ルカの福音書 18:1-8
失望せずに祈る
今 日の箇所でイエス様は「不正 な裁判官のたとえ」を語っています。たとえ話は親しみやすく、分かりやすい感じがする一方、実際にはそのメッ セージを正しく理解することは 意外と難しいものです。しかし今日のたとえ話については、1節にはっきりとそのポイントが明示されています。す なわち「いつでも祈るべきであり、失望して はならないことを教えるため」ということです。今日の話は特に前回見た17章後半とつながりがあります。17章 22節に「人の子の日を一日でも見たいと 願っても、見られない時が来ます。」とありました。神のご支配が完全に現れる日を早く見たいと願い、そのために 一生懸命に祈るが、なかなかその日がやって 来ない。そういう中で私たちはともすると失望しやすくなるのです。そして祈りをやめてしまう。しかしそうしては ならないということを教えるために、イエス 様は今日の箇所の話をされたのです。
まずたとえの内容を見たいと思います。2節に「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。」とあ ります。これは最悪の裁判官です。神を恐 れ、人々を尊重するという裁判官に最も大切な二つの資質がない人です。その彼のところに、同じ町に住む一人のや もめが訴えます。やもめは弱い立場にありま した。彼女は「私の相手をさばいて、私を守ってください。」と裁判官に願い出ます。しかし彼は取り合いません。 とんでもない裁判官です。しかしそんな彼も ついには心ひそかにこう思った、と4~5節にあります。「私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このや もめは、うるさくてしかたがないから、この 女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。」 イエ ス様は6節で、この「不正な裁判官の言って いることを聞きなさい。」と言われます。イエス様は何を言いたいのでしょうか。
ある人は今のたとえを表面的に読んで、次のメッセージを引き出します。すなわち、私たちもこのやもめのように、 しつこく神に祈らなくてはならない。粘り 強く祈ってこそ、たとえのように、ついには神を動かし、私たちの願いを聞いていただくことができる、と。しかし もしこれがこの箇所のメッセージなら、これ は私たちに励ましを与えるでしょうか。ただでさえ、祈りにおいて心がくじけそうな人のことがここでは考えられて いますが、その人に対する「もっと祈れ!今 のレベルではまだ足りない!」というメッセージは、かえってその人を落胆させ、苦しい状態に追い込むことになら ないでしょうか。
しかし今の解釈の誤りは、不正な裁判官を神と並べて考えたところにあります。イエス様はむしろこの「裁判官」と 「神」とを対比させているのです。神はこ の裁判官と丸っきり性質が反対の方だ、ということがこのたとえを読む上での前提です。イエス様は私たちに励まし を与えるために、まず最悪のケースをあげた のです。とても願いを聞き入れてくれそうにない裁判官がここにいます。しかしその彼が何と言ったでしょう。「裁 判をしてやろう!」と言いました。であるな ら、神は何と速やかにあなたがたの祈りに聞いてくださるか!ということをイエス様は言いたい。もう一度申し上げ ますが、神はこの裁判官とは全然違う方で す。ですから神は丸っきり違った態度で、私たちの祈りを確実に聞いてくださる。これがこのたとえを通してイエス 様が言いたいポイントです。
私たちの問題は、神がこのような方であることを確信していないことにあります。時に私たちは祈っても虚しいので はないかと感じます。言葉を発しても空中 に消えて行くだけ。神のところには届いていない。そう思ったら落胆しかありません。しかしイエス様が言いたいの は、神はあなたがたの祈りに耳を傾けておら れるということです。あの最悪の裁判官もやもめの願いを聞いたのだから、ましてや神は間違いなくそうする!この 神の姿をしっかり見上げることこそ、祈りの カギになることです。
では神は、この不正な裁判官とどう違うのでしょうか。もう少し掘り下げてみたいと思います。まずこの裁判官は 「不正な」裁判官と言われていますが、一方 の神は反対の「正しい」方です。この裁判官は、やもめの訴えを取り上げようとしませんでした。なぜなら、こんな やもめを助けても何の得にもならないからで す。当時は裁判を有利に進めるために、賄賂を渡す習慣もあったようです。しかしこの彼女からはそんなことは期待 できません。しかし神は正しい方であり、正 しい願い、訴え、祈りにはきちんと対処されます。7節に「神は、・・さばきを付けないで、いつまでもそのことを 放っておかれることがあるでしょうか。」と あります。
また第二に、この裁判官はやもめのことを何も知らず、彼女に何の関心も抱いていませんが、神の私たちに対する態 度は違います。7節に私たちのことが「選 民」と言われています。聖書における「選び」は神の一方的な愛を意味しています。神は私たちが生まれる前から私 たちを愛し、選び、救いに導くための計画を 立て、それを実行してくださっています。だとするなら、その神の私たちに対する態度は、裁判官のやもめに対する 態度とは全く違います。裁判官は仕方なく、 嫌々求めに応じましたが、神にとって私たちはかけがえのない者たちです。とするなら、神は私たちの祈りに冷淡な 態度でいるはずがありません。私たちを愛し てくださっている方として、一言も聞きもらさじと深い関心を持って聞いていてくださるのです。
しかし私たちから出て来る問いは、それならなぜ私たちの祈りは聞かれないままなのか、ということでしょう。もち ろん聞いて頂いていることもたくさんあり ます。しかしなかなか聞かれないこともある。自分の祈りが空しく思える時がある。しかしイエス様は「神はいつま でもそのことを放っておかれることがあるで しょうか。」と言っています。また「神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。」と言って います。逆説的に聞こえるかもしれません が、イエス様がここでこのように語っておられるということは、私たちの感覚として、神が私たちの祈りを放ってお かれるように見えることがあるということを 意味しています。もし祈ってすぐに答えられるなら、イエス様がこんな言葉を述べる必要はありません。イエス様が ここでこのように仰っていること自体、私た ちの目から見て「遅い!」と感じる時があるということを前提にしています。イエス様はそのことを知っているので す。ですからその問題を取り上げて、神は 「すみやかに答えてくださる」と言っているのです。これはどう理解したら良いのでしょうか。
これは私たちの時間感覚によってではなく、「神の時」というスケールの中でとらえるべきであるということでしょ う。Ⅱペテロ3章8節:「しかし、愛する 人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、 千年は一日のようです。」 一言で言えば、 神は永遠なるお方であり、この世の基準や人間のタイムスケジュールで考えることはできないということです。神は 永遠のご計画によって私たちを導いてくだ さっており、その永遠の光に照らす時に、神は確かに速やかに行動してくださったと言うことができる。そして私た ちも後に天に行った時、地上の歩みを永遠の 視点で振り返り、確かにこの神のことばに偽りはなかったと知ることができる。なかなか忍耐して待つことができな い私たちは、地上の一秒が永遠のように感じ たりもしますが、より大きなスケールからすべてを見ておられる神からすれば、またやがて同じ視点ですべてを眺め る私たちからすれば、これは確かに「すみや か」と言えることなのです。私たちはこの神の言葉を受け止めて、神の最善の時、また最善の方法にお委ねするよう にと導かれています。神はわけもなく、不必 要に時を延ばしているのではありません。そこにはきちんとした目的と意味があり、一番良い時に向けて、神は力強 く事を導いてくださっているのです。
さて、イエス様は最後にこの問いを持って閉じられました。8節後半:「しかし、人の子が来たとき、はたして地上 に信仰が見られるでしょうか。」 これは イエス様が再臨された時に、もしかすると地上に信仰者はいないかもしれない、とイエス様が憂えた言葉ではありま せん。もちろんその時に地上に信仰者はいま すし、教会はあります。しかしこれは私たち一人一人に、あなたの信仰はどうか、と個人的に問うものでしょう。こ こでの「信仰」とは具体的には、神を信頼し て私たちが祈り続けている姿を指しています。様々な困難を経験する中、失望せずに祈ることができるとすれば、そ れは神が祈りに聞いてくださっているという ことに対する信仰があるからです。果たしてその日に、あなたにその信仰が見られるだろうか。そのためには自分の 祈りを振り返ってみれば良いのです。
まず個人の祈りの生活において失望せずに祈り続けているでしょうか。たくさんの課題が私たちにはあります。日ご とのパンのための祈り、サタンから守られ るようにとの祈り、神の平安を持って歩めるようにとの祈り、人間関係回復のための祈り、罪との戦いのための祈 り・・もし神が私たちの祈りに耳を傾けて下 さっていると本当に信じるなら、私たちはまず祈ることに私たちの喜びと力を見出すでしょう。
また共に集まる祈りの生活についてもそうです。祈り会や、様々な集会で共に祈る時があります。もしそうやって集 まって祈ってすぐに効果があるなら、私た ちはすべてのことを脇においてもその集会に集まって来るでしょう。しかしいつもそんなに効果が現れるとは思われ ない。祈り会に行っても行かなくても、あま り大きな違いはないと思いたくなる。あるいは祈り会で毎週同じような課題を繰り返し祈って、意味があるのだろう かと思いたくなる時もある。しかしそれは空 しいことではないのです。なぜなら神はその祈りを聞いておられるからです。この祈りを聞いておられる神を仰ぐな ら、私たちは失望せずに祈り続けることがで きる。そして時にかなって、神からの速やかな導きを受けることができるのです。
またより大きな観点から言えば、文脈から明らかのように、ここで特に焦点が当てられているのは、主の再臨の日を 待ち望む中での祈りです。神の恵みの支配 が益々拡がり、神の国が完成することを待ち望む祈りです。その日までの私たちは、戦いのただ中にあります。なか なか祈り願っていることが私たちの願うスケ ジュールで進まない現実にうめく時があります。しかしその中で、祈りを聞いておられる神を見上げ、失望せずに祈 り続ける生活をするように、とイエス様は 言っているのです。
祈りは決して神との根競べではありません。イエス様は私たちが失望せずに祈ることができるための真理を語ってく ださいました。すなわち神は私たちの祈り に聞いておられる!ということです。そして速やかに事を導いてくださる!ということです。このことをもう一度確 信して、喜んで祈りの生活へ向かうことがで きますように。イエス様はこの素晴らしい真理を示しつつ、私たち一人一人に励ましを込めてチャレンジしておられ る言葉を心に留めて、私たちも祈りの生活に 励みたいと思います。「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」
今 日の箇所でイエス様は「不正 な裁判官のたとえ」を語っています。たとえ話は親しみやすく、分かりやすい感じがする一方、実際にはそのメッ セージを正しく理解することは 意外と難しいものです。しかし今日のたとえ話については、1節にはっきりとそのポイントが明示されています。す なわち「いつでも祈るべきであり、失望して はならないことを教えるため」ということです。今日の話は特に前回見た17章後半とつながりがあります。17章 22節に「人の子の日を一日でも見たいと 願っても、見られない時が来ます。」とありました。神のご支配が完全に現れる日を早く見たいと願い、そのために 一生懸命に祈るが、なかなかその日がやって 来ない。そういう中で私たちはともすると失望しやすくなるのです。そして祈りをやめてしまう。しかしそうしては ならないということを教えるために、イエス 様は今日の箇所の話をされたのです。
まずたとえの内容を見たいと思います。2節に「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。」とあ ります。これは最悪の裁判官です。神を恐 れ、人々を尊重するという裁判官に最も大切な二つの資質がない人です。その彼のところに、同じ町に住む一人のや もめが訴えます。やもめは弱い立場にありま した。彼女は「私の相手をさばいて、私を守ってください。」と裁判官に願い出ます。しかし彼は取り合いません。 とんでもない裁判官です。しかしそんな彼も ついには心ひそかにこう思った、と4~5節にあります。「私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このや もめは、うるさくてしかたがないから、この 女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。」 イエ ス様は6節で、この「不正な裁判官の言って いることを聞きなさい。」と言われます。イエス様は何を言いたいのでしょうか。
ある人は今のたとえを表面的に読んで、次のメッセージを引き出します。すなわち、私たちもこのやもめのように、 しつこく神に祈らなくてはならない。粘り 強く祈ってこそ、たとえのように、ついには神を動かし、私たちの願いを聞いていただくことができる、と。しかし もしこれがこの箇所のメッセージなら、これ は私たちに励ましを与えるでしょうか。ただでさえ、祈りにおいて心がくじけそうな人のことがここでは考えられて いますが、その人に対する「もっと祈れ!今 のレベルではまだ足りない!」というメッセージは、かえってその人を落胆させ、苦しい状態に追い込むことになら ないでしょうか。
しかし今の解釈の誤りは、不正な裁判官を神と並べて考えたところにあります。イエス様はむしろこの「裁判官」と 「神」とを対比させているのです。神はこ の裁判官と丸っきり性質が反対の方だ、ということがこのたとえを読む上での前提です。イエス様は私たちに励まし を与えるために、まず最悪のケースをあげた のです。とても願いを聞き入れてくれそうにない裁判官がここにいます。しかしその彼が何と言ったでしょう。「裁 判をしてやろう!」と言いました。であるな ら、神は何と速やかにあなたがたの祈りに聞いてくださるか!ということをイエス様は言いたい。もう一度申し上げ ますが、神はこの裁判官とは全然違う方で す。ですから神は丸っきり違った態度で、私たちの祈りを確実に聞いてくださる。これがこのたとえを通してイエス 様が言いたいポイントです。
私たちの問題は、神がこのような方であることを確信していないことにあります。時に私たちは祈っても虚しいので はないかと感じます。言葉を発しても空中 に消えて行くだけ。神のところには届いていない。そう思ったら落胆しかありません。しかしイエス様が言いたいの は、神はあなたがたの祈りに耳を傾けておら れるということです。あの最悪の裁判官もやもめの願いを聞いたのだから、ましてや神は間違いなくそうする!この 神の姿をしっかり見上げることこそ、祈りの カギになることです。
では神は、この不正な裁判官とどう違うのでしょうか。もう少し掘り下げてみたいと思います。まずこの裁判官は 「不正な」裁判官と言われていますが、一方 の神は反対の「正しい」方です。この裁判官は、やもめの訴えを取り上げようとしませんでした。なぜなら、こんな やもめを助けても何の得にもならないからで す。当時は裁判を有利に進めるために、賄賂を渡す習慣もあったようです。しかしこの彼女からはそんなことは期待 できません。しかし神は正しい方であり、正 しい願い、訴え、祈りにはきちんと対処されます。7節に「神は、・・さばきを付けないで、いつまでもそのことを 放っておかれることがあるでしょうか。」と あります。
また第二に、この裁判官はやもめのことを何も知らず、彼女に何の関心も抱いていませんが、神の私たちに対する態 度は違います。7節に私たちのことが「選 民」と言われています。聖書における「選び」は神の一方的な愛を意味しています。神は私たちが生まれる前から私 たちを愛し、選び、救いに導くための計画を 立て、それを実行してくださっています。だとするなら、その神の私たちに対する態度は、裁判官のやもめに対する 態度とは全く違います。裁判官は仕方なく、 嫌々求めに応じましたが、神にとって私たちはかけがえのない者たちです。とするなら、神は私たちの祈りに冷淡な 態度でいるはずがありません。私たちを愛し てくださっている方として、一言も聞きもらさじと深い関心を持って聞いていてくださるのです。
しかし私たちから出て来る問いは、それならなぜ私たちの祈りは聞かれないままなのか、ということでしょう。もち ろん聞いて頂いていることもたくさんあり ます。しかしなかなか聞かれないこともある。自分の祈りが空しく思える時がある。しかしイエス様は「神はいつま でもそのことを放っておかれることがあるで しょうか。」と言っています。また「神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。」と言って います。逆説的に聞こえるかもしれません が、イエス様がここでこのように語っておられるということは、私たちの感覚として、神が私たちの祈りを放ってお かれるように見えることがあるということを 意味しています。もし祈ってすぐに答えられるなら、イエス様がこんな言葉を述べる必要はありません。イエス様が ここでこのように仰っていること自体、私た ちの目から見て「遅い!」と感じる時があるということを前提にしています。イエス様はそのことを知っているので す。ですからその問題を取り上げて、神は 「すみやかに答えてくださる」と言っているのです。これはどう理解したら良いのでしょうか。
これは私たちの時間感覚によってではなく、「神の時」というスケールの中でとらえるべきであるということでしょ う。Ⅱペテロ3章8節:「しかし、愛する 人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、 千年は一日のようです。」 一言で言えば、 神は永遠なるお方であり、この世の基準や人間のタイムスケジュールで考えることはできないということです。神は 永遠のご計画によって私たちを導いてくだ さっており、その永遠の光に照らす時に、神は確かに速やかに行動してくださったと言うことができる。そして私た ちも後に天に行った時、地上の歩みを永遠の 視点で振り返り、確かにこの神のことばに偽りはなかったと知ることができる。なかなか忍耐して待つことができな い私たちは、地上の一秒が永遠のように感じ たりもしますが、より大きなスケールからすべてを見ておられる神からすれば、またやがて同じ視点ですべてを眺め る私たちからすれば、これは確かに「すみや か」と言えることなのです。私たちはこの神の言葉を受け止めて、神の最善の時、また最善の方法にお委ねするよう にと導かれています。神はわけもなく、不必 要に時を延ばしているのではありません。そこにはきちんとした目的と意味があり、一番良い時に向けて、神は力強 く事を導いてくださっているのです。
さて、イエス様は最後にこの問いを持って閉じられました。8節後半:「しかし、人の子が来たとき、はたして地上 に信仰が見られるでしょうか。」 これは イエス様が再臨された時に、もしかすると地上に信仰者はいないかもしれない、とイエス様が憂えた言葉ではありま せん。もちろんその時に地上に信仰者はいま すし、教会はあります。しかしこれは私たち一人一人に、あなたの信仰はどうか、と個人的に問うものでしょう。こ こでの「信仰」とは具体的には、神を信頼し て私たちが祈り続けている姿を指しています。様々な困難を経験する中、失望せずに祈ることができるとすれば、そ れは神が祈りに聞いてくださっているという ことに対する信仰があるからです。果たしてその日に、あなたにその信仰が見られるだろうか。そのためには自分の 祈りを振り返ってみれば良いのです。
まず個人の祈りの生活において失望せずに祈り続けているでしょうか。たくさんの課題が私たちにはあります。日ご とのパンのための祈り、サタンから守られ るようにとの祈り、神の平安を持って歩めるようにとの祈り、人間関係回復のための祈り、罪との戦いのための祈 り・・もし神が私たちの祈りに耳を傾けて下 さっていると本当に信じるなら、私たちはまず祈ることに私たちの喜びと力を見出すでしょう。
また共に集まる祈りの生活についてもそうです。祈り会や、様々な集会で共に祈る時があります。もしそうやって集 まって祈ってすぐに効果があるなら、私た ちはすべてのことを脇においてもその集会に集まって来るでしょう。しかしいつもそんなに効果が現れるとは思われ ない。祈り会に行っても行かなくても、あま り大きな違いはないと思いたくなる。あるいは祈り会で毎週同じような課題を繰り返し祈って、意味があるのだろう かと思いたくなる時もある。しかしそれは空 しいことではないのです。なぜなら神はその祈りを聞いておられるからです。この祈りを聞いておられる神を仰ぐな ら、私たちは失望せずに祈り続けることがで きる。そして時にかなって、神からの速やかな導きを受けることができるのです。
またより大きな観点から言えば、文脈から明らかのように、ここで特に焦点が当てられているのは、主の再臨の日を 待ち望む中での祈りです。神の恵みの支配 が益々拡がり、神の国が完成することを待ち望む祈りです。その日までの私たちは、戦いのただ中にあります。なか なか祈り願っていることが私たちの願うスケ ジュールで進まない現実にうめく時があります。しかしその中で、祈りを聞いておられる神を見上げ、失望せずに祈 り続ける生活をするように、とイエス様は 言っているのです。
祈りは決して神との根競べではありません。イエス様は私たちが失望せずに祈ることができるための真理を語ってく ださいました。すなわち神は私たちの祈り に聞いておられる!ということです。そして速やかに事を導いてくださる!ということです。このことをもう一度確 信して、喜んで祈りの生活へ向かうことがで きますように。イエス様はこの素晴らしい真理を示しつつ、私たち一人一人に励ましを込めてチャレンジしておられ る言葉を心に留めて、私たちも祈りの生活に 励みたいと思います。「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」