに示されて います。ローマ8章32節:「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうし て、御子といっしょにすべてのものを、私たち に恵んでくださらないことがありましょう。」 私たちはこの御言葉を握っているだけで十分です。神は御子を与え て下さったお方として、御子と共にすべての ものを私たちに与えて下さいます。しかしその御子が勝ち取った祝福を私たちに与える具体的方法は、聖霊によって というのが聖書の教えです。2000年前の イエス・キリストのみわざがどうして今日の私たちに益をもたらせるのかと言うと、それは聖霊によって、というの が聖書の教えです。聖霊がキリストという汲 めども尽きない恵みの泉から恵みを汲み出して、私たちに当てはめて下さいます。この聖霊によって、霊的に死んで いた私たちは命ある者とされ、信仰告白でき る者とされ、キリストに結ばれ、義認の恵み、聖化の恵み、栄化の恵みを受けます。この聖霊によって私たちは日々 の戦いに勝利する力を与えられ、神の国のた めに奉仕する力も注がれます。この聖霊によって私たちは地上にある歩みを最後まで守られ、必ず天国に到達するよ うに導かれます。従ってこの聖霊を頂くとい うことは、キリストが勝ち取った祝福に存分にあずかる者となることであり、これ以上に素晴らしい祝福を聖書は他 に知らないのです。これこそ、私たちを真に 生かし、満たす、神からのこれ以上ない豊かな祝福なのです。
私たちはこのような私たちの父なる神を見上げて祈っているでしょうか。このクリスマスの時、神はご自身の尊い一 人子さえも惜しまずに私たちに与え下さった ことによって、私たちに対する愛を、疑う余地のないほどに証しして下さっています。そして神は求める者に聖霊を 送り、キリストが勝ち取った祝福に私たちを 最大限、豊かにあずからせて下さいます。私たちはこの神に信頼の目を上げ、主の祈りに沿って大胆に祈る生活をし て行きたい。イエス様は「求める者は受け る」と言われました。私たちはこのクリスマスにはっきりと私たちへの愛を示しておられる神に、心からの感謝と賛 美と愛を告白して大胆に祈り、聖霊を頂い て、神が一人一人に定めておられる地上の人生を、イエス様と同じように上からの力で生き抜き、神の栄光を現わす 歩みへと導かれて行きたく思います。
今日の御言葉は、主の祈りに続いて語られています。そのことに注目することは、今日の箇所を正しく読む上で重要 なことと思います。まずイエス様は「真夜中 の友人のたとえ」を語られました。ある人のところに友人が訪ねて来ます。今日のようにケータイやメールや、郵便 制度が整っていたわけではありませんので、 何日のいつ頃着くのか、前もって正確な連絡をするのは難しいことでした。できれば夕方までには着きたいと願いま すが、常にそうできるとは限りません。この たとえのように真夜中になって到着することもあり得ます。さて迎える方は大変です。ユダヤ人の間では、到着した お客にはまず食事を出すことがエチケットで した。ところが時間が遅いため、もうパンはなかった。今から焼くのでは時間がかかりますし、もうそんな時間では ありません。それでその人はどうしたでしょ うか。彼は他の友達のところに行ってパンを分けてもらおうとします。真夜中に玄関を叩かれて、パンをくれ!と言 われる方も、ある意味ではいい迷惑です。最 初は友人も家の中からこう答えます。「めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも 私も寝ている。起きて、何かをやることはで きない。」 しかしこういう友だちもついには、パンを求めてやって来た人のために起き上がり、求めるものを与え るでしょう、とイエス様は言われます。果た してこのたとえは、何を言っているのでしょうか。
しばしばここから言われるのは、私たちも執拗に祈る必要があるというものです。1回断られたからと言ってあきら めず、粘り強く、繰り返し、ついには神様を 根負けさせるほどに祈るべきである、と。しかしこれだと神様はたとえの中の友人のように、そう簡単には聞いて下 さらない方であって、私たちは余程の覚悟と 決心をもって祈らなければならないということになります。そういうメッセージは私たちに励ましを与えるどころ か、逆に落胆させるものです。私たちがこのよ うにこの箇所を読んでしまいやすい理由の一つは、8節の「あくまで頼み続けるなら」という訳と関係していると思 われます。有名な学者たちが異口同音に述べ ていることは、この言葉には「しつこく」とか「粘り強く」という意味はないということです。正しい訳は、欄外に 注がありますように「あつかましさのゆえ に」というものです。あるいは「大胆さのゆえに」ということです。「粘り強く求める」ことと「大胆に求める」こ とは、似ている部分もありますが、全く同じ ではありません。イエス様がここで述べていることは、繰り返し、しつこく祈ることではなく、大胆に求めることで す。そしてその祈りは聞かれるということを 言いたい。そのためにイエス様はたとえにおいて、あえて困難な状況設定をしているのです。時は真夜中、相手の家 族はみな寝ている。友だちも友だちだからと いうことでは与えようとしない。1回は拒否している。そういう状況でも、大胆に願った彼の願いは聞かれた。であ るなら、なおさら神に願うあなたがたの祈り は聞かれる、とイエス様は仰いたい。大事な視点はたとえの中の友人と神様は同じではないということです。たとえ の中の友人は、友達だからということでは行 動してくれない友人です。しかし神は違います。ですから神は私たちが祈る祈りにもっと速やかに、喜んで、確実に 答えて下さる!粘らなければ神様も聞いて下 さらない、というメッセージは、イエス様が全く伝えようとはしていなかったものです。
そのことは9~10節の言葉からも分かります。まず9節:「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そう すれば与えられます。捜しなさい。そうすれ ば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」 もしイエス様が執拗に祈ることの大切さを教えようと されたら、9節はこう語る方が良かったはず です。「求めなさい。捜しなさい。たたきなさい。そうすれば与えられます。」 つまり、ただ求めるだけでは不十 分で、さらに捜し、さらにたたかなければな らない。そうしたプロセスを経てこそ、祝福は与えられる、と。しかしそうなってはいません。求めれば与えられ る。捜せば見つかる。たたけば開かれる。10 節も同じです。もし「だれであっても求め、捜し、たたく者は受けます。」とあるなら、第一段階を突破し、第二段 階も突破し、第三段階にまで到達するような 執拗な祈りであってこそ祝福を受けるというメッセージになりますが、そうなっていません。求める者は受ける。捜 す者は見つける。たたく者には開かれる。私 たちはこのように約束下さっている神を仰ぎ、大きな希望を抱いて、大胆に神の前に出て祈るべきなのです。
私たちの祈りを振り返ってどうでしょうか。もし私たちの祈りが、このような積極的なものになっていないとすれ ば、その理由の一つは、私たちがここに示され ているようには神様を仰いでいないからではないでしょうか。私たちは時に自分の祈りは空しく空中に消えて行くだ けだと思っている。神様に届いていないと感 じている。しかしそうではないのです。イエス様が今日の箇所で言っていることは、友達としては行動してくれない この人でも、こうやって願いを聞くなら、ま してや神は大胆に近づく私たちの祈りを喜んで聞いて下さるということです。この神の姿を正しく仰ぐなら、私たち は祈ることへ励まされることでしょう。神は 喜んで答えて下さる神です。祈るなら、待っていたとばかりに恵んで下さる神なのです。
しかし、ある人は9~10節の御言葉は本当だろうかと問うかもしれません。祈っても聞かれないことがたくさん私 にはある、と。しかしここで今日の御言葉は 主の祈りに続けて語られた言葉であることを思い起こすことが必要だと思います。この約束は、私たちがどんな祈り をしても、――自分の好き勝手なお祈りをし ても、――自動的にみな聞かれるということを言っているものではありません。これは主の祈りを祈る人に与えられ ている約束です。私たちは主の祈りを通し て、あるべき祈りのモデルについて学びました。その特徴は何と言っても、神中心の祈りであるということでした。 神への感謝と賛美に満ち溢れて、まず第一に 神の御栄えを求める祈り、そのもとで私たちの必要を求める祈り、です。このような祈りが聞かれるとイエス様は 言っているのです。逆に言えば、主の祈りに 沿っていない祈りについては、イエス様は何の約束もしていないし、保証もしていない。
ですから、私たちは祈る時、常に主の祈りを思い起こし、これに倣って祈るように努めることが大事だと思います。 具体的には、ある祈りたいことがあった場 合、まず主の祈りを祈ることから始めてみる。その一つ一つを口に出して祈り、自分が祈ろうと思っていたことは、 この主の祈りの光に照らしてどうなのか、確 かめ、考えながら祈る。すると私たちが祈ろうと思っていた願いは、自分勝手なものであることに気が付くかもしれ ません。神様そっちのけで単に自分の肉的な 満たしを求めるレベルのものであったことに気づくかも知れません。あるいは神の栄光を第一に求めるという基本線 のもとで、自分が願っていたことはそれほど 重要な事柄ではないと教えられるかもしれません。もっと優先して祈るべきことが他にあると気づかされるかもしれ ません。そうして私たちの祈りは修正される かもしれません。こうした主の祈りに沿う祈り、すなわち御心にかなう祈りについて、イエス様は9~10節の約束 をしているのです。
さらに、イエス様は私たちの祈りを励ますために11~13節のことを語ります。ここで子どもが魚を下さいと言う のに蛇を与える父親がいるか、また卵を下さ いと言うのに誰がさそりを与えるか、とあります。このペアについてある人は向こうの地域ではヘビに似た細長い魚 があったとか、サソリは丸まると卵に似る、 などと説明します。他の人は、外観が似ているかどうかは特に関係はなく、パレスチナ地方では子どもにとって蛇と さそりが最も危険なものだったから、こう言 われているだけだと言います。いずれであれ、親は子に良いものだけを与えます。13節にあるように「悪い者では あっても」と言われている私たちでも、自分 の子には良いものを与えることを知っている。とするなら、ましてや天の父はなおさら良いものだけを与えるのでは ないか、とイエス様は言われます。ここから も私たちはなぜ神は時々、私たちの祈りをかなえて下さらないのかを知ることができます。人間の親も子にできるだ け、子が望むものを与えようとします。しか しそれは子どもの言いなるになるということではありません。もし子が求めても、それがふさわしくないと考えた り、今がその時でないと考えれば「ダメ」と言 いますし、我慢させます。それは子を愛しているからです。ましてや神はそうです。神は良いものだけを与え、そう でないものは与えないのです。
では、その天の父が与えて下さる良いものとは何でしょうか。それがここでは「聖霊」と言われています。これはす べての祝福を包含する祝福です。たとえば旧 約聖書ヨエル書で「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年 は幻を見、老人は夢を見る。」と預言されて いたように、聖霊が与えられる祝福は旧約時代がずっと待ち望んだ祝福であり、天国を先取りする祝福、また天国に つながる祝福です。そしてこの聖霊の祝福は 特に御子が地上に現れたことと密接に関連します。ですから次のように言ったら良いかもしれません。
天の父は聖霊を与えて下さるとここで言われていますが、まず天の父は私たちに御子を与えて下さいました。ここに 神の私たちに対する態度が明らかに示されて います。ローマ8章32節:「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうし て、御子といっしょにすべてのものを、私たち に恵んでくださらないことがありましょう。」 私たちはこの御言葉を握っているだけで十分です。神は御子を与え て下さったお方として、御子と共にすべての ものを私たちに与えて下さいます。しかしその御子が勝ち取った祝福を私たちに与える具体的方法は、聖霊によって というのが聖書の教えです。2000年前の イエス・キリストのみわざがどうして今日の私たちに益をもたらせるのかと言うと、それは聖霊によって、というの が聖書の教えです。聖霊がキリストという汲 めども尽きない恵みの泉から恵みを汲み出して、私たちに当てはめて下さいます。この聖霊によって、霊的に死んで いた私たちは命ある者とされ、信仰告白でき る者とされ、キリストに結ばれ、義認の恵み、聖化の恵み、栄化の恵みを受けます。この聖霊によって私たちは日々 の戦いに勝利する力を与えられ、神の国のた めに奉仕する力も注がれます。この聖霊によって私たちは地上にある歩みを最後まで守られ、必ず天国に到達するよ うに導かれます。従ってこの聖霊を頂くとい うことは、キリストが勝ち取った祝福に存分にあずかる者となることであり、これ以上に素晴らしい祝福を聖書は他 に知らないのです。これこそ、私たちを真に 生かし、満たす、神からのこれ以上ない豊かな祝福なのです。
私たちはこのような私たちの父なる神を見上げて祈っているでしょうか。このクリスマスの時、神はご自身の尊い一 人子さえも惜しまずに私たちに与え下さった ことによって、私たちに対する愛を、疑う余地のないほどに証しして下さっています。そして神は求める者に聖霊を 送り、キリストが勝ち取った祝福に私たちを 最大限、豊かにあずからせて下さいます。私たちはこの神に信頼の目を上げ、主の祈りに沿って大胆に祈る生活をし て行きたい。イエス様は「求める者は受け る」と言われました。私たちはこのクリスマスにはっきりと私たちへの愛を示しておられる神に、心からの感謝と賛 美と愛を告白して大胆に祈り、聖霊を頂い て、神が一人一人に定めておられる地上の人生を、イエス様と同じように上からの力で生き抜き、神の栄光を現わす 歩みへと導かれて行きたく思います。