ルカの福音書 12:13-21
神の前に富まない者
この「金持ち農夫のたとえ」はルカの福音書にのみ記されている有名なイエス様のたとえ話です。私はクリスチャン ホームに育ちましたので、小さい頃から聖書 に接して来ましたが、小学生の頃でもこの話は非常なインパクトを持って私に迫って来たものです。そしてこう思い ました。今は自分は毎日楽しく遊んだり、勉 強したり、スポーツをしながら過ごしているが、もし今夜ベッドで寝ている時に神が現れて「おまえのたましいは、 今夜おまえから取り去られる。」と言われた ら、自分は大丈夫だろうか。これから大人に向かって準備し、勉強し、大学に入って卒業し、さあいよいよこれか ら!という時に神が現れて、「おまえのたまし いは、今夜おまえから取り去られる。」と言われたなら、一体どうなってしまうことか。それでも確信を持って神の 導きに従って行けるような、そういう準備が 自分にできているのだろうか、と。
このたとえは一人の人の問いから始まりました。群衆の中の一人が「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話し てください。」とイエス様に頼んだことから です。この人は弟の立場にあった人だったのでしょう。きっとそのお兄さんが色々な理屈を並べて遺産を自分の手元 に置いておこうとしていた。当時はユダヤ教 の教師であるラビのもとに、こういう問題が持ち込まれたようです。そこでこの人もイエス様に調停役を果たして頂 きたいと願ったのでしょう。しかしイエス様 はその役をお引き受けになりません。むしろ彼にもっと大切なことを教えようとされます。それは5節にあるよう に、「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しな さい」ということです。お金を少しでも多く得ることに人生の祝福がかかっているかのように、これを追い求める生 き方をしてはいけない。なぜかと言えば、イ エス様が述べている理由は、「人のいのちは財産にあるのではないから」ということです。私たちもついついお金、 財産、富に特別な関心を持って、これを追求 しやすいものです。ある意味でお金があれば何でも欲しいものが買えます。悩まずに色々な新製品、便利なものが買 えます。今より良い暮らしができます。お金 や財産こそ、私に幸福な人生を約束し、豊かな生活を保障してくれるもののように思います。しかしそれは誤りだと イエス様は言っています。そのことを示すた めにイエス様はこのたとえ話を語られたのです。
話は簡単です。ある金持ちの畑が豊作になりました。ただでさえ金持ちの人の畑が豊作になったのです。これ以上良 いことはありません。問題があるとすれば、 たくさん収穫できたものを一体どこに保管したら良いだろうか、ということです。贅沢な悩みです。そして彼が選ん だ道は、自分のために蓄えることでした。他 の人に分けてあげようとか、貧しい人のために援助しようという考えはみじんもない。そして幸せな気持ちで一杯に なって、自分の魂にこう語りかけたのです。 19節:「そして、自分のたましいにこう言おう。『たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さ あ、安心して、食べて、飲んで、楽し め。』」
しかし、このたとえの衝撃的な結末は、20節にありますように、その日の夜に彼のたましいは神によって取り去ら れると宣言されたことです。たくさんの収穫 を得て、人生の楽しみはこれから!という時に、「愚か者!」と神から言われる。地上ではあれほど羨ましい人はい ない、彼ほどの幸せ者はいない、と思われた 人が、死の時に「愚か者」――これは最悪の、究極的な意味での「愚か者」という意味ですが、――そのように神か ら評価されて、真っ暗闇に落ちて行く。これ こそ霊的に眠りこんだ生活をしている人たちに脅威となる、ドキッとさせられるインパクトある結末です。
この愚かな金持ちがこの時に分かったことは何でしょうか。それは自分は死後の準備を何もして来なかったというこ とです。私たちの地上の人生はいつかは終わ ります。長い人でもせいぜい100年。短い人はいくらでも短い。その時、地上で持っていたものを私たちは何一つ 携え持って行くことはできません。全部この 世に置いて行かなくてはなりません。そしてすべてをはぎ取られた裸の状態で一人で神の前に立ち、地上でどのよう に歩んだか、一人一人問われるのです。その ことを考えるなら、私たちにとって決定的に重要なのは神との関係と言えます。この神こそ、私の永遠の運命を決定 するお方です。ですから私たちが心を注ぐべ きはお金より神様です。ところがこの愚かな金持ちはその神を全く考えに入れて来なかった。
なぜ彼は神との関係を大事にして来なかったのでしょうか。それは彼の心がこの世の富や財産で一杯になっていたか らです。聖書の中に「あなたがたは神にも仕 え、また富にも仕えることはできません。」という御言葉があります。すなわち富は神のライバルになり得るものと して警告されています。お金に関することは 私たちの心の中で神のみが占めるべき中心的な部分にまで侵入して来て、ついにはそこから神を追い出し、私たちの 心をガッチリつかみやすいものである。そし てこれは私たちに偽りの安心感を与えます。これだけ私はたくさん持っているのだから大丈夫。こんなに豊かな私は どうして神に頼らなければならないのか。少 なくとも当面、神に頼らなくてもやって行ける。この世の富は私たちをいつまでも支えるものではないのに、富は私 たちの判断を鈍らせ、限りなく長い時間、そ の状態が続くかのように私たちの心を欺くのです。
そして、自分の心から神を追い出したなら、後に残るのは自己中心に突き動かされるままの貪欲の生活でしょう。後 に見ますように、私たちは持ち物を神の御心 に従って用いる義務がありますが、神を追い出すなら、うるさいことを言う存在はいなくなります。どうして自分は 自分のしたいようにしてはいけないのか。そ う考えてひたすら自分のために生きる。たとえの中の金持ちもそうです。新改訳聖書には訳されていませんが、原文 では「私の」「私の」という表現が繰り返し て使われています。17節の「作物」という言葉、また18節の「倉」「穀物」「財産」という言葉、そして19節 の「たましい」という言葉にそれが付いてい ます。それを入れて17節から読むと次のようになります。「そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どう しよう。私の作物をたくわえておく場所がな い。』そして言った。『こうしよう。あの私の倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、私の穀物や私の財産はみ なそこにしまっておこう。そして私のたまし いにこう言おう。』」 こうして彼はひたすら自分のために、むさぼる歩みを重ねたのです。むさぼりはエペソ書5 章5節やコロサイ書3章5節で「偶像礼拝」 と言われています。そのような歩みは言うまでもなく、神の御心に全く反するものとして、さばきが待っているのみ なのです。
イエス様はこのようにして、自分のために蓄えても、神の前に富まない人の悲惨について語られました。私たちは大 丈夫でしょうか。私たちがこのたとえを読ん で自分に問うべきは次のことです。果たして私は今夜、いのちを取られることになっても大丈夫か。神が枕元に現れ て、「おまえのたましいは、今夜おまえから 取り去られる」と言われても慌てないでいることができるか。では神の前に良しと認められる正しいあり方、神の前 に富む生き方とは具体的にどういう生き方な のでしょう。
それは私たちが財産やお金の奴隷になって神を後回しにするのではなく、むしろ神が喜ばれることのために富や持ち 物を用いて行く歩みでしょう。もちろん私た ちは地上で自分に与えられたものは、神からの賜物として喜び楽しんで良いのです。しかし今日の箇所からも、また 他の箇所からも分かることは、私たちが地上 で手にする財産や富は、究極的な意味では私たちのものではないということです。それはやがて死の時に手放さなけ ればならないという意味で私たちのものでは ありません。それは言わば私たちが一時的に預かっているものに過ぎず、そういう意味で私たちはそれらのものの 「所有者」と言うよりも「管理者」なのです。 ですから私たちはそれらをどう管理したか、やがての日に必ず本当の所有者である神に問われることになる。報告義 務がある。ですから私たちは自分が手にする ものを楽しんで良いのですが、常に頭に入れておくべきは、これを神に喜ばれるように用いる義務が私にはあるとい うことです。そして特に聖書で奨励されてい ることは、富を貧しい人に施すこと、必要を覚えている人に分け与えること、また神の国の前進のために投資するこ とです。
しかし、私たちは間違わないようにしなければなりません。聖書はこのような良い行ないによって天国へ行ける、と 言っているのではありません。私たちが神に 喜ばれるように歩むのは、神の恵みに心から感謝しているからです。神は私たちを救うために、ご自身の尊い一人子 イエス様さえ惜しまずに私たちに与え、十字 架へ送ってくださいました。神はそこに私たちに対するとてつもない、測り知れない愛を証ししておられます。そし てその尊い御子をも与えてくださった神は、 御子と一緒にすべてのものを私たちに恵んで下さる、とローマ書8章32節にあります。そのような神がおられるの で、私たちは次回22節以降で見ますように 「心配無用」なのです。神が私の地上の歩みも、その後の生活も、一切顧みて配慮し、守り導いて下さるのです。そ ういう私たちはもはや、かつてのように自分 のことだけ心配して一生を過ごす必要はない。私たちはただ神に感謝し、信頼して、神に喜ばれる歩みだけを心がけ れば良いのです。そのような神に対する感謝 と信頼の現れとして、私たちは自分に与えられている富や財産を、神の御心のためにささげ、用いて行くのです。
そのようにする者に神は豊かな報いを与えてくださいます。箴言19章17節にはこうあります。「寄るべのない者 に施しをするのは、主に貸すことだ。主がそ の善行に報いてくださる。」 何と私たちが自分の持てるものを貧しい人に分け与えるなら、それは主ご自身に貸す ことだと言われています。主に貸すのですか ら、主はやがてそれを私たちに返して下さる。しかも莫大な利子もつけて。それを私の天国銀行の口座に振り込んで 下さる。こうしておくなら、私たちがこの地 上を離れることになっても大丈夫です。この世の財産とこの世の銀行通帳はこの世に置いて行かなければなりません が、天国銀行の口座は、私が天国に行っても なお残っています。それは永遠に有効です。このような歩みをする人こそ、神の前に富む人ではないでしょうか。ま たこのような人こそ、いつ地上のいのちを終 える日が来ても、むしろ喜びと平安を持ってその日を迎えられる人ではないでしょうか。
私たちはそれぞれ自分に問いたいと思います。もし今夜、神が枕元に現れて、「おまえのたましいは、今夜おまえか ら取り去られる」と言われても大丈夫な歩み をしているだろうか。イエス様は「どんな貪欲にも注意して、良く警戒しなさい。」と言われました。私たちは富の 魔力にだまされ、人生を棒に振ることがない ように、今夜神が現れて「おまえの地上の人生はここまで」と言われても、喜びを持ってその招きに従って行けるよ うに自分の生き方を整えて、神にこそ望みを 置き、信頼し、神の前に富む歩みへ導かれたいと思います。
この「金持ち農夫のたとえ」はルカの福音書にのみ記されている有名なイエス様のたとえ話です。私はクリスチャン ホームに育ちましたので、小さい頃から聖書 に接して来ましたが、小学生の頃でもこの話は非常なインパクトを持って私に迫って来たものです。そしてこう思い ました。今は自分は毎日楽しく遊んだり、勉 強したり、スポーツをしながら過ごしているが、もし今夜ベッドで寝ている時に神が現れて「おまえのたましいは、 今夜おまえから取り去られる。」と言われた ら、自分は大丈夫だろうか。これから大人に向かって準備し、勉強し、大学に入って卒業し、さあいよいよこれか ら!という時に神が現れて、「おまえのたまし いは、今夜おまえから取り去られる。」と言われたなら、一体どうなってしまうことか。それでも確信を持って神の 導きに従って行けるような、そういう準備が 自分にできているのだろうか、と。
このたとえは一人の人の問いから始まりました。群衆の中の一人が「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話し てください。」とイエス様に頼んだことから です。この人は弟の立場にあった人だったのでしょう。きっとそのお兄さんが色々な理屈を並べて遺産を自分の手元 に置いておこうとしていた。当時はユダヤ教 の教師であるラビのもとに、こういう問題が持ち込まれたようです。そこでこの人もイエス様に調停役を果たして頂 きたいと願ったのでしょう。しかしイエス様 はその役をお引き受けになりません。むしろ彼にもっと大切なことを教えようとされます。それは5節にあるよう に、「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しな さい」ということです。お金を少しでも多く得ることに人生の祝福がかかっているかのように、これを追い求める生 き方をしてはいけない。なぜかと言えば、イ エス様が述べている理由は、「人のいのちは財産にあるのではないから」ということです。私たちもついついお金、 財産、富に特別な関心を持って、これを追求 しやすいものです。ある意味でお金があれば何でも欲しいものが買えます。悩まずに色々な新製品、便利なものが買 えます。今より良い暮らしができます。お金 や財産こそ、私に幸福な人生を約束し、豊かな生活を保障してくれるもののように思います。しかしそれは誤りだと イエス様は言っています。そのことを示すた めにイエス様はこのたとえ話を語られたのです。
話は簡単です。ある金持ちの畑が豊作になりました。ただでさえ金持ちの人の畑が豊作になったのです。これ以上良 いことはありません。問題があるとすれば、 たくさん収穫できたものを一体どこに保管したら良いだろうか、ということです。贅沢な悩みです。そして彼が選ん だ道は、自分のために蓄えることでした。他 の人に分けてあげようとか、貧しい人のために援助しようという考えはみじんもない。そして幸せな気持ちで一杯に なって、自分の魂にこう語りかけたのです。 19節:「そして、自分のたましいにこう言おう。『たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さ あ、安心して、食べて、飲んで、楽し め。』」
しかし、このたとえの衝撃的な結末は、20節にありますように、その日の夜に彼のたましいは神によって取り去ら れると宣言されたことです。たくさんの収穫 を得て、人生の楽しみはこれから!という時に、「愚か者!」と神から言われる。地上ではあれほど羨ましい人はい ない、彼ほどの幸せ者はいない、と思われた 人が、死の時に「愚か者」――これは最悪の、究極的な意味での「愚か者」という意味ですが、――そのように神か ら評価されて、真っ暗闇に落ちて行く。これ こそ霊的に眠りこんだ生活をしている人たちに脅威となる、ドキッとさせられるインパクトある結末です。
この愚かな金持ちがこの時に分かったことは何でしょうか。それは自分は死後の準備を何もして来なかったというこ とです。私たちの地上の人生はいつかは終わ ります。長い人でもせいぜい100年。短い人はいくらでも短い。その時、地上で持っていたものを私たちは何一つ 携え持って行くことはできません。全部この 世に置いて行かなくてはなりません。そしてすべてをはぎ取られた裸の状態で一人で神の前に立ち、地上でどのよう に歩んだか、一人一人問われるのです。その ことを考えるなら、私たちにとって決定的に重要なのは神との関係と言えます。この神こそ、私の永遠の運命を決定 するお方です。ですから私たちが心を注ぐべ きはお金より神様です。ところがこの愚かな金持ちはその神を全く考えに入れて来なかった。
なぜ彼は神との関係を大事にして来なかったのでしょうか。それは彼の心がこの世の富や財産で一杯になっていたか らです。聖書の中に「あなたがたは神にも仕 え、また富にも仕えることはできません。」という御言葉があります。すなわち富は神のライバルになり得るものと して警告されています。お金に関することは 私たちの心の中で神のみが占めるべき中心的な部分にまで侵入して来て、ついにはそこから神を追い出し、私たちの 心をガッチリつかみやすいものである。そし てこれは私たちに偽りの安心感を与えます。これだけ私はたくさん持っているのだから大丈夫。こんなに豊かな私は どうして神に頼らなければならないのか。少 なくとも当面、神に頼らなくてもやって行ける。この世の富は私たちをいつまでも支えるものではないのに、富は私 たちの判断を鈍らせ、限りなく長い時間、そ の状態が続くかのように私たちの心を欺くのです。
そして、自分の心から神を追い出したなら、後に残るのは自己中心に突き動かされるままの貪欲の生活でしょう。後 に見ますように、私たちは持ち物を神の御心 に従って用いる義務がありますが、神を追い出すなら、うるさいことを言う存在はいなくなります。どうして自分は 自分のしたいようにしてはいけないのか。そ う考えてひたすら自分のために生きる。たとえの中の金持ちもそうです。新改訳聖書には訳されていませんが、原文 では「私の」「私の」という表現が繰り返し て使われています。17節の「作物」という言葉、また18節の「倉」「穀物」「財産」という言葉、そして19節 の「たましい」という言葉にそれが付いてい ます。それを入れて17節から読むと次のようになります。「そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どう しよう。私の作物をたくわえておく場所がな い。』そして言った。『こうしよう。あの私の倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、私の穀物や私の財産はみ なそこにしまっておこう。そして私のたまし いにこう言おう。』」 こうして彼はひたすら自分のために、むさぼる歩みを重ねたのです。むさぼりはエペソ書5 章5節やコロサイ書3章5節で「偶像礼拝」 と言われています。そのような歩みは言うまでもなく、神の御心に全く反するものとして、さばきが待っているのみ なのです。
イエス様はこのようにして、自分のために蓄えても、神の前に富まない人の悲惨について語られました。私たちは大 丈夫でしょうか。私たちがこのたとえを読ん で自分に問うべきは次のことです。果たして私は今夜、いのちを取られることになっても大丈夫か。神が枕元に現れ て、「おまえのたましいは、今夜おまえから 取り去られる」と言われても慌てないでいることができるか。では神の前に良しと認められる正しいあり方、神の前 に富む生き方とは具体的にどういう生き方な のでしょう。
それは私たちが財産やお金の奴隷になって神を後回しにするのではなく、むしろ神が喜ばれることのために富や持ち 物を用いて行く歩みでしょう。もちろん私た ちは地上で自分に与えられたものは、神からの賜物として喜び楽しんで良いのです。しかし今日の箇所からも、また 他の箇所からも分かることは、私たちが地上 で手にする財産や富は、究極的な意味では私たちのものではないということです。それはやがて死の時に手放さなけ ればならないという意味で私たちのものでは ありません。それは言わば私たちが一時的に預かっているものに過ぎず、そういう意味で私たちはそれらのものの 「所有者」と言うよりも「管理者」なのです。 ですから私たちはそれらをどう管理したか、やがての日に必ず本当の所有者である神に問われることになる。報告義 務がある。ですから私たちは自分が手にする ものを楽しんで良いのですが、常に頭に入れておくべきは、これを神に喜ばれるように用いる義務が私にはあるとい うことです。そして特に聖書で奨励されてい ることは、富を貧しい人に施すこと、必要を覚えている人に分け与えること、また神の国の前進のために投資するこ とです。
しかし、私たちは間違わないようにしなければなりません。聖書はこのような良い行ないによって天国へ行ける、と 言っているのではありません。私たちが神に 喜ばれるように歩むのは、神の恵みに心から感謝しているからです。神は私たちを救うために、ご自身の尊い一人子 イエス様さえ惜しまずに私たちに与え、十字 架へ送ってくださいました。神はそこに私たちに対するとてつもない、測り知れない愛を証ししておられます。そし てその尊い御子をも与えてくださった神は、 御子と一緒にすべてのものを私たちに恵んで下さる、とローマ書8章32節にあります。そのような神がおられるの で、私たちは次回22節以降で見ますように 「心配無用」なのです。神が私の地上の歩みも、その後の生活も、一切顧みて配慮し、守り導いて下さるのです。そ ういう私たちはもはや、かつてのように自分 のことだけ心配して一生を過ごす必要はない。私たちはただ神に感謝し、信頼して、神に喜ばれる歩みだけを心がけ れば良いのです。そのような神に対する感謝 と信頼の現れとして、私たちは自分に与えられている富や財産を、神の御心のためにささげ、用いて行くのです。
そのようにする者に神は豊かな報いを与えてくださいます。箴言19章17節にはこうあります。「寄るべのない者 に施しをするのは、主に貸すことだ。主がそ の善行に報いてくださる。」 何と私たちが自分の持てるものを貧しい人に分け与えるなら、それは主ご自身に貸す ことだと言われています。主に貸すのですか ら、主はやがてそれを私たちに返して下さる。しかも莫大な利子もつけて。それを私の天国銀行の口座に振り込んで 下さる。こうしておくなら、私たちがこの地 上を離れることになっても大丈夫です。この世の財産とこの世の銀行通帳はこの世に置いて行かなければなりません が、天国銀行の口座は、私が天国に行っても なお残っています。それは永遠に有効です。このような歩みをする人こそ、神の前に富む人ではないでしょうか。ま たこのような人こそ、いつ地上のいのちを終 える日が来ても、むしろ喜びと平安を持ってその日を迎えられる人ではないでしょうか。
私たちはそれぞれ自分に問いたいと思います。もし今夜、神が枕元に現れて、「おまえのたましいは、今夜おまえか ら取り去られる」と言われても大丈夫な歩み をしているだろうか。イエス様は「どんな貪欲にも注意して、良く警戒しなさい。」と言われました。私たちは富の 魔力にだまされ、人生を棒に振ることがない ように、今夜神が現れて「おまえの地上の人生はここまで」と言われても、喜びを持ってその招きに従って行けるよ うに自分の生き方を整えて、神にこそ望みを 置き、信頼し、神の前に富む歩みへ導かれたいと思います。