ルカの福音書 13:31-35

ああ、エルサレム

今日の箇所は「ちょうどそのとき、何人かのパリサイ人が近寄って来て、イエスに言った。」と始まります。その内 容は「ヘロデがあなたを殺そうとしているから、早くここから出て、他の所へ行きなさい!」というものでした。 果たしてパリサイ人たちは、どういうつもりでこの忠告をしたのでしょうか。イエス様に対する親切心からでしょう か。 少し前の11章53節に、パリサイ人たちは律法学者と組んでイエス様に激しく敵対し、言いがかりをつけようと 計った、 とありました。ですからそこには何か裏があったのではないかとも想像されます。ヘロデはかつてバプテスマのヨハ ネの首を 切った人です。彼はついにイエス様も邪魔に思って除き去ろうとしていたのかもしれません。そのニュースを聞きつ け、 それを利用してパリサイ人たちはイエス様をこの地方から追い出そうとしたのか、あるいはヘロデ王と共謀してイエ ス様を 追い出そうとしたのか。さらにはイエス様を早くエルサレムへと追い立てて、そこで痛い目に会わせてやろうと目論 んでい たのか。その正確な動機ははっきりとは分かりません。

しかし、私たちが注目すべきは、パリサイ人たちの動機よりも、イエス様の答えです。イエス様はヘロデを指して 「行って、あの狐にこう言いなさい。」と言われます。32~33節:「よく見なさい。わたしは、きょうと、あす とは、 悪霊どもを追い出し、病人をいやし、三 日目に全うされます。だが、わたしは、きょ うもあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえな いからです。」 まずイエス様はここで、ご 自分の行動の基準について述べておられます。イエス様は、ヘロデがあなたを殺そうとしていると聞いて、それじゃ 大変だ!と、ご自分の生き方を変えてはおら れません。イエス様はそれとは関係なく、ご自身の道を歩み続けられます。すなわちこれまでと同じように神の国を 宣べ伝える働きをして、ご自身の使命を全う して行かれる。33節では「だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。」と言って います。ここに出て来る「~しなければなら ない」という表現は、神のご計画を指す表現です。イエス様はご自分の思いで歩んでいるのではなく、神の御心に 従って歩んでおられたのです。

そして、このイエス様の姿勢とセットになっているのが、父なる神の摂理に対する全き信頼です。なぜイエス様は、 ヘロデがあなたを殺そうとしていると言われ たのに、慌てず、心騒がせず、これまでと同じ歩みに専心没頭できたのでしょうか。それは神こそが主権者であり、 神がわたしに定めた地上の人生は最後まで必 ず成し遂げられると信頼していたからです。だから今日と明日とは悪霊どもを追い出し、病人をいやし、三日目に全 うされると告白された。ここに私たちも様々 な恐れに振り回されず、なすべき歩みに没頭するための秘訣があります。

12章23節で「いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。」というイエス様の 言葉を見ました。私たちにいのちと体を与え た神は、私たち一人一人の人生に明確な目的と計画を持っておられ、それが成し遂げられる前に食べ物がなくなった り、着物がなくなることはないし、命が失わ れることもない。私に対する神の計画が全うされた時のみ、神は私をご自身のみもとへと引き寄せられる。もし私た ちがこの真理をしっかり心に留めるなら、多 くの恐れから解放されるのではないでしょうか。私は前にこの真理が分かってからは、乗りたくない飛行機にも乗れ るようになったと述べました。あるいは何ら かの病気の兆候が現れた時もそうです。病院で見てもらうことは大切ですが、ともすると私たちは心配だけで日々を 過ごしてしまいやすい。しかし神が私に定め た一生の計画がみな成し遂げられるまでは、私が天に召されるということはない。もし私たちが今日の箇所のイエス 様の立場にあって、ヘロデがあなたを殺そう としていると聞いたらどうでしょう。心配で浮足立つでしょうか。しかしイエス様はそうなりませんでした。その恐 れを乗り越えさせたのは、父なる神への全き 信頼です。詩篇112篇7節:「その人は悪い知らせを恐れず、主に信頼して、その心は揺るがない。」 すべてを 支配し、私たちの人生を主権を持って全うさ せて下さる神を真に仰ぐ時、私たちは静かな心で、自分のなすべきことへと集中できるのです。そして私たちもイエ ス様と同じように言うことができます。「私 は今日も明日も進んで行く。そして神の目的がみな成し遂げられた時に、神によって全うされる。」と。

このように父なる神に信頼したイエス様がご自分の行き先としてしっかり見据えていたものがありました。それはエ ルサレムでの死、すなわち十字架です。この 十字架の死はイエス様にとっても、身の毛もよだつような恐ろしい出来事です。それは私たちの罪をすべてその身に 背負い、神の怒りを一身に引き受ける死で す。9章51節でエルサレムに向かって出発する時、イエス様は「御顔をまっすぐエルサレムへ向けられた」とあり ました。また12章50節では「しかし、わ たしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。」と、ご自身 の中に大きな戦いがあることを吐露されまし た。にもかかわらず父なる神の御心に従い、十字架に焦点を定めて、ご自身をささげておられるイエス様の姿を私た ちはここにも見るのです。私たちが改めて知 るべきは、イエス様の十字架は成り行きでそうなったものではないし、また弱い人の姿でもない。むしろ私たちはこ こに誰よりも強い、愛に満ちたお方の姿を見 るのです。後には「どうかこの杯をわたしからこれを取りのけてください!」と祈り、また「わが神、わが神、どう してわたしをお見捨てになったのですか!」 と叫びながらも、なお最後までご自身をささげて行かれるイエス様。私たちの救いは、このように私たちを愛し、御 心に従い、ご自身をささげ切ってくださった イエス様の尊い犠牲と献身とによって勝ち取られたのです。私たちはこのようにして備えられた救いを決してないが しろにしてはいけないのです。

さて、イエス様はこれから向かわれるエルサレムを思った時、その町のために嘆かれました。33節:「ああ、エル サレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自 分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集 めようとしたことか。それなのに、あなたが たはそれを好まなかった。」 これは旧約時代の神の働きを含めて語った言葉かもしれません。神はイスラエルを守 り、保護し、祝福するために、繰り返し慈し みの御手を広げて来られました。ところが彼らはこの神の招きを退けたのです。そしてこれからエルサレムに行かれ るイエス様に対して、いよいよ決定的な拒絶 をしようとしている。しかし注目すべきは、そんな彼らをイエス様はなお心にかけ、あわれんでおられることです。 「ああ、エルサレム、エルサレム」と2回繰 り返された言葉は、この町に対するイエス様の思いの深さを表しています。イエス様はなお彼らの救いを心から望ん でおられた。エゼキエル書33章11節: 「わたしは誓って言う。――神である主の御告げ――わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態 度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改 めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」 Ⅰテモテ2章4節: 「神は、すべての人が救われて、真理を知るよ うになるのを望んでおられます。」 Ⅱペテロ3章9節:「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約 束のことを遅らせておられるのではありませ ん。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びず、すべての人が悔い改めに進む ことを望んでおられるのです。」

しかし、あわれみはいつまでもあるのではありません。これほどまでして備えられた救いを退けるなら、さばきを免 れることはできません。35節に「見なさ い。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。」とあります。これはエルサレムについて言えば、紀元70年の エルサレム陥落において成就しました。しか しこれは今日にも当てはまります。私たちも差し出されている恵みを退け続けるなら、ついには神の祝福を失い、荒 れ果てる。国も、町も、教会も、それぞれの 家庭も、個々人の生活も。

35節最後の部分はどういう意味でしょうか。そこに、やがてあなたがたはわたしを見る、その時、あなたがたは 「祝福あれ。主の御名によって来られる方 に。」と言う、とあります。これはいつのことでしょうか。ある人はこれはイエス様がやがてエルサレムに入城する 時のことではないかと言います(19章35 節)。しかしそれは弟子たちが言ったのであって、エルサレムの人々ではありません。これはやがての主の再臨を指 すと取るのが良いと思います。その時、イエ ス様を受け入れなかった人々も、イエス様の本当の姿を認めて、「祝福あれ。主の御名によって来られる方に。」と 言う。ピリピ2章11節に「すべての口が、 『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられる」とあります。「すべての口」とは文字 通りすべての口であり、やがての日にはイエ ス様の反対者たちでさえ、そのことを認めざるを得なくなる。もちろん大きな後悔と共に、です。黙示録1章7節: 「見よ。彼が、雲に乗って来られる。すべて の目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」 も うその時では遅い。だからそうならないよう に、自分の歩みを正しく選択せよ!とイエス様は警告しているのです。

私たちは改めて今日の御言葉を通して、イエス様が私たちの救いのためにどんなに大きな愛と犠牲をささげてくだ さったかを知ります。イエス様はご自身の身の 安全のためではなく、ひたすら私たちの救いを成し遂げるために、定められた恐るべき十字架の死を常にしっかり見 据えて、その道を進んでくださいました。そ のことを思うなら、いよいよ重要さを増してくるのは私たちの応答です。

まず、すでに信仰告白している者は、改めてこの主のお姿に感謝したいと思います。このイエス様の犠牲と献身とに よって、私の救いは備えられました。「あ あ、エルサレム、エルサレム」と言われたように、私たちはイエス様にそのように愛され、覚えられた者たちです。 知らないところでイエス様のとりなしと涙が あったのです。私たちはこの救いを今一度心に深く刻み、感謝して、これを受け取り直したい。またイエス様が、あ あエルサレム、エルサレムと嘆かれたその姿 を映し出すように、私たちも周りの方々に関わり、主の救いの翼がさらに拡げられ、御心が実現して行くように仕え たいと思います。

また、まだ信仰を告白していない方に覚えていただきたいことは、イエス様はあなたがこの救いを受け取ることを切 に願っておられるということです。ああエル サレム、エルサレムと言われたその思いをもって、心から求めておられる。しかしそこにはタイムリミットもありま す。もしこの招きに応答しないなら、その人 はやがての日に嘆きと後悔をもって「祝福あれ。主の御名によって来られる方に。」と言いつつイエス様を迎えなけ ればなりません。そうならないように!むし ろ喜んで再び来たりたもうイエス様を迎えられるように!今日と言われている日の内に、この尊い救いを受け入れ、 かの日の栄光に導き入れられていただける祝 福の歩みへと進んでまいりたく思います。