ルカの福音書 14:1-14
自分を低くする者
イエス様はパリサイ派のある指導者の家に入り、食事の席に着かれます。安息日の礼拝をささげた後、その日の説教 者を招いて食事をしながら、さらに親しく教 えを請うことは当時しばしばあったようです。礼拝を通して力づけられ、安息日をさらに有意義なものとするため、 そのように時間を用いることは良いことだっ たと思いますし、食事の交わりはやがての真の安息を映し出すものであって良いはずでした。ところがイエス様が入 られた家には異様な雰囲気がありました。み んながイエス様をじっと見つめています。そして真正面には、水腫を患っている人がいます。人々の関心は、果たし てイエスはこの人を癒すのかどうか、そして 安息日に働いてはならないという規定を破るのかどうか、ということ。それを見て、後々訴えたいという思惑があっ たのでしょう。イエス様はそれを知って3節 で言われます。「安息日に病気を直すことは正しいことですか。それともよくないことですか。」 彼らは黙ってい た、とあります。もし病気を直すことが正し いと言えば、自らも安息日の規定を破ることになります。しかしだからと言って、病気を直してはならないと言え ば、あわれみの心のかけらもない無慈悲な人た ちと思われます。そんな彼らの前で、イエス様はその人を抱いて癒し、帰されました。安息日はこのような憐れみの わざを行なう日としてふさわしい日であるこ とは、13章10~17節で見ました。そしてイエス様は5節で再び彼らに問われます。「自分の息子や牛が井戸に 落ちたのに、安息日だからと言って、すぐに 引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」 これについても彼らは答えることができませんで した。ここに律法の専門家やパリサイ人たち の義の空虚さが示されています。彼らは安息日の規定をたくさん作り、それを守っている自分たちは正しい人、それ を守らない人々はどうしようもない罪人と裁 いていました。しかしそんな彼らの義の基準は何と頼りないものでしょうか。イエス様に問われて、矛盾が暴露され ています。彼らが誇る義はそんな程度の義な のです。
続く7節以降の記事は今の話とつながっています。招かれている人々が上座を選んでいる様子をイエス様はご覧にな りました。なぜ彼らはそうするのでしょう か。それは自分は偉くありたいし、人々からもそのように認めてもらいたいからです。律法をきちんと守っている人 間として、それ相応に高く評価されたい。そ んな彼らを見てイエス様はたとえを話されました。8~11節:「婚礼の披露宴に招かれたときには、上座にすわっ てはいけません。あなたより身分の高い人 が、招かれているかもしれないし、あなたやその人を招いた人が来て、『この人に席を譲ってください』とあなたに 言うなら、そのときあなたは恥をかいて、末 席に着かなければならないでしょう。招かれるようなことがあって、行ったなら、末席に着きなさい。そうしたら、 あなたを招いた人が来て、『どうぞもっと上 席にお進みください』と言うでしょう。そのときは、満座の中で面目を施すことになります。なぜなら、だれでも自 分を高くする者は低くされ、自分を低くする 者は高くされるからです。」 一見分かりやすい話です。特に謙遜を美徳とする日本人にとっては、常識だと思うか もしれません。ユダヤ人は上座を巡って争い ましたが、日本人は反対に末席を争います。そして誰かふさわしくないと思う人が上座にすわると、反感や軽蔑の念 を抱く。そして思うのです。「私はあのよう にはしたない人間、わきまえのない人間ではない」と。そうして自分の義を立てるとしたら、結局同じです。
このイエス様の話のポイントは何でしょうか。それは自分で自分を持ち上げることの愚かさです。その人はもっと上 座へ、もっと上座へと画策しますが、ついに は招いた人がやって来て「あなたはもっと下の方へ行ってください。」と言われる。そしてみなの前で大恥をかく。 ここに示されている真理は、あなたの席順を 決めるのはあなたではなく、その家のホストであるということです。そしてこのたとえが示す霊的な真理は、あなた の評価を決めるのはあなたではなく、神であ るということです。ですから私たちは自分で自分を持ち上げるのではなく、神が私をどう見ておられ、どう評価され るか、に心を向けて歩む者でなくてはなりま せん。
では、神が私たちを評価する際の基準は何でしょうか。11節:「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者 は高くされる。」 律法の専門家やパリサイ 人のように、自分の義を誇り、自分を高くする人は低くされます。なぜなら彼らが誇る義は神の目の前には中身のな いものだからです。そんな義に頼って、勝手 に上席についても、やがての最後の審判の日に神から「あなたはこの場所を他の人に譲って、もっと下がりなさ」と 言われる。そしてここでもっと下に下がると は、救いの恵みの外に追い出されるということでしょう。では神によって高くされる人とはどんな人でしょうか。そ れは「自分を低くする人」です。律法の専門 家やパリサイ人たちとは反対に、自分の義を主張しない人、自分を何か立派な者のようにアピールしない人、むしろ 自分が貧しい存在であることを認め、自分が いるべき場所は末席でしかないと思っている人です。そういう人が神よってやがての日に思わぬ高い場所に引き上げ られる!これはそのような謙遜が一つの美徳 として数えられて高くされるという意味ではありません。貧しい者が自分を貧しい者と認識するのは当然のことで す。しかし素晴らしいことは、神はそのような へりくだった人をただ恵みによって高くしてくださる。詩篇34篇18節:「主は心の打ち砕かれた者の近くにおら れ、霊の砕かれた者を救われる。」 ヤコブ 書4章6節:「神は、高ぶる者を退け、ヘリくだる者に恵みをお授けになる。」 また後に見るルカ18章の「パリ サイ人と取税人の祈りのたとえ」も同じで す。私はこれこれこのように立派な行ないができていることを感謝します、と自分の義を誇ったパリサイ人ではな く、「神よ。この罪人の私をあわれんでくださ い。」と末席で祈った取税人が、神の前に良しとされました。そのたとえの最後も「だれでも自分を高くする者は低 くされ、自分を低くする者は高くされるから です。」という言葉で締めくくられています。
私たちは私を評価される神の御前で自分を振り返ってどうでしょうか。いつの間にかパリサイ人のように自分を持ち 上げ、上座につく生活をして、神から「あな たは下がってください。」と言われることはないでしょうか。私たちはやがて私たちをさばかれる神の前で自分を評 価すべきです。私たちは聖なる神の前では決 して高ぶることなどできない存在です。あらゆるところに罪のしみがあり、何ら良いところがないあわれな存在で す。しかしグッド・ニュースは、そういう自分 であることをそのまま認めて神の前にへりくだるなら、神はその者をただ恵みによって高くしてくださる。すなわち イエス・キリストの十字架を通して、私たち の罪を赦し、私たちを受け入れ、高きに引き上げ、祝福してくださる。私たちはこのような神を見上げて感謝し、一 層恐れずにへりくだった歩みをすれば良いの です。自分を持ち上げず、他の人を高く見て尊敬し、末席に着くことに満足し、人々の間ではみなが喜んでやらない ような仕事を率先してやる。そのような真の 謙遜に歩む人を神はやがて高い位置に上らせて下さるのです。
三つ目の区分になりますが、イエス様は12~14節で招いてくれた人に向かっても語られました。12節に「昼食 や夕食のふるまいをするなら、友人、兄弟、 親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。」とありますが、これは一切こういうことをしてはならないという 意味ではありません。イエス様が指摘してい ることは、私たちは自分にお返しをしてくれそうな人ばかりを選んでもてなしをしたり、お付き合いしているという ことです。誰かに何かをしてあげても、見返 りを求めているなら、何の良いこともありません。それは敬虔さを装ってはいますが、形を変えた自己中心でしかあ りません。自分の生活を振り返ると、無意識 の内にもそのように行動している自分を見出すのではないでしょうか。誰かに何かをしてあげると、心のどこかでは その返礼を期待する。そして適当なお返しが 戻って来ないと、あの人はけちだと非難し、見下し、もうこれ以上親しく付き合わないと決心する。これでは結局、 偽善と虚勢を互いに交換しているだけで、神 の前に何ら称賛に値するものとはなりません。
では、どうすべきでしょう。イエス様は13節で「祝宴を催す場合には、むしろ、貧しい者、からだの不自由な者、 足のなえた者、盲人たちを招きなさい。」と 言っています。つまりお返しができない人を招きなさい、ということです。もしこのようなわざができるとすれば、 それは私たちが神が私にしてくださったこと に心から感謝し、その恵みに心動かされている時のみでしょう。神の愛を知り、感謝している者として、神が私にし てくださったように私も他の人にする。そう する人にイエス様はさらに素晴らしい祝福を約束しています。14節:「義人の復活のときお返しを受けるからで す。」 箴言19章17節:「寄るべのない者 に施しをするのは、主に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる。」 マタイ25章40節:「あなたがたが、 これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さ い者たちの一人にしたのは、わたしにしたのです。」 このように地上で持てるものを困難にある人、必要を覚えて いる人に分け与えることこそ、宝を天に積む ことだと聖書で言われています。この世で報いがなくても、神はそれを見漏らさず、ご自身が代わりに報いてくださ る。
私たちが今日の箇所から改めて心に覚えたいことは、私を最終的に評価されるお方は神であられるということです。 私が自分をどう考えているかが私の席順を決 めるのではないのです。その神の前で私たちはどうでしょうか。空しく誇る歩みをしていないでしょうか。あなたは もっと下がってください、とかの日に言われ て、恥をかくようなことはないでしょうか。神は高ぶる者を退け、ヘリくだる者に恵みをお授けになります。私たち に必要なのは、この神の御前で真にへりく だった心を持つ者となること、そしてそれが外側に現れるような生活をすることです。言い換えるなら、神がこんな 罪深く貧しい者をただ恵みによって受け入れ てくださることを知る喜びと感謝と平安と満足を持って、低い位置を喜んで取る生活をすること、そして弱い人・貧 しい人・苦しんでいる人を心にかけ、仕える 歩みをすること。そうする人に主は約束しておられます。「その人たちはお返しができないので、あなたは幸いで す。義人の復活のときお返しを受けるからで す。」 この言葉に励まされて、私たちは私たちの生活を通してさらに神の国が広げられ、神の栄光がほめたたえら れるための歩みを御前にささげたいと思いま す。
イエス様はパリサイ派のある指導者の家に入り、食事の席に着かれます。安息日の礼拝をささげた後、その日の説教 者を招いて食事をしながら、さらに親しく教 えを請うことは当時しばしばあったようです。礼拝を通して力づけられ、安息日をさらに有意義なものとするため、 そのように時間を用いることは良いことだっ たと思いますし、食事の交わりはやがての真の安息を映し出すものであって良いはずでした。ところがイエス様が入 られた家には異様な雰囲気がありました。み んながイエス様をじっと見つめています。そして真正面には、水腫を患っている人がいます。人々の関心は、果たし てイエスはこの人を癒すのかどうか、そして 安息日に働いてはならないという規定を破るのかどうか、ということ。それを見て、後々訴えたいという思惑があっ たのでしょう。イエス様はそれを知って3節 で言われます。「安息日に病気を直すことは正しいことですか。それともよくないことですか。」 彼らは黙ってい た、とあります。もし病気を直すことが正し いと言えば、自らも安息日の規定を破ることになります。しかしだからと言って、病気を直してはならないと言え ば、あわれみの心のかけらもない無慈悲な人た ちと思われます。そんな彼らの前で、イエス様はその人を抱いて癒し、帰されました。安息日はこのような憐れみの わざを行なう日としてふさわしい日であるこ とは、13章10~17節で見ました。そしてイエス様は5節で再び彼らに問われます。「自分の息子や牛が井戸に 落ちたのに、安息日だからと言って、すぐに 引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」 これについても彼らは答えることができませんで した。ここに律法の専門家やパリサイ人たち の義の空虚さが示されています。彼らは安息日の規定をたくさん作り、それを守っている自分たちは正しい人、それ を守らない人々はどうしようもない罪人と裁 いていました。しかしそんな彼らの義の基準は何と頼りないものでしょうか。イエス様に問われて、矛盾が暴露され ています。彼らが誇る義はそんな程度の義な のです。
続く7節以降の記事は今の話とつながっています。招かれている人々が上座を選んでいる様子をイエス様はご覧にな りました。なぜ彼らはそうするのでしょう か。それは自分は偉くありたいし、人々からもそのように認めてもらいたいからです。律法をきちんと守っている人 間として、それ相応に高く評価されたい。そ んな彼らを見てイエス様はたとえを話されました。8~11節:「婚礼の披露宴に招かれたときには、上座にすわっ てはいけません。あなたより身分の高い人 が、招かれているかもしれないし、あなたやその人を招いた人が来て、『この人に席を譲ってください』とあなたに 言うなら、そのときあなたは恥をかいて、末 席に着かなければならないでしょう。招かれるようなことがあって、行ったなら、末席に着きなさい。そうしたら、 あなたを招いた人が来て、『どうぞもっと上 席にお進みください』と言うでしょう。そのときは、満座の中で面目を施すことになります。なぜなら、だれでも自 分を高くする者は低くされ、自分を低くする 者は高くされるからです。」 一見分かりやすい話です。特に謙遜を美徳とする日本人にとっては、常識だと思うか もしれません。ユダヤ人は上座を巡って争い ましたが、日本人は反対に末席を争います。そして誰かふさわしくないと思う人が上座にすわると、反感や軽蔑の念 を抱く。そして思うのです。「私はあのよう にはしたない人間、わきまえのない人間ではない」と。そうして自分の義を立てるとしたら、結局同じです。
このイエス様の話のポイントは何でしょうか。それは自分で自分を持ち上げることの愚かさです。その人はもっと上 座へ、もっと上座へと画策しますが、ついに は招いた人がやって来て「あなたはもっと下の方へ行ってください。」と言われる。そしてみなの前で大恥をかく。 ここに示されている真理は、あなたの席順を 決めるのはあなたではなく、その家のホストであるということです。そしてこのたとえが示す霊的な真理は、あなた の評価を決めるのはあなたではなく、神であ るということです。ですから私たちは自分で自分を持ち上げるのではなく、神が私をどう見ておられ、どう評価され るか、に心を向けて歩む者でなくてはなりま せん。
では、神が私たちを評価する際の基準は何でしょうか。11節:「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者 は高くされる。」 律法の専門家やパリサイ 人のように、自分の義を誇り、自分を高くする人は低くされます。なぜなら彼らが誇る義は神の目の前には中身のな いものだからです。そんな義に頼って、勝手 に上席についても、やがての最後の審判の日に神から「あなたはこの場所を他の人に譲って、もっと下がりなさ」と 言われる。そしてここでもっと下に下がると は、救いの恵みの外に追い出されるということでしょう。では神によって高くされる人とはどんな人でしょうか。そ れは「自分を低くする人」です。律法の専門 家やパリサイ人たちとは反対に、自分の義を主張しない人、自分を何か立派な者のようにアピールしない人、むしろ 自分が貧しい存在であることを認め、自分が いるべき場所は末席でしかないと思っている人です。そういう人が神よってやがての日に思わぬ高い場所に引き上げ られる!これはそのような謙遜が一つの美徳 として数えられて高くされるという意味ではありません。貧しい者が自分を貧しい者と認識するのは当然のことで す。しかし素晴らしいことは、神はそのような へりくだった人をただ恵みによって高くしてくださる。詩篇34篇18節:「主は心の打ち砕かれた者の近くにおら れ、霊の砕かれた者を救われる。」 ヤコブ 書4章6節:「神は、高ぶる者を退け、ヘリくだる者に恵みをお授けになる。」 また後に見るルカ18章の「パリ サイ人と取税人の祈りのたとえ」も同じで す。私はこれこれこのように立派な行ないができていることを感謝します、と自分の義を誇ったパリサイ人ではな く、「神よ。この罪人の私をあわれんでくださ い。」と末席で祈った取税人が、神の前に良しとされました。そのたとえの最後も「だれでも自分を高くする者は低 くされ、自分を低くする者は高くされるから です。」という言葉で締めくくられています。
私たちは私を評価される神の御前で自分を振り返ってどうでしょうか。いつの間にかパリサイ人のように自分を持ち 上げ、上座につく生活をして、神から「あな たは下がってください。」と言われることはないでしょうか。私たちはやがて私たちをさばかれる神の前で自分を評 価すべきです。私たちは聖なる神の前では決 して高ぶることなどできない存在です。あらゆるところに罪のしみがあり、何ら良いところがないあわれな存在で す。しかしグッド・ニュースは、そういう自分 であることをそのまま認めて神の前にへりくだるなら、神はその者をただ恵みによって高くしてくださる。すなわち イエス・キリストの十字架を通して、私たち の罪を赦し、私たちを受け入れ、高きに引き上げ、祝福してくださる。私たちはこのような神を見上げて感謝し、一 層恐れずにへりくだった歩みをすれば良いの です。自分を持ち上げず、他の人を高く見て尊敬し、末席に着くことに満足し、人々の間ではみなが喜んでやらない ような仕事を率先してやる。そのような真の 謙遜に歩む人を神はやがて高い位置に上らせて下さるのです。
三つ目の区分になりますが、イエス様は12~14節で招いてくれた人に向かっても語られました。12節に「昼食 や夕食のふるまいをするなら、友人、兄弟、 親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。」とありますが、これは一切こういうことをしてはならないという 意味ではありません。イエス様が指摘してい ることは、私たちは自分にお返しをしてくれそうな人ばかりを選んでもてなしをしたり、お付き合いしているという ことです。誰かに何かをしてあげても、見返 りを求めているなら、何の良いこともありません。それは敬虔さを装ってはいますが、形を変えた自己中心でしかあ りません。自分の生活を振り返ると、無意識 の内にもそのように行動している自分を見出すのではないでしょうか。誰かに何かをしてあげると、心のどこかでは その返礼を期待する。そして適当なお返しが 戻って来ないと、あの人はけちだと非難し、見下し、もうこれ以上親しく付き合わないと決心する。これでは結局、 偽善と虚勢を互いに交換しているだけで、神 の前に何ら称賛に値するものとはなりません。
では、どうすべきでしょう。イエス様は13節で「祝宴を催す場合には、むしろ、貧しい者、からだの不自由な者、 足のなえた者、盲人たちを招きなさい。」と 言っています。つまりお返しができない人を招きなさい、ということです。もしこのようなわざができるとすれば、 それは私たちが神が私にしてくださったこと に心から感謝し、その恵みに心動かされている時のみでしょう。神の愛を知り、感謝している者として、神が私にし てくださったように私も他の人にする。そう する人にイエス様はさらに素晴らしい祝福を約束しています。14節:「義人の復活のときお返しを受けるからで す。」 箴言19章17節:「寄るべのない者 に施しをするのは、主に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる。」 マタイ25章40節:「あなたがたが、 これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さ い者たちの一人にしたのは、わたしにしたのです。」 このように地上で持てるものを困難にある人、必要を覚えて いる人に分け与えることこそ、宝を天に積む ことだと聖書で言われています。この世で報いがなくても、神はそれを見漏らさず、ご自身が代わりに報いてくださ る。
私たちが今日の箇所から改めて心に覚えたいことは、私を最終的に評価されるお方は神であられるということです。 私が自分をどう考えているかが私の席順を決 めるのではないのです。その神の前で私たちはどうでしょうか。空しく誇る歩みをしていないでしょうか。あなたは もっと下がってください、とかの日に言われ て、恥をかくようなことはないでしょうか。神は高ぶる者を退け、ヘリくだる者に恵みをお授けになります。私たち に必要なのは、この神の御前で真にへりく だった心を持つ者となること、そしてそれが外側に現れるような生活をすることです。言い換えるなら、神がこんな 罪深く貧しい者をただ恵みによって受け入れ てくださることを知る喜びと感謝と平安と満足を持って、低い位置を喜んで取る生活をすること、そして弱い人・貧 しい人・苦しんでいる人を心にかけ、仕える 歩みをすること。そうする人に主は約束しておられます。「その人たちはお返しができないので、あなたは幸いで す。義人の復活のときお返しを受けるからで す。」 この言葉に励まされて、私たちは私たちの生活を通してさらに神の国が広げられ、神の栄光がほめたたえら れるための歩みを御前にささげたいと思いま す。