ルカの福音書 15:11-24
放蕩息子の兄
ルカ15章の3つのたとえ話は、同じ一つの真理を語っていますが、そのクライマックスが今日の部分です。前回は 放蕩息子のたとえの前半までを見ました。遠 い国で湯水のように財産を放蕩し、どん底に落ちた息子が、悔い改めて父のもとへ帰って来ます。もはや子と呼ばれ る資格のない彼でしたが、父は駆け寄って彼 を赦し、大きな喜びを持って迎え入れてくださった。話はそこで頂点に達したかのようです。しかし今日の箇所に は、彼の兄がカンカンに怒っているという姿が 出て来ます。せっかくハッピーエンドで終わりそうだったのに、一気に暗い影が差して来ます。ある人は、こんな話 などない方が、誰にでも喜ばれる美しい話に なったのではないか、と言います。しかしたとえ話というものは、あることを説明するための話ですので通常、結論 は最後の方に来ます。そしてこのたとえが語 られた状況を考慮しますと、兄息子は直接的には誰を指すでしょうか。それは2節のパリサイ人、律法学者たちで す。彼らはそこで「この人は、罪人たちを受け 入れて、食事までいっしょにする。」とイエス様に対してつぶやいていました。それは弟息子を受け入れた父に対し て、文句を言っている兄息子の姿そのもので す。ですから今日の箇所こそ、ルカ15章のクライマックスであり、結論部分であると分かるのです。
兄息子は25節を見ると、この時も畑にいました。父の仕事を手伝っていたのでしょう。ところが帰って来て家に近 付くと、音楽や踊りの声が聞こえて来ます。 何事かと思って、しもべに尋ねますが、そのわけを聞いて彼は怒ります。そして自分のもとに来た父に向かって怒り を爆発させます。29~30節:「しかし兄 は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私 には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹 下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子 のためには、肥えた子牛をほふらせなさった のですか。』」 父と共に家に残り、優等生とばかり思われていた兄息子が突然爆発します。イエス様は何を言いた いのでしょうか。家でまじめに親に従う生活 ばかりしていると、こうなるから、弟のように一度奔放にはじけた方が良いということでしょうか。もちろんそうで はないでしょう。イエス様はこのたとえに よって、パリサイ人や律法学者たちの問題を浮き彫りにしようとしているのです。
この兄息子の大きな特徴の一つは、自分はよくやって来たという自負心が強くあることです。あの弟と違って、自分 は良い息子として歩んで来た。彼は言ってい ます。「長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一つもありません。」 しかし本当にそうでしょう か。それなら問わなければなりません。なぜ模 範的な息子が、父の喜ぶことを喜べないのか。どうして二人の間には、こんなにも大きな食い違いが見られるのか。 確かに兄息子は、目に見えるところではやる べきことをやり、場所的な意味では父のもとにとどまり続けたかもしれません。しかし心においては父から遠く離れ ていた「失われた息子」だったのです。
また彼は弟について「遊女におぼれて帰って来た」と言っています。どうしてまだ弟に会っていないのに、そのこと が分かるのでしょう。つまりこれは兄の邪推 なのです。なぜこんな邪推をしたのかと言えば、それは自分が弟の立場にあったら真っ先にしたであろうことがその ことだったからでしょう。だから弟もそれを やったに違いない、と決め込んでいる。つまり彼は自分は戒めを守って来たと言いつつ、心の中は姦淫の願いで満ち ていたのです。あいつはこんなことをして来 たに違いない、と人を非難しながら、実はそれは自分がしたいと思っていたことだったののです。
そして何と言っても、彼の本性がはっきり現れているのは、その言葉においてです。まず彼は父に「ご覧なさい!」 と言いました。この切り出し方自体、非常に 挑戦的であり、横柄な態度です。これは人に命令し、人を指導しようとする言葉です。目上の人、年長者に向かって 使う言葉ではありません。また新改訳は「私 はお父さんに仕え」と訳していますが、原文には「あなた」と書かれています。後で述べることとも関係しますが、 彼はここで自分を家族から切り離していま す。自分をこのように扱う人たちは私の家族ではない、私はそのようには認めないというニュアンスが示されていま す。また彼は「子山羊一匹下さったことがな い」と言っています。これは弟のために肥えた子牛がほふられたことと比較して述べたものです。子山羊は子牛に比 べたらずっと安価です。つまり兄息子は父親 をここで「あなたはどケチだ!」と言っているのです。こんな小さな、安物さえも私にはくれない。そして30節で は帰って来た弟を「あなたの息子」と表現し ています。「私の弟」と言っても良いはずなのに、彼はそう言いたくない。彼は自分と家族を切り離して、弟を見下 げ、また父も一緒に見下げているのです。こ れの一体どこが良い息子だと言えるのでしょうか。
ここから分かることは、この兄息子の問題、引いてはパリサイ人や律法学者たちの問題は、自分は周りの人たちとは 違って、正しい人間であると自負していたと いうことです。本当はそうでないところがたくさんあるのに、そのことには目を向けず、私は正しいと思い込んでい る。そういう人はいつも周りの人と自分を比 べ、私はこれこれのことをしているが、あの人はそれをしていない、と自分の心のメモ帳に記入します。それは自分 勝手な視点から付けたメモですから、自分に 都合のよい採点となり、それによって益々誤った自負心を強めます。このような人の悲しい結果は、すぐに不満を抱 きやすいことです。自分はこんなに良くやっ ているのに、周りから正当に扱われていない、と感じる。ですから他の人が祝福を受けた時に、一緒に喜ぶことがで きないのです。特に自分より資格がないと 思っている人が、自分を飛び越した祝福にあずかるのを見るや否や、激しい嫉妬心に駆られ、普段からたまっていた 不満が一気に爆発してしまう。
このような人が幸いな歩みに立ち返るための道はただ一つ、それは高ぶりを捨て、自分の本当の姿を認識することで す。たとえの中の兄息子は自分は落ち度がな い人間なのに、と誇りましたが、本当の彼は高慢で、怒りっぽく、恩知らずで、人の喜びを喜びとすることができ ず、何でも自分が一番でないと気が済まず、人 をねたみ、恨み、敵対心を顕わにし、暴言を吐き、みなに嫌な思いをさせる人です。それでもなおかつ私は正しいと 言い張り、自己憐憫に陥って泣き叫ぶ人で す。そんな彼は、自分をもう一度正しく知らなければなりません。すなわち自分は義を主張できるような者ではな く、むしろ罪深い者であって、恵みによらなけ れば生きて行かれない貧しい存在であるということです。そういう者としてこれまでもずっと多くの恵みを神から与 えられて来たし、また周りの人々の愛と配慮 に支えられて生きて来た。そのことを兄息子は父と共に生活する中で味わい、学んで来るべきでした。そうしていた なら、弟が帰って来て、父が迎え入れたこと を聞いた時、一緒に喜ぶことができたはずです。そして悪を行なった彼をこのように迎え入れた私の父は何と恵み深 い父か、と父を喜び、誇ることさえできたで しょう。
さてでは、実際の父の姿はどうだったでしょうか。この父の姿も、父なる神の姿を示しています。まず第一に父は兄 息子を迎えるために出て来ました。前回、父 は弟息子を迎えるために走り出て行きましたが、この兄息子のためにも家から出て来たのです。しかもこの時はパー ティーが行われている最中でした。その会場 に兄息子が来ないというだけで、家族に恥をかかせるに十分です。そんな中、お客さんを後に残して息子を迎えるた めに出て行くことは、父としては自分を低く しなくてはできる事でありません。第二に父は「いろいろなだめてみた。」と28節にあります。本来なら、この大 事な時に何をやっているのかと叱り飛ばして も良い。しかし威厳ある父がへりくだって、身を低くして、声をかけている。一体どっちが上か分からない姿です。 そして三つ目に、父は兄息子から批判の言葉 をたくさん聞いた後、何と言ったでしょうか。31節で「子よ。」と呼びかけました。兄息子が自分を家族から切り 離し、自分だけを正しいとし、あらぬ怒りを ぶちまけた後も、そういう息子らしくない息子への最初の言葉が「子よ」でした。
そして父は大事なメッセージを告げます。32節:「だがお前の弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなく なっていたのが見つかったのだから、楽しん で喜ぶのは当然ではないか。」 ここでもう一度はっきり述べられていることは、神はどんな人でも、その人が悔い 改めて立ち返ることを心から喜ばれるという ことです。「喜ぶのは当然ではないか」とありますが、普通は当然ではありません。恩を仇で返し、大変な屈辱と悲 しみを与えて戻って来た息子など拒否し、償 いを要求しても良いはず。しかし神は悔い改めて帰って来る者を心からご自身の喜びとしてくださるのです。そのた めにどんなに多くの犠牲をご自身が払うこと になっても、です。
そしてここに示されているもう一つの素晴らしいメッセージは、父は兄息子にも祝宴に加わるように招いていること です。6節:「いなくなった羊を見つけまし たから、いっしょに喜んでください。」 9節:「なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでくださ い。」 つまりイエス様はたとえの父が兄息子を 招いているように、そのようにつぶやくパリサイ人や律法学者たちを、喜びの祝宴に招いているのです。あなたも一 緒に来て、この喜びを共に祝う人になりなさ い、と。何という恵み深いメッセージでしょうか、兄息子は、これにどう応答したでしょう。そのことは書かれてい ません。それはたとえを聞いたパリサイ人た ちや律法学者たち自身が、自分たちの応答を持って続きを書くためです。またこの箇所を読む今日の私たちが、自分 の生活を持ってこの後を書き綴るためです。
私たちは今日の御言葉を前にどう応答すべきでしょうか。前回、私たちは弟息子の話を見ました。そこに私たちはま さに神から離れ、自分勝手に生き、苦しみに 陥り、ただ恵みによって神に受け入れて頂いた自分の姿を見ました。しかし今日の兄息子にも、私たちは自分自身を 見るのではないでしょうか。プライドを持 ち、自分と自身がしたことを誇り、人がより大きな祝福を受けているとつぶやき、神に文句を言い、自分の正しさを 主張し、怒り、激しい言葉を出す。そうかと 思うと、自己憐憫に陥って泣き叫ぶ。自分の姿を鏡で見るような、身につまされる思いを誰もが持つことでしょう。
しかしもし私たちがこの兄息子に自分が似ていると思うなら、ここにも福音があります。すなわちそんな者にも、こ こで救いが差し出されているということで す。ここにあるのは本当に嫌らしい人間の姿です。しかしそんな者にさえ、たとえの中の父すなわち神はへりくだ り、かがんでくださり、あなたも一緒に来て、 この喜びに共に加わる者になりなさい、と招いて下さっている。私たちのすべきことは何でしょう。それはまさにこ の兄息子は自分であると告白して、心頑なに せず、この神の恵み深い招きを受け入れることではないでしょうか。自分を正しいとし、思うように行かないと周り を非難し、断罪して生きて来た自分を悔い改 め、自らもまた恵みによらなければ救われない罪人であることを告白して、神が差し出してくださる恵みの御手に素 直に自分の信仰の手を伸ばすことではないで しょうか。神はそんな私たちを救うために、犠牲を厭わず、尊い一人子イエス・キリストさえ惜しまずに与えてくだ さいました。そしてこの方によって私たちを 罪の深みから引き上げてくださる。私たちはそんな自分に差し向けられている神の恵みを心から感謝して、自分の罪 を告白し、これを受け取る者でありたい。そ の時、私たちは、放蕩息子を受け入れる父の喜びの祝宴に、共に喜ぶ者として集うことができるのです。そして弟と 一緒に、こんな者たちの立ち返りを喜ぶ父の 愛を知り、これにあずかること以上に、私たちを深く満たす喜びはないのです。「子よ。おまえはいつも私といっ しょにいる。私のものは、全部おまえのもの だ。だがお前の弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜 ぶのは当然ではないか。」
ルカ15章の3つのたとえ話は、同じ一つの真理を語っていますが、そのクライマックスが今日の部分です。前回は 放蕩息子のたとえの前半までを見ました。遠 い国で湯水のように財産を放蕩し、どん底に落ちた息子が、悔い改めて父のもとへ帰って来ます。もはや子と呼ばれ る資格のない彼でしたが、父は駆け寄って彼 を赦し、大きな喜びを持って迎え入れてくださった。話はそこで頂点に達したかのようです。しかし今日の箇所に は、彼の兄がカンカンに怒っているという姿が 出て来ます。せっかくハッピーエンドで終わりそうだったのに、一気に暗い影が差して来ます。ある人は、こんな話 などない方が、誰にでも喜ばれる美しい話に なったのではないか、と言います。しかしたとえ話というものは、あることを説明するための話ですので通常、結論 は最後の方に来ます。そしてこのたとえが語 られた状況を考慮しますと、兄息子は直接的には誰を指すでしょうか。それは2節のパリサイ人、律法学者たちで す。彼らはそこで「この人は、罪人たちを受け 入れて、食事までいっしょにする。」とイエス様に対してつぶやいていました。それは弟息子を受け入れた父に対し て、文句を言っている兄息子の姿そのもので す。ですから今日の箇所こそ、ルカ15章のクライマックスであり、結論部分であると分かるのです。
兄息子は25節を見ると、この時も畑にいました。父の仕事を手伝っていたのでしょう。ところが帰って来て家に近 付くと、音楽や踊りの声が聞こえて来ます。 何事かと思って、しもべに尋ねますが、そのわけを聞いて彼は怒ります。そして自分のもとに来た父に向かって怒り を爆発させます。29~30節:「しかし兄 は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私 には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹 下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子 のためには、肥えた子牛をほふらせなさった のですか。』」 父と共に家に残り、優等生とばかり思われていた兄息子が突然爆発します。イエス様は何を言いた いのでしょうか。家でまじめに親に従う生活 ばかりしていると、こうなるから、弟のように一度奔放にはじけた方が良いということでしょうか。もちろんそうで はないでしょう。イエス様はこのたとえに よって、パリサイ人や律法学者たちの問題を浮き彫りにしようとしているのです。
この兄息子の大きな特徴の一つは、自分はよくやって来たという自負心が強くあることです。あの弟と違って、自分 は良い息子として歩んで来た。彼は言ってい ます。「長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一つもありません。」 しかし本当にそうでしょう か。それなら問わなければなりません。なぜ模 範的な息子が、父の喜ぶことを喜べないのか。どうして二人の間には、こんなにも大きな食い違いが見られるのか。 確かに兄息子は、目に見えるところではやる べきことをやり、場所的な意味では父のもとにとどまり続けたかもしれません。しかし心においては父から遠く離れ ていた「失われた息子」だったのです。
また彼は弟について「遊女におぼれて帰って来た」と言っています。どうしてまだ弟に会っていないのに、そのこと が分かるのでしょう。つまりこれは兄の邪推 なのです。なぜこんな邪推をしたのかと言えば、それは自分が弟の立場にあったら真っ先にしたであろうことがその ことだったからでしょう。だから弟もそれを やったに違いない、と決め込んでいる。つまり彼は自分は戒めを守って来たと言いつつ、心の中は姦淫の願いで満ち ていたのです。あいつはこんなことをして来 たに違いない、と人を非難しながら、実はそれは自分がしたいと思っていたことだったののです。
そして何と言っても、彼の本性がはっきり現れているのは、その言葉においてです。まず彼は父に「ご覧なさい!」 と言いました。この切り出し方自体、非常に 挑戦的であり、横柄な態度です。これは人に命令し、人を指導しようとする言葉です。目上の人、年長者に向かって 使う言葉ではありません。また新改訳は「私 はお父さんに仕え」と訳していますが、原文には「あなた」と書かれています。後で述べることとも関係しますが、 彼はここで自分を家族から切り離していま す。自分をこのように扱う人たちは私の家族ではない、私はそのようには認めないというニュアンスが示されていま す。また彼は「子山羊一匹下さったことがな い」と言っています。これは弟のために肥えた子牛がほふられたことと比較して述べたものです。子山羊は子牛に比 べたらずっと安価です。つまり兄息子は父親 をここで「あなたはどケチだ!」と言っているのです。こんな小さな、安物さえも私にはくれない。そして30節で は帰って来た弟を「あなたの息子」と表現し ています。「私の弟」と言っても良いはずなのに、彼はそう言いたくない。彼は自分と家族を切り離して、弟を見下 げ、また父も一緒に見下げているのです。こ れの一体どこが良い息子だと言えるのでしょうか。
ここから分かることは、この兄息子の問題、引いてはパリサイ人や律法学者たちの問題は、自分は周りの人たちとは 違って、正しい人間であると自負していたと いうことです。本当はそうでないところがたくさんあるのに、そのことには目を向けず、私は正しいと思い込んでい る。そういう人はいつも周りの人と自分を比 べ、私はこれこれのことをしているが、あの人はそれをしていない、と自分の心のメモ帳に記入します。それは自分 勝手な視点から付けたメモですから、自分に 都合のよい採点となり、それによって益々誤った自負心を強めます。このような人の悲しい結果は、すぐに不満を抱 きやすいことです。自分はこんなに良くやっ ているのに、周りから正当に扱われていない、と感じる。ですから他の人が祝福を受けた時に、一緒に喜ぶことがで きないのです。特に自分より資格がないと 思っている人が、自分を飛び越した祝福にあずかるのを見るや否や、激しい嫉妬心に駆られ、普段からたまっていた 不満が一気に爆発してしまう。
このような人が幸いな歩みに立ち返るための道はただ一つ、それは高ぶりを捨て、自分の本当の姿を認識することで す。たとえの中の兄息子は自分は落ち度がな い人間なのに、と誇りましたが、本当の彼は高慢で、怒りっぽく、恩知らずで、人の喜びを喜びとすることができ ず、何でも自分が一番でないと気が済まず、人 をねたみ、恨み、敵対心を顕わにし、暴言を吐き、みなに嫌な思いをさせる人です。それでもなおかつ私は正しいと 言い張り、自己憐憫に陥って泣き叫ぶ人で す。そんな彼は、自分をもう一度正しく知らなければなりません。すなわち自分は義を主張できるような者ではな く、むしろ罪深い者であって、恵みによらなけ れば生きて行かれない貧しい存在であるということです。そういう者としてこれまでもずっと多くの恵みを神から与 えられて来たし、また周りの人々の愛と配慮 に支えられて生きて来た。そのことを兄息子は父と共に生活する中で味わい、学んで来るべきでした。そうしていた なら、弟が帰って来て、父が迎え入れたこと を聞いた時、一緒に喜ぶことができたはずです。そして悪を行なった彼をこのように迎え入れた私の父は何と恵み深 い父か、と父を喜び、誇ることさえできたで しょう。
さてでは、実際の父の姿はどうだったでしょうか。この父の姿も、父なる神の姿を示しています。まず第一に父は兄 息子を迎えるために出て来ました。前回、父 は弟息子を迎えるために走り出て行きましたが、この兄息子のためにも家から出て来たのです。しかもこの時はパー ティーが行われている最中でした。その会場 に兄息子が来ないというだけで、家族に恥をかかせるに十分です。そんな中、お客さんを後に残して息子を迎えるた めに出て行くことは、父としては自分を低く しなくてはできる事でありません。第二に父は「いろいろなだめてみた。」と28節にあります。本来なら、この大 事な時に何をやっているのかと叱り飛ばして も良い。しかし威厳ある父がへりくだって、身を低くして、声をかけている。一体どっちが上か分からない姿です。 そして三つ目に、父は兄息子から批判の言葉 をたくさん聞いた後、何と言ったでしょうか。31節で「子よ。」と呼びかけました。兄息子が自分を家族から切り 離し、自分だけを正しいとし、あらぬ怒りを ぶちまけた後も、そういう息子らしくない息子への最初の言葉が「子よ」でした。
そして父は大事なメッセージを告げます。32節:「だがお前の弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなく なっていたのが見つかったのだから、楽しん で喜ぶのは当然ではないか。」 ここでもう一度はっきり述べられていることは、神はどんな人でも、その人が悔い 改めて立ち返ることを心から喜ばれるという ことです。「喜ぶのは当然ではないか」とありますが、普通は当然ではありません。恩を仇で返し、大変な屈辱と悲 しみを与えて戻って来た息子など拒否し、償 いを要求しても良いはず。しかし神は悔い改めて帰って来る者を心からご自身の喜びとしてくださるのです。そのた めにどんなに多くの犠牲をご自身が払うこと になっても、です。
そしてここに示されているもう一つの素晴らしいメッセージは、父は兄息子にも祝宴に加わるように招いていること です。6節:「いなくなった羊を見つけまし たから、いっしょに喜んでください。」 9節:「なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでくださ い。」 つまりイエス様はたとえの父が兄息子を 招いているように、そのようにつぶやくパリサイ人や律法学者たちを、喜びの祝宴に招いているのです。あなたも一 緒に来て、この喜びを共に祝う人になりなさ い、と。何という恵み深いメッセージでしょうか、兄息子は、これにどう応答したでしょう。そのことは書かれてい ません。それはたとえを聞いたパリサイ人た ちや律法学者たち自身が、自分たちの応答を持って続きを書くためです。またこの箇所を読む今日の私たちが、自分 の生活を持ってこの後を書き綴るためです。
私たちは今日の御言葉を前にどう応答すべきでしょうか。前回、私たちは弟息子の話を見ました。そこに私たちはま さに神から離れ、自分勝手に生き、苦しみに 陥り、ただ恵みによって神に受け入れて頂いた自分の姿を見ました。しかし今日の兄息子にも、私たちは自分自身を 見るのではないでしょうか。プライドを持 ち、自分と自身がしたことを誇り、人がより大きな祝福を受けているとつぶやき、神に文句を言い、自分の正しさを 主張し、怒り、激しい言葉を出す。そうかと 思うと、自己憐憫に陥って泣き叫ぶ。自分の姿を鏡で見るような、身につまされる思いを誰もが持つことでしょう。
しかしもし私たちがこの兄息子に自分が似ていると思うなら、ここにも福音があります。すなわちそんな者にも、こ こで救いが差し出されているということで す。ここにあるのは本当に嫌らしい人間の姿です。しかしそんな者にさえ、たとえの中の父すなわち神はへりくだ り、かがんでくださり、あなたも一緒に来て、 この喜びに共に加わる者になりなさい、と招いて下さっている。私たちのすべきことは何でしょう。それはまさにこ の兄息子は自分であると告白して、心頑なに せず、この神の恵み深い招きを受け入れることではないでしょうか。自分を正しいとし、思うように行かないと周り を非難し、断罪して生きて来た自分を悔い改 め、自らもまた恵みによらなければ救われない罪人であることを告白して、神が差し出してくださる恵みの御手に素 直に自分の信仰の手を伸ばすことではないで しょうか。神はそんな私たちを救うために、犠牲を厭わず、尊い一人子イエス・キリストさえ惜しまずに与えてくだ さいました。そしてこの方によって私たちを 罪の深みから引き上げてくださる。私たちはそんな自分に差し向けられている神の恵みを心から感謝して、自分の罪 を告白し、これを受け取る者でありたい。そ の時、私たちは、放蕩息子を受け入れる父の喜びの祝宴に、共に喜ぶ者として集うことができるのです。そして弟と 一緒に、こんな者たちの立ち返りを喜ぶ父の 愛を知り、これにあずかること以上に、私たちを深く満たす喜びはないのです。「子よ。おまえはいつも私といっ しょにいる。私のものは、全部おまえのもの だ。だがお前の弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜 ぶのは当然ではないか。」