ルカの福音書 18:35-43
目が見えるように
「エリコに近づかれたころ」と今日の箇所は始まります。31節の「さあ、これから、わたしたちはエルサレ
ムに向かって行きます。」というイエス様のお言
葉、そして35節の「イエスがエリコに近づかれたころ」という言葉によって、私たちはいよいよ贖いの舞台エルサ
レムが急速に迫って来たことを感じさせられ
ます。そんなエリコに至る道端に一人の目の見えない人が座って物乞いをしていました。この道はこの地方最大の都
市エルサレムへ通じる道です。また時は過越 の祭りが近い時で、たくさんの巡礼者が通っています。
そんな彼はある日、様子が普段と違うことを感じ取ります。祭りに向かって人々の往来が激しくなっていることを感 じつつも、今日ここを通り過ぎようとして いる群衆はいつもと違う。一体何事ですか、と尋ねると、「ナザレのイエスがお通りになるのだ」との答えを得ま す。この言葉を聞いた瞬間から今日の箇所は動 き出します。三つの点からこの箇所を見て行きたいと思います。
第一のポイントは、「私たちの叫びを聞いてくださるイエス」です。この盲人はナザレのイエスと聞くと、大声で 「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでくださ い。」と叫び出しました。彼はこれまですでにイエス様について聞いたことがあったのでしょう。イエス様が様々な 病の人を癒されたこと、そして自分と同じく 目が見えない人をも癒された話について聞いていたかもしれません。そんな彼は、いつか自分もイエス様にお会いす ることができたなら、と願って来たことで しょう。しかし目が見えない彼は自分からイエス様に近付くことはできない。唯一の希望は、イエス様が近くに来て 下さることです。そのイエス様が何と自分の 前を通られる。そのことを知った時、彼の心には大変な希望がわいて来たのです。私は今日こそ、イエス様にお会い して、この私の悩みを解決していただくの だ!そう考えて彼は「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めたのです。
ところが、どんなことが起こったでしょうか。何と群衆の先頭にいた人々が自分を黙らせようとします。自分として は一生に一回巡って来たチャンスを生かそう と必死にイエス様を求めているのに、それを妨害する人たちがいる。もちろんその人々は悪意からそうしているわけ ではないでしょう。このような物乞いの求め に応じていたらキリがないから、イエス様を必要以上に煩わせないようにとの配慮からそうしたのでしょう。しかし 彼はお金を求めているのではありません。そ の真意が人々に通じない。理解してもらえない。この人は人々が黙らせようとすると益々「ダビデの子よ。私をあわ れんでください。」と叫んだ。そしてその声 はついにイエス様に届きます。イエス様は彼の叫びを聞いて立ち止まり、彼をそばに連れて来るようにと言いつけら れたのです。
ここにイエス様はどのような方であるかが示されています。人々はこの盲人の叫びを心に留めませんでした。人々は 彼の叫びを無視し、黙らせようとしまし た。しかしイエス様は彼の叫びを聞いてくださった。使命に向かって突き進んでいるただ中でも、立ち止まり、彼に 向き合う時間を持ってくださった。私たちは このイエス様を見上げるべきではないでしょうか。イエス様は聞いてくださる。イエス様は私の叫びを受け止め、私 に向き合う時を持ってくださる。こういうイ エス様であると知る時、私たちは恐れずにイエス様に向かって叫ぶようにと導かれるのです。
二つ目に見たいのは「わたしに何をしてほしいのか」と言われたイエス様についてです。イエス様は立ち止まって彼 を呼び、彼が近寄って来た時に言われました。 「わたしに何をしてほしいのか。」 イエス様は彼が何を願っているのか知らなかったのでしょうか。そんなことは ないでしょう。ではなぜこのように問うたの でしょう。イエス様は彼の心を知っていますが、彼がそのことを自分の口から、自分の言葉で言い表すように導かれ たのです。言い換えれば、イエス様は彼に恵 みを施すにあたって、彼にただ信仰を求めたのです。
これはこの目の見えない人にとってある意味のチャレンジだったでしょう。私たちもそうです。もしイエス様が目の 前に立って「わたしに何をしてほしいの か」と問われたら、何と答えるか。ドギマギして何を言ったら良いのか分からない。そして「特にありません。今は とりあえず間に合っています。」などと答え ることはないでしょうか。あるいは自分の根本的な問題ではなく、それは無理な話だと胸にしまいこみ、より小さな こと、表面的なこと、大して重要ではないど うでも良いことを述べるということはないでしょうか。
この人ももっと他の願いを述べることもできたかもしれません。「この場所にもっと多くの人が通るようにしてくだ さい」とか、「たくさんのお金が集まるよ うにしてください」とか、「生活が楽になるようにしてください」等々。しかし彼は自分の心の深くにある一番の願 いを告げたのです。ここには息詰まるような 雰囲気があったのではないかと思います。イエス様は彼の前に立って言われました。「わたしに何をしてほしいの か。」 目の見えない人は答えました。「主 よ。目が見えるようになることです。」 もしこう述べてかなえられなかったら、彼の心は傷つくだけです。だから それは言わないで、心の中にしまっておいた 方が良い、と思うこともできた。しかし彼はイエス様に求めたのです。「主よ、あなたにこの目を直していただきた いのです。」
この求めに対してイエス様はどう答えてくださったでしょう。第三のポイントは「見えるようになれ」と言われたイ エス様についてです。イエス様は彼の言葉 を受けて言われました。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」 するとたちどころに彼の 目は見えるようになった、とあります。これ はこれまでも見て来たように、イエス様がもたらしている神の国の祝福です。本来、神が造られた最初の世界は、神 の目から見て非常に良い世界であり、病も苦 しみもありませんでした。しかしアダムとエバが罪を犯して以来、この世界には罪の呪いが臨み、美しく調和してい た世界に様々な不調和と混乱が入って来まし た。神と人間の間に断絶が生じたばかりか、人間と人間の間にも、人間と世界との間にも不調和が生じました。その 結果として様々な苦しみや病気が入って来ま した。しかしイエス様はそんなこの世界に神の恵みの支配をもたらすために来てくださいました。イエス様がこの祝 福をもたらすことができるのは、私たちの身 代わりに十字架上で死に、あらゆる悲惨の根っこにある私たちの罪の問題を処理し、解決してくださるからです。そ の十字架のみわざが成し遂げられるのはまだ 先ですが、確実にそれを成し遂げるお方として、イエス様の到来と共に神の国が地上に現れ始めたのです。ここでも 目の見えない人が、罪の力と呪いから解放さ れ、本来の人間の状態へと回復させられています。これは神の国がイエス様と共に地上に到来していることを示すし るしなのです。と同時にこれは、イエス様に よってやがて、完全な神の国が現れることを指し示すしるしでもあるのです。
イエス様はこのみわざをなす時、「あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われました。私たちはこの言葉 を、信仰それ自体に力があるかのように理解 してはなりません。イエス様が言っていることは、自分の力により頼むのではなく、イエス様により頼む信仰の歩み にこそ祝福があるということです。私たちを 祝福する力は、イエス様の内にこそあるのです。イエス様は十字架に至る身代わりの犠牲を通してそれを勝ち取って くださいました。私たちのすることは、イエ ス様に望みを置き、イエス様に信仰の手を伸ばすことです。そこに私たちの幸いのすべてがあるのです。この目の見 えなかった人は目が見えるようになって、神 をあがめながらイエス様について行った、とあります。目を癒してもらえば、後はイエス様に用なし、ではありませ ん。彼はイエス様と共に歩むところに自分の すべての幸いがあると知って、イエス様に従って行ったのです。そしてこれを見たすべての民も神を賛美したので す。
以上の箇所から私たちはどんな益を受けることができるでしょうか。ここには目の見えない人の癒しの記事がありま した。ある人はこれは私には特に関係がな いと思うかもしれません。なぜなら私は目が見えない人ではないから、と。しかし私たちは果たして本当に目が見え ているでしょうか。今日の箇所の彼は自分の 悲惨を理解して「あわれんでください」とイエス様に求めましたが、私たちは彼のように「あわれんでください」と イエス様に近付く者でしょうか。もしそう言 えないとしたら、実は私たちは自分のことが良く見えていない人であることを示しているのではないでしょうか。私 たちもイエス様によって癒して頂かなければ ならないたくさんの罪ゆえの問題、悩みを持っている者たちです。人に優しい言葉をかけることができない。すぐに 人と自分を比べ、人を妬み、不平不満を述 べ、怒りっぽく、人に嫌な思いをさせる自分。自己中心で、高慢で、言動で周りの人も自分も傷つける。パウロは 「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれが この死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と叫びました。本当に目が開いている人なら、「あ われんでください。」と叫ばなければならな いのはまさに自分自身だと思うのではないでしょうか。そしてまた私たちは、罪の下で、肉体においても心において も、様々な弱さや苦しみを経験させられてい る者ではないでしょうか。
しかし、今日の箇所が語るグッド・ニュースは、イエス様はそのような私たちを癒すことができるということです。 私たちの身代わりに十字架にかかり、私たち を贖うためのすべての代価を払ってくださったお方として、私たちを罪から解放し、体においても心においても、本 来の神の祝福のもとにある者へと回復させる ことができる。確かにイエス様を信じてすぐに、この世であらゆる悩みが即、解決するわけではありません。この盲 人は癒されましたが、願っても地上では癒さ れない人もいます。しかし私たちはこの癒しはあくまでも、神の国がイエス様と共に来ていることを示すしるしに過 ぎないのであり、それはやがて来る完全な祝 福の前触れに過ぎないことを心に留めるべきです。今日の箇所の癒された人も完全な救いはなお将来に待たなければ なりません。ただこれはやがての完全な救い を指し示す保証としての意味を持っているのです。つまり私たちが今日の箇所から受け取るべきメッセージは、イエ ス様は十字架への生涯を通して、私たちを完 全に罪から贖い、癒し、回復する恵みの力を持っておられる方であり、私たちはこのイエス様によってあらゆる悩み を解決され、癒されるプロセスの中に歩むこ とができるのだということです。私たちの前にはこのような恵みの主がおられるのであり、私たちが信仰を持ってこ の方に近付くなら、今日の箇所の人のような 神の国の祝福に今ここにある時から生かされ始めることができるのです。
このイエス様を見上げて、私たちもあわれみを求めてイエス様に近付きたいと思います。人は私の叫びを理解できな くても、イエス様は私たちの叫びを聞いて くださる。イエス様は全能の恵みの力を持って、「わたしに何をしてほしいのか」と問うてくださる。そしてイエス 様は私たちの信仰を通して、「見えるように なれ!」と力強いお言葉を語ってくださる。イエス様はこの祝福に私たちを生かすために、十字架への道を進まれま した。そのみわざのゆえに、イエス様は私た ちを癒し、回復させ、神が備えてくださった本来の祝福へと、ただ信仰によって近づくどんな者をも導いてくださる のです。
そんな彼はある日、様子が普段と違うことを感じ取ります。祭りに向かって人々の往来が激しくなっていることを感 じつつも、今日ここを通り過ぎようとして いる群衆はいつもと違う。一体何事ですか、と尋ねると、「ナザレのイエスがお通りになるのだ」との答えを得ま す。この言葉を聞いた瞬間から今日の箇所は動 き出します。三つの点からこの箇所を見て行きたいと思います。
第一のポイントは、「私たちの叫びを聞いてくださるイエス」です。この盲人はナザレのイエスと聞くと、大声で 「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでくださ い。」と叫び出しました。彼はこれまですでにイエス様について聞いたことがあったのでしょう。イエス様が様々な 病の人を癒されたこと、そして自分と同じく 目が見えない人をも癒された話について聞いていたかもしれません。そんな彼は、いつか自分もイエス様にお会いす ることができたなら、と願って来たことで しょう。しかし目が見えない彼は自分からイエス様に近付くことはできない。唯一の希望は、イエス様が近くに来て 下さることです。そのイエス様が何と自分の 前を通られる。そのことを知った時、彼の心には大変な希望がわいて来たのです。私は今日こそ、イエス様にお会い して、この私の悩みを解決していただくの だ!そう考えて彼は「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めたのです。
ところが、どんなことが起こったでしょうか。何と群衆の先頭にいた人々が自分を黙らせようとします。自分として は一生に一回巡って来たチャンスを生かそう と必死にイエス様を求めているのに、それを妨害する人たちがいる。もちろんその人々は悪意からそうしているわけ ではないでしょう。このような物乞いの求め に応じていたらキリがないから、イエス様を必要以上に煩わせないようにとの配慮からそうしたのでしょう。しかし 彼はお金を求めているのではありません。そ の真意が人々に通じない。理解してもらえない。この人は人々が黙らせようとすると益々「ダビデの子よ。私をあわ れんでください。」と叫んだ。そしてその声 はついにイエス様に届きます。イエス様は彼の叫びを聞いて立ち止まり、彼をそばに連れて来るようにと言いつけら れたのです。
ここにイエス様はどのような方であるかが示されています。人々はこの盲人の叫びを心に留めませんでした。人々は 彼の叫びを無視し、黙らせようとしまし た。しかしイエス様は彼の叫びを聞いてくださった。使命に向かって突き進んでいるただ中でも、立ち止まり、彼に 向き合う時間を持ってくださった。私たちは このイエス様を見上げるべきではないでしょうか。イエス様は聞いてくださる。イエス様は私の叫びを受け止め、私 に向き合う時を持ってくださる。こういうイ エス様であると知る時、私たちは恐れずにイエス様に向かって叫ぶようにと導かれるのです。
二つ目に見たいのは「わたしに何をしてほしいのか」と言われたイエス様についてです。イエス様は立ち止まって彼 を呼び、彼が近寄って来た時に言われました。 「わたしに何をしてほしいのか。」 イエス様は彼が何を願っているのか知らなかったのでしょうか。そんなことは ないでしょう。ではなぜこのように問うたの でしょう。イエス様は彼の心を知っていますが、彼がそのことを自分の口から、自分の言葉で言い表すように導かれ たのです。言い換えれば、イエス様は彼に恵 みを施すにあたって、彼にただ信仰を求めたのです。
これはこの目の見えない人にとってある意味のチャレンジだったでしょう。私たちもそうです。もしイエス様が目の 前に立って「わたしに何をしてほしいの か」と問われたら、何と答えるか。ドギマギして何を言ったら良いのか分からない。そして「特にありません。今は とりあえず間に合っています。」などと答え ることはないでしょうか。あるいは自分の根本的な問題ではなく、それは無理な話だと胸にしまいこみ、より小さな こと、表面的なこと、大して重要ではないど うでも良いことを述べるということはないでしょうか。
この人ももっと他の願いを述べることもできたかもしれません。「この場所にもっと多くの人が通るようにしてくだ さい」とか、「たくさんのお金が集まるよ うにしてください」とか、「生活が楽になるようにしてください」等々。しかし彼は自分の心の深くにある一番の願 いを告げたのです。ここには息詰まるような 雰囲気があったのではないかと思います。イエス様は彼の前に立って言われました。「わたしに何をしてほしいの か。」 目の見えない人は答えました。「主 よ。目が見えるようになることです。」 もしこう述べてかなえられなかったら、彼の心は傷つくだけです。だから それは言わないで、心の中にしまっておいた 方が良い、と思うこともできた。しかし彼はイエス様に求めたのです。「主よ、あなたにこの目を直していただきた いのです。」
この求めに対してイエス様はどう答えてくださったでしょう。第三のポイントは「見えるようになれ」と言われたイ エス様についてです。イエス様は彼の言葉 を受けて言われました。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」 するとたちどころに彼の 目は見えるようになった、とあります。これ はこれまでも見て来たように、イエス様がもたらしている神の国の祝福です。本来、神が造られた最初の世界は、神 の目から見て非常に良い世界であり、病も苦 しみもありませんでした。しかしアダムとエバが罪を犯して以来、この世界には罪の呪いが臨み、美しく調和してい た世界に様々な不調和と混乱が入って来まし た。神と人間の間に断絶が生じたばかりか、人間と人間の間にも、人間と世界との間にも不調和が生じました。その 結果として様々な苦しみや病気が入って来ま した。しかしイエス様はそんなこの世界に神の恵みの支配をもたらすために来てくださいました。イエス様がこの祝 福をもたらすことができるのは、私たちの身 代わりに十字架上で死に、あらゆる悲惨の根っこにある私たちの罪の問題を処理し、解決してくださるからです。そ の十字架のみわざが成し遂げられるのはまだ 先ですが、確実にそれを成し遂げるお方として、イエス様の到来と共に神の国が地上に現れ始めたのです。ここでも 目の見えない人が、罪の力と呪いから解放さ れ、本来の人間の状態へと回復させられています。これは神の国がイエス様と共に地上に到来していることを示すし るしなのです。と同時にこれは、イエス様に よってやがて、完全な神の国が現れることを指し示すしるしでもあるのです。
イエス様はこのみわざをなす時、「あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われました。私たちはこの言葉 を、信仰それ自体に力があるかのように理解 してはなりません。イエス様が言っていることは、自分の力により頼むのではなく、イエス様により頼む信仰の歩み にこそ祝福があるということです。私たちを 祝福する力は、イエス様の内にこそあるのです。イエス様は十字架に至る身代わりの犠牲を通してそれを勝ち取って くださいました。私たちのすることは、イエ ス様に望みを置き、イエス様に信仰の手を伸ばすことです。そこに私たちの幸いのすべてがあるのです。この目の見 えなかった人は目が見えるようになって、神 をあがめながらイエス様について行った、とあります。目を癒してもらえば、後はイエス様に用なし、ではありませ ん。彼はイエス様と共に歩むところに自分の すべての幸いがあると知って、イエス様に従って行ったのです。そしてこれを見たすべての民も神を賛美したので す。
以上の箇所から私たちはどんな益を受けることができるでしょうか。ここには目の見えない人の癒しの記事がありま した。ある人はこれは私には特に関係がな いと思うかもしれません。なぜなら私は目が見えない人ではないから、と。しかし私たちは果たして本当に目が見え ているでしょうか。今日の箇所の彼は自分の 悲惨を理解して「あわれんでください」とイエス様に求めましたが、私たちは彼のように「あわれんでください」と イエス様に近付く者でしょうか。もしそう言 えないとしたら、実は私たちは自分のことが良く見えていない人であることを示しているのではないでしょうか。私 たちもイエス様によって癒して頂かなければ ならないたくさんの罪ゆえの問題、悩みを持っている者たちです。人に優しい言葉をかけることができない。すぐに 人と自分を比べ、人を妬み、不平不満を述 べ、怒りっぽく、人に嫌な思いをさせる自分。自己中心で、高慢で、言動で周りの人も自分も傷つける。パウロは 「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれが この死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と叫びました。本当に目が開いている人なら、「あ われんでください。」と叫ばなければならな いのはまさに自分自身だと思うのではないでしょうか。そしてまた私たちは、罪の下で、肉体においても心において も、様々な弱さや苦しみを経験させられてい る者ではないでしょうか。
しかし、今日の箇所が語るグッド・ニュースは、イエス様はそのような私たちを癒すことができるということです。 私たちの身代わりに十字架にかかり、私たち を贖うためのすべての代価を払ってくださったお方として、私たちを罪から解放し、体においても心においても、本 来の神の祝福のもとにある者へと回復させる ことができる。確かにイエス様を信じてすぐに、この世であらゆる悩みが即、解決するわけではありません。この盲 人は癒されましたが、願っても地上では癒さ れない人もいます。しかし私たちはこの癒しはあくまでも、神の国がイエス様と共に来ていることを示すしるしに過 ぎないのであり、それはやがて来る完全な祝 福の前触れに過ぎないことを心に留めるべきです。今日の箇所の癒された人も完全な救いはなお将来に待たなければ なりません。ただこれはやがての完全な救い を指し示す保証としての意味を持っているのです。つまり私たちが今日の箇所から受け取るべきメッセージは、イエ ス様は十字架への生涯を通して、私たちを完 全に罪から贖い、癒し、回復する恵みの力を持っておられる方であり、私たちはこのイエス様によってあらゆる悩み を解決され、癒されるプロセスの中に歩むこ とができるのだということです。私たちの前にはこのような恵みの主がおられるのであり、私たちが信仰を持ってこ の方に近付くなら、今日の箇所の人のような 神の国の祝福に今ここにある時から生かされ始めることができるのです。
このイエス様を見上げて、私たちもあわれみを求めてイエス様に近付きたいと思います。人は私の叫びを理解できな くても、イエス様は私たちの叫びを聞いて くださる。イエス様は全能の恵みの力を持って、「わたしに何をしてほしいのか」と問うてくださる。そしてイエス 様は私たちの信仰を通して、「見えるように なれ!」と力強いお言葉を語ってくださる。イエス様はこの祝福に私たちを生かすために、十字架への道を進まれま した。そのみわざのゆえに、イエス様は私た ちを癒し、回復させ、神が備えてくださった本来の祝福へと、ただ信仰によって近づくどんな者をも導いてくださる のです。