ルカの福音書 18:15-27

神にはできる

15~17 節は教会学校教師・ 校長任命式や幼児洗礼式などで良く読まれる箇所です。人々がイエス様にさわっていただこうとして、幼子たちを連 れて来た時、弟子たちは叱りましたが、イエ ス様は言われました。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような 者たちのものです。」 弟子たちとしては、 忙しいイエス様をこれ以上煩わせないようにと気遣ったのかもしれません。あるいはひっきりなしにやって来る親子 の列に嫌気がさして、「もう終わり、もう終 わり!」とやったのかもしれません。いずれにしてもそこにあるのは、幼子は重要な存在ではないという考えです。 ここでの「幼子」という言葉は乳児や乳飲み 子を指す言葉です。私たちも時間的・肉体的・精神的に余裕がある時は幼子や子どもたちに関わろうとしますが、忙 しい時や何か重要なことをしなければならな い時は、子どもたちを追い払ってしまいがちです。しかしイエス様は「神の国はこのような者たちのものです。」と 言われました。これはどういう意味でしょう か。それは神の国は幼子たちのように、ただ恵みによって生かされている者たちのものであるということでしょう。 幼子は自分にできることはほとんどなく、親 や周りの人々の世話になって生きています。それは確かに私たち自身にも当てはまります。私たちは大人として、と もすると自分の立派さや業績によって立って いるようなつもりになっていますが、私たちも神の御前では無力で、取るに足りない者たちであって、神の一方的な 恵みを頂いて生かされています。そのことを この御言葉から改めて覚えて、私たちは感謝する者でなくてはなりません。そしてこのような神を感謝をもって仰い でいる者として、教会は幼子や子どもたちを 大事にしなくてはなりません。

と同時に、イエス様は彼らのあり方から学ぶようにと言われました。17節:「まことに、あなたがたに告げます。 子どものように神の国を受け入れる者でなけ れば、決してそこに、入ることはできません。」 見習うべき模範とは、子ども、特に小さい子どもは、自分に向 かって差し伸べられた手に全く信頼してすがる ということでしょう。自分に向かって語られた言葉を信じます。心がオープンで、差し向けられた行為を喜んで受け 入れます。自分は弱い存在であることを直感 的に知っていて、他の人がしてくれることを素直に受け入れ、より頼もうとします。私たちの神への関係はどうで しょうか。私たちは神に頼るより、自分の知 恵、考え、計画、経験、力に頼ろうとしがちです。神の恵みを素直に信じ、素直に受け入れ、素直に応答することを なかなかしない。しかしイエス様は、子ども のようでなければ神の国に入ることは決してできない、と言われました。これは子供っぽい人間になるとか、成長す ることをやめて未熟な人間のままでいること を肯定するということではなく、神とその御言葉に素直に信頼し、応答するということです。自分の弱さや貧しさを 自覚し、しかしそんな者をあわれみ、愛して くださる神に幼子のようなオープンな心で接し、その招きを受け入れて神と共に歩むことです。

今日は18節からの部分も一緒に読むことにしました。それはその方が二つの記事をより正しく、また意義深く読む ことができると思ったからです。15~17 節だけを読むと、私たちは暖かい気持ちになると思います。幼子を愛し、受け入れて下さるイエス様。同じく取るに 足りない私たちを愛し、受け入れてくださる イエス様。私たちはその方の前に子どものような者であれば良いのだ!そう聞くと、何かとても簡単なことのように 思います。しかし実際はそんなに甘い話でな いことが18節以降を読むと分かるのです。ここに出て来る役人は、恵みにより頼む子どもの姿とは反対の人です。 彼はイエス様に「何をしたら」と問うていま す。つまり自分が何かをすることによって、ふさわしい資格を得て、神の国に入ろうとしています。18節:「また ある役人が、イエスに質問して言った。『尊 い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。』」 イエス様は19 節で「なぜ、わたしを、『尊い』と言うので すか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません。」と言われます。一見突き放した言い方ですが、イエス 様はおそらく「尊い」という言葉を軽々しく 使う傾向がある彼に対して、真に尊い方・神の御前で事を考えるように導いておられたのだと思います。

その彼にイエス様は十戒の後半部の隣人愛に関する戒めをもって答えます。20節:「戒めはあなたもよく知ってい るはずです。『姦淫してはならない。殺して はならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。』」 すると彼は「そのようなことはみ な、小さい時から守っております。」と答え ます。当時の真面目なユダヤ人たちと同様に、この役人も自分はこれらの戒めを守っているとの自負心を持っていま した。そこでイエス様は彼の課題を浮き彫り にするために、本質的な問題へと切り込んで行きます。22節:「イエスはこれを聞いて、その人に言われた。『あ なたには、まだ一つだけ欠けたものがありま す。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことにな ります。そのうえで、わたしについて来なさ い。』」

私たちはこの言葉を聞いて、少なからずショックを受けるでしょう。これは何という無茶な要求だろうか、イエス様 はここまで私たちに求めるのか。私でもこん なことを言われたら到底ついて行けない、と。しかしイエス様は、これを天国に入るための条件として語られたので はありません。イエス様はこのチャレンジに よって、この役人の本当の問題を明らかにされたのです。それは一言で言えば、あなたは神と富のどちらを優先し、 どちらに信頼を置いて歩むのかということで す。神により頼み、神が恵みによって与えてくださる祝福を受けて歩むのか、それともこの世の富、また人間の財力 や知恵により頼んで歩むのか。さらに言い方 を変えれば、神に信頼し、その手にすがる子どものような者として歩むのか、それとも神ではなく、自分の力と貯え に信頼して歩む、神の国には入れない大人の 歩み方をするのかということです。この役人はこれを聞いて非常に悲しみました。それは彼が大変な金持ちだったか らです。お金を保ったままでは永遠のいのち が手に入りそうにないと分かって悲しんだのです。

先ほど、持ち物全部を売り払い、貧しい人々に分け与えるというのは、すべての人に課せられる条件ではないと申し 上げました。そう聞くと私たちはほっとする かもしれません。そしてどうか私にはこのことを命じないでください、と心ひそかに願うかもしれません。しかしで は神は私には何を求められるだろうかと考え てみるべきです。私たちは神を真心から仰ぎ、神に第一の信頼を置く子どものような歩みをしているでしょうか。そ れとも何か他のものがあって、それが私が神 に対して子どものように信頼して歩むことを妨げているでしょうか。ある人にとって、この役人と同じく、富や所有 物や宝が神への信頼からその人を引き離すも のとなっているかもしれません。またある人にとっては家族や愛する人、またある人にとっては仕事や成功や名声、 またある人は趣味やスポーツ、またある人に とっては悪い習慣や罪の楽しみが、神に真心から信頼する歩みを妨げる力となっているかもしれません。もしそれら が神を第一とする生き方と矛盾しないなら、 私たちはそれらを保っていても良いのです。その場合、私たちの心の中では神を第一とすることがはっきりしている のですから、もし神がそれらをささげよと言 われるなら、いつでも喜んでそのことができるはずです。しかしもしそれらが子どものように神に信頼し、従うこと の妨げとなるなら、やはりそれを私たちは取 り除かなければならない。昔インドで行なわれていたというココナッツを用いた猿の罠をご存知かと思います。実を くり抜いたココナッツに、猿の手が入るほど の穴を空け、その中に米を入れて鎖につなぐと、猿がやって来て手を突っ込み、米をつかみます。しかし米をつかん だままではココナッツから手が抜けない。住 民がやって来てピンチの時、自由になるには握っていた手を離せば良いのに、猿はつかんだ米を決して離そうとしな いため、捕らえられてしまう。同じように私 たちの前にも神によって恵みの救いが用意されていますが、そのためには今つかんでいる物から手を離さなくてはな らないのです。つかんだまま救いにあずかる ことはできないのです。あるいはイエス様は「狭い門から入りなさい」と言われました。その救いの門は通行料金を 一切払わずに入ることができます。しかしそ こは人一人が通るのが精一杯なので、荷物や財産を背負ったままでは通り抜けることができない。そこで私たちは荷 物をそこに置いて神の国の門をくぐるでしょ うか。それとも荷物は手放せないと考えて、その門をくぐるのをあきらめるでしょうか。子どもなら、その先にある 天国の幸いを見つめて、ためらいもなくその 門をくぐって行くでしょう。そういう子どものように神の招きを受け入れ、応答していくことが私たち一人一人に求 められているのです。

イエス様は彼を見て24~25節でこう言われました。「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことで しょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだ が針の穴を通るほうがもっとやさしい。」 ラクダは当時において最も大きなものの象徴であり、針の穴は反対に最 も小さなものの象徴でした。つまりイエス様 は金持ちが神の国に入るのは単に難しいというレベルではなく、ほとんど不可能なことであると言われたのです。 人々はこれを聞いて「それでは、だれが救われ ることができるでしょう。」と言います。しかしイエス様は希望の言葉を語られます。27節:「イエスは言われ た。『人にはできないことが、神にはできるの です。』」 私たちの頭で考えるなら、今日の箇所にあるようなイエス様の招きに従い、神の国に入るのはとてつも なく難しいことのように思います。しかしイ エス様は「人にはできないことが、神にはできるのです」と仰います。ここにあらゆる不可能の壁に囲まれる私たち への励ましがあります。どのようにして神は そのことを導いてくださるのでしょう。その具体例がピリピ書3章にあります。3章8節:「それどころか、私の主 であるキリスト・イエスを知っていることの すばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨て、それらをち りあくたと思っています。」 パウロはそれ まで自分の様々な肩書きや業績を誇っていましたが、自分のために尊い命を投げ出して、救いを下さったキリストの 素晴らしさを知った時に価値観が一変しまし た。イエス・キリストのあまりの素晴らしさに彼の心は全く魅了され、それまで尊いと思って来たものは、第二、第 三の価値しか持たないものになった。ですか ら神の御心とあらば、喜んでそのすべてをささげるように彼は導かれたのですし、もし神との関係に障害となるな ら、ためらうことなくそれを捨てることが彼に はできたのです。

聖書の中にはそのように導かれた人の実例がたくさんあります。旧約のアブラハムも、ヨブも、ボアズも、新約に出 て来るアリマタヤのヨセフも、バルナバも裕 福な人たちでしたが、その富に縛られることなく、むしろ神にこそ第一の望みを置き、そのために喜んで自分の持て るものすべてをささげました。アブラハムに 至っては大切な一人子さえ、神がささげなさいと命じた時にささげました。これらの人々はまさに、「人にはできな いことが、神にはできる」という神のミラク ルの実例でしょう。そしてこの人々に共通していることは、彼らは子どものように神がくださる恵みを受け取り、そ の神を喜び、その神に従って行った人たちで あるということ、みな子どものような特性を持った人たちであるということではないでしょうか。

私たちがこの道を歩むことは難しいでしょうか。しかしイエス様は「神にはできる」と言っています。大切なことは その神を見上げ、その御言葉に聞き続けるこ と、そして神に祈り続けることでしょう。私たちは神の恵みにより、そのように歩むことができる者へ造り変えて頂 くことができるのです。他の人についてもそ うです。まだ神に従っていない家族や愛する人が救われ、神の国に入ることは、時に絶望的なように感じます。しか し人にはできないことが神にはできる。神は あの反逆者のパウロの心さえも変えて、さらに尊い働きに用いられた全能の神です。私たちはあらゆる不可能を可能 に変えてくださる神に信頼の目を上げ、その 方の御言葉に聞き、祈り、神が命じておられることを行ないたいと思います。そして恵みを頂いて、益々幼子のよう に神に信頼する者となることができますよう に。その信頼をもって神の招きには何でも従い、神が示してくださる恵みの道、天国に至る永遠のいのちの道を、幼 子のような喜びと愛の応答を持って歩む者へ 導かれたいと思います。