ルカの福音書 11:14-28
もっと強い者
イエス様の地上における福音宣教の働きは、大きく分けて二つの要素からなっていました。一つは言葉によって神の 国を宣べ伝えること。そしてもう一つは悪霊 を追い出し、病気を直すことです。今日の箇所ではその二つ目の癒しのみわざをどう解釈すべきかについての人々と のやり取りが記されています。
まずここでなされたみわざは口をきけなくする悪霊の追い出しです。イエス様によって悪霊が追い出されると、口の きけなかった人がものを言い始めました。こ れはメシヤが現れた時の祝福として、旧約時代から預言されていたことです。イザヤ書35章6節:「そのとき、足 のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけ ない者の舌は喜び歌う。」 しかしこのみわざを見ても、認めようとしない人たちがいました。二つの反応がここに 記されています。一つは15節にありますよ うに「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」と見る人々です。もう一つは16 節にあるように「イエスをためそうとして、 彼に天からのしるしを求める」人たちです。一つ目の反応は明らかに敵対的な態度です。とにかくイエス様を否定 し、イエス様に反対する態度を取りたい。二つ 目の反応はそこまでは敵対していないようだけれども、結局はイエス様を拒否する態度です。もっとすごい奇跡を見 せてくれなければ信じないと条件を付けて、 今自分たちがイエス様を信じないことの言い訳を作っている。つまりイエス様に抵抗し、従う歩みを延期しようとし ている。
そんな彼らにイエス様は答えます。17~18節:「しかし、イエスは、彼らの心を見抜いて言われた。『どんな国 でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にして も、内輪で争えばつぶれます。サタンも、もし仲間割れしたのだったら、どうしてサタンの国が立ち行くことができ ましょう。それなのにあなたがたは、わたし がベルゼブルによって悪霊どもを追い出していると言います。』」 もしイエス様が悪霊のかしらベルゼブルによっ て悪霊どもを追い出しているなら、悪霊が悪 霊を追い出したことになり、悪霊の世界で内輪もめが起こっていることになります。せっかくある悪霊がある人を虜 にして苦しめているのに、もっと強い悪霊が やって来て、その人を救うようなことをしたら、支離滅裂なことをしていることになってしまう。
もう一つ言われたのは19節:「もしもわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたが たの仲間は、だれによって追い出すのです か。だから、あなたがたの仲間が、あなたがたをさばく人となるのです。」 この福音書の続編である使徒の働き 19章に、諸国を巡回しているユダヤ人の魔よ け祈祷師が出て来ます。おそらくそれと同じような人たちがイエス様の時代にもいて、その祈祷師たちとここにいた ユダヤ人は親しい関係にあったのでしょう。 そこでイエス様は言うわけです。もしも悪霊を追い出しているわたしのわざを見て、悪霊のかしらベルゼブルによる と言うなら、あなたがたの仲間も同じことを していることになるのではないか。とするとあなたがたは自分たちの仲間に悪口を言っていることになり、そのあな たがたの仲間によってあなたがた自身がさば かれることになるのではないか、と。
では、イエス様による悪霊追い出しのみわざは何を現わしているのでしょうか。20~22節:「しかし、わたし が、神の指によって悪霊どもを追い出している のなら、神の国はあなたがたに来ているのです。強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち 物は安全です。しかし、もっと強い者が襲っ て来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。」 イエス様の悪霊追い出しのみわ ざが示していること、それは一言で言えば 「神の国はあなたがたに来ている!」ということです。神の国とは、「神の恵みのご支配」のことです。聖書が述べ ていることは、神はこの世界と人間を良いも のとして造られましたが、最初の人間アダムとエバが神よりも悪魔の言葉を信じて従った結果、人間と世界は悪魔の 支配下にあるものとなったということです。 そのために私たちの生活には嘆きがあり、苦しみがあり、叫びがあり、あらゆる災いがあります。しかし福音書が語 る喜ばしい知らせ、グッド・ニュースは、約 束の救い主イエス様は、私たちを悪魔の支配から解き放ち、神の恵みの支配に生かすという神の国の祝福を携えて私 たちのところに来て下さったということで す。なぜイエス様はそれを私たちにもたらせるのか。それはイエス様は十字架と復活のみわざをもって、信じる者の 罪を全部その身に引き受け、信じる者たちを その呪いから解き放ってくださるからです。そうしてサタンの支配下で生きていた私たちの上に、本来の神の豊かな 祝福をもたらし、そこに生かして下さる。
それを分かりやすいたとえで言い換えたのが21~22節です。21節の「強い人」とは悪霊またはサタンを指しま す。これまでは悪霊またはサタンがある人の 上に支配権を持っていました。しかしそこへ22節で「もっと強い者」がやって来ます。これはイエス・キリストの ことです。その方がサタンに打ち勝って、そ の人を悪魔の手から奪い返す。それによってここで口のきけない人は口のきける状態に変えられたのです。その人を 取り巻く支配が変わったのです。その出来事 は悪霊の支配下から、神の恵みの支配へとその人が移されたことの目に見えるしるしになっているのです。もちろん 神の恵みのご支配がもたらす幸いは、やがて の天国において究極的に実現します。しかしイエス様と共に神の国はこの地上に臨み始めました。「もっと強い者」 であるイエス様が来て下さり、悪魔の虜にさ れていた人々を神の恵みの中へと解放するわざを始めて下さっているのです。
こういうイエス様を前にして私たちが取る態度には二つしかないというのが23節です。すなわちイエス様の味方で あるのかそうでないのか、イエス様と共に集 める者なのかそうでないのか。その間の中立状態はない。イエス様に従っていないけれども、反対もしていないか ら、私は積極的に反対している人よりましであ るということは言えない。イエス様に積極的について行かない人は、実質イエス様に逆らう者だということです。そ のことをさらに明らかにするたとえが 24~26節にあります。ここに私たちの肉の目には見えない世界の霊的な現実が示されています。ここに示されて いることは、悪霊は私たちの中に入ったり、 出て行ったり、また戻って来たりするということです。悪霊はある意味で落ち着きがなく、住むための家を求めてさ まよい歩く。そして特に人の中に住む。その 悪霊は他から強制されることなく、自分からその人から出て行くことがあります。そうするとその人は以前よりも楽 になるでしょう。日常生活の中でそれまでの 辛い状態から解放され、肉体的にも精神的にも環境的にも以前より上向いた感じを持つかもしれません。しかしより 強い存在をそこに迎え入れないとどうなる か。その家が空いたままで、誰も住んでいないと、汚れた霊はまた時間をおいて戻って来る。しかも今度は自分より も悪い他の7つの霊を連れて。そうしたらそ の人の状態は前よりもっと悪くなるのは明らかです。その人は一層悪霊の力の下で、餌食になってしまいます。いか に自分では中立だと思っている状態が危険な 状態であるかをこのことは示しています。たとえ私たちが一時の苦しみから解放されても、ただそれを喜んでいるだ けであってはならないのです。私たちにとっ て大切なことは、もっと強いお方に、私たちを支配して頂くことです。イエス様こそを私の主、私の救い主として受 け入れ、内に住んで頂く。そこに私たちの霊 肉両面に渡る真の解放があり、救いがあり、やがての天国での生活へとつながる神の国の祝福に今ここにある時から 包まれ、生かされる生活があるのです。
最後の27~28節も同じメッセージを強調しています。群衆の中で一人の女の人が声を張り上げてイエス様に言い ました。「あなたを産んだ腹、あなたが吸っ た乳房は幸いです。」 これに対してイエス様は言われました。「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守 る人たちです。」 イエス様はここで、イエ ス様の母となられたマリヤの幸いを否定しているわけではありません。マリヤは1章48節のマリヤの賛歌の中で 「ほんとうに、これから後、どの時代の人々 も、わたしを幸せ者と思うでしょう。」と語りました。しかしイエス様はそれに勝る本当の幸いについてここで語ら れました。その幸いな人たちとは「神のこと ばを聞いてそれを守る人たち」です。これは強い方であるイエス様に私たちの内に住んで頂くための方法を語ってい るものと言えます。もしイエス様に私たちを 支配して頂く生活を願うならば、私たちに必要なことは何と言っても神のことばに聞くことです。この御言葉に耳を 傾けることなしに、神の国に生きることはで きません。御言葉においてこそ、イエス様と神の国の祝福は私たちに差し出されています。そして御言葉をただ聞く だけではなく、これを守ることが大切です。 ここで「守る」と訳されている言葉は、「従う」とか「実行する」などと訳される言葉とは違います。これは「見張 りをする」とか「監視する」という意味の言 葉です。同じ言葉は21節の「守る」というところでも使われていました。ですからこの28節が語っていること は、御言葉を聞き、それがしっかりと自分の家 にとどまっているようにと見張っていること、サタンに付け入るすきを与えないように隅々にまで御言葉を行き渡ら せること、そしてその御言葉を大切にして、 そのみことばに生き抜くように注意していること。そういうニュアンスです。
新しい年が今日から始まりました。今日の御言葉によれば、この年も私たちは霊的な戦いのただ中で生きて行くこと になります。私たちはそのただ中で、どんな 方に私たちの内に住んで頂くのでしょうか。今日の御言葉が教えてくれることは、イエス様の前に中立という状態は ないということです。その選択を放置して、 自分という家を空っぽにしておくことはとても危険であるということです。しかしこの一年を歩むに当たって、私た ちが改めて覚えるグッド・ニュースは、神の 国がイエス様と共にこの世界に現実に到来しているということ。神が与えて下さったこの救い主に私たちの心に住ん で頂き、私たちの家の主人となって頂くな ら、怖いことは何もない。そこには悪の支配からの解放があり、天国で究極的に実現する救いの先取りがあり、やが ての御国につながって行く祝福の歩みがあり ます。ですから私たちはイエス様に敵対することなく、また様々な言い訳をしてこの方に従って行くことを延ばし延 ばしにせず、この方にこそ私たちの望みを置 いて、そのみことばに聞き、そのみことばに私の生活全体が導かれる歩みをして行きたい。そうするならサタンの力 が私という家に入って来ること、それに支配 されることから守られることができます。もっと強いお方であるイエス様が私たちの歩みを支配して下さいます。こ の一年、私たちの行く先には見えないことが たくさんありますが、この方によって私たちは天国へとつながる、主が勝ち取って下さった神の国の祝福に生きると いう一年を期待し、確信して、主に従い、主 に導かれて歩むことができるのです。
イエス様の地上における福音宣教の働きは、大きく分けて二つの要素からなっていました。一つは言葉によって神の 国を宣べ伝えること。そしてもう一つは悪霊 を追い出し、病気を直すことです。今日の箇所ではその二つ目の癒しのみわざをどう解釈すべきかについての人々と のやり取りが記されています。
まずここでなされたみわざは口をきけなくする悪霊の追い出しです。イエス様によって悪霊が追い出されると、口の きけなかった人がものを言い始めました。こ れはメシヤが現れた時の祝福として、旧約時代から預言されていたことです。イザヤ書35章6節:「そのとき、足 のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけ ない者の舌は喜び歌う。」 しかしこのみわざを見ても、認めようとしない人たちがいました。二つの反応がここに 記されています。一つは15節にありますよ うに「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」と見る人々です。もう一つは16 節にあるように「イエスをためそうとして、 彼に天からのしるしを求める」人たちです。一つ目の反応は明らかに敵対的な態度です。とにかくイエス様を否定 し、イエス様に反対する態度を取りたい。二つ 目の反応はそこまでは敵対していないようだけれども、結局はイエス様を拒否する態度です。もっとすごい奇跡を見 せてくれなければ信じないと条件を付けて、 今自分たちがイエス様を信じないことの言い訳を作っている。つまりイエス様に抵抗し、従う歩みを延期しようとし ている。
そんな彼らにイエス様は答えます。17~18節:「しかし、イエスは、彼らの心を見抜いて言われた。『どんな国 でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にして も、内輪で争えばつぶれます。サタンも、もし仲間割れしたのだったら、どうしてサタンの国が立ち行くことができ ましょう。それなのにあなたがたは、わたし がベルゼブルによって悪霊どもを追い出していると言います。』」 もしイエス様が悪霊のかしらベルゼブルによっ て悪霊どもを追い出しているなら、悪霊が悪 霊を追い出したことになり、悪霊の世界で内輪もめが起こっていることになります。せっかくある悪霊がある人を虜 にして苦しめているのに、もっと強い悪霊が やって来て、その人を救うようなことをしたら、支離滅裂なことをしていることになってしまう。
もう一つ言われたのは19節:「もしもわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたが たの仲間は、だれによって追い出すのです か。だから、あなたがたの仲間が、あなたがたをさばく人となるのです。」 この福音書の続編である使徒の働き 19章に、諸国を巡回しているユダヤ人の魔よ け祈祷師が出て来ます。おそらくそれと同じような人たちがイエス様の時代にもいて、その祈祷師たちとここにいた ユダヤ人は親しい関係にあったのでしょう。 そこでイエス様は言うわけです。もしも悪霊を追い出しているわたしのわざを見て、悪霊のかしらベルゼブルによる と言うなら、あなたがたの仲間も同じことを していることになるのではないか。とするとあなたがたは自分たちの仲間に悪口を言っていることになり、そのあな たがたの仲間によってあなたがた自身がさば かれることになるのではないか、と。
では、イエス様による悪霊追い出しのみわざは何を現わしているのでしょうか。20~22節:「しかし、わたし が、神の指によって悪霊どもを追い出している のなら、神の国はあなたがたに来ているのです。強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち 物は安全です。しかし、もっと強い者が襲っ て来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。」 イエス様の悪霊追い出しのみわ ざが示していること、それは一言で言えば 「神の国はあなたがたに来ている!」ということです。神の国とは、「神の恵みのご支配」のことです。聖書が述べ ていることは、神はこの世界と人間を良いも のとして造られましたが、最初の人間アダムとエバが神よりも悪魔の言葉を信じて従った結果、人間と世界は悪魔の 支配下にあるものとなったということです。 そのために私たちの生活には嘆きがあり、苦しみがあり、叫びがあり、あらゆる災いがあります。しかし福音書が語 る喜ばしい知らせ、グッド・ニュースは、約 束の救い主イエス様は、私たちを悪魔の支配から解き放ち、神の恵みの支配に生かすという神の国の祝福を携えて私 たちのところに来て下さったということで す。なぜイエス様はそれを私たちにもたらせるのか。それはイエス様は十字架と復活のみわざをもって、信じる者の 罪を全部その身に引き受け、信じる者たちを その呪いから解き放ってくださるからです。そうしてサタンの支配下で生きていた私たちの上に、本来の神の豊かな 祝福をもたらし、そこに生かして下さる。
それを分かりやすいたとえで言い換えたのが21~22節です。21節の「強い人」とは悪霊またはサタンを指しま す。これまでは悪霊またはサタンがある人の 上に支配権を持っていました。しかしそこへ22節で「もっと強い者」がやって来ます。これはイエス・キリストの ことです。その方がサタンに打ち勝って、そ の人を悪魔の手から奪い返す。それによってここで口のきけない人は口のきける状態に変えられたのです。その人を 取り巻く支配が変わったのです。その出来事 は悪霊の支配下から、神の恵みの支配へとその人が移されたことの目に見えるしるしになっているのです。もちろん 神の恵みのご支配がもたらす幸いは、やがて の天国において究極的に実現します。しかしイエス様と共に神の国はこの地上に臨み始めました。「もっと強い者」 であるイエス様が来て下さり、悪魔の虜にさ れていた人々を神の恵みの中へと解放するわざを始めて下さっているのです。
こういうイエス様を前にして私たちが取る態度には二つしかないというのが23節です。すなわちイエス様の味方で あるのかそうでないのか、イエス様と共に集 める者なのかそうでないのか。その間の中立状態はない。イエス様に従っていないけれども、反対もしていないか ら、私は積極的に反対している人よりましであ るということは言えない。イエス様に積極的について行かない人は、実質イエス様に逆らう者だということです。そ のことをさらに明らかにするたとえが 24~26節にあります。ここに私たちの肉の目には見えない世界の霊的な現実が示されています。ここに示されて いることは、悪霊は私たちの中に入ったり、 出て行ったり、また戻って来たりするということです。悪霊はある意味で落ち着きがなく、住むための家を求めてさ まよい歩く。そして特に人の中に住む。その 悪霊は他から強制されることなく、自分からその人から出て行くことがあります。そうするとその人は以前よりも楽 になるでしょう。日常生活の中でそれまでの 辛い状態から解放され、肉体的にも精神的にも環境的にも以前より上向いた感じを持つかもしれません。しかしより 強い存在をそこに迎え入れないとどうなる か。その家が空いたままで、誰も住んでいないと、汚れた霊はまた時間をおいて戻って来る。しかも今度は自分より も悪い他の7つの霊を連れて。そうしたらそ の人の状態は前よりもっと悪くなるのは明らかです。その人は一層悪霊の力の下で、餌食になってしまいます。いか に自分では中立だと思っている状態が危険な 状態であるかをこのことは示しています。たとえ私たちが一時の苦しみから解放されても、ただそれを喜んでいるだ けであってはならないのです。私たちにとっ て大切なことは、もっと強いお方に、私たちを支配して頂くことです。イエス様こそを私の主、私の救い主として受 け入れ、内に住んで頂く。そこに私たちの霊 肉両面に渡る真の解放があり、救いがあり、やがての天国での生活へとつながる神の国の祝福に今ここにある時から 包まれ、生かされる生活があるのです。
最後の27~28節も同じメッセージを強調しています。群衆の中で一人の女の人が声を張り上げてイエス様に言い ました。「あなたを産んだ腹、あなたが吸っ た乳房は幸いです。」 これに対してイエス様は言われました。「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守 る人たちです。」 イエス様はここで、イエ ス様の母となられたマリヤの幸いを否定しているわけではありません。マリヤは1章48節のマリヤの賛歌の中で 「ほんとうに、これから後、どの時代の人々 も、わたしを幸せ者と思うでしょう。」と語りました。しかしイエス様はそれに勝る本当の幸いについてここで語ら れました。その幸いな人たちとは「神のこと ばを聞いてそれを守る人たち」です。これは強い方であるイエス様に私たちの内に住んで頂くための方法を語ってい るものと言えます。もしイエス様に私たちを 支配して頂く生活を願うならば、私たちに必要なことは何と言っても神のことばに聞くことです。この御言葉に耳を 傾けることなしに、神の国に生きることはで きません。御言葉においてこそ、イエス様と神の国の祝福は私たちに差し出されています。そして御言葉をただ聞く だけではなく、これを守ることが大切です。 ここで「守る」と訳されている言葉は、「従う」とか「実行する」などと訳される言葉とは違います。これは「見張 りをする」とか「監視する」という意味の言 葉です。同じ言葉は21節の「守る」というところでも使われていました。ですからこの28節が語っていること は、御言葉を聞き、それがしっかりと自分の家 にとどまっているようにと見張っていること、サタンに付け入るすきを与えないように隅々にまで御言葉を行き渡ら せること、そしてその御言葉を大切にして、 そのみことばに生き抜くように注意していること。そういうニュアンスです。
新しい年が今日から始まりました。今日の御言葉によれば、この年も私たちは霊的な戦いのただ中で生きて行くこと になります。私たちはそのただ中で、どんな 方に私たちの内に住んで頂くのでしょうか。今日の御言葉が教えてくれることは、イエス様の前に中立という状態は ないということです。その選択を放置して、 自分という家を空っぽにしておくことはとても危険であるということです。しかしこの一年を歩むに当たって、私た ちが改めて覚えるグッド・ニュースは、神の 国がイエス様と共にこの世界に現実に到来しているということ。神が与えて下さったこの救い主に私たちの心に住ん で頂き、私たちの家の主人となって頂くな ら、怖いことは何もない。そこには悪の支配からの解放があり、天国で究極的に実現する救いの先取りがあり、やが ての御国につながって行く祝福の歩みがあり ます。ですから私たちはイエス様に敵対することなく、また様々な言い訳をしてこの方に従って行くことを延ばし延 ばしにせず、この方にこそ私たちの望みを置 いて、そのみことばに聞き、そのみことばに私の生活全体が導かれる歩みをして行きたい。そうするならサタンの力 が私という家に入って来ること、それに支配 されることから守られることができます。もっと強いお方であるイエス様が私たちの歩みを支配して下さいます。こ の一年、私たちの行く先には見えないことが たくさんありますが、この方によって私たちは天国へとつながる、主が勝ち取って下さった神の国の祝福に生きると いう一年を期待し、確信して、主に従い、主 に導かれて歩むことができるのです。