ルカの福音書 14:25-5
費用を計算する
この時、イエス様と一緒に大ぜいの群衆が歩いていました。イエス様が次には何を話し、どんなことをされるのか、 人々は大きな注目と関心を持って旅を共にし ていたのでしょう。しかし何となくイエス様のそばにいること=イエス様の弟子であること、ではありません。イエ ス様はここで「~するのでなければ、わたし の弟子になることはできません」という言い方を3回繰り返しています(26節、27節、33節)。その一つ一つ を順番に見て行きたいと思います。
一つ目は26節:「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まな い者は、わたしの弟子になることができませ ん。」 最初から非常に衝撃的な言葉です。初めてこの言葉に接した人は憤慨し、キリスト教は何と危険な教えかと 思うのではないでしょうか。しかし聖書を読 んで知っている人なら、キリスト教は家族を大事にする宗教であることを知っています。十戒の第5戒に「あなたの 父と母を敬え」とあります。そしてさらに聖 書を読んでいる人が知っていることは、このような場合の「憎む」という表現は積極的な意味ではなく、比較の表現 であるということです。イスラエル人はある ことを選び、あることを他より優先する際、もう一方については「憎む」という表現を使いました。どちらも大切で あり、愛するものではあっても、それらがぶ つかった時にはどちらか一方を取らざるを得ない。その際に、最後に選び取った方を私たちは「より愛している」の であり、それと比較した言い方として、そう でない方は「憎んでいる」と言ってもおかしくないわけです。つまりイエス様はここで家族への愛を否定したり、軽 蔑しているのではなく、ご自身に対する愛は それ以上でなくてはならないと仰っているのです。
確かに肉親との関係はしばしば私たちとイエス様の関係の妨げとなります。イエス・キリストを信じて従おうとする と親が反対する、伴侶が反対する、子どもが 反対する、兄弟が反対する。これらの人々は私たちにとってかけがえのない人たちですから、その人々に反対される と私たちの心も弱くなりがちです。あるいは その人々が反対しなくても、私たちの側で、イエス様より親のことが、伴侶のことが、子どものことが、兄弟のこと が大事になって、色々な決心が鈍ってしま う。しかしイエス様はご自身に対する愛と忠誠が、彼らに対するそれよりも上回らなければならないと言われるので す。さらには自分のいのちまでも憎まない者 は、と言われます。単に家族関係だけが問題なのではなく、自分自身を可愛がる思いとさえ、戦わなくてはなりませ ん。それ以上にイエス様を第一とし、イエス 様の言うことに何でも従う者でなくてはならない。
二つ目は27節:「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」 今日、十字架はアクセサリーの一部であった り、教会堂の屋根に掲げられて、当時の人々が抱いたであろう嫌悪感をなかなか私たちは実感できないかもしれませ ん。十字架はおよそ考えられる中で最悪の死 に方です。その刑にかけられる人は、自分の十字架を負って、刑場まで歩いて行かなければなりませんでした。しば しば人々は、避けることができない自分が背 負っている苦しみを指して、これは私の十字架だ、と言います。ある人にとってそれは病、また経済的な苦境、また 人間関係における様々な困難でしょう。しか しここで言われているのは、イエス様に従うがゆえに負わなければならない苦しみや辱めのことです。たとえば前の 26節で見た通り、イエス様に従うために家 族から迫害されたり、見捨てられたることも含みます。あるいはキリスト者として生きるために職場で不当な仕打ち を受けること、学校でいじめられること、地 域社会で嫌がらせをされることもそうです。あるいは神の御国のための様々な労苦や犠牲もそうです。イエス様に真 に従おうとするなら、必ず苦しみを受けま す。Ⅱテモテ3章12節:「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けま す。」
三つ目は33節です。しかしそれに先立って、二つの短いたとえが語られています。その一つは28~30節の塔 を建てる人のたとえです。ここに言われてい ることは、何らかのプロジェクトに着手しようとするなら、その前に十分に費用を計算するということです。考えも なしに事を始めて、途中で資金が足りなく なったからと言って頓挫するようでは、笑いものにしかならない。つまりイエス様に従う歩みを始める際には、そこ に様々な労苦や犠牲が伴うことをしっかり考 慮に入れて歩み始める必要があるということです。
もう一つは31~32節の戦いに出る王のたとえです。相手が2万人を引き連れてやって来るのに、こちらが1万人 しかいないとすれば、どうすることが賢明 か。良く考えずにただやみくもに突進したら、取り返しのつかない滅びを身に招くだけです。しかしこの二つは微妙 に観点が違います。最初のたとえは、イエス 様に従う前に良く計算せよ!というメッセージです。しかし二つ目のたとえは、イエス様に対する態度を早く決めな いと、大変なことになるということです。向 かって来る王は神です。最後のさばきが来れば、罪ある人間はさばかれてしまいます。だからその前に平和を求め よ。すなわちイエス・キリストの弟子となり、 自分の救いを確かにせよ、ということです。
いずれにせよ、イエス様が言いたいのは33節:「そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨て ないでは、わたしの弟子になることはできま せん。」 これも読んだ瞬間に非常な衝撃を私たちに与える言葉です。このルカの福音書では特に強調されているこ とですが、財産やこの世の富はしばしば私た ちが神に従う歩みの妨げとなります。「あなたがたは神にも仕え、富にも仕えることはできません。」という御言葉 があるように、富は私たちの心の中で神のラ イバルになり得るのです。そして私たちの心の中心部分からついには神を追い出し、神に取って代わる私たちの偶像 になりやすい。ですから私たちはお金が自分 の神にならないように、喜んでこれを2番目の位置に置くということです。神が必要とされるなら、いつでも喜んで 財産全部を差し出し、活用することができる 自由さを持っていなければならないのです。
このようなイエス様の言葉を聞くと、どうでしょうか。せっかくイエス様を信じ、従って行きたいと思っても、思わ ず尻込みしたくなるのではないでしょうか。 しかし私たちはこれらの言葉を何よりもイエス様ご自身の姿を指し示す御言葉として読む必要があると思います。イ エス様はわたしの弟子はこのようでなければ ならないと語っていますが、それはとりもなおさず、師であるイエス様がこのように歩んでおられるということで す。イエス様こそ、費用を良く計算し、すなわ ちご自身がこれから払う犠牲を良く見据えて、この歩みをしておられます。9章22節:「人の子は、必ず多くの苦 しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに 捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」 9章31節(高い山での変貌)。9章44 節:「人の子は、いまに人々の手に渡されま す。」 9章51節(御顔をエルサレムに固定)。12章50節:「わたしには、受けるバプテスマがあります。そ れが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむ ことでしょう。」 13章33節(エルサレムでの死を見つめつつ、なおエルサレムのために嘆く)。そして私たち はこれからいよいよイエス様が払われる犠牲 の大きさを見ることになります。イエス様は裏切られます。神の子としてあまりに不当な扱いを受けられます。殴ら れ、つばきをかけられ、平手で打たれ、目隠 しをされ、様々な仕方でもてあそばれます。そしてついには十字架の呪いの木に打ちつけられ、罪に対する神の怒り を一身に受け、「わが神、わが神、どうして わたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれます。イエス様はこれらの払うべき費用を良く計算し、それを見据 えてこの歩みを進めています。
そして私たちが思うべきは、これは私たちの救いのための歩みであったということです。本来私たちが刈り取らなけ ればならない罪の呪いを、イエス様が代わり に背負って歩んでくださったのです。そういうイエス様を見て、どうしてこの方に従うのはやめておこうという選択 が私たちにあるでしょうか。私たちはただた だ感謝し、ひれ伏して、このイエス様について行く歩みしかないはずです。確かにこのイエス様について行く生活に は困難や苦しみがあります。しかし私たちが 経験するであろう苦しみは、イエス様が担ってくださったことによってずっと軽くされた十字架です。たとえどんな 苦しみを味わっても、私の重荷を担ってくだ さったイエス様が共にいてくださり、私たちを下から支えてくださるのです。そしてイエス様は苦しみの道を通って 栄光へ入られたように、イエス様の後に従う 私たちの歩みも栄光へつながっています。そしてイエス様はこの贖いによってどんなに良いものを私たちのために取 り出してくださるか分かりません。イエス様 はペテロの姑をいやして下さった方。十字架上でも母マリヤを心にかけられた方。イエス様を他の何よりも愛し、従 う歩みをするなら、イエス様は私たちが考え る最善とは違う、神が考える本当の最善に私たちを導き、祝福してくださるのです。
最後の34~35節は「塩気」について語られています。ここで言う塩気とは、これまで見て来たように、イエス様 を第一に愛して歩む人が持つ性質のことで しょう。そういう人は塩気を持ち、周りの人々に神が望むような形で良い影響を与え、神に用いられる人となる。し かしイエス様を第一としなければ、私たちは 塩気をなくした塩のような人間になります。すなわち使いものにならない。存在意義がない。この世で自分のいのち を保ち、苦しみをうまくすりぬけて生きられ るかもしれませんが、何の意味もない人。
果たして私たちはどういう選択をする者でしょうか。私たちがまずすべきことはイエス様の姿をまず見つめることで す。イエス様は私たちの救いのために、とて つもない費用を払わなければならなかったのに、それをすべて分かった上でこの道を進んでくださいました。そして そのわざを成し遂げられたお方として、わた しの後に従って来なさい、と招いておられる。私たちはイエス様よりも家族や自分のいのちを大事にして、イエス様 に従わず、いのちを失う者でしょうか。それ ともイエス様を第一とする歩みを通して、イエス様が下さる最善を受けて歩む者でしょうか。また十字架を避けて楽 な道だけを進み、イエス様が下さる祝福から 外れる者でしょうか。それとも十字架を背負い、イエス様の後に従って栄光への道を踏み進んで行く者でしょうか。 また私たちは地上の財産に心奪われて、金持 ち農夫のようにやがて「愚か者」と言われる者でしょうか。それとも永遠のために地上の富を用いて、やがて天国銀 行にたくさんの宝が積まれていることに驚喜 する者でしょうか。私たちはまず座って正しい計算をすべきです。私たちのために尊い犠牲を払って救いを勝ち取っ てくださった主こそ、私たちを真に祝福して 下さるお方です。私たちは自分の考えによらず、主に信頼して、何よりも主を愛し、主に第一の忠誠を置いて従うと いう一番の幸いな道を、主への感謝と新しい 決心を持って歩みたいと思います。
この時、イエス様と一緒に大ぜいの群衆が歩いていました。イエス様が次には何を話し、どんなことをされるのか、 人々は大きな注目と関心を持って旅を共にし ていたのでしょう。しかし何となくイエス様のそばにいること=イエス様の弟子であること、ではありません。イエ ス様はここで「~するのでなければ、わたし の弟子になることはできません」という言い方を3回繰り返しています(26節、27節、33節)。その一つ一つ を順番に見て行きたいと思います。
一つ目は26節:「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まな い者は、わたしの弟子になることができませ ん。」 最初から非常に衝撃的な言葉です。初めてこの言葉に接した人は憤慨し、キリスト教は何と危険な教えかと 思うのではないでしょうか。しかし聖書を読 んで知っている人なら、キリスト教は家族を大事にする宗教であることを知っています。十戒の第5戒に「あなたの 父と母を敬え」とあります。そしてさらに聖 書を読んでいる人が知っていることは、このような場合の「憎む」という表現は積極的な意味ではなく、比較の表現 であるということです。イスラエル人はある ことを選び、あることを他より優先する際、もう一方については「憎む」という表現を使いました。どちらも大切で あり、愛するものではあっても、それらがぶ つかった時にはどちらか一方を取らざるを得ない。その際に、最後に選び取った方を私たちは「より愛している」の であり、それと比較した言い方として、そう でない方は「憎んでいる」と言ってもおかしくないわけです。つまりイエス様はここで家族への愛を否定したり、軽 蔑しているのではなく、ご自身に対する愛は それ以上でなくてはならないと仰っているのです。
確かに肉親との関係はしばしば私たちとイエス様の関係の妨げとなります。イエス・キリストを信じて従おうとする と親が反対する、伴侶が反対する、子どもが 反対する、兄弟が反対する。これらの人々は私たちにとってかけがえのない人たちですから、その人々に反対される と私たちの心も弱くなりがちです。あるいは その人々が反対しなくても、私たちの側で、イエス様より親のことが、伴侶のことが、子どものことが、兄弟のこと が大事になって、色々な決心が鈍ってしま う。しかしイエス様はご自身に対する愛と忠誠が、彼らに対するそれよりも上回らなければならないと言われるので す。さらには自分のいのちまでも憎まない者 は、と言われます。単に家族関係だけが問題なのではなく、自分自身を可愛がる思いとさえ、戦わなくてはなりませ ん。それ以上にイエス様を第一とし、イエス 様の言うことに何でも従う者でなくてはならない。
二つ目は27節:「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」 今日、十字架はアクセサリーの一部であった り、教会堂の屋根に掲げられて、当時の人々が抱いたであろう嫌悪感をなかなか私たちは実感できないかもしれませ ん。十字架はおよそ考えられる中で最悪の死 に方です。その刑にかけられる人は、自分の十字架を負って、刑場まで歩いて行かなければなりませんでした。しば しば人々は、避けることができない自分が背 負っている苦しみを指して、これは私の十字架だ、と言います。ある人にとってそれは病、また経済的な苦境、また 人間関係における様々な困難でしょう。しか しここで言われているのは、イエス様に従うがゆえに負わなければならない苦しみや辱めのことです。たとえば前の 26節で見た通り、イエス様に従うために家 族から迫害されたり、見捨てられたることも含みます。あるいはキリスト者として生きるために職場で不当な仕打ち を受けること、学校でいじめられること、地 域社会で嫌がらせをされることもそうです。あるいは神の御国のための様々な労苦や犠牲もそうです。イエス様に真 に従おうとするなら、必ず苦しみを受けま す。Ⅱテモテ3章12節:「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けま す。」
三つ目は33節です。しかしそれに先立って、二つの短いたとえが語られています。その一つは28~30節の塔 を建てる人のたとえです。ここに言われてい ることは、何らかのプロジェクトに着手しようとするなら、その前に十分に費用を計算するということです。考えも なしに事を始めて、途中で資金が足りなく なったからと言って頓挫するようでは、笑いものにしかならない。つまりイエス様に従う歩みを始める際には、そこ に様々な労苦や犠牲が伴うことをしっかり考 慮に入れて歩み始める必要があるということです。
もう一つは31~32節の戦いに出る王のたとえです。相手が2万人を引き連れてやって来るのに、こちらが1万人 しかいないとすれば、どうすることが賢明 か。良く考えずにただやみくもに突進したら、取り返しのつかない滅びを身に招くだけです。しかしこの二つは微妙 に観点が違います。最初のたとえは、イエス 様に従う前に良く計算せよ!というメッセージです。しかし二つ目のたとえは、イエス様に対する態度を早く決めな いと、大変なことになるということです。向 かって来る王は神です。最後のさばきが来れば、罪ある人間はさばかれてしまいます。だからその前に平和を求め よ。すなわちイエス・キリストの弟子となり、 自分の救いを確かにせよ、ということです。
いずれにせよ、イエス様が言いたいのは33節:「そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨て ないでは、わたしの弟子になることはできま せん。」 これも読んだ瞬間に非常な衝撃を私たちに与える言葉です。このルカの福音書では特に強調されているこ とですが、財産やこの世の富はしばしば私た ちが神に従う歩みの妨げとなります。「あなたがたは神にも仕え、富にも仕えることはできません。」という御言葉 があるように、富は私たちの心の中で神のラ イバルになり得るのです。そして私たちの心の中心部分からついには神を追い出し、神に取って代わる私たちの偶像 になりやすい。ですから私たちはお金が自分 の神にならないように、喜んでこれを2番目の位置に置くということです。神が必要とされるなら、いつでも喜んで 財産全部を差し出し、活用することができる 自由さを持っていなければならないのです。
このようなイエス様の言葉を聞くと、どうでしょうか。せっかくイエス様を信じ、従って行きたいと思っても、思わ ず尻込みしたくなるのではないでしょうか。 しかし私たちはこれらの言葉を何よりもイエス様ご自身の姿を指し示す御言葉として読む必要があると思います。イ エス様はわたしの弟子はこのようでなければ ならないと語っていますが、それはとりもなおさず、師であるイエス様がこのように歩んでおられるということで す。イエス様こそ、費用を良く計算し、すなわ ちご自身がこれから払う犠牲を良く見据えて、この歩みをしておられます。9章22節:「人の子は、必ず多くの苦 しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに 捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」 9章31節(高い山での変貌)。9章44 節:「人の子は、いまに人々の手に渡されま す。」 9章51節(御顔をエルサレムに固定)。12章50節:「わたしには、受けるバプテスマがあります。そ れが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむ ことでしょう。」 13章33節(エルサレムでの死を見つめつつ、なおエルサレムのために嘆く)。そして私たち はこれからいよいよイエス様が払われる犠牲 の大きさを見ることになります。イエス様は裏切られます。神の子としてあまりに不当な扱いを受けられます。殴ら れ、つばきをかけられ、平手で打たれ、目隠 しをされ、様々な仕方でもてあそばれます。そしてついには十字架の呪いの木に打ちつけられ、罪に対する神の怒り を一身に受け、「わが神、わが神、どうして わたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれます。イエス様はこれらの払うべき費用を良く計算し、それを見据 えてこの歩みを進めています。
そして私たちが思うべきは、これは私たちの救いのための歩みであったということです。本来私たちが刈り取らなけ ればならない罪の呪いを、イエス様が代わり に背負って歩んでくださったのです。そういうイエス様を見て、どうしてこの方に従うのはやめておこうという選択 が私たちにあるでしょうか。私たちはただた だ感謝し、ひれ伏して、このイエス様について行く歩みしかないはずです。確かにこのイエス様について行く生活に は困難や苦しみがあります。しかし私たちが 経験するであろう苦しみは、イエス様が担ってくださったことによってずっと軽くされた十字架です。たとえどんな 苦しみを味わっても、私の重荷を担ってくだ さったイエス様が共にいてくださり、私たちを下から支えてくださるのです。そしてイエス様は苦しみの道を通って 栄光へ入られたように、イエス様の後に従う 私たちの歩みも栄光へつながっています。そしてイエス様はこの贖いによってどんなに良いものを私たちのために取 り出してくださるか分かりません。イエス様 はペテロの姑をいやして下さった方。十字架上でも母マリヤを心にかけられた方。イエス様を他の何よりも愛し、従 う歩みをするなら、イエス様は私たちが考え る最善とは違う、神が考える本当の最善に私たちを導き、祝福してくださるのです。
最後の34~35節は「塩気」について語られています。ここで言う塩気とは、これまで見て来たように、イエス様 を第一に愛して歩む人が持つ性質のことで しょう。そういう人は塩気を持ち、周りの人々に神が望むような形で良い影響を与え、神に用いられる人となる。し かしイエス様を第一としなければ、私たちは 塩気をなくした塩のような人間になります。すなわち使いものにならない。存在意義がない。この世で自分のいのち を保ち、苦しみをうまくすりぬけて生きられ るかもしれませんが、何の意味もない人。
果たして私たちはどういう選択をする者でしょうか。私たちがまずすべきことはイエス様の姿をまず見つめることで す。イエス様は私たちの救いのために、とて つもない費用を払わなければならなかったのに、それをすべて分かった上でこの道を進んでくださいました。そして そのわざを成し遂げられたお方として、わた しの後に従って来なさい、と招いておられる。私たちはイエス様よりも家族や自分のいのちを大事にして、イエス様 に従わず、いのちを失う者でしょうか。それ ともイエス様を第一とする歩みを通して、イエス様が下さる最善を受けて歩む者でしょうか。また十字架を避けて楽 な道だけを進み、イエス様が下さる祝福から 外れる者でしょうか。それとも十字架を背負い、イエス様の後に従って栄光への道を踏み進んで行く者でしょうか。 また私たちは地上の財産に心奪われて、金持 ち農夫のようにやがて「愚か者」と言われる者でしょうか。それとも永遠のために地上の富を用いて、やがて天国銀 行にたくさんの宝が積まれていることに驚喜 する者でしょうか。私たちはまず座って正しい計算をすべきです。私たちのために尊い犠牲を払って救いを勝ち取っ てくださった主こそ、私たちを真に祝福して 下さるお方です。私たちは自分の考えによらず、主に信頼して、何よりも主を愛し、主に第一の忠誠を置いて従うと いう一番の幸いな道を、主への感謝と新しい 決心を持って歩みたいと思います。