ルカの福音書 12:49-59
熱心に彼と和解する
イエス様の言葉の中には難しい言葉もたくさんありますが、今日の言葉もそうです。イエス様はここで「わたしが来 たのは、地に火を投げ込むためです。」と 言っています。一体どこの過激派グループの言葉か、と思うような言葉です。しかしもちろんこれは文字通りの意味 ではありません。9章54節で、弟子のヤコ ブとヨハネが、イエス様を受け入れないサマリヤ人を見て「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼ しましょうか。」 と言ったことがありまし た。その時、イエス様は彼らを戒められました。ですからイエス様は文字通り、火を投げ込むために来たのではあり ません。またイエス様は「その火が燃えてい たらと、どんなに願っていることでしょう。」と言われました。まさかイエス様は世界各地が実際に火の海になるこ とを熱望している、ということはないでしょ う。確かに「火」はそこにあるものを焼き尽くすという破壊的な力を持ちます。しかし同時に火は、そこにあるもの をきよめ、不純物を取り除き、新しいものと するという積極的また肯定的な働きもします。
参考になるのは3章16節でバプテスマのヨハネがイエス様を指して「その方はあなたがたに聖霊と火とのバプテス マをお授けになります。」と語っていたこと です。火を投ずるイエス様の働きは、具体的には聖霊を通してなされます。イエス様が地上の働きを終えて天に昇 り、聖霊を遣わしてこそ、火を投げ込むという 働きを本格的になさるのです。イエス様はその時に、火がそこにあった状態を一変させるように、聖霊によってこの 世界を大いなる力できよめられるのです。燃 やし尽くすべきものを燃やし尽くして、神の御心にかなう、いのちに満ちた新しい世界を作り出して行かれるので す。
しかし、そのみわざを行なうためにイエス様が通らなければならない道がありました。それが50節の「わたしには 受けるバプテスマがある」という言葉に示さ れています。私たちにとってバプテスマは救いを表す儀式ですが、イエス様にとってはそうでありません。イエス様 がバプテスマを受けたのは、私たちとご自分 を一つに結び付けてくださるためです。それは私たちと連帯して私たち人間のすべての罪を背負うためです。つまり イエス様にとってバプテスマを受けるとは、 人間と一つになってその罪を背負い、十字架への道を歩くことを意味していました。そのことをイエス様はここでも 見つめていたのでしょう。イエス様は「それ が成し遂げられるまではどんなに苦しむことでしょう。」と言われました。ここから改めて私たちはイエス様が払わ れた犠牲の大きさを思わされます。やがて十 字架上に上げられた時もイエス様は測り知れない苦しみを経験されますが、そこに至るまでの間もイエス様は深い苦 しみを味わわれたのです。しかし同時にイエ ス様はその恐ろしい将来を見つめながらも、私たちの救いを成し遂げるためにご自分から前へ進んで行かれたことを 私たちは見ます。イエス様は決して誰かに強 制されて、力ずくで十字架へ引っ張って行かれたのではないのです。「どんなに苦しむことでしょう」との苦悩の声 を発しつつも、イエス様は前に、前に、と前 進して行かれたのです。私たちの救いは、このようなイエス様の戦いと私たちへの愛によって勝ち取られたものなの です。
さて、イエス様はもう一つ、衝撃的な言葉を語っています。51節の「わたしは地に平和を与えるために来たのでは ない。むしろ分裂を与えるためだ。」という 言葉です。ある人はイエス様は聖書の中で「平和の君」と呼ばれているのではなかったか、と言うでしょう。クリス マスに読まれるイザヤ書にも「平和の君」と ありますし、イエス様が誕生した日に天使が夜空で賛美した言葉にも「地の上に平和があるように」という一節があ りました。またエペソ書2章14節に「キリ ストこそ私たちの平和」という言葉もあります。もちろん究極的にはキリストこそ真の平和をもたらしてくださるお 方です。しかしこの世にあってはしばしばそ うでない。実際、イエス様を信じると周りの人々と対立や摩擦が生じることがあります。最も厳しいことは、仲良く 暮らしていた愛する家族の中に分裂が生じ る。52節にありますように、一家五人が三人と二人に分かれるという事態が生じ、あるいは53節のように「父は 息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は 母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗し」という状況が発生する。聖書の中で「~するため」とい う表現は、目的を指す場合もありますが、結 果を指す場合にも使われます。ここではその後者の意味です。つまりそういう結果は避けられない、必ずそういう結 果に至るということです。
ある人はそのため、私は家族がみんな死んで、波風立たない状況になったら信じます、などと言います。しかしその ようにして人との平和を大事にするあまり、 最も大事な神との関係を後回しにして良いのでしょうか。神との関係は、私の永遠の運命と関わる最も重大なことで す。むしろ私たちは使徒の働き16章31節 に「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」という御言葉の勧めに従うべきで す。しかしその一方、私たちは安易な夢を描 いてはならないのです。私がイエス様の側に付くという態度をはっきりさせるなら、イエス様の側に付かない人々と の間にある種の区別、違い、分裂が生じるの は当然です。何においてもそうです。その時、私に問われることは、私は何を第一にするのか、ということです。そ の時に人間的に願わしい結果が生じなくて も、驚くべきではないのです。それは当然起こり得ることだとイエス様は述べて、私たちに正しい心構え、覚悟を求 めているのです。
そう述べたイエス様は、54節から群衆に向かって決断を求めて行きます。いよいよ世の終わりが近づいている今、 あなたがたはどっちに付くのか、と。イエス 様はここで「あなたがたは、西に雲が起こるのを見るとすぐに、『にわか雨が来るぞ』と言い、事実そのとおりにな ります。また南風が吹きだすと、『暑い日に なるぞ』と言い、事実そのとおりになります。」と述べ、そのように「地や空の現象を見分けることを知りながら、 どうして今のこの時代を見分けることができ ないのですか。」とチャレンジしています。イエス様がここで言っている「今のこの時代」とは、イエス様が来てい るという時代のことです。ついに神の子メシ ヤなるお方が来ています。その力あることばに、また様々な癒しや悪霊追い出しのみわざに、神が特別な力を持って 臨んでいることがあかしされています。その ことはいよいよこの世界の歴史は最終段階に入っていることを示しています。すなわち最後の救いがそこまで迫って いること、また裏を返せば、神がすべてを精 算し、悪を滅ぼす最後のさばきがそこまで迫っていることを示しています。そのような時代に今あるのに、なぜそれ を読み取り、自分の運命にために正しく対処 しないのか、とイエス様は言われます。そして58節から、裁判官のところに一緒に歩いて行く人のたとえを語って います。話の文脈は最後のさばきですから、 このたとえもその線に沿って理解すべきです。つまり私たちもたとえの中の彼と同じように、最後のさばきに向かう 道の途中を歩いている者たちであるというこ とです。私たち神の前に罪ある者は、そのまま歩いて行って裁判所に着いてしまったら望みはない。裁判が行なわ れ、執行人に引き渡され、牢に投げ入れられ、 最後の1レプタを支払うまでそこから決して出られない。1レプタというお金は、ユダヤのお金としては最も小さい ものです。その1レプタに至るまで完全に支 払わなければそこから出ることはできない。この意味は、刑が執行されたら、もはや少しもまけてもらうことはでき ないということです。もっとはっきり言え ば、一旦そこに入ってしまえば、もうそこからは出られない。永遠にそこに閉じ込められたままとなってしまう。だ からその刑が確定する前に、裁判官所に着く 前に和解をしなさい、その前に手を打ちなさい、ということです。
多くの人がそう聞いてもなかなか手を打とうとしない理由の一つは、最後のさばきを軽く考えているということがあ ると思います。たとえそこに至ってもまだ大 丈夫だろう、と考える。あるいはたとえ天国に行けないとしても、そんなにひどい場所に行かされることはないはず だ、と。しかし聖書はそう言っていません。 たとえば後に見る金持ちと貧乏人ラザロのたとえにおいて、ハデスに落ちた金持ちはこう叫びます。「私をあわれん でください。ラザロが指先を水に浸して私の 舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。」 また黙示録21章 に、イエス・キリストを信じなかった者、す なわちいのちの書に名の記されていない人は、「火の池に投げ込まれた」とあります。そしてそこで一瞬で消滅する ならまだいいのですが、マタイ25章46節 に「こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」とありますから、そ れは永遠に続くものです。これを本当に受け 止める時、私たちは一刻も早く解決しなくては、と駆り立てられるのです。私たちは今、裁判所に至る途中を歩いて います。いつイエス様が再臨し、チャンスは そこまで!と言われるか分かりません。ですから私たちは遅過ぎない内に、真に和解すべき神との間に和解を持つべ きなのです。
そのための方法とは、イエス・キリストを救い主として信じ、従うことです。イエス様は「それが成し遂げられるま では、どんなに苦しむことでしょう。」と言 いつつ、私たちのために十字架への道を歩き、私たちが支払うべき最後の1レプタまですべて払ってくださいまし た。この方を、私の救い主として信じ、告白 し、受け入れる時に、私たちは神と和解することができるのです。今ここにある時からです。ヨハネの福音書5章 24節にこうあります。「まことに、まこと に、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さ ばきに会うことがなく、死からいのちに移っ ているのです。」
私たちはどうでしょうか。イエス・キリストが地上におられたこの時でさえ、イエス様は「なぜ今のこの時代を見分 けることができないのか。」と言われまし た。その時に比べて、すでにイエス様の十字架、復活、昇天、天からの聖霊の注ぎという神のプログラムは終了して います。聖書が示している次のプログラム は、イエス・キリストの再臨です。私たちはまさに裁判官のところに着く一歩手前のところを歩いています。明日に もその日が臨んでもおかしくありません。そ れまでに解決をしなければ、その先にあるのは取り返しのつかない将来です。そこに至ることがないように、神は尊 い御子を救い主として与えてくださいまし た。そして御子を通して「今の内に熱心に和解せよ」と語っていてくださいます。このキリストにより頼み、従うと ころに、最後のさばきを免れ、救いに入れて いただく唯一の道があるのです。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたし を遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを 持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」
イエス様の言葉の中には難しい言葉もたくさんありますが、今日の言葉もそうです。イエス様はここで「わたしが来 たのは、地に火を投げ込むためです。」と 言っています。一体どこの過激派グループの言葉か、と思うような言葉です。しかしもちろんこれは文字通りの意味 ではありません。9章54節で、弟子のヤコ ブとヨハネが、イエス様を受け入れないサマリヤ人を見て「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼ しましょうか。」 と言ったことがありまし た。その時、イエス様は彼らを戒められました。ですからイエス様は文字通り、火を投げ込むために来たのではあり ません。またイエス様は「その火が燃えてい たらと、どんなに願っていることでしょう。」と言われました。まさかイエス様は世界各地が実際に火の海になるこ とを熱望している、ということはないでしょ う。確かに「火」はそこにあるものを焼き尽くすという破壊的な力を持ちます。しかし同時に火は、そこにあるもの をきよめ、不純物を取り除き、新しいものと するという積極的また肯定的な働きもします。
参考になるのは3章16節でバプテスマのヨハネがイエス様を指して「その方はあなたがたに聖霊と火とのバプテス マをお授けになります。」と語っていたこと です。火を投ずるイエス様の働きは、具体的には聖霊を通してなされます。イエス様が地上の働きを終えて天に昇 り、聖霊を遣わしてこそ、火を投げ込むという 働きを本格的になさるのです。イエス様はその時に、火がそこにあった状態を一変させるように、聖霊によってこの 世界を大いなる力できよめられるのです。燃 やし尽くすべきものを燃やし尽くして、神の御心にかなう、いのちに満ちた新しい世界を作り出して行かれるので す。
しかし、そのみわざを行なうためにイエス様が通らなければならない道がありました。それが50節の「わたしには 受けるバプテスマがある」という言葉に示さ れています。私たちにとってバプテスマは救いを表す儀式ですが、イエス様にとってはそうでありません。イエス様 がバプテスマを受けたのは、私たちとご自分 を一つに結び付けてくださるためです。それは私たちと連帯して私たち人間のすべての罪を背負うためです。つまり イエス様にとってバプテスマを受けるとは、 人間と一つになってその罪を背負い、十字架への道を歩くことを意味していました。そのことをイエス様はここでも 見つめていたのでしょう。イエス様は「それ が成し遂げられるまではどんなに苦しむことでしょう。」と言われました。ここから改めて私たちはイエス様が払わ れた犠牲の大きさを思わされます。やがて十 字架上に上げられた時もイエス様は測り知れない苦しみを経験されますが、そこに至るまでの間もイエス様は深い苦 しみを味わわれたのです。しかし同時にイエ ス様はその恐ろしい将来を見つめながらも、私たちの救いを成し遂げるためにご自分から前へ進んで行かれたことを 私たちは見ます。イエス様は決して誰かに強 制されて、力ずくで十字架へ引っ張って行かれたのではないのです。「どんなに苦しむことでしょう」との苦悩の声 を発しつつも、イエス様は前に、前に、と前 進して行かれたのです。私たちの救いは、このようなイエス様の戦いと私たちへの愛によって勝ち取られたものなの です。
さて、イエス様はもう一つ、衝撃的な言葉を語っています。51節の「わたしは地に平和を与えるために来たのでは ない。むしろ分裂を与えるためだ。」という 言葉です。ある人はイエス様は聖書の中で「平和の君」と呼ばれているのではなかったか、と言うでしょう。クリス マスに読まれるイザヤ書にも「平和の君」と ありますし、イエス様が誕生した日に天使が夜空で賛美した言葉にも「地の上に平和があるように」という一節があ りました。またエペソ書2章14節に「キリ ストこそ私たちの平和」という言葉もあります。もちろん究極的にはキリストこそ真の平和をもたらしてくださるお 方です。しかしこの世にあってはしばしばそ うでない。実際、イエス様を信じると周りの人々と対立や摩擦が生じることがあります。最も厳しいことは、仲良く 暮らしていた愛する家族の中に分裂が生じ る。52節にありますように、一家五人が三人と二人に分かれるという事態が生じ、あるいは53節のように「父は 息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は 母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗し」という状況が発生する。聖書の中で「~するため」とい う表現は、目的を指す場合もありますが、結 果を指す場合にも使われます。ここではその後者の意味です。つまりそういう結果は避けられない、必ずそういう結 果に至るということです。
ある人はそのため、私は家族がみんな死んで、波風立たない状況になったら信じます、などと言います。しかしその ようにして人との平和を大事にするあまり、 最も大事な神との関係を後回しにして良いのでしょうか。神との関係は、私の永遠の運命と関わる最も重大なことで す。むしろ私たちは使徒の働き16章31節 に「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」という御言葉の勧めに従うべきで す。しかしその一方、私たちは安易な夢を描 いてはならないのです。私がイエス様の側に付くという態度をはっきりさせるなら、イエス様の側に付かない人々と の間にある種の区別、違い、分裂が生じるの は当然です。何においてもそうです。その時、私に問われることは、私は何を第一にするのか、ということです。そ の時に人間的に願わしい結果が生じなくて も、驚くべきではないのです。それは当然起こり得ることだとイエス様は述べて、私たちに正しい心構え、覚悟を求 めているのです。
そう述べたイエス様は、54節から群衆に向かって決断を求めて行きます。いよいよ世の終わりが近づいている今、 あなたがたはどっちに付くのか、と。イエス 様はここで「あなたがたは、西に雲が起こるのを見るとすぐに、『にわか雨が来るぞ』と言い、事実そのとおりにな ります。また南風が吹きだすと、『暑い日に なるぞ』と言い、事実そのとおりになります。」と述べ、そのように「地や空の現象を見分けることを知りながら、 どうして今のこの時代を見分けることができ ないのですか。」とチャレンジしています。イエス様がここで言っている「今のこの時代」とは、イエス様が来てい るという時代のことです。ついに神の子メシ ヤなるお方が来ています。その力あることばに、また様々な癒しや悪霊追い出しのみわざに、神が特別な力を持って 臨んでいることがあかしされています。その ことはいよいよこの世界の歴史は最終段階に入っていることを示しています。すなわち最後の救いがそこまで迫って いること、また裏を返せば、神がすべてを精 算し、悪を滅ぼす最後のさばきがそこまで迫っていることを示しています。そのような時代に今あるのに、なぜそれ を読み取り、自分の運命にために正しく対処 しないのか、とイエス様は言われます。そして58節から、裁判官のところに一緒に歩いて行く人のたとえを語って います。話の文脈は最後のさばきですから、 このたとえもその線に沿って理解すべきです。つまり私たちもたとえの中の彼と同じように、最後のさばきに向かう 道の途中を歩いている者たちであるというこ とです。私たち神の前に罪ある者は、そのまま歩いて行って裁判所に着いてしまったら望みはない。裁判が行なわ れ、執行人に引き渡され、牢に投げ入れられ、 最後の1レプタを支払うまでそこから決して出られない。1レプタというお金は、ユダヤのお金としては最も小さい ものです。その1レプタに至るまで完全に支 払わなければそこから出ることはできない。この意味は、刑が執行されたら、もはや少しもまけてもらうことはでき ないということです。もっとはっきり言え ば、一旦そこに入ってしまえば、もうそこからは出られない。永遠にそこに閉じ込められたままとなってしまう。だ からその刑が確定する前に、裁判官所に着く 前に和解をしなさい、その前に手を打ちなさい、ということです。
多くの人がそう聞いてもなかなか手を打とうとしない理由の一つは、最後のさばきを軽く考えているということがあ ると思います。たとえそこに至ってもまだ大 丈夫だろう、と考える。あるいはたとえ天国に行けないとしても、そんなにひどい場所に行かされることはないはず だ、と。しかし聖書はそう言っていません。 たとえば後に見る金持ちと貧乏人ラザロのたとえにおいて、ハデスに落ちた金持ちはこう叫びます。「私をあわれん でください。ラザロが指先を水に浸して私の 舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。」 また黙示録21章 に、イエス・キリストを信じなかった者、す なわちいのちの書に名の記されていない人は、「火の池に投げ込まれた」とあります。そしてそこで一瞬で消滅する ならまだいいのですが、マタイ25章46節 に「こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」とありますから、そ れは永遠に続くものです。これを本当に受け 止める時、私たちは一刻も早く解決しなくては、と駆り立てられるのです。私たちは今、裁判所に至る途中を歩いて います。いつイエス様が再臨し、チャンスは そこまで!と言われるか分かりません。ですから私たちは遅過ぎない内に、真に和解すべき神との間に和解を持つべ きなのです。
そのための方法とは、イエス・キリストを救い主として信じ、従うことです。イエス様は「それが成し遂げられるま では、どんなに苦しむことでしょう。」と言 いつつ、私たちのために十字架への道を歩き、私たちが支払うべき最後の1レプタまですべて払ってくださいまし た。この方を、私の救い主として信じ、告白 し、受け入れる時に、私たちは神と和解することができるのです。今ここにある時からです。ヨハネの福音書5章 24節にこうあります。「まことに、まこと に、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さ ばきに会うことがなく、死からいのちに移っ ているのです。」
私たちはどうでしょうか。イエス・キリストが地上におられたこの時でさえ、イエス様は「なぜ今のこの時代を見分 けることができないのか。」と言われまし た。その時に比べて、すでにイエス様の十字架、復活、昇天、天からの聖霊の注ぎという神のプログラムは終了して います。聖書が示している次のプログラム は、イエス・キリストの再臨です。私たちはまさに裁判官のところに着く一歩手前のところを歩いています。明日に もその日が臨んでもおかしくありません。そ れまでに解決をしなければ、その先にあるのは取り返しのつかない将来です。そこに至ることがないように、神は尊 い御子を救い主として与えてくださいまし た。そして御子を通して「今の内に熱心に和解せよ」と語っていてくださいます。このキリストにより頼み、従うと ころに、最後のさばきを免れ、救いに入れて いただく唯一の道があるのです。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたし を遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを 持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」