ルカの福音書 18:28-34

その幾倍かを受け
前回、金持ちの役人がイエス様のところに来て質問しました。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを 自分のものとして受けることができるでしょう か。」 イエス様は彼に「持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を 積むことになります。」と言われました。こ れを聞いて金持ちの役人は非常に悲しみました。お金を捨ててもイエス様について行きたい、とは思わなかったから です。そしてその状態では自分は神の国に入 ることはできない、と知ったからです。その彼を見てイエス様は言われました。「裕福な者が神の国に入ることは、 何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の 国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」

こんなやり取りを見ていたペテロが、今日の箇所の最初でこう述べました。「ご覧ください。私たちは自分の家を捨 てて従ってまいりました。」 弟子たちは 金持ちの役人のようにたくさんのお金を持っていた人たちではありませんでしたが、それでも彼らはイエス様に従う ためにすべてを後ろに捨てて来ました。5章 11節でペテロ、ヤコブ、ヨハネはイエス様からの招きを受けて、「何もかも捨てて、イエスに従った」とありまし た。またレビも5章28節で「何もかも捨 て、立ち上がってイエスに従った」とありました。このようにすべてを捨ててイエス様に従って来た我々の将来に は、どんな祝福が用意されているのか。イエス ス様からの確かな言葉を頂きたく、ペテロはこう述べたのでしょう。

そんなペテロにイエス様は素晴らしい約束の言葉を語られました。29~30節:「イエスは彼らに言われた。『ま ことに、あなたがたに告げます。神の国の ために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあってその幾倍かを受けない者は なく、後の世で永遠のいのちを受けない者は ありません。』」 まず私たちはここに改めてイエス様に従う歩みには様々な困難が伴うということを確認させられ ます。もちろんクリスチャンになるには、こ れらをみな捨てなければならないということではありません。しかし信仰の歩みを貫こうとするなら、私たちにとっ て最も大事な人々でさえ、イエス様に従うこ との前に道を譲らなければならない。このことはすでにこの福音書の中でも繰り返して言われて来ました。12章 51~53節:「あなたがたは、地に平和を与 えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂で す。今から、一家五人は、三人がふたりに、ふ たりが三人に対抗して分かれるようになります。父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅ うとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分 かれるようになります。」 14章26節:「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ 自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの 弟子になることができません。」 

これは私たちにとってのチャレンジです。何の犠牲も払わなくて済む時にイエス様に従うことは簡単ですが、何か大 切なものを後に捨てなければならないとい う状態に追い込まれる時、私たちは自分の心を試されます。私は本当にイエス様に従いたいのか。イエス様を他のど んなものよりもかけがえのないお方として信 じ、より頼んでいるのか、と。そして時に私たちは失うかもしれないことの方にばかり目を向けて、決断が鈍り、金 持ちの役人のように誤った選択をしてしまい がちです。しかしそんな私たちにイエス様は、ご自身に従う者に与えられる素晴らしい祝福について語っておられま す。ここに二つの約束があります。一つはこ の世にあって受ける祝福であり、もう一つは後の世で受ける祝福です。

まず、イエス様はご自身に従う者は「この世にあってその幾倍かを受ける」と言っています。私たちは時々、キリス ト教の祝福は死んだ後の世界にだけ関わるこ とだと捉えがちです。死んだ後に永遠のいのちが与えられるが、この世では祝福は約束されていない、と。しかしイ エス様はここでイエス様に従う者は「この世 にあっても」祝福を受ける、と言っています。だれひとりとして、その祝福を受けない者はないと言い切っていま す。これは絶対的な言葉であり、例外はありま せん。しかも捨てたものの幾倍も受けるとあります。これは本当でしょうか。信じた人たちはみなそのように幾倍も 祝福されているでしょうか?

まず、これについての一つの理解の仕方は、ここでイエス様は「家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で」といず れも家や家族に関することについて述べてお り、これは教会の交わりに加えられることによって豊かに補われ、報われるという見方です。私たちはキリストへの 信仰によって、肉の家族に勝るより大きな神 の家族に迎え入れられます。神を父として持ち、また人間の父や母に相当するような人たちもたくさん持ち、兄弟関 係に当たる人々、あるいは子どもに相当する ような人たちも持ちます。たとえ地上的な家族を失っても、教会の交わりの中で、さらに豊かな幾倍もの祝福を受け る、と。

しかし、イエス様はここで家族に限定して話をしているとは考えられません。マタイの福音書の並行記事(19章 29節)では、父、母、子などに加えて「畑」 という言葉も出て来ます。つまり所有物や財産のことも考えられています。とするなら、改めてこのイエス様の言葉 はどう理解したら良いのでしょうか。そのヒ ントは、私たちが受けているものを逆に考えてみれば良い。地上的な祝福にはるかに勝り、幾倍とまで表現されてい るところの私たちが今現在、受けている祝福 は何でしょうか。ある人は、それはイエス様ご自身であると言います。私たちはイエス様に結ばれる時、それまでは 知らなかった本当の平安、神の平安を受けま す。また自分の将来に対する非常な確信と希望を持ちます。そしてこの地上にある時から、信仰を持つまでは知らな かった非常な喜びを持つようになります。ま たどんな悩みの中にあっても、それらに打ち勝つ慰めを頂くことができます。またイエス様に信頼する安息、真の憩 いを経験します。信じる者が経験しているこ れらの祝福は、確かにこの世が与えるどんな祝福よりもはるかに勝る祝福ではないでしょうか。私たちはイエス様と 結ばれることによって、たとえこの世でどん な物を失ったとしても、それを補って余りあるさらに豊かで、何倍であるか表現できないほどの祝福に、この世にあ る時からあずかって歩むことができるので す。

そして、イエス様が語っている二つ目の祝福は「後の世」における祝福です。30節後半に「永遠のいのちを受け る」とあります。この世の祝福は長続きしませ ん。それは一瞬のこととさえ言えます。私も先週まで夏季休暇を頂き、実家の石巻に帰ったりして、楽しい一時を過 ごしました。しかしこれもいつまでもは続き ません。休暇の日程が終りに近づいて来ると、「もう少しで終わってしまう」とだんだんと寂しい気持ちにもなって 来ます。もうちょっとこれが続いてくれた ら!などとも思います。ところが天国の祝福は永遠だというのです!あるいは休暇中は石巻で今年も生ウニ丼も堪能 して来ました。一年に一度の楽しみです。ど んぶり一杯にのっかっている黄色い生ウニを目で楽しみ、匂いで楽しみ、舌で楽しみなら、今年も心から美味しい! と思いながら食べました。しかし普段は考え られない量のウニを贅沢に口の中に放り込み、喜び楽しむものの、残念なことに間もなくそれはお腹の中に消えて 行ってしまう。喜びの瞬間はいつまでもは続か ない。しかしやがての祝福は永遠です!しかも単に時間的に永遠というだけでなく、質的にも素晴らしいのです。や がての世界には罪がありません。自分が罪を 犯すことからも、また他人から罪の行為を受けることからも解放されます。また痛みがありません。地上では肉体的 な痛みも経験しますし、感情的な痛みも経験 します。しかしそれら一切から自由にされます。また悲しみがありません。すべての涙は神様によってぬぐい取られ ます。そして私たちの生活に悲惨がなくなる ばかりか、いのちに満ち満ちる生活が待っています。神を直接仰ぎ見、神を喜び、神を礼拝し、味わい、感動し、賛 美し、その臨在を心から楽しむ。今ここでも 私たちはキリストにある素晴らしい祝福に生きるのですが、将来はその究極的な祝福に永遠に生きることができるの です。主に信頼して従う者は、このような祝 福に生きることができるのです。

しかし、これはただで与えられるものではありません。そのためにイエス様が尊い犠牲を払って下さる必要がありま した。31節以降でイエス様は再び十字架に ついて予告しておられます。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。」と言われたよう に、いよいよ時はエルサレムに入ろうとする時 です。今回の予告で新しく述べられていることは、異邦人に引き渡されるということ、またその際にどのように扱わ れるのか、より詳細な内容についてです。イ エス様はそのこれから受ける苦しみを見つめて、覚悟を新たにしておられます。そして同時にここでも、その先にあ る目標をしっかり見据えておられます。すな わち、「人の子は三日目によみがえる」ということです。復活に至ってこそ、イエス様はご自身に信頼するすべての 人たちに勝利の祝福をもたらすことができま す。イエス様はその祝福を見つめることによって、恐ろしい十字架への道を後ずさりすることなく進まれたのです。 ヘブル書12章3節:「イエスは、ご自分の 前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」

最後34節に「しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。」とあります。彼らはイエス様がたと えで語っているとばかり思ったのでしょう。 そんな彼らの無理解の中、イエス様は黙々と私たちの救いを成し遂げるために進んで行かれたのです。そして今、分 からなくても、後に分かるようになるため、 この言葉を語られたのです。十字架の出来事は偶然の出来事ではなく、イエス様がご自身から進んでささげてくだ さった愛のみわざであることを知るために、ま た今日の私たちもイエス様の十字架をそのような視点で正しく見つめ、信じるためにです。

私たちもイエス様に従う歩みにおいて常に戦いがあります。金持ちの役人のようにイエス様よりもお金を大切に考え て生活するのか、それともイエス様に従う ことを第一に選び取るのか。あるいは今日の箇所のように家族とうまくやることを第一に大切にするのか、それとも そのことはイエス様にお委ねし、自分として はイエス様に従うことをより大切なこととして選ぶのか。あるいは周りの人々からの評判を大事にするのか、それと もイエス様から評価を受けることを大事に考 えて行くのか。そんな私たちは今日の箇所から、イエス様について行く者は比較にならない祝福を受けるという真理 を改めて心に刻みたいと思います。イエス様 に従う者には、どんな祝福をもはるかに上回る素晴らしい祝福がこの世においても、後の世においても用意されてい ます。イエス様はその祝福をもたらすため に、ご自身の尊いいのちを私たちの身代わりとして十字架上でささげ、神の国の祝福を勝ち取り、私たちに差し出し てくださいました。私たちはこのイエス様の みわざを心から感謝して、イエス様が差し出して下さっている神の国を受け入れたいと思います。そして私たちが後 に捨て置くものの幾倍もの祝福をこの地上で 受け、そしてやがて永遠のいのちにあずかるという真の祝福の道を、誤ることなく選び取る歩みへ進みたいと思いま す。