ルカの福音書 12:1-12

この方を恐れなさい

イエス様は「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。」と言います。前回、イエス様 はその悪を指摘されました。パリサイ人たち は外側はきよめるが、その内側は強奪と邪悪とで一杯になっている。なのに内側は問題にせず、人の目に見える外側 だけを飾り立てている、と。パン種は、その 始まりは小さいが、知らない間に大きな影響を与えるもののたとえです。イースト菌はパンの生地全体に浸透し、パ ン全体を膨らませます。そのようにパリサイ 人たちの偽善も警戒しないと、簡単にあなたがたの中に入り込み、取り返しのつかない悪影響を与えるから、自分の 魂を良く見張りなさい!ということです。

イエス様がこの偽善についてここで述べていることは、これは結局空しいものに過ぎないということです。2~3 節:「おおいかぶされているもので、現されな いものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。ですから、あなたがたが暗やみで言ったこ とが、明るみで聞かれ、家の中でささやいた ことが、屋上で言い広められます。」 テレビや新聞、インターネットでは毎日、驚くような事件の数々が報道され ます。そこで報じられる人々は、誰も自分が 見つかると思ってはやっていません。中には日本中を騒がせ、それによって有名になろうとする変わった人もいます が、多くの人は、こうすれば誰にも分からな いし、大丈夫!必ずうまく行く!と確信するから、それをします。しかし、結果としては日本中至るところに、何百 万枚、何千万枚とその人の顔写真つきの報道 記事がばらまかれ、大変な恥を被り、一生涯その人にはそのレッテルがついて回ります。絶対ばれない、と自信を 持って行なったことが思わぬ形で明るみに引き 出され、近所の人たちの話として「あの人はそのような人には見えなかったのだけれども、・・」といったコメント がつく。このようにこの世でも隠れた罪は明 らかにされるものです。しかし、これはまだ序の口にしか過ぎません。イエス様が言っていることは、たとえこの世 で何かを隠し通すことができても、究極的に 最後のさばきにおいて、すべてのことが明るみに引き出されるということです。どうせ人間は見ていないだろう、神 も気づいていないだろう、と都合の良い結論 をして、暗やみのわざをしていた人の顔が真っ青になり、息もできなくなる日が来る。3節の「家の中」とは、「一 番奥の部屋」「最もプライベートな空間」を 指していますが、その扉の内側で、最も親密な夫婦で語り合ったささやきすら、必ず問われる時が来る!外側だけを 繕う偽善は決してうまく行かない!それは一 時的に成功しても、結局は無に帰し、すべて明らかにされる日が来る!とイエス様は仰っています。

4節以降を見ると、なぜイエス様がこの勧めを語られたのかが分かります。そこに「からだを殺しても」とあります ように、弟子たちはこれから世から迫害され るという扱いを受けます。11章53~54節に、律法学者、パリサイ人たちはイエス様に激しく敵対し、何とかし て言いがかりをつけようと計ったと記されま した。イエス様がそのように世から扱われるのですから、弟子たちもそこに巻き込まれるのは当然の帰結です。そう いう状況の中で私たちに起こる誘惑は、何と かして迫害されないようにと偽善的に振る舞うことです。ウソをつき、自分を救い、この世の名声や評判を保とうと する。しかしそういう生き方は決してうまく 行かない!内と外が違う偽善的振る舞いは結局空しく終わり、あなたがたにとって何の助けにもならない、とイエス 様は仰っています。では私たちはどうしたら 良いでしょうか。イエス様はここに、偽善的な生き方から解放されて歩むことができるための、心に留めるべき3つ のことを語って行かれます。

その第一は、真に恐れなければならないお方、すなわち神こそを恐れて歩むことです。偽善は人の評価を恐れるとこ ろから始まります。しかしイエス様は、人間 ができることはせいぜい、体を殺すことまでであると言います。体を殺されたら何の意味もないではないかと私たち は思いますが、イエス様はもっと恐れるべき ことがあると言っています。すなわち死後にゲヘナに投げ込まれることです。ゲヘナとはエルサレム郊外にあった谷 の名前で、あらゆるものを焼き尽くす地獄の 象徴でした。そのゲヘナに投げ込む権威は人間ではなく、神が持っています。このことを考えて、正しい選択をする ようにとイエス様は言っています。もし私た ちが神を恐れ、神に従う歩みを貫くなら、この世での肉体的死は天国への入口でしかありません。しかし人を恐れて 偽善の歩みをし、神を恐れずに歩んだら、こ の世のいのちを高々100年保っても、死後に取り返しのつかない報いを受けることになります。私たちは誰を恐れ るべきでしょうか。

この神への恐れは、続く6~7節を見ると、神への信頼及び愛と結びついていることが示されています。そこに5羽 の雀は2アサリオンで売っているとありま す。マタイの福音書には、2羽の雀は1アサリオンと記されていますが、数が増えればディスカウントされるという のは当時も同じだったのでしょう。このアサ リオンというお金について欄外の6に、1デナリの16分の1とあります。第2版の注には「最小単位の銅貨」とあ りました。つまりここに言われていること は、そのように2羽あるいは5羽まとめてでないと最小単位のお金にもならないような、そんな雀の一羽さえ、神の 御前には決して忘れられていない。であるな ら、あなたがたははるかに神に深く覚えられている、ということです。7節に「あなたがたの頭の毛さえも、みな数 えられています。」とあります。私たちは自 分の髪の毛の数が何本あるかは分かりません。一般的には約10万本ほどだそうです。しかし神は一人一人の髪の毛 の数を全部知っている。神はそれほどに私た ち一人一人に深い関心を持っておられるのです。そしてそのように私たちを愛してくださっているお方として、神は 全能の力を、私たちのために発揮してくだ さっています。もちろんだから迫害は起こらないというのではありません。むしろそれは起こる、という前提で今日 の話がなされています。ですから私たちは思 わぬ状況に自分が投げ込まれた時、何だ!神の守りがないではないか、などとこの御言葉の約束を疑うべきではな く、むしろその困難の中で、私たちはこの真理 に立つのです。私はたくさんの雀以上に尊い者として覚えられ、髪の毛一本に至るまで神に知られ、愛されている者 である。その神が全能の御手を持って、私を 最善に導いて下さる。この神を見上げ、この神を恐れ敬う歩みをする時に、私たちはこの世のいのちを保とうとする 薄っぺらい、偽善的な生き方から解放される のです。

私たちが心に留めるべき二つ目の真理は8~10節です。私たちがイエス様を人の前で告白するなら、イエス様もや がての日に私たちを認めて下さる一方、私た ちが人の前でイエス様を否定するなら、私たちもやがての日に同様の報いを受ける。8節の「人の子もまた、その人 を神の御使いたちの前で認めます」とは、神 と天使が居並ぶ最後の大審判の法廷の様子を指しています。すべての隠れた罪が明るみに引き出される最も重大な日 です。その時、イエス様を地上で恐れず告白 した者に対して、イエス様が「わたしはこの人を知っている。この人はわたしに属する者である。」と証ししてくだ さる。そして「わたしはこの人のために十字 架にかかって、その値をすでに支払った。」と言って下さる。しかしもし私たちが地上でイエス様を知らないとする 態度を取るなら、イエス様もやがての日に知 らないと言われる。すべての罪がさらけ出された時に、唯一弁護してくださることができるお方が、そうされない。 何と恐ろしい状況でしょうか。

しかし、これは一度でも主を知らないと言ったら、もう主に認めて頂けないということではありません。ペテロも主 を知らないと三度証言しました。また10節 に「たとい、人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます。」とあります。しかしただ一つ、聖霊を汚す 者は赦されないとあります。これはどういう 罪でしょうか。聖霊の主な働きはイエス様を私たちに示すことです。ですから聖霊を汚す罪とは、イエス様を指し示 す聖霊の働きかけを受けながら、意図的にこ れに反抗することです。イエス様が下さる恵みを聖霊によって味わいながら、最後まで拒絶する人です。ですから自 分はこの赦されない罪を犯しているのではな いか、と真に恐れている人はまだそこまでは行っていないと言えます。その人は直ちに悔い改めへ進めば良い。その ことをせず、悔い改めず、結局立ち返る道に 進まない人が、この赦されない罪の道を歩んでいる人です。そういう人に救いはないし、その罪は決して赦されな い、というのは当然のことでしょう。

私たちが偽善から解放されるために心に留めるべき三つ目の真理は11~12節。ここにも弟子たちが今後、権力者 たちの前に連れて行かれることが言われてい ます。しかしそのただ中で、彼らに素晴らしい助けが約束されています。もちろん私たちはこれを都合良く、興味本 位で試してはなりません。私はある中会の集 まりで、証しに立った若い姉妹が「私は聖霊がその時に教えてくださると聖書に書いてあるから、特別準備をしない でこの場に立ちました。ですから今考えなが ら、話しています。」というのを聞きました。ところがその後の話はしどろもどろ。途中で詰まってしまい、ダラダ ラした話の内容で、本人も焦り始め、会衆席 からは「○○ちゃん、頑張れ!」などと声がかかる始末。とても見ていられないものでした。Ⅰペテロ3章15節: 「あなたがたのうちにある希望について説明 を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」 しかし様々な状況の中で、それができな い場合もあります。ここで言われているよう に、突然権力者の前に引き出された時などがそうでしょう。しかしその時でも、私たちは心配無用だと言われていま す。その時も私は一人でない。どこにも助け がないような絶体絶命の大ピンチの中で、聖霊が共にいてくださる。必要なことばを教え、支えてくださるから、前 もって思い煩う必要はない。事実、使徒の働 きを見ると、弟子たちはあらゆる困難の中で、聖霊に支えられて立派な証しをなしたことを私たちは見ます。それは 私たちにも当てはまることです。人間的な目 で見れば、不十分なところがたくさんあるかもしれませんが、聖霊の導きに信頼して、祈って、私たちは証しするこ とができるのです。

果たして私たちはどうでしょうか。私たちも、窮地に立たされると、その場しのぎで、人の顔色を伺い、ウソを重ね て生きようとする傾向があるかもしれませ ん。しかしそれは虚しいものであり、結局はすべてが明らかにされるのであり、私たちに何の益ももたらさない、と イエス様は言っておられます。そんな私たち にここに三位一体の神の素晴らしい約束が与えられています。第一に父なる神こそ私たちが真に恐れるべき方であ り、この方は私たちの髪の毛の数まで知り、今 日を導いて下さっているということ。第二に子なる神キリストは、私たちが地上でこの方を告白する歩みをするな ら、やがてのすべてが明るみに出される最も恐 ろしい日に私を認め、弁護し、永遠のいのちに導き入れて下さるということ。第三に聖霊なる神は私たちがどんな窮 地に立たされようと、その時に必要な言葉を 与え、私たちの想像を超える恵みで支えて下さるということ。ここに私たちが偽善から離れて歩むための道がありま す。私たちはこの神とその約束を仰いで、自 分の一切の重荷や思い煩いを降ろし、歩むべき道をもう一度確認したいと思います。そして人の評価や意見を恐れる のではなく、真に恐れるべきお方を恐れ、す べてを見ておられる神の前で裏表のない誠実な歩み・キリストを証しする歩みへ進み、そこに備えられる豊かな祝福 にあずかって行きたいと思います。