ルカの福音書 11:9-36
あなたのうちの光
前回の16節に「また、イエスをためそうとして、彼に天からのしるしを求める者もいた。」とあります。「しる し」という部分にはアスタリスクが付いてい て、欄外を見ると「証拠としての奇跡」とあります。すなわちある人々はイエス様にさらなる奇跡を要求した。口の きけない人から悪霊を追い出すみわざを目の 前で見たのに、彼らはイエス様を信じるには、もっと偉大な、天的スケールの奇跡をやって見せてくれ、と要求した のです。しかしイエス様は今日の箇所でそれ を受け入れておられません。29節でイエス様は、しるしを求めるこの時代は「悪い時代だ」と仰っています。それ は正しい要求ではないので、イエス様は答え られないのです。
なぜしるしを求める態度は悪いのでしょうか。それは一言で言えば、イエス様はすでに信じるために必要なしるしを 十分示しておられるからです。口をきけなく する悪霊の追い出しもそうでしたが、すでに示されているしるしを受け止めず、もっと別のしるしを!と求める態度 は気ままな要求でしかありません。そんなこ とでは、たとえ他の奇跡をやって見せても、さらにまた違う奇跡を!と要求することでしょう。ですから問題はしる しが少ないこと、証拠としての奇跡が足りな いことにあるのではなく、それを信じようとしない彼らの心にあるのです。問題はイエス様の側にではなく、しるし を求める彼らの側にあるのです。
しかし、イエス様は29節で一つのしるしは与えられる、と言っています。それは「ヨナのしるし」です。ヨナに関 するエピソードとして、すぐ私たちの頭に思 い浮かぶのは、何と言っても彼が三日三晩、大魚の腹の中にいたことです。そのことはマタイの福音書の並行記事か らも確認できます。マタイ12章39節に、 今日の箇所と同じように「だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」というイエス様のお言 葉に続いて、「ヨナは三日三晩大魚の腹の中 にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。」とあります。つまりイエス様はここで、ご自 身が十字架で死に、地に葬られた後、三日目 に復活するみわざについて言及されたのです。それは確かに特別な意味を持つしるしです。もちろんそれに接して も、信じない人はなお信じないと言うでしょ う。しかしイエス様はやがて復活のみわざが起こることを、このようにここで触れられたのです。
本題に戻り、イエス様は問題は証拠が足りないことにあるのではなく、示されているしるしを受け入れない彼らの不 信仰にあることを明らかにされます。そのた めに31節と32節で旧約の二つの出来事を引用します。まず一つ目は南の女王、すなわち第一列王記10章に出て 来るシェバの女王のソロモン訪問の出来事で す。彼女はソロモンの名声を伝え聞いて、それが果たして本当かどうか難問をもってためそうとして、遠い南の地か らやって来ます。そしてソロモン王の知恵と 栄華と、そこで仕えている人たちの態度などを見て、息も止まるばかりに驚いたと記されています。彼女はそのソロ モンの知恵に聞くために、地の果てから、多 くの労力と財産をささげてやって来ました。しかし今ここにはそのソロモンにはるかに勝る王がいます!ソロモンは イスラエルの領土が最も拡大した時期の王で すが、イエス様は全世界を治める王の王です。またソロモンは知恵において卓越していましたが、イエス様はソロモ ンとは比べ物にならない知恵と力に満ちてい る方です。コロサイ書2章3節:「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」そう いうイエス様が目の前にいるのに、この方を 信じず、受け入れようとしないのを見たら、南の女王は何と言うか。「あなたがたはソロモン以上に素晴らしいお方 が目の前にいることが分からないのか。私は ソロモンに聞くためにわざわざ地の果てから出かけたが、あなたがたはその必要もない恵みの中にある。なのに目の 前のお方をそのように扱うとは、何という恩 知らずで、また無知な者たちであるか。」 そのようにあなたがたをかの日にさばくであろう、とイエス様は仰る。 彼らユダヤ人たちは異邦人からさばかれると いうまさかの逆転劇が生じるのです。
もう一つは32節のニネベの人々です。彼らはヨナの説教を聞いて、すぐ悔い改めました。そして神が下そうと思っ ておられたわざわいから救われました。しか しここに預言者ヨナよりもはるかに素晴らしい福音を伝えるまことの預言者がおられます。そのお方のメッセージを 受け入れず、悔い改めないなら、ニネベの人 たちは何と言うか。彼らも「あなたがたは一体どなたがあなたがたの前にいるのか、見えていないのか。私たちはヨ ナのメッセージに対してあのように応答した が、あなたがたは真理そのものであるお方を前にしているのにそんな態度を取るとは全く理解できない。何と言う忘 恩無知な姿か!」 そう言ってあなたがたを やがての日にさばくであろう、とイエス様は仰る。見る目を持っているにははっきり分かるのです。ですから問題は イエス様の側にあるのではなく、ユダヤ人の 目が開いていないこと、その心が邪悪で、目が閉じていることにあるのです。
さて、こう述べてイエス様は今日の箇所の中心メッセージをまとめるようにして33節から語られます。まず33 節:「だれも、あかりをつけてから、それを穴 倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。入って来る人々に、その光が見えるためです。」 ここで 言われている「あかり」とはイエス様のこと です。イエス様は決してご自身を隠してはおられません。光は輝いています。ですから問題は光の方にではなく、そ れを受け止める側にあるのです。それが34 節:「からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだ も暗くなります。」 ここで目は光を内側に 取り込む器官として考えられています。目が健全な状態なら、その目から光が体の中に入りこみ、体全体が益を受け ます。すなわち目が光を取り込むことによっ て、心も明るくなりますし、頭の中も明るくなりますし、手や足を自由に、適切に動かすことができます。しかし目 が悪いとどうでしょうか。せっかく光がそこ にあっても、光を取り込めないので、暗やみにいるのと同じになってしまいます。すなわちどのように手や足を動か したら良いのか分からず、心の中も暗い状態 になってしまう。ここで大事な点は、光はきちんと輝いているということです。光はあるのに、目が悪いため、その 人はそれを生かせていない。ですからイエス 様は言われます。35節:「だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。」 これは まことの光であるイエス様を見つめて、その お方から受ける光をあなたの内に豊かに持ちなさい!ということです。聖書の様々な箇所が述べていることは、イエ ス様こそまことの光なるお方であるというこ とです。ヨハネ1章9節:「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」 同8章12節:「わ たしは、世の光です。わたしに従う者は、決 してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」 確かにイエス様がこの世に来てくださらなければ、 私たちは「やみ」の中にいるような者たちで した。そのやみとは、私たちの造り主であり、いのちの源なる神から切り離された「闇」であり、人生の意味も目的 も見失っている「闇」です。またそれは自分 自身の罪の「闇」であり、この世で味わう様々な苦しみや悲惨の「闇」であり、最後には必ずさばかれ、滅びに至ら ざるを得ないことを予感し、確信する「闇」 です。しかしそんな私たちはまことの光なるイエス様を受け入れることによって、神との生ける交わりを回復しま す。ヨハネ17章3節:「その永遠のいのちと は、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」 そして 人生の意味と目的を再発見します。また日々 新しいいのちと力を注いで頂くという光の中の歩みへ導かれます。そして行く先には栄光の御国が待っているという 益々輝きが増す希望の光に生きることができ ます。
果たして私たちの内に、この光は輝いているでしょうか。「あなたのうちの光」が今にも消えそうな状態になってい る、ということはないでしょうか。そうなら ないために必要なことは、まことの光イエス様を見ることです。イエス様を拒むのではなく、この方に信仰の目を上 げる。そうするなら、私たちは光をたくさん 心に注いで頂き、あなたの全身が明るいという状態にまで導いて頂けるのです。
さらに36節:「もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あ なたを照らすときのように明るく輝きま す。」 私たちがイエス様の光をうちに頂き、その全身が明るいという者にして頂くなら、私たちは自分自身が光の 中を歩むだけではなく、周りの人々をも照ら す者になるのです。闇の中でなおさまよって歩いている人々の光となって、まことの光であるイエス様を指し示し、 イエス様へと導く存在になれるのです。
私たちのうちの光は、今、どうでしょうか。イエス様は「だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、 気をつけなさい。」と言われました。そうな らないために必要なことは、イエス様を見つめる生活をすることです。私たちはもともと霊的に健康な目を持ってい ない者ですが、聖霊が私たちの内に住んで下 さるなら、聖霊は私たちの目を癒して、イエス様をはっきり見ることができるように助けて下さいます。11章13 節で、天の父は求める者たちにどうして聖霊 を下さらないことがありましょうか、と言われました。私たちがイエス様を求めて、天の父に願い出るなら、神は私 たちに聖霊を与えて下さいます。私たちはこ の聖霊の助けを頂いて、イエス様をあるがままに見つめ、今この地上にある時から、光を内に豊かに頂き、あなたの 全身が明るくて何の暗い部分もないという状 態にして頂くことができるのです。その光をもって周りの人々を照らし、暗き中にある人々にまことの光を指し示 し、私たちの唯一の希望であるイエス様へとそ の人を導く光栄ある働きをなす者として用いられて行くことができるのです。
前回の16節に「また、イエスをためそうとして、彼に天からのしるしを求める者もいた。」とあります。「しる し」という部分にはアスタリスクが付いてい て、欄外を見ると「証拠としての奇跡」とあります。すなわちある人々はイエス様にさらなる奇跡を要求した。口の きけない人から悪霊を追い出すみわざを目の 前で見たのに、彼らはイエス様を信じるには、もっと偉大な、天的スケールの奇跡をやって見せてくれ、と要求した のです。しかしイエス様は今日の箇所でそれ を受け入れておられません。29節でイエス様は、しるしを求めるこの時代は「悪い時代だ」と仰っています。それ は正しい要求ではないので、イエス様は答え られないのです。
なぜしるしを求める態度は悪いのでしょうか。それは一言で言えば、イエス様はすでに信じるために必要なしるしを 十分示しておられるからです。口をきけなく する悪霊の追い出しもそうでしたが、すでに示されているしるしを受け止めず、もっと別のしるしを!と求める態度 は気ままな要求でしかありません。そんなこ とでは、たとえ他の奇跡をやって見せても、さらにまた違う奇跡を!と要求することでしょう。ですから問題はしる しが少ないこと、証拠としての奇跡が足りな いことにあるのではなく、それを信じようとしない彼らの心にあるのです。問題はイエス様の側にではなく、しるし を求める彼らの側にあるのです。
しかし、イエス様は29節で一つのしるしは与えられる、と言っています。それは「ヨナのしるし」です。ヨナに関 するエピソードとして、すぐ私たちの頭に思 い浮かぶのは、何と言っても彼が三日三晩、大魚の腹の中にいたことです。そのことはマタイの福音書の並行記事か らも確認できます。マタイ12章39節に、 今日の箇所と同じように「だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」というイエス様のお言 葉に続いて、「ヨナは三日三晩大魚の腹の中 にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。」とあります。つまりイエス様はここで、ご自 身が十字架で死に、地に葬られた後、三日目 に復活するみわざについて言及されたのです。それは確かに特別な意味を持つしるしです。もちろんそれに接して も、信じない人はなお信じないと言うでしょ う。しかしイエス様はやがて復活のみわざが起こることを、このようにここで触れられたのです。
本題に戻り、イエス様は問題は証拠が足りないことにあるのではなく、示されているしるしを受け入れない彼らの不 信仰にあることを明らかにされます。そのた めに31節と32節で旧約の二つの出来事を引用します。まず一つ目は南の女王、すなわち第一列王記10章に出て 来るシェバの女王のソロモン訪問の出来事で す。彼女はソロモンの名声を伝え聞いて、それが果たして本当かどうか難問をもってためそうとして、遠い南の地か らやって来ます。そしてソロモン王の知恵と 栄華と、そこで仕えている人たちの態度などを見て、息も止まるばかりに驚いたと記されています。彼女はそのソロ モンの知恵に聞くために、地の果てから、多 くの労力と財産をささげてやって来ました。しかし今ここにはそのソロモンにはるかに勝る王がいます!ソロモンは イスラエルの領土が最も拡大した時期の王で すが、イエス様は全世界を治める王の王です。またソロモンは知恵において卓越していましたが、イエス様はソロモ ンとは比べ物にならない知恵と力に満ちてい る方です。コロサイ書2章3節:「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」そう いうイエス様が目の前にいるのに、この方を 信じず、受け入れようとしないのを見たら、南の女王は何と言うか。「あなたがたはソロモン以上に素晴らしいお方 が目の前にいることが分からないのか。私は ソロモンに聞くためにわざわざ地の果てから出かけたが、あなたがたはその必要もない恵みの中にある。なのに目の 前のお方をそのように扱うとは、何という恩 知らずで、また無知な者たちであるか。」 そのようにあなたがたをかの日にさばくであろう、とイエス様は仰る。 彼らユダヤ人たちは異邦人からさばかれると いうまさかの逆転劇が生じるのです。
もう一つは32節のニネベの人々です。彼らはヨナの説教を聞いて、すぐ悔い改めました。そして神が下そうと思っ ておられたわざわいから救われました。しか しここに預言者ヨナよりもはるかに素晴らしい福音を伝えるまことの預言者がおられます。そのお方のメッセージを 受け入れず、悔い改めないなら、ニネベの人 たちは何と言うか。彼らも「あなたがたは一体どなたがあなたがたの前にいるのか、見えていないのか。私たちはヨ ナのメッセージに対してあのように応答した が、あなたがたは真理そのものであるお方を前にしているのにそんな態度を取るとは全く理解できない。何と言う忘 恩無知な姿か!」 そう言ってあなたがたを やがての日にさばくであろう、とイエス様は仰る。見る目を持っているにははっきり分かるのです。ですから問題は イエス様の側にあるのではなく、ユダヤ人の 目が開いていないこと、その心が邪悪で、目が閉じていることにあるのです。
さて、こう述べてイエス様は今日の箇所の中心メッセージをまとめるようにして33節から語られます。まず33 節:「だれも、あかりをつけてから、それを穴 倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。入って来る人々に、その光が見えるためです。」 ここで 言われている「あかり」とはイエス様のこと です。イエス様は決してご自身を隠してはおられません。光は輝いています。ですから問題は光の方にではなく、そ れを受け止める側にあるのです。それが34 節:「からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだ も暗くなります。」 ここで目は光を内側に 取り込む器官として考えられています。目が健全な状態なら、その目から光が体の中に入りこみ、体全体が益を受け ます。すなわち目が光を取り込むことによっ て、心も明るくなりますし、頭の中も明るくなりますし、手や足を自由に、適切に動かすことができます。しかし目 が悪いとどうでしょうか。せっかく光がそこ にあっても、光を取り込めないので、暗やみにいるのと同じになってしまいます。すなわちどのように手や足を動か したら良いのか分からず、心の中も暗い状態 になってしまう。ここで大事な点は、光はきちんと輝いているということです。光はあるのに、目が悪いため、その 人はそれを生かせていない。ですからイエス 様は言われます。35節:「だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。」 これは まことの光であるイエス様を見つめて、その お方から受ける光をあなたの内に豊かに持ちなさい!ということです。聖書の様々な箇所が述べていることは、イエ ス様こそまことの光なるお方であるというこ とです。ヨハネ1章9節:「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」 同8章12節:「わ たしは、世の光です。わたしに従う者は、決 してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」 確かにイエス様がこの世に来てくださらなければ、 私たちは「やみ」の中にいるような者たちで した。そのやみとは、私たちの造り主であり、いのちの源なる神から切り離された「闇」であり、人生の意味も目的 も見失っている「闇」です。またそれは自分 自身の罪の「闇」であり、この世で味わう様々な苦しみや悲惨の「闇」であり、最後には必ずさばかれ、滅びに至ら ざるを得ないことを予感し、確信する「闇」 です。しかしそんな私たちはまことの光なるイエス様を受け入れることによって、神との生ける交わりを回復しま す。ヨハネ17章3節:「その永遠のいのちと は、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」 そして 人生の意味と目的を再発見します。また日々 新しいいのちと力を注いで頂くという光の中の歩みへ導かれます。そして行く先には栄光の御国が待っているという 益々輝きが増す希望の光に生きることができ ます。
果たして私たちの内に、この光は輝いているでしょうか。「あなたのうちの光」が今にも消えそうな状態になってい る、ということはないでしょうか。そうなら ないために必要なことは、まことの光イエス様を見ることです。イエス様を拒むのではなく、この方に信仰の目を上 げる。そうするなら、私たちは光をたくさん 心に注いで頂き、あなたの全身が明るいという状態にまで導いて頂けるのです。
さらに36節:「もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あ なたを照らすときのように明るく輝きま す。」 私たちがイエス様の光をうちに頂き、その全身が明るいという者にして頂くなら、私たちは自分自身が光の 中を歩むだけではなく、周りの人々をも照ら す者になるのです。闇の中でなおさまよって歩いている人々の光となって、まことの光であるイエス様を指し示し、 イエス様へと導く存在になれるのです。
私たちのうちの光は、今、どうでしょうか。イエス様は「だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、 気をつけなさい。」と言われました。そうな らないために必要なことは、イエス様を見つめる生活をすることです。私たちはもともと霊的に健康な目を持ってい ない者ですが、聖霊が私たちの内に住んで下 さるなら、聖霊は私たちの目を癒して、イエス様をはっきり見ることができるように助けて下さいます。11章13 節で、天の父は求める者たちにどうして聖霊 を下さらないことがありましょうか、と言われました。私たちがイエス様を求めて、天の父に願い出るなら、神は私 たちに聖霊を与えて下さいます。私たちはこ の聖霊の助けを頂いて、イエス様をあるがままに見つめ、今この地上にある時から、光を内に豊かに頂き、あなたの 全身が明るくて何の暗い部分もないという状 態にして頂くことができるのです。その光をもって周りの人々を照らし、暗き中にある人々にまことの光を指し示 し、私たちの唯一の希望であるイエス様へとそ の人を導く光栄ある働きをなす者として用いられて行くことができるのです。